ということで織部好みの茶陶によって大きく花開いた美濃焼ですけれど、多治見市美濃焼ミュージアムの展示でもってその後の盛衰を見ておくことに。展示解説では、いわゆる「へうげもの」から上品なやきものへと移り変わったことが紹介されておりました。

慶長二〇年(一六一五)に古田織部が自刃した後、小堀遠州が茶頭となると茶の好みは「綺麗さび」へと変わります。茶道具も洗練された端正なものが再び好まれるようになり、織部焼の生産は衰退していきました。

ここに登場するのが「御深井焼」であるそうな。「御深井(おふけ)」の名は尾張徳川家の御用窯(名古屋城御深井丸にあった)で焼かれたものに由来するようですが、「御深井釉」とも呼ばれる「長石に灰を加えた、黄緑色や淡い青色に発色する釉薬」を使っていることが特徴であるようで。

 

 

色合いからでしょうか、「美濃青磁」とも呼ばれるものの、実態は陶器なのですよね。「江戸前期に九州で磁器の生産が始まる」ようですが、美濃・瀬戸地域では磁器生産に適う土が採れなかったのですな。そのため、磁器生産は悲願ともなったようで、研究に研究を重ねた美濃の陶工たちは「水車で粉砕した長石・珪石を蛙に加えることにより」(それらしい?)土を作り出し、本格的に磁器生産を可能にしたのであると。時に、有田で磁器生産が始まってから200年余が経過していたとか。

 

その一方で、日々の生業としては「碗・皿・徳利などの日用雑器を大量に生産し」、「江戸をはじめとする大都市に安価な製品を供給し」ていたそうな。特に徳利は江戸の大量消費需要に応え、「有田・丹波と並ぶ日本三大徳利といわれ」るほどであったということでありますよ。

 

 

しかしまあ、日用「雑器」とはよく言ったもので、実に多様な品を生産していたようですな。食器だけでも種類は多かったでしょうけれど、それとは全く用途を異にする品々も作っていたのであると。

 

 

左上はおろし金としても使えるお皿、右下は鳥に餌をやるための器、右上は「鬢盥(びんだらい)」とか。髪(鬢)を整えるために、水を入れたこの小さな盥に櫛の先をちょんちょんと付けて使ったのですかね。

 

ともあれ、こうした様々なものを作りだすやきものの技術が後には大いに期待されることになるのですなあ。昭和の戦時下、金属類は武器の材料として払底したことから、代用品がやきものに求められためです。

 

 

 

アイロンやガスコンロ、さらには襖戸の把手のような小さなものまで、やきものが代用されていたわけですが、銃後の我慢どころか、最前線で求められた武器に至るまでやきもの化が目論まれたとは末期的な状況としかいいようがなく…。

 

 

そういえば、お隣の瀬戸にはやきものの貨幣作りが求められたという話を扱った『一銭陶貨』という芝居を見た事がありましたっけ。

 

とまあ、茶陶の栄光どこへやら…といった雰囲気になってしまいましたですが、別室では「美濃現代陶芸の精華」という展示が展開されておりましたよ。やきものは日用品として使われる場面が減りつつある中で、一点ものの芸術性に目を止めるという方向でも発展しておるわけでして、次にはそのあたりに注目してみることにいたしましょう。