さてと、山形新幹線から仙山線に乗り継いで山寺駅に到着いたしました。下車したのは数人、日本有数の観光地として知られるものの参拝には石段登りが必須だけに、わざわざこの梅雨時の蒸し暑い中、汗をかきにやってくる方も少ないということになりますか。きっと秋の紅葉シーズともなりますと、また違った様相を呈しているのやも。

 

ともあれ、目指すのは駅名表示の後ろにそそり立つ岩山となります。が、その前にちと、駅舎にわざわざ備えられている展望台に登ってみたですが、景観はあまり変わらないような…。

 

 

ちょうど写真の真ん中辺、山の稜線直下に見晴らしの良いことで知られる五大堂が見えているのですが、曇り空ですのでうすぼんやりしておりますなあ。眺望的には残念ですが、じりじり日差しが照りつけているよりは登りやかったとはいえましょう。まず最初には山を左手にして少々回り込み、登山口に向かいます。

 

 

で、ここが登山口。ここからが石段登りの始まりになるわけですが、総数は1015段とか。覚悟して一歩を踏み出すも、さしあたりこの部分の段は比較的傾斜がゆるやかなような。まだまだ本番はこれからでしょうけれど、取り敢えず目の前の石段を登りきりますと、やおら本堂に到達するのですなあ。

 

 

比叡山ゆかりの天台宗のお寺さんだけあって根本中堂と呼ばれるようですけれど、ここで登山口近くの解説板に拠って山寺、宝珠山立石寺の紹介を振り返っておくといたしましょう。

宝珠山立石寺を中心とする山寺は、清和天皇の勅許をいただいた慈覚大師により、貞観二年(八六〇)に開かれたと伝えられています。全山を構成する角礫凝灰岩は、永年の水蝕と風蝕を受けて奇岩怪石となり、これが樹木の間に見え隠れする姿は、四季折々に本当にすばらしい景観となっています。また、境内地の参道石段は、立ち並ぶ句碑や板碑とともに苔むして、老杉や怪石の間にはたくさんの堂塔が建てられ、千古の静寂をたたえています。

と、これではあまりに観光案内っぽいですので、改めて立石寺HPにあたりますと、こんなふうにありますですよ。

当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。
当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えましたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もありましたが、江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備されました。
現在は約百町歩(33万坪)の境内を持ち、その中に大小30余りの堂塔が残され、三つの不滅(法灯・香・写経行)が今尚護られています。

ということで、堂内には不滅の法灯が点っておると。どうやら叡山が焼き討ちにあったり、はたまた山寺が兵火に晒されりした折、相互に不滅の法灯をやりとりして最澄以来の不滅を守り伝えていたのであるそうな。バックアップがあってよかったですなあ。

 

 

向かって左手の柱に「根本中堂」とあり、反対側、右手の柱の下の方には「四寺廻廊御朱印所」とありますけれど、慈覚大師円仁が東北の地に開山した四つのお寺さんを巡る巡礼路を「四寺廻廊」と称すそうな。ちなみに山寺のほかは、平泉の中尊寺・毛越寺、松島の瑞巌寺だそうで。

 

ところで、本堂の御本尊は円仁自ら手掛けたと伝わるらしい「木造薬師如来坐像」だそうですが、その前立ちの前立ちくらいの感じ(でもないの)でしょうか、誠にふくよかな招福布袋尊像が置かれていて、「布袋尊のからだをなでて願いごとをお祈りする」と書かれてありました。

 

 

身代わり地蔵ではありませんので、からだの気になる部位をなでるものではありませんけれど、これからの山登りに備え、ひざに難ありの者としてはついついひざをなでてしまいました(笑)。ほとんどの方は目立つおなかをなでていかれるようで、おなかが取り分けつるつるになってましたなあ。余談ながら、「招福布袋尊」と書かれた貼り紙の脇に小さな貼り紙がありまして、「Don’t clap your hands. This is a temple」と。インバウンドの波は当然ながら山形にも、ですな。

 

 

と、本堂前の片隅にかよいうな石碑をひとつ見かけたのですな。「ティーデマン先生記念碑」とありますが、「はて?誰?」ではないですかね。どうやら大正から昭和初期の10年間ほど、旧制山形高等学校に招かれ、ドイツ語を担当した方だそうで。在任中は山寺の地をこよなく愛したということで、教え子たちがここに記念碑を設けたということですが、説明板に曰く設立者は「ふすま同窓会」であると。「ふすまぁ?」と思いますですなあ。

 

要するに旧制山形高校の(次いで山形大学となってからも)同窓会の名称が「ふすま同窓会」というのだそうで。どうしても、日本間の押し入れなどに使う襖を思い浮かべてしまうところながら、ここでのふすまは高山植物で鳥海山(山形県の最高峰)の固有種である「チョウカイフスマ」が校章に使われていたというのが由縁のようですね。昔の学生は校章のついた学帽を被っていたりしたでしょうから、強い思い入れがあるのかもしれません。傍で「ふすま」と聞くときの印象とは大きく異なって。

 

ということで、山寺に来てすっかり本堂の話に終始してしまいました。これでUターンしては石清水八幡宮を訪ねた仁和寺の法師になってしまいますが、決してそんなことはない(笑)。この先、本格的な石段登りが始まる山門までの間はしばし平坦な道が続くわけでして、そのあたりの見聞を次の機会に振り返ります。