「二度あることは三度ある」とはいうも、唐突に体調不良に陥ったもので「すわ、こりゃ三度目のコロナであるか」と考えたわけですが、通院していない以上は100日後の抜け毛如何による判断しかなかろうと。さりながら、後から聞いたところによれば、発症のちょいと前に訪ねた両親がともども「調子が悪くて医者に言ったらコロナだと言われ…」となれば、やっぱりこちらもコロナだったのであろうと。

 

「仏の顔も三度まで」ではありませんが(意味合いは全く異なりますが)、「コロナの顔も三度まで」で打ち止めになってほしいものですなあ。ただ、さすがに最初より二度目、そして二度目より今回と、だんだんに軽症になっており、もう何でもいっか!てな気分にもなっておりますよ。と、それはともかく、これまでのお話の続きを淡々と進めてまいりましょう。

 


 

山形に出かけたというお話もすでに山寺の入り口部分で長くなりつつありますが、現在振り返っておりますのはこの辺りになりますですね。

 

 

まずは右下の登山口の石段を登って根本中堂にたどり着き、左端にある山門へと向かっていく。この部分はまだ全く平坦な道ですけれど、道々、案内板に「観光スポット」として記される地点がいくつもあるものですから、ちょこちょこと立ち止まりながら進んで行く塩梅でありましたよ。

 

 

根本中堂からちょいと進んだ右手奥の方にまず現れるのが「清和天皇御宝塔」だそうな。

山寺を勅願寺とした清和天皇の供養塔で、天皇の遺徳を慕い、国家の安泰を祈って建立された、当山では最も古い石塔である。

清和天皇崩御は元慶四年(881年)ということ(当時は上皇)ですので、それ以来立ち続けている石塔なのでありましょう。立石寺の開山は貞観二年(860年)ながら、木造の堂塔が開山以来残っているわけではありませんから、この石塔が歴史の生き証人となりましょうかね。戦乱に焼け落ちる山寺を何度も見て来たわけで。

 

 

御宝塔へ入る道の傍らには、元禄二年(1689年)弟子の曾良とともに『おくのほそ道』の旅の途次、山寺を訪れた松尾芭蕉ゆかりの手水盤というものが。解説板にはこのような説明がありました。

…二人が山寺を訪れた十年後の元禄十二年四月十九日にその「預り坊(預り里」より奉寄進されたのが、この手水盤である。

「預り坊」というのは麓の宿だそうですが、芭蕉が東北を巡ったのは蕉門俳諧があまり知られていない土地への宣伝活動(門人獲得)の含みもあったやに聞き及ぶところでして、山寺麓の宿でも十年経って(芭蕉の没後)「いやあ、あんときお泊りあったのはえらく知られた俳諧の宗匠じゃったか」と、慌てて寄進を行ったのでもあるか…てな想像をしたりしますなあ(笑)。と、お寺さんの境内ながらひとつ鳥居をくぐり抜けますと、そこには日枝神社が祀られておりましたよ。

 

 

お寺さんに神社があっても「神仏習合だものねえ」などと知ったかするわけですが、日枝神社の「日枝」とはそも「比叡」から来ているのでしたか…。ここの日枝神社が「山寺の守護神」とされるのと、日吉大社と延暦寺との関係は同じものだったのですなあ。

 

 

境内にある御神木は日枝神社の…というよりも、「慈覚大師お手植えと伝えられ」るところから山寺の大イチョウとして知られるようで。昭和47年9月の暴風(台風ですかね?)で「地上四mほどの上部で折損し、樹冠の大半を失」ったとはいうものの、今見る限り、樹勢は弥栄の印象ではありませんか。

 

 

と、こちらはやはり日枝神社境内にあります「亀の甲石」とか。鹿島神宮香取神宮にある要石のようなものであるか…?と思えば、全く役割が異なるようで。

亀の形をした此の石は古来より延命、長寿の霊験ありと伝へられてをり小銭に名前を書いて供へ置けば願いが叶うと言われてをります。

願い事の種類(?)によって小銭をここに置くべしという場所があるようで、親切なことにはっきりと看板で示されておりましたですよ。

 

 

で、社殿のお隣にある御神輿殿の前には「こけし塚」なるものがありましたなあ。今では東北地方の民芸品、土産物と目されるこけしですけれど、子どもの玩具とも見られる一方で、貧しさ故に育てきれないであろう子供の身代わりとも言われるだけに、こけしの供養塔があるのは東北ならではなのかもしれませんですねえ。

 

 

こけしには地域によって形や模様が異なりますけれど、地理的にこの場所は「作並系(山形作並系)」のこけしを思い浮かべるのが自然(仙山線に作並駅がありますし)ながら、どうもこけし塚の形(模様は全くわかりませんので)を見る限り、頭部と胴部のバランスからして「遠刈田系」に近いような気もしますですねえ。

 

とまれ、さほど広くない日枝神社の境内を抜けますと「やっぱりこういうの、あるよねえ」という像がここに。昭和43年(1968年)と刻まれていますので、わりと新しい(といっても半世紀は経っておりますが)芭蕉と曾良の像です。それだけに、結構リアルな造形であるような。

 

 

松尾芭蕉といいますと、どうしても老齢のイメージを浮かべてしまうところながら、『おくのほそ道』紀行への旅立ちは40代半ばであったそうですので、あんまりにも爺然として表されるのはどうなんでしょう。もちろん、年齢の受け止められ方は今とは異なるものであったでしょうけれど…。

 

 

てなところで、あたりはやっぱりお寺さんの領域と思い返すことになるのがこちらの『真っ白な仏』として知られる万物供養阿弥陀如来像でもありましょうか。

私たちが毎日生活していくために、自然の恵みや多くの食べものなどあらゆるものが必要です。これらのすべてのものの生命を供養してくださるのが正面の仏さまです。

見るからに新しい仏さまですけれど、由緒あるお寺といえども歴史と伝統ばかりに寄りかかっておるのでなくして、現在もその役割というか機能というか、そういうものを果たして続けているのであるな…ということが、こうしたものから窺えますですねえ。

 

 

程ない距離を、あちらこちらで歩をとめながらたどってきましたけれど、平坦な道はこの鐘楼のところでおしまいとなります。鐘楼下にある解説板には、いよいよもって「登山口」と書かれてありますし。

 

 

左手にある山門をくぐり、「石段を一段、二段と登ることにより、煩悩が消滅すると信仰されている」霊場へ、いざ参る!というお話を次回に。