静岡県富士市界隈を訪ね歩いていたのは9月の上旬、喉元過ぎれば…ということですっかり酷暑の記憶も薄れがちですけれど、出かけていた最中は暑かったですなあ。行った先々で歩き廻ることを想定しつつも、あまりの暑さに我が身の安泰を思うて、炎天下を歩くことを断念したところから、旅程の再検討に迫られ、ふいと飛び乗った岳南電車の車中でもプランニングに余念無しということに。

 

ともあれ、おそらくはこの機を逸すれば乗ることもなかろうというローカル鉄道の岳南電車で、がくてつ機関車ひろばのあった岳南富士岡駅から折り返す車中の思案をもとに、途中駅の吉原本町駅で下車したのでありましたよ。

 

 

そも岳南電車は「(現在のJR東海道線吉原駅である)鈴川駅と吉原の中心部とを結ぶ鉄道として開業した」(Wikipedia)ということであって、この吉原本町駅とお隣の本吉原駅のあたりこそが往時、最も繁華なエリアだったのでしょうなあ。さりながら、この駅までが無人駅であるとは…。

 

 

踏切を跨ぎ越しているこの道がかつての東海道ということになりますか。いやあ、車通りもほどほどののんびりとした印象でありましたよ。これはJR吉原駅方面から来る道ということになりますので、当初予定ではこのルートを、およそ日陰などなかろう中をひた歩いてここいらまで到達することになっていたわけですなあ。

 

その点では些かの残念さを残してはおりますが、ここから先が東海道吉原宿の宿場(正確には新吉原宿でしょう)に入っていくことになるのでありますよ。こんな街歩きの看板もありましたし。

 

 

ところで、JR吉原駅の方向を振り返って「のんびりしたもんだ」と思った反面、街中へと進む方向を見やれば様子は一転、アーケードのある商店街がずうっと続いているとは、いかにも町の中心部感を醸しています。

 

 

JR吉原駅周辺を思い返してみるだに、こちらこそやっぱり東海道本線の駅ができてもおかしくなかったところかと思うも、それは言っても詮無い話。アーケードという日除けの恩恵に浴しつつ、先へと歩を進めてまいりましょう。

 

ただですね、かつて東海道だった…という名残りのほどは(予備知識を仕入れてこずに)ぶらぶら歩いている限りではあまり見受けられないような。辛うじて目についたものがちらほらするくらいでしょうか。

 

 

道端で見かけたのは「明治天皇御小休所」と刻まれた石碑ですけれど、明治11年(1878年)明治天皇巡幸に際してこの地にあったという高砂館で休憩をとったようですな。未だ東海道本線がここいらを通る以前(もっとも開業しても走ったのは海沿いですが)、明治天皇は昔ながらの東海道を駕籠ってことはないでしょうから、輿だか馬車だかで通りかかったのかも。

 

で、もそっと進んでいきますと、当時の格式のほどは定かならずも、なんとまあ創業天和二年(1682年)という超老舗の旅籠に出くわすのですなあ。

 

 

幕末、江戸城無血開城の交渉にも関わった「山岡鉄舟清水次郎長の定宿」であったと旅館HPに紹介がありますが、軒先の看板に「きがるなおやど」とあるとおり、今でも旅館として営業中。富士市では宿泊先探しに手間取って、ここの旅館も考えはしたのですが、現在の吉原宿自体が交通至便とは言えないので見送りましたが…。

 

 

史跡ではありませんが東海道沿いらしさの演出看板を横目で見ながら、さらに先へ。ようやっと富士市教育委員会が設置した「吉原宿」の解説板が出てきました。「自然災害によって二度に渡り宿場を移転し」たこと、その移転、移転のせいか、「(宿高が)近隣の宿場と比べ極端に少なく財政的に裕福とはいえなかった」ことなどが紹介されておりました。

 

 

ところで、今回のタイトルからしても吉原宿歩きはただ通りすがっただけのように言っておりますですな。岳南電車・吉原本町駅を降りたって、次の目的地と定めた施設まではバス移動になるため、実のところはバスターミナルを目指して歩いていたというのは主旨だったのでありますよ。ですので、下調べもおぼつかずという次第です。

 

と、上の解説板を過ぎればバスターミナルはもうほどないはず。ちなみにバスターミナルと申しておるのは、そこが「吉原中央駅」という名称になっているからなのでして。ですので、大きなビルがあって、その一階部分にたくさんの乗り場、大きな待合室がある…といった体を想像していたものでありましたが、しかして実際は…。

 

 

空調の効いた屋内にいろいろ昼飯処があったりするかな…という予想はものの見事に裏切られた次第。かような待合所に「吉原中央駅」とはあんまりなネーミングではないかいねと。ま、通りすがりの旅人があれこれ言っても詮無い話。おとなしくバス待ちをして、次なる目的地に向かうのでありました。

 

 

先日来の、車山高原で山歩きをして、その帰りがけ茅野駅で列車待ちの折、映画監督・小津安二郎の紹介展示と音楽写真家・木之下晃の作品展を覗いてみた…ということで話はひと段落のはずなのですが、実は車山に登りに行く前段のお話がまだだったのでして…。

 

そも、車山高原というか、霧ヶ峰に出かけようと思い立った際、その玄関口となるのは上諏訪駅であろうなあと想定しておったのですが、夏休みシーズンが終わると上諏訪駅から霧ヶ峰方面へ向かうバスは土日のみ運行になると、危ういところで気付いたのですなあ。ですが、つもりとしては上諏訪からという想像の下、上諏訪経由になるなら、この際やっぱり寄っておこうと考えたのがサンリツ服部美術館なのでありました。

 

されど、去年も行ったし、ついこの間、7月にも覗いたばかりの美術館にまた?てなところでもありましょうか。実は7月に立ち寄った折、同館所蔵の国宝茶碗が次に公開されるのはいつ頃でしょう?と尋ねたところ、「9月から始まる展覧会の中で」と教えてもらっていたものですから、機を逸することなくと思った次第というわけなのですね。

 

 

開館30周年記念特別企画展「数寄者 服部山楓」というのが展覧会タイトルでして、服部山楓とはここの美術館の「茶道具コレクションの礎を築いた」人物、要するに服部時計店の三代目社長・服部正次のことだそうな。明治以降、財界人の多くが茶の嗜みに目を向けたことはよく知られておりますけれど、服部家もしかりだったわけで。

 

ですが、こういってはなんですが、財界の大立者といった人たち(つまりは金持ち連中ですな)が「茶の湯のわびさびはええですなあ」などと和みの語らいをする(裏ではビジネス上の駆け引きがあったりして、その後のゴルフ付き合いのような?)というのは、どうも個人的には馴染みがたく…。まあ、貧乏人の僻目でもあらんかと自覚はしておりますがね(苦笑)。

 

と、どうにも前置きばかりが長くなりましたが、ともあれそんなことでもありますので、本来的には近代の数寄者をこそ紹介する展覧会にも関わらず、ひたすらに展示された茶道具に目を向けてきたのでありますよ。

 

展示では茶室を彩る、といっても基調はわびさびとなれば自ずと枯れた味わいとでも申しますか、そんな品々が並ぶ中、国宝一点と同時に重要文化財、重要美術品が数点含まれておりましたですが、何をもってその重要性が確立されるのであるかは、正直言ってよくわからない部分でもありますね。ともすると肩書ありきで、ついつい付けられた肩書を見たことで「ほおぉ!」と思ったりもしてしまう。

 

素人のあさはかさというやつでもありましょうが、個人的には美術品に相対するとき(およそ芸術一般に同様とは思いますが)に「(既存の評価が当を得ているのかどうか)分かる、分からない」というところから離れて見られる素人目線は、それはそれで悪くないと思っているものですから。

 

ところで肝心の国宝茶碗ですけれど、本阿弥光悦作の「白楽茶碗 銘 不二山」というもの。館内撮影は不可ですので画像がありませんので、ちと本展フライヤー裏面を代わりにして見てみましょうかね。

 

 

本阿弥光悦という人は、後に琳派の系譜に位置付けられて美術の世界では超有名人となりますですが、基本的には取り分け誰を頼るでなく自らの審美眼で自らのための器などを作っていった人でありますね。銘品とされるのはそれが他の眼鏡にもかなったということであって、自身は銘品を作り出そうといった気負いも意気込みも持ち合わせていない、いわば究極の素人であったかも。何よりもその点には親和性を感じるところでありますよ。

 

そして…といって、ここで「国宝」という肩書に目が惑わされる面が無いとはいえないものの、滋味豊かに仕上がった茶碗であることは間違いないようで。光悦本人もさぞや出来栄えににんまりしたのではなかろうかと。残雪を戴く富士山に擬えた銘「不二山」は光悦自身が書き残したのでもあるようですしね。

 

一方、フライヤー裏面の左側に配されているのも、やはり本阿弥光悦の作でして「赤楽茶碗 銘 障子」と。こちらは国宝でもなんでもない作品ですけれど、一層のこと光悦らしさを感じられたりするかもです。

 

なんとなれば「口縁から高台にかけて3ヵ所の裂け目から生じた火割れを漆で繕っている」という修理再生品であるからでしょうか。ですが、そもそも自分遣いを想定している光悦としては繕ってでも残したいと思ったのではなかろうかと。その姿勢にこそ独自の審美眼が宿っているといったらいいのかもしれませんですね。

 

と、話は本阿弥光悦のことばかりになってしまいましたが、あれこれの茶道具を眺めて(もちろん「分かる、分からない」で言えば評価の高さに「???」となるものもあるわけですが)しばしの眼福を得たものでありましたよ。

ここまでのところでは静岡県富士市の走るローカル鉄道、岳南電車に乗り込んでみたものの、およそその沿線に観光的な要素が無いのでどうしよう?みたいな話になってしまってましたですねえ。ですが、出かける前の下調べ段階では、オプションとして行ってみてもいいかなと思ったところが無いでは無いと。たとえば、こんなのがありました。

 

 

大きな地図は富士市HPの観光パンフレット掲載ページで見られますが、「ロマンと泉の郷」を巡るというウォーキングコースはちょうど岳南電車の駅が発着点になっているのですよね。

富士市の原田・比奈周辺の湧水源ポイントや見どころ情報が載ったマップです。この地は、日本最古の物語である「竹取物語」発祥の地の一つと言われており、かぐや姫にちなんだ地名がいくつも残されている場所でもあります。

富士山の湧水源を辿るのも、一般的な話とは異なるらしいこの地ならではの「竹取物語」伝説の地を巡るもの楽しからずやと思ったわけですが、如何せん暑さが厳しくて…。取り敢えず乗り込んだ列車を岳南富士岡駅で降りたのは、車内冷房で幾分心地よさを取り戻していただけに、ウォーキングコース巡りの余地を残したとも言えますが、下車してみればやっぱり暑いなあと。

 

 

そんな思惑も含めた紆余曲折の果てに、取り敢えずここでは先に見た駅名表示板にもあった「がくてつ機関車ひろば」とやらを覗くにとどめておくことにしたのでありますよ。

貨物営業時代に活躍した電気機関車を展示した新たな観光スポット「がくてつ機関車ひろば」が岳南富士岡駅構内にオープンしました。 90年以上前に製造された電気機関車を展示しています。架線は無電圧化しパンタグラフも上げて、今にも走り出しそうな重厚感ある姿がお楽しみいただけます。

まあ、さほどに「鉄」分が多い方ではありませんですが、岳南電車HPにこんな紹介を見かけますと、なんとはなし、面白そうではないかいねとも思っていたものですのでね。駅舎の奥にあるようですので、回り込んでいきますが、辺りには何もないのですでに全体像はホームから見えており、ひろばを前にして「?」と思ったと言っては嘘になってしまいますので、あらかじめ…。

 

 

「え?これだけ?!」と言っては、この奥にももそっと車両が並んでおりますので語弊がありましょうけれど、それにしてもこれほどに置いてあるだけ感とは、さすがに思いもよらず…。

 

 

これは余程の「鉄」分含みの人たちでないと来た甲斐ありとは思えないのではなかろうかと。富士市の製紙業の隆盛に際して、かつては貨物列車が大活躍したのであろうなあ…という思いを新たにすることはできましたけれど。

 

 

元々信州・松本と上高地の玄関口である新縞々を結ぶ松本電鉄(現アルピコ交通)から譲渡されたというこちらのED40形電気機関車は「(1971年以来)約40年間で…コンテナ輸送による富士市内工場の製品などを大量輸送するための主力機関車として大活躍し」たそうな。ボディに「DAISHOWA」「YOSHINAGA」とあるのは、大昭和製紙(現日本製紙)吉永工場(岳南電車沿線にあり)御用達の車両だったのでもありましょう。

 

てな具合に往時を偲ぶことはできるにしても、あまりには寂しい観光スポットであるなとは正直なところ。ですが、あたりを見て回るうちに気付いた説明板によりますれば、「…週末指定日開催の「機関車ミニガイド」は、現役運転士が少人数のお客様を対象に、機関車の説明や車内見学、運転台での撮影もできるイベント」だったりするそうな。つまり、ただの平日にやみくもに訪ねても置いてあるだけということであったか…と。

 

この平日の閑散さとイベント時の(多少の?)賑わいとを思うとき、なんだか岳南電車そのもののようであるなと思ったものでありますよ。何せ平日昼間には数人しか乗っておらず、夜景電車のようなイベント時には予約が必要な賑わいになる(であろう)点で。

 

 

こんなイベント開催時にはきっとたくさんのお子さんで賑わうのでしょうなあ。ホームの向こうで休息中のかわいらしいヘッドマークを付けた列車も、その時には活躍することになるのかも。

 

 

と、そんなこんなのうちに折り返しで吉原方面へ戻る列車がやってきました。1時間に2本程度の列車を逃すわけにはまいりませんですね。そそくさと乗り込むも、吉原駅まで行くのでなしに途中の吉原本町駅で下車予定。次なる目的地を目指します。

 

「言葉というものは、あんなに速く打たなければならないものでしょうか」

脚本家・作家の山田太一が10年ほど前にこんな言葉を残していたと、先日の東京新聞のコラム「筆洗」に教わったのですけれど、要するに若者がスマホに打ち込む文字の速さを言っているのですなあ。

 

ともすると、若者たちの速射を垣間見つつ、「ほお~!」などと感心したりもしてしまうところながら、山田のつぶやきから考えてみれば、考えて思いを巡らしている文章が綴られているとはどうにも思えないところはあります。山田の心配は、ありきたりの言葉しか出てこないだろう、本当の気持ちを伝えることなどできないだろうということで。

 

何事につけ速さは若いこととイコールなところもあって、速いこと即ちいいことのようにも思いがちですけれど、その速さに縛られるようにもなってきていようかと。いつの間にか普通に使われるようになっている「タイムパフォーマンス」(これもまともに打っていると、それこそタイムパフォーマンスがよろしくないので「タイパ」と略されますが)などという言葉は、そのことを端的に表しているのではないですかねえ。

 

ずいぶんと昔から「コストパフォーマンス」という言葉は使われておりましたですねえ、いわゆる「コスパ」ですけれど、かけるコストに対して効率やらがいいのかどうかを考えるとき、そこにはそもそも時間の要素も入っていたと思うのですよね。それがことさらに時間の部分をクローズアップして別扱いするようになるほど、現代は時間に縛られているとも言えましょうか。もっとゆとりがあっていいと思うのですが…。

 

さりながら、この時間、速さが求める風潮を支え、後押ししているのが、IT技術であったりしますですね。技術が進むとは便利になったことであって、それを適切にしかも速さを伴って使いこなせることこそ良いという具合で。

 

ほどなく関西万博は終了となりますがけれど、その中でもIT技術を駆使した数々の展示物があったことでしょう。未来は素晴らしい的なアピールとともに。ですが、それと同じようなこと(もちろん技術のレベルは隔世の感あるとしても)は1970年の大阪万博でもあったでしょう。「人類の進歩と調和」という言葉の下に。

 

その大阪万博で最も象徴的な建造物となった「太陽の塔」をデザインした岡本太郎は、当初万博の理念に共鳴できず、参画依頼を断っていたことは有名な話ですよね。機械化の推進が明るい未来を作るかのような思わせる展示に対して、岡本は機械の奴隷になっているだけといったことを言っていたようで。思えば、そのまま機械の奴隷化が加速度的に進行して現在があるとも言えてしまうのではないですかね…。

 

とまあ、やおら文明批評とでもいうようなことを漏らしてしまいましたが、今でもガラケーしか使っていない者にとやかく言われたくない、てなこともありましょうね。ただ個人的にはスマートフォンに買い替える動機付けも必要性も皆無だもので、ガラケー自体万歩計に使っているようなものなのですよね。今の世の中で全く不便を感じないこともないですが、だからと言って絶対に必要だと痛感したようなこともありませんし。

 

と話が戻りかけてしまいそうながら、ここまでのところのお話はカルステン・ヘンというドイツの作家による小説『本と歩く人』を読んだ後の思い巡らしでもあるのでありますよ。

 

本を愛し、書物とともにあることが生きがいの孤独な老書店員が、利発でこましゃくれた九歳の少女と出会い、みずからの閉ざされた世界を破られ、現実世界との新たな接点を取り戻していく物語。

版元・白水社HPではかように紹介されていますけれど、紙媒体としての本はもはやそのありようが多いに揺るがされるようにもなっているご時勢、しかも主人公の老書店員カールは(amazonの委託とかいうことでもなく)店で注文を受けて取り寄せた本を注文主の家を一軒一軒訪ねて渡して歩くという形をこそ、自らの仕事と自負している…とは、時代遅れと切って捨てられて当然とも思われなくもない(実際に、長年勤務してきた書店をくびになるのですけれど)。

 

ただ、この非常にタイパの悪いカールの行いは、さまざまに孤立化する人々を結びつけていくことにもなるのですよね(本人もまたそのうちの一人であったと気づかされるわけですが)。こういうことって、必ずしも機械では置き換えられないものでもありましょうし、人々を結びつけるといったことにひたすら速さを求めることが得策とは言えないこともありましょう。

 

ま、版元HPには「老書店員と少女が織りなす現代のメルヒェン」ともありますように、ファンタジーとしていかようにも読める内容を持っている本書の一端から思いを巡らしただけではありますが、時間の流れはとどめようがない(物理学の理論的にはどうか分かりませんが)ものの、時間感覚の速い遅いには個人差がでることもあるわけですし、ひたすらに速いことを至上とするのはどうであるかなあと考えてみることは、決してタイパの悪いことではないような気がしたものなのでありました。

JR中央本線の茅野駅で列車待ちの折、駅西口に隣接する複合施設内で映画監督・小津安二郎に関する展示コーナーに出くわしたわけですが、駅の反対側、東口の方にもちとちょっかいを。

 

駅から跨線橋でもって繋がった公共施設がありまして、中には市民館やら市美術館やらがあるもので、美術館の方にちょいと。折しも(入場無料で)「木之下晃-音楽を撮るⅡ」という写真展が行われていたものですから。

 

 

主にクラシック音楽関係の、指揮者や演奏家たちの写真を手掛けたことで知られる写真家:木之下晃。フライヤーにもあるとおり、カルロス・クライバーやマルタ・アルゲリッチをはじめ、数々の音楽家にカメラで迫った人でありますねえ。作品はかつて音楽関係の雑誌などにも取り上げられて、接したことはわりとあったのではと思うところです。

 

諏訪市の出身ということで、いわば地元近隣出身の芸術家として作品が多く茅野市美術館には収蔵されておるようす。その蔵出し展ということになりますか。

一瞬を逃さない集中力で、本来なら姿のない音楽すらも写しとる力。その作品は 国内外で「音楽が聴こえる」と高く評価されています。

同美術館HPでは木之下作品をこんなふうに紹介おるのでして、写真は確かに一瞬を切り取り固定するものではありますけれど、確かにその一瞬から音楽という時間芸術がこぼれ出すといった想像が働いてしまうものになっていようかと。

 

その一方で、上の指揮者カルロス・クライバーの姿からは、キャンセル魔と言われた気難しい人というよりも音楽を生み出す喜びに溢れた様子が見てとれる。おそらくは覚悟を決めて?本番に臨むにあたっては気難し屋の一面は引っ込んで別の内面が表出している、その瞬間を捉えたてなところでもありましょうか。曲目が何だったのか、気になるところでもあろうかと。

 

他に画像を紹介できないのは致し方ないとして、曲目がヴェルディの「レクイエム」と分かっているリッカルド・ムーティの指揮姿などは、まさに「怒りの日」の瞬間であるか?!といった激しさが窺えたり、カルロ・マリア・ジュリーニの祈りにも似た姿はあたかも聖職者であるかのよう。些か失礼ながら、カラヤンの単に(?)目を閉じて指揮するところは異なる雰囲気が醸し出されていると思えたものです。

 

ま、こうした印象・感想はおよそ鳴っているであろう音楽を(勝手に)想像したところから来る(それこそ勝手な)思い込みかもしれませんけれど、木之下作品を見る際の楽しみ、引いてはその演奏家の演奏に改めて接する(といって物故者が多いので録音媒体の再生になりますが)ときの楽しみを増すことにもなりましょう。

 

ちなみに木之下作品には音楽家を撮る以外に、世界の歌劇場やコンサートホールを撮ったシリーズもありまして、本展ではそのシリーズの撮影にあたる写真家の姿を収めたビデオが上映されておりました。

 

東京近辺のコンサートホールですと、何度も出かけている関係で、ホールを見て何かしらの音楽を想うということもありませんですが、これが海外となりますと、個々のホールや劇場を訪ねたのが一回きり、多くても数回にとどまりますから、ホールの写真を見ただけでその時の演奏を思い出すことになったりもしますですね。

 

本展を覗いたときはまだまだ暑さが募る時期でしたが、これを書いている10月初旬になって、自宅で音楽を聴くにも良い頃合いとなってきたようで。ネット検索で木之下作品のあれこれにふれながら、被写体関連のCDでも取り出して聴いてみようかいねと思う、芸術の秋、音楽の秋の今日この頃でありますよ。