福岡県久留米市から路線バス利用でたどりついたのは、佐賀県の吉野ケ里歴史公園。早速中へと気持ちは逸りますが、入り口の感じからしても「ずいぶん広そうであるな」という印象が。すぐ脇にあった案内図を見れば、このとおりです。

 

 

折しも炎天下に曝されている状況で、どうやら東京ドーム22個分もあるらしい歴史公園を踏破できるものであるか…と、心配が先立ってしまったりもしたものでありましたよ。ともあれ、入り口(東口)からまっすぐに続く道を進みますと、ほどなく歴史公園センターというモダンな?建物に出くわします。

 

 

正直な感想として、ここに立ち至りましたその時、思い浮かんだのは大型レジャー施設のプールの入口?といったところ。横方向にやたら長い建物の通路には更衣室やシャワー室があったりするような気がしてしまいまして。

 

 

 

で、この天蓋を抜けると、目の前には大きな流れるプールやら波の出るプールが広がっていると…。ま、そんなイメージが広がったのはただただ暑い日だったかもしれませんなあ。実際には上に見る通路にはミニシアターやガイダンスルームがありまして、さくっと吉野ケ里遺跡とは?を教えてくれるわけですが、どうもここを素通りしてそそくさと遺跡に向かう方々が多かったような。ちともったいないですな。

 

 

ちなみにこちらは反対側(遺跡に向かって左手側)の通路でして、明るさが多い分、この方がレジャー施設っぽいかも。浮き輪やサングラスを売っている売店が並ぶような雰囲気ですが、実際に売店やレストランが入っておりましたよ。奥の方には特別企画展の会場もあるようですが、それは後から覗くとしましょう。

 

 

ということで、手始めに立ち寄ったのは(右手側の通路にある)ミニシアター、ここでは「蘇る“弥生の都市”」という映画(約12分)が上映されておりました。結構、今風の作りの映像(弥生の人たちのビジュアル化など)であるなと思いましたが、年齢相応の受け止め方かも。若い人はまた違う印象かもですね。

 

そんなミニシアターの映像で「ああ、こういう祭祀があって、争いもあって…」と縄文との違いをしみじみ感じたところで、向かいにあるガイダンスルーム(上で言った特別企画展の会場とは別ものです)へ。改めて吉野ケ里遺跡の概要を把握せんとする…場面ではありますが、そのおお話は次回ということで。

ちとあちこちに遠出したことの振り返り話ばかりが立て込んで、日常の見聞やら思い巡らしやらを綴る機会がとんと失せてしまっておりますが、並走していたうちのひとつ(岳南富士見紀行)がなんとか終結したところで、日々のことにも触れてまいりましょうかね。例えば昨日、東京オペラシティコンサートホールの「ヴィジュアルオルガンコンサート」を久しぶりに聴いてきた…てなあたりから。

 

前回出かけたのは6月ですのですでに半年近く経ってしまいまったとは、月日の過ぎ去るのは早いもの、まさに光陰矢の如しかと。で、12月に入ったことでもあり、プログラムは「祈りの調べ 〜オルガンが紡ぐアドベントのとき〜」と、クリスマスというか、アドベントを意識したものとなっておりましたよ。会場のコンサートホールにもクリスマスツリーが飾られておりましたしね(どうやら假屋崎省吾デコレーションらしい)。

 

 

ただ上で「クリスマスというか、アドベント」と申しましたのは、両者には違いがあると改めて。当日のプログラムにはかように説明がありましたですよ。

ラテン語の「アドベントゥス」(到来・来臨)に語源を持つ「アドベント」は、クリスマスの4週間前の日曜日~クリスマスイブの間で、「クリスマス(イエス・キリストの誕生)を待ち望むための準備」をする時期にあたります。人々は、お祝いであるクリスマスの前に、静けさ、振り返り、希望といった気持ちを大切にしてこの時期を過ごします。

つまり、「もうすぐクリスマス!」とばかりにお祭り騒ぎの先取りをする時期ではないのであるなということ。この日のオルガン奏者の方がフランス留学時に、日本人の感覚で?アドベントの期間にクリスマスの曲をみてもらおうと、オルガンの先生のところへ楽譜を持っていって行ったものの、相手にされなかった…てな経験もあるようで。ことほどかほどにクリスマスとアドベントには違いがあるということのようです。

 

ですので、プログラムには基本的に穏やかな曲が並んでいましたが、最後を飾ったヴィエルヌのオルガン交響曲第2番からフィナーレはかなりにぎにぎしくある曲でしたですが…。

 

ところでところで、日本のクラシック音楽業界で12月、師走といえば「第九」の演奏会目白押しという現象がありますですねえ。自らも下旬の一日、読響の演奏で聴く予定がありますけれど、要するに年末の第九演奏会は奏者たちの餅代稼ぎとして始まったと伝えられるようなところがありますな。同じように、といってはなんですが、オルガン奏者の方々も欧米のように教会があってオルガンがあって礼拝の都度都度耳にするなんつうことの非常に少ない日本ですから、クリスマスのシーズンあたりは稼ぎ時であったりするのかも。

 

そんな思い巡らしから思い出すのは、先頃に出かけた信州・浅間温泉の宿で夜な夜な開催されているミニ・ロビーコンサート(火、水、木曜日の20時から)の出演者のことでありました。近隣で活動しているミュージシャンが日替わりで登場しているようでして、宿泊した晩に出演したのが「espresso」というピアノとドラムのデュオ、珍しい組み合わせながら信州安曇野を中心に活動中であるそうな。

 

 

昼間は上のようなロビーが夜にはコンサート会場となる(まあ、椅子をセットしなおすだけといえばだけですが)わけでして、当日は宿泊客の年齢層を意識してか、養護施設のお楽しい会であるか?といった曲目が並んでいました(なにせ「リンゴの唄」なんかが演奏されたりして…)。が、それはそれでよし、大勢が詰めかけたわけではないものの、それなりに盛り上がりを見せておりましたよ(下の写真は「みやま荘YouTubeチャンネル」より)。

 

 

で、気になるのはこの人たちがノー・ギャラで出演している(らしい)こと。音楽が好き、発表の場が欲しい…といったことは音楽をやっている人たちに共通(よほどの有名プレーヤーは別でしょうけれど)することで、たとえノー・ギャラでも聴く機会を設けてもらえるなら、その場で演奏に接した人の中から新たな出演依頼が舞い込んだりする可能性も全く無いではないでしょうしね。

 

とはいえ、オケ奏者の「第九」、オルガン奏者のクリスマスといった農繁期があるでなし、やっぱり何かしら副業を持たないと大変なのかもしれんなあ…と思ったり。ついつい、八ヶ岳総合博物館で見た茅野市の農家の副業(寒天づくりやら鋸づくりやら)が浮かんできてしまいました。

 

師走といって、昔のように年間の経費精算が一気に押し寄せ、それを乗り越えないと年が越せない…てな状況もなかろうとは思いますが、どうにも世知辛さばかりが目立つご時勢にあって迎える師走だけに、そんなこんなの思い巡らしが巻き起こってきたのでありました(オルガンコンサートの話はどこへやら…でした)。

先に常設展示を見て廻った茅野市八ヶ岳総合博物館には「博物館内の一室を展示スペースとして」八ヶ嶽岳麓文芸館という施設が併設されておりまして、普段は「諏訪地方ゆかりの歌人、俳人の作品を展示しています」と。さりながら、訪ねた時には博物館の特別展がこのスペースで開催されていたがために、本来の展示は見ることができませなんだ。

 

 

とはいえ、特別展は特別展で見ておかねば…と思うところですが、ちと常設展示の振り返りに少々の積み残しがあると思い出し、まずはそちらの方から触れておこうかと。「山麓のなりわい」というコーナーになります。

 

 

地域として高冷地なだけに農耕には苦労があった(展示解説に曰く「冬の気温が緯度の高い盛岡とほぼ一致する程低く、降水量は同緯度の福井に比べて著しく少ない」と)ものと思いますが、なりわいとして農耕以外の特産品作りを日々の助けとしていたようですな。その一つが寒さを逆利用した寒天づくりであったそうでありますよ。

諏訪で寒天製造を始めたのは…江戸時代末期(1840年代)のことでした。農家の副業として始まったのですが、しだいに専業化し、天然製法ではわが国第1位で、国内はもとより広く海外に輸出されています。

 

天然製法とはいえ、使用する機械はレトロ感あるも結構大がかりなもののようで。まあ、今はも少し今風の機械になっているのでしょうけれど、それで国内1位の生産を担いつつも、BtoBの原材料供給となっているのでしょうか。茅野駅前の土産物店にはなるほどいろいろな寒天が置かれてありますけれど、幅を利かせているのは「かんてんぱぱ」の商品だったりして。あちらは同じ長野県でも伊那市の会社なのですけれどねえ…。

 

ともあれ、寒天とともに地域の特産品となっているのが、なんとまあ、のこぎりなのだそうでありますよ。「諏訪鋸」として「品質がよく、値段もそれほど高くなく全国的に有名」というのですが、初めて聞きました。江戸期には諏訪を治めた高島藩が地域産業として奨励したいたということでありますよ。

 

 

と、常設展の積み残しがあまり長くならないうちに、特別展の方のお話も。開催されていたのは「古墳の茅野 -地域のなかの古墳-」でありました。

 

 

前にも触れましたですが、信州、取り分け諏訪の地域はかつて縄文と弥生のせめぎ合いが最終局面を迎えたであろう場所とも思われるのでして、そんなところだけに「(弥生の延長の)古墳であるか?」と思ったり。されど、時代の移り変わりが定まりますと、縄文遺跡が多数みられる土地にはその後の人たちもやはり集住することにあったか、土地土地の首長墓が古墳という形で築かれることになったのかも。「茅野市域は、諏訪地域のなかでも多数の古墳群が形成された地域」なのだとか。常設展示にもこんなパネルがありましたしね。

 

 

ちと注目したいのが真ん中下の方にある「守屋山麓古墳群」でしょうか。守屋山というのは諏訪大社上社の御神体ともされる山でありまして、同社の神長官(じんちょうかん)という役割を代々担う守矢家の先祖にも関わりましょうかね。今では諏訪大社も神社ですので、いわゆる神社、神道の系譜は弥生以来の稲作と関わる信仰と思うところながら、上社前宮と本宮の間にある神長官守矢史料館の展示を見れば、祭祀のあり方がむしろ縄文由来の狩猟採集に基づくような気がしてしまう。そういう伝統は今にも残しつつも、埋葬儀礼ではヤマト王権に従うような形で古墳を築いたのであるかなあ…などと想像を膨らませたりしたものでありました。

 

 

まあ、ここでの展示にはそうした想像に関わるような説明はありませんで、あくまで「茅野市域に築造された古墳の地域的特徴という観点」から解説しているわけですが、どうにも想像は膨らむ一方でして(笑)。

 

 

展示を見ながら思ったところは、古くからが設けられた土地柄だけに、馬具の出土品が多いのかななどとは。左は轡でして、右側も杏葉(ぎょうよう)という唐鞍の装飾品ということで、いずれも古墳時代後期(6世紀)の副葬品だったようでありますよ。

 

と、些か特別展の方は勝手な想像ばかりが渦巻いて振り返りとしては舌足らずながら、展示をさまざま眺めて興味深いところもあった茅野市八ヶ岳総合博物館なのでありました。

先頃の福岡行きは、確かにきっかけが「新・福岡古楽音楽祭」にあったわけですが、北部九州はあの!邪馬台国があった(かもしれない)場所だけに、些かなりとも古代史に関心を寄せる向きには予て「訪ねなくては!」と思う地域だったのですなあ。これまでは何度か博多に出張で出かけるばかりでしたので、むくむくとした思いは爆発寸前で…といっては大袈裟に過ぎますが(笑)。

 

ともあれ、音楽祭のイベントを覗きに天神まで通う傍ら、久留米を拠点に東西へ、遺跡・史跡の類を訪ね歩くことにしていたのですな。そして、その大きな目的のひとつが国特別史跡・吉野ケ里遺跡を見て廻ることでして、そも久留米に滞在したのも(福岡市街のホテルが取りにくかったというのもありあすが)久留米からならばバス一本で遺跡の近くに行けるからだったのでありますよ。

 

ということで、西鉄久留米駅前から佐賀第二合同庁舎行の西鉄バスに乗り込んだでしばし、やがてバスは筑後川を渡ります。「おお!筑後川であるか!」と、川好きとしては気分の高揚を隠せないところですなあ。何しろ筑紫次郎とまで呼ばれる日本有数の川ですものね。

 

 

で、川を渡りつつ思い巡らしましたのは「大きな川であるからして、福岡県と佐賀県の県境はもしかしてこの筑後川であるか…?」と。

 

 

ほどなくしてかような交差点に差し掛かりましたですが、この千栗八幡宮とやら、肥前国一宮との看板も見かけることになり、やっぱりすでに肥前佐賀に入っておったかと思った次第。ちなみにこのお社は「千栗」と書いて「ちりく」と読むそうな。

 

各地を旅してまわると必ず「どうにも読めない」、はたまた「そんな読み方であるか?」という地名に出くわすことがままありますが、この「千栗(ちりく)」は後者ですかね。普通に読めば「ちくり」でしょうから。ただ、ちと思いついたのは「栗」の字の訓読み「くり」と音読みの「りつ」がごっちゃになってしまったのではありませんかね、もしかしてのもしかしてですが。

 

 

ついでながら、これも「そう読むかあ…」という気がしますなあ。もっとも地名に関しては「そう来る?」と思うことが他の路線も含めて度々出てきましたので、さらにひとつひとつ挙げることまではしませんけれどね。

 

 

そんなあれこれのうちに、バスはいよいよ吉野ケ里町に入ります。遺跡に向かうにはこの先の交差点で左折するわけですが、交差点のところには大きなモニュメントが立っておりましたよ。

 

 

吉野ケ里遺跡から出土した銅剣を模しておるのですな、遺跡近しという気になろうというものです。ということで、バスに揺られておよそ1時間ほど、田手・吉野ケ里公園南というバス停に到着ということに相成りました。

 

 

乗って来た西鉄バスを見送って、あとは目の前の交差点を右へ曲がり、JR長崎本線のガードをくぐればよろしいと。吉野ケ里歴史公園までは歩いて5分ほどとなります。ちなみに、JR長崎本線の吉野ケ里公園駅からですと、徒歩でおよそ15分ほどとか。まあ、さほど大きな違いは無いとは思うも、折しも10月半ばながらもこの日は30℃超えのお天気でしたのでね、歩きの時間が短いにこしたことはないというわけで。

 

さてと、この後は炎天下の吉野ケ里遺跡探訪となってまりますが、それは次回のお話ということで。

予告どおりに?岳南富士見紀行、最終幕のお話を。これが何とも思いがけない終わり方を迎えたものでありまして…。

 

静岡県富士市の富士山かぐや姫ミュージアムと、その分館である歴史民俗資料館をじっくりと(実のところ戻りのバス便の少なさもありまして…)見て廻った翌日、旅の最終日のことです。目覚めていちばん、今日のお天気は?と窓の外を眺めやれば、このように。

 

 

前日に「富士と港が見える公園」から望んだよりは遥かに富士の稜線がすっきり見えるも、笠雲がかかっておるではありませんか。ウェザーニュースにも「富士山周辺に“笠雲”が出現 天気下り坂のサイン」とありますとおり、どうも予兆としては思わしくないようですなあ。

 

しかも昨晩はずいぶんと雨が降ったらしく、朝から蒸し暑さ満開のようすでもあり、当初予定ではこの日、先に富士山かぐや姫ミュージアムの展示にもありました富士川舟運に関わる史跡をぶらぶら歩きしようかとの目論んでいたあたりに揺らぎが生じたわけです。なんせ富士川の川端歩きは当然にして日陰もありませんしねえ。

 

どうしたものかいね…?と思いつつも、富士川歩きには東海道線でひとつ静岡方向の富士川駅まで行く必要があることから、取り敢えず富士駅へ向かってみると、そこには驚きの光景が。駅周辺が外国人観光客でごった返しているではありませんか。駅からちょいと離れた観光案内所にも集まってきておるようで。

 

 

確かに富士山のお膝元とはいえ、そしていかにインバウンド熱が高まっているとはいえ、富士駅にこんなに来るかぁ?!と思ったところ、改札口前でこの告知に出くわしたという。

 

 

昨晩は確かにずいぶんと降ったような気がしてはいましたけれど、富士よりもそっと東側、沼津のあたりでは電車が不通になるほど降ったのでしたか。結果、静岡方面から普通列車で熱海やら箱根やらへと向かう旅行者が全て富士駅で足止めを食っている恰好であったのですなあ。

 

まあ、旅にトラブルはつきものと言ってはなんですが、他人の心配よりも自分の身の振り方を考えなくては。この後いつまでも東海道線上り列車が不通のままということはないにせよ、運転再開の目処が立っているわけでもなく、状況を知らずに富士駅までたどりついて滞留する旅行者はさらに増えるとは想像に難くない。となれば、いつまでもここにおってはいけんなと即断したわけですが、結果として思い浮かべたのが身延線に乗って甲府廻りで帰途に着こうというものでありましたよ。

 

富士駅から東京方向に向かうのに甲府廻りとはどう考えても遠回りなわけですが、距離が短くなる迂回路などあるはずもなし、またこの日の当初予定は富士川沿いを歩くというもので、それが叶わぬならばいっそ富士川沿いに線路の伸びる身延線の特急「ふじかわ」に乗ろうでないのと。おそらくはこの機を逃せば、そうそう「ふじかわ」に乗る機会もないでしょうし。

 

つうことでホテルに取って返して預けた荷物をピックアップ、いちばん近い時間の特急ふじかわを待ち受けることにしたのでありました。

 

 

座席指定の際、ふと頭に浮かんだのが富士山の見える側としてしまったのですが、これは失敗。なんとなれば、ここでは富士山とは反対側にして富士川をこそ気に掛けるべきだったのですよねえ。しかも、右手によおく見えるはずの富士山が、朝方に笠雲が掛かっていたことがやはり予兆であったか、せいぜいこの程度の姿しか拝むことができず…。

 

 

最後の最後まで「富士見」紀行としてはしゃきっとしないままになってしまいましたけれど、思い通りにかないのがお天気ではありますかね。ともあれ、特急といえども急流富士川に沿って走るだけに、さほどの高速走行も叶わないわけでして、かつて四国の高松から高知まで、土讃線で大歩危・小歩危あたりを通り抜ける特急「しまんと」のことを思い出したり、またこの富士川沿いの難路を武田信玄らも通ったものであるかと考えたりもしながら、2時間ほどの乗車で甲府駅に到着と相成りました。

 

甲府では次の列車待ちの微妙な空き時間を利用して、北口駅前にあるNHK甲府放送局のイベントスペース「ハートプラザ」を覗いてみたのですね。折しも「たのしく学ぶ 防災・減災」という展示が行われていておりましたよ。

 

 

で、フロアの係の方と「やっぱり備えが大事ですよねえ」などと話をしていたのですが、時は2025年9月11日午後、まさにこの時分には「東京都心や神奈川県では14時ごろから1時間に100ミリを超えるような雨が相次いで降り、「記録的短時間大雨情報」も複数回発表されています。この記録的な大雨により、目黒川など氾濫危険情報が発表されている川があり、浸水の被害も複数確認されています」(日本気象協会「tenki.jp」)という状況に、東京方面は曝されていたのでしたか。

 

幸いにもこれに巻き込まれずに済んだのは怪我の功名とでもいいましょうか、そんなこんなの中で実に思いがけない旅の幕切れとなったのでありました。とまれ、これをもちまして長らく続いておりました「岳南富士見紀行」は全巻の読み終わりにございます。どうぞ、他の記事もよろしくご愛顧のほどお願い申し上げる次第でございます。