美濃焼の里を訪ねるといってやおらモザイクタイルの話から入ったのはいささか看板倒れかもしれませんでしたが、お待たせしました!(笑)。「美濃焼の歴史と現在を、見て、知り、味わうミュージアム」へとやってきたのでありますよ。

 

 

と、平然と「やってきた」と申しておりますものの、同館HPの交通案内によればバス利用の場合、最寄りのバス停から徒歩8分程度と。その実、バス停からミュージアムまでの道のりはなかなかにしんどいものでありましたなあ。何せ、この坂道を登っていくよう案内板がでておりまして。

 

 

登りは見えている坂のドン突きで終わりでなしに、折れ曲がってさらに続く…。ミュージアムの目の前まで行くコミュニティバスもあるそうながら、土日祝しか運行しておらず、通常の路線バス利用ではこの坂を克服しないことには如何ともしがたいのですな。実は、後に触れるもうひとつ別の美術館も山の上にあって、バス停からはやはり登りに。多治見で陶芸の美術館を巡るには土日祝か車利用かがよかろうかと。

 

 

ともあれ、たどり着いた美濃焼ミュージアムでは中庭を取り囲むように配置されたギャラリー空間ごとにテーマある展示が展開されておりましたよ。企画展としては玄関先に案内の出ている「成瀬誠志とその周辺」展が開催中であったものの、陶芸鑑賞のビギナーとしては作家の名前を聞いてもピンとは来ず。だいたいお名前からして「現代作家でもあろうか…」と思えば、幕末から明治・大正にかけて活躍された方であったようで。そういえば、「没後100年」と書いてある…。

 

なんでも「日光東照宮をモデルに制作した「陽明門」は約3年の歳月をかけた大作で…明治26(1893)年アメリカ・シカゴ万国博覧会に出品…、多くの賛辞を得て受賞し」たとか、明治期の御雇い外国人で大森貝塚を発見したモース博士(陶磁器の収集家でもあったとか)が「『薩摩焼風陶器の細密画の元祖』と紹介していたとか、そういう作家のようでありますよ。ただ、この展示室は撮影不可ですので、入口だけです。

 

 

そして、中庭を挟んだ反対側でももう一つの企画展が開催。曰く「明治・ 西浦焼の世界」と。まあ、「西浦焼?」てなもんですので取り敢えず覗いてみるわけですが、どうやら明治時代に欧米向け輸出品のブランドのひとつであったということです。

 

 

こちらは撮影不可の表示が見当たりませんでしたので、たぶん差支えないのだろうなと思いつつ展示室内のようすをば。一見して、壺が多いように見受けられますですね。

 

西浦焼の図柄や形状は、明治後期にヨーロッパで流行したアール・ヌーヴォー様式を採り入れているものが多く、世界的に見ても時代の先端をいく陶磁器でした。

なるほど、壺の印象としては単純にヨーロッパで好まれていたと思ってしまっておりましたな。なにしろ、彼の地の宮殿などを訪ねると唐突に東洋趣味で(ゴテゴテと)飾り付けられた部屋に出くわし、そこには決まって巨大な壺が置かれていたりもするわけで。さりながら、アール・ヌーヴォーを意識したとなれば、ヨーロッパではもっぱらガラス器であるにせよ花瓶が多く作られていて、やきものとしては壺が似た形ですものね。日本の明治は向こうふうにいうと世紀末であって、その頃の雰囲気をアール・ヌーヴォーは醸している。確かにもっともっと昔からやきものの壺は異国趣味で迎えられてきたかもですが、どうもそれが理由ばかりではなかったようですなあ。

 

 

さらに欧米で受け入れやすかった理由には、明治期の西浦焼に用いられた「釉下彩」という技法が関わってもいるようなのですが、むしろ技法としては逆輸入されたもののようでありますよ。展示解説にはこのように。

この技法は19世紀末頃のヨーロッパで開発されたといわれています。世界的な流行をリードしていたロイヤルコペンハーゲン、マイセン、セーヴルなどが有能な科学者を従えて研究を重ねたことにより完成しました。

 

ふたつのカップは、上が上絵付によるもので下が釉下彩によるもの。素人写真では分かりにくいながらも、釉下彩の方はツルっとした滑らかさが際立つところでありまして。西洋由来のこの技法を採り入れることのできた西浦焼は好評を博すことになるわけですが、多治見で長い歴史を持つとはいえ、西浦家の職人たちの研鑚の賜物であるようです。と、多治見を含め、美濃のやきものの歴史に思いを馳せたところで、お次は長い美濃焼の歴史を常設展示で振り返ることにいたしましょうかね。