なまじ瀬戸が古窯として知られただけに日陰者になってしまった感のある美濃焼は、茶陶作りで大いに存在感を発揮したわけですけれど、そこには千利休の跡を継いで茶の湯の天下一宗匠となった古田織部(どうやら美濃の出身だそうで)が関わっていたのですなあ。瀬戸黒、黄瀬戸、志野…と独自の創意を凝らした作品作りが行われましたですが、その延長線上にあるのが織部焼ということになろうかと。

 

さりながら、織部好みとされた数々のやきもの(織部焼そのものに対する古田織部の関わりはあまりはっきりしていないそうな)は、茶の湯の世界で要するに「へうげもの」扱いでもあったような。先に、利休の跡を継いで天下一宗匠となったとは言ったものの、利休をこそ至高として利休路線をそのまま厳粛に守り続けようとした人たちにとってみれば、織部の茶の湯は革新的に過ぎたということになりましょうか。

 

利休自身は自らの作法マニュアルなどは残しておらず、茶の湯を一部の人たちのものだけに留めずに、ある意味大衆化するには変化はあってしかるべしと考えていたようですので、織部の路線はその方向性には合致していた。ところが、それは利休が確立したところをひっくり返すようにも受け止められたのでしょうなあ。

 

単純に織部焼と総称されるやきものの姿かたちを見るにつけ、全くの素人の印象としても「侘びさび」とは異なるところがありそうな気がしたものでありますよ。で、多治見市美濃焼ミュージアムに展示された織部焼の数々を見ていきますが、まずは展示解説の総論を。

桃山陶のなかで最も斬新なやきものである「織部」は、文献資料に一切記載はありませんが、利休に次いで茶頭となった古田織部が好んだと伝承され、織部没後しばらくしてその名が付けられました。織部の特徴の一つを表すヘウケモノとは「ひょうきんなもの」という意味で、従来の左右対称で端正なやきものに比べて左右非対称の型破りな形や釉薬の配色を指しますが、こうしたかつてない新しさをもった織部は、京や堺などの都市で大流行します。

 

まずはこちらが「黒織部」であると。前回の最後に写真を載せた「織部黒」とはまた異なる呼ばれようですけれど、違いは無文(つまりは真っ黒)のものが「織部黒」、この写真のように文様が施されているものが「黒織部」と区分けられているそうな。歪んだ形もそうですが、器に施された意匠がまた独特で、織部らしさが弥増すようにも見えますですね。時に20世紀絵画の抽象的図像をも想像させるものが出て来たり(時折ミロを思い出したり)するのは、斬新という言葉を超えてしまってもいるような気がしたものです。

 

 

お次は織部の中で最も手の込んだ装飾性の高さで知られるという「鳴海織部」の茶碗。「上の部分に白土を、下の部分に鉄分を含む赤土を用いて、両者を接ぎ合わせて…白土の上には青織部に使う銅緑釉をかけて、緑の発色を際立たせてい」るとは美濃焼ミュージアムHPにある説明ですが、美濃の陶工が腕によりをかけて焼き上げたのでもありましょう。

 

 

 

続いて、上は銅緑釉を掛けた「青織部」、下は使用する粘土が鉄分を含んで赤く焼き上がった「赤織部」のふたつ。形としては茶碗、茶碗してますけれど、やはり見込みの意匠は独特。それまでには無いハイカラさとでもいいましょうか。

 

 

こちらは志野焼と技術を同じくしつつも、いわゆる志野焼のより織部好みバージョンとでもいうのでしょうか、「志野織部」となります。一応、茶碗と詳細されていましたけれど、個性的な高台は別用途だったのかも…と思わせられたり。ここではもっぱら茶碗主体の展示でしたけれど、織部焼は茶懐石で料理を供する際の器が数多く作られているということでもありますし。

 

 

「青織部」に用いる銅緑釉は「織部釉」とも言われるそうでなのですが、この釉薬を(上の写真のように)全面に掛けたものを「総織部」と称して、これまた区分けているということで。美濃焼ミュージアムHPの説明には「総織部の製品は数少なく、希少な存在です。中でも、このように明るく発色しているものは稀です」とありまして、なるほどいい色味が出ておるなあと思いますですね。

 

と、ここまで織部焼と言われるものをあれこれ見てきましたですが、創意工夫に富んだ美濃焼の陶工は「他産地の特徴を持つやきもの」も作っていたというのですなあ。「洛中の茶席で人気のあった伊賀焼や唐津焼は需要が高く、美濃では原料をうまく用いてこれらを模した製品が作られ」たのであると。これを「美濃伊賀」、「美濃唐津」と称するそうな。

 

 

茶碗ばかりを見てきましたので突然に水指とは!ですけれど、そも伊賀焼は茶陶においてもっぱら水差で知られると。ちょいと前のEテレ『日曜美術館』アートシーンで、東京・世田谷にある五島美術館の特別展「古伊賀 破格のやきもの」(12/3まで)を紹介してましたですが、自然釉を生かす焼き締め陶ならではの素朴で豪快な伊賀焼には、大ぶりな水指や花生が求められていたようで。

 

ということで、上の写真の「美濃伊賀」水指も、多彩な釉薬を使い分ける美濃焼にあって、「志野の釉薬の主原料でもある長石の粒を多く含む粗い土を使い、自然釉がかかるように保護容器である匣鉢には入れずに焼かれ」るようにして、伊賀焼の再現を目指したようでありますよ。ただ、(五島美術館HPなどで)伊賀焼のダイナミックさに接すると、この「美濃伊賀」は端正な部類に入ってしまいますなあ。

 

 

そして、こちらが「美濃唐津」向付と。唐津焼の再現を図っているわけですが、なんでも距離の離れた唐津と美濃、やきものに関しては結構なつながりがあるようなのですけれど、そのあたりはまた別に触れたいと思っておりますよ。

 

てなことで、いわば美濃焼の黄金期とも言えそうな時代をざっくり見て来ましたけれど、さてその後の美濃焼は…ということを辿って美濃焼の1300年を、次回に締めようかと考えておる次第です。