京都・八幡市の上津屋流れ橋には、たまたまタイミングよく渡れるようになったところで訪ねることができたわけですが、これも何かの縁でしょうから、やっぱり石清水八幡宮にはお礼を申し述べておかねばと思ったりも。

 

そもそも京阪電車で石清水八幡宮駅にやって来た観光客が真っ先に、というよりさくらであい館や背割堤、流れ橋さえもともかくとして訪ねるのは八幡さまでしょうからねえ。個人的には「ついでで…」と言っては申し訳の無いところですけれどね。

 

 

幸いにして?先に出かけた伏見稲荷大社稲荷山の大渋滞状態とは、石清水八幡宮のある男山は全く趣きを異にして静寂に包まれておりまして、これでこそ神様も安んじておられようと思えたものでして。

 

で、石清水八幡宮の参詣にあたって、京阪の駅を下りますとすぐにケーブルカーへの案内(同じ京阪が運営するだけに)が目につくわけですが、せっかくですからやっぱり少々のこだわりをもって表参道からアプローチすることにいたした次第でありますよ。ということこは、山登りにはなるんですけどね。

 

平安時代初め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。“やわたのはちまんさん”と親しまれる当宮が御鎮座する八幡市・男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波間の交通の要地であります。

石清水八幡宮HPにはそもそものお話としてこのように紹介がありますけれど、男山への鎮座の背景には三川合流という自然の大きな力を目の当たりにし、これを見下ろせる山上にという意識が働いたのではありませんかねえ。淀川に関わるあちこちを訪ねまわっている者にはそんなふうに思いたくもなったりするのでありますよ。

 

 

境内の案内板にあった航空写真で見ますと、こんなふうに真ん中の緑に溢れた男山を迂回せんがために三川は合流したようにも見えますものねえ。といっても、これは今の流路なわけですが…。

 

 

ともあれ、一ノ鳥居を抜けてすぐ右手に回廊の巡らされた区画がありまして、「頓宮・極楽寺跡」と説明板にありましたなあ。日本ではかつて神仏習合で「神も仏も」と崇敬していたわけですけれど、八幡信仰は取り分け習合色が強いといいましょうか(何せ南無八幡大菩薩ですものねえ)、境内に入ってすぐ目立つところに極楽寺があって何の不思議もないわけですね。

 

 

回廊内を覗き見ますれば、東側(右手)に頓宮(年に一度、石清水祭が行われると)、西側(左手)の建物の場所には極楽寺があったそうな。このあたりの建物は鳥羽伏見の戦いに際して焼失してしまったということでありますよ。すぐ先には同じ時に焼失したという高良神社(高良社)も。

 

 

と、ここで学校で古文の授業を記憶されておられる方は「ああ、『徒然草』の!」と思い出されるところでしょうなあ。仁和寺の法師が石清水八幡宮を訪ねたきたところ…というお話でありますよ。解説板には「往時は頓宮・極楽寺と共に(高良社も)荘厳を極めていた…」とありまして、仁和寺のうっかり法師がこの辺だけを参拝して回り、「さすがは石清水八幡宮!」と(本当の社殿も訪ねずに)思い込んでしまったのも当然かというようすであったようですけれど、今はただただ木立に囲まれて静けさばかりの空間になっておりますなあ。今や昔…ということで。

 

 

でもって、さらにもそっと進んだところには大きく曲がった松の巨木が。あたかも駐車場と参道を仕切る役割にうってつけと思えてしまうところながら、実はこの松、「源頼朝手植松」ということで。武家の棟梁、源氏の長者たる頼朝は八幡神を厚く信仰してしていたのは、鎌倉の鶴岡八幡宮のことを思い浮かべてみればわかることでありますねえ。

 

 

さて、一ノ鳥居からこの辺りまでは平坦と言っていいわけですが、この先の二ノ鳥居をくぐると参道は山登りとなってくる…のですが、それはまた次回にということで。