さて、ようやっと常陸国一之宮、鹿島神宮に到着いたしました。

が、天気予報どおりといいますか、むしろこれでもよくもっていたものだというべきですが、

いよいよもって雨が降り出してくることになるのですなあ。


旅の中でもメインディッシュのひとつであったはずが、止む無くささっとひと回り。

まあ、晴れたり降ったり、空模様が移ろっていく中ではこういうこともありますよねえ…。


鹿島神宮大鳥居

とまれ、1月8日の鹿島神宮はまだまだお正月っぽく人出もそれなりで、

それを待ち受ける出店の列がずらりと並び、賑わっておりましたですよ。




大鳥居を抜けて進んだ先には実に立派な楼門が待ち構えているのですね。

何でも寛永十一年(1634年)に水戸徳川家初代の徳川頼房(水戸光圀の父ですな)が

奉納したものであるそうな。


水戸藩の地元であることはもとより、また歴史的背景もさりながら、

武術に関わりの深いお社だけに武家の尊崇は一入でもあったのでしょうね。


鹿島神宮楼門

かような楼門をくぐり抜け、しばしの後には拝殿(その後側に本殿)が見えてくるわけですが、

このあたりはさすがに大層な混みよう(密度が薄れた瞬間を撮りましたが…)。


ちなみですが、晴れ着姿の若い女性の姿がちらほら見えようかと思います。

旅のさなかに聞きかじったところによりますと、

茨城県では成人の日より一日前倒しで成人式が行われたようでして、

まさに成人式帰りの新成人がわんさかハレの舞台にやってきたというようなのですな。


それはともかく、神社仏閣に詳しくない者として少々「あれれぇ?」と思いましたのは、

境内に並ぶ建物の配置(お寺でないので伽藍とは言わんのですよね)なのでして。


鹿島神宮境内案内図

これは大鳥居脇にあった境内の案内図ですけれど、

右下端の大鳥居から楼門、さらに奥へと参道が伸びてますが、

その途中にある拝殿・本殿が通り道の横に面しているというのが

何とも据わり悪い感といいますか(もちろん個人的にですけれど)。


基本的には鳥居からまっすぐ行ったその先にと思ってしまうところながら、

地形やら方角やらいろんな要素があってのことなのでしょうなあ、たぶん。


ところで、先に「歴史的背景もさりながら」とだけ言っていた鹿島神宮の由緒ですけれど、

解説板の創祀の項に曰く「神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって

神武天皇が使を遣わして勅祭された」と伝えられているそうな。


こういってはなんですが、神武天皇即位とは西暦で紀元前660年のことで、

まあ、伝えられているというとおりに伝承でありましょうねえ。


ですが、それを一概に軽んずるものではなくして、

そういうとんでもなく古い由緒があるものとして語られること事態に

箔付けでない由緒があるのだろうとも思うところです。


鹿島神宮奥参道

と、拝殿を過ぎて奥参道を進んでいきますと、

これまた鹿島神宮の由緒にまつわることに出くわすのでありますね。鹿園です。


鹿島神宮鹿園

鹿島神宮で「神鹿」と言われる由縁は、

そもここに祀られている武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)のもとへ

天照大御神の伝令(?)として遣わされた天迦久神(あめのかくのかみ)が

鹿の神霊(迦久は鹿児であるとか)とされることから、鹿を神の使いと考えておるようで。


この鹿島神宮の神鹿は、

神護景雲元年(767年)に鹿島の神の分霊を奈良に迎えて春日大社が創建される際に

その「御分霊」を運んでいったという役割も担っていたという。

伝承に「一年がかりであった」とはなかなかリアルな感覚といいますか。


奈良の春日で見られる鹿は鹿島の鹿の縁者ということになりますけれど、

今の世に鹿島にいる鹿は奈良からのUターンでもあるようで…。

そりゃあ、放し飼いされてる方が鹿たちにはうれしいでしょうなあ。


鹿島神宮奥宮

という鹿園を過ぎてほどなく奥宮に到着です。こちらもわさわさと人が参っておりますが、

考えてみれば受験シーズンでもあり、必勝祈願は今も昔もでありましょうかね。


関東にあった家康が鹿島神宮に関ヶ原の戦勝祈願をしたということでしょうか、

この奥宮の社殿はは関ヶ原に勝った御礼として奉納したものなのだそうです。

ちなみに先に見た拝殿・本殿の方は二代将軍秀忠の寄進したのだとか。

将軍家にも厚く遇されたということでありますね。


さりながら庶民にとってのご利益の元となるのは、

奥宮の脇を右に折れて進んでいった先にあるものというべきではないかと。


鹿島神宮の要石

お社もないのに参拝の行列ができてますけれど、ここにあるのがかの有名な「要石」。

地震を起こすという地中の大なまずの頭をしっかと押さえつけていると伝わる石ですな。


要石は氷山の一角で?

地面に顔を出したところを見る限り、息栖神社の力石ほどもないように見えるわけですが、

これがどうしてどうして、いくら掘っても掘りつくせない大きさが隠れているというのですね。


「水戸黄門仁徳録」という書物には

「七日七夜掘っても掘っても掘り切れず」とあるそうですから、その大きさが偲ばれる一方で、

黄門様に命じられたとはいえ掘らされた水戸藩の人たちも「たたり」にひやひやしたのでは。


そういう「要石」ではありますけれど、

2011年の大地震で鹿島神宮では鳥居が倒れてしまったそうですね。
それをもって笑いのタネとする向きもあるようですけれど、

それでも社殿は倒れませんでしたと考える向きもある。


とかくパワースポットのパワーとは

「大いなる勘違い」によって内側に漲ってくるかに思える精神的なパワーでしょうから、
「信じる者は救われる」的な前向きさはあった方がいいかもしれません。


ということで、御守ひとつをいただいて

だんだんと雨脚の強まってきた鹿島神宮詣でを終えたのでありました。


鹿島神宮の要石守

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