先に読んだ『シャーロック・ホームズの凱旋』では、舞台がヴィクトリア朝京都なる異世界に置かれていたわけですが、ホームズやワトソンたちが時に歩き回り、時に辻馬車を駆って走り抜ける街並みはリアル京都であったのでしょうなあ。

 

街中を動き回るようすを追跡するのに、それがどこであるのか、京都の場合には通りの名前やらそこここで出くわすランドマークでもって分かりやすいのはメリットと言えましょうか(御所がヴィクトリア女王の住まう宮殿に見立てられたりしてましたが)。

 

ただ、分かりやすさのほどは人それぞれであって、実際には修学旅行で連れまわされたくらいの記憶しかない京都の町のことですので、おそらくは分かりやすいのだろうなと思っただけで…(苦笑)。ですので、やおら鷹峯と言われても、どのあたりにあって、どんなところなのか、全く見当がつかないままに読んでしまったのでありましたよ。中野孝次『本阿弥行状記』という一冊です。

 

鷹峯は元和元年(1615年)に徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦が移り住んだ所です。光悦はここに草庵を建て本阿弥一族や芸術仲間、弟子、職人衆と共にこの地に移り住み、一時は55軒もの屋敷が並ぶ芸術村を作ったと言われています。(京都観光総合ガイド「KYOTO design」より)

「ほお、そうでしたか?!」という本阿弥家の拝領地が(時を経て権現様の意向も顧みられなくなったか)幕府によって召し上げられてしまうという危機的状況に立ち至る。これに際して本阿弥家の心意気を残そうということか、光悦の孫にあたる本阿弥光甫によって語り残されたのが『本阿弥行状記』であるようですな。本書は、行状記を語り伝えんとする光甫の姿と語られた内容を組み合わせて、小説化したものということで。

 

それにしても、本阿弥光悦という名前こそ琳派がらみで聞き知った存在ではありますが、「そもこの人は何者?」てな感じも。文化人としていろいろな分野に顔を出す、いわば趣味人かとも思えますし、その一方で家康から領地を下される人物でもあったとは?と。本業は刀の目利き、刀剣の研ぎにありともうっすら知ってはおりますけれどね。そのあたり、本書ではこのように。

そもそもは光悦の父光二と申す者の代にまで遡ることにて、この光二は刀・脇差の目利きと細工にかけては当時並ぶ者とてない名人であったゆえ、諸国の大名衆もこぞってその国々へ召しよせられ、国中の刀・脇差を見てもらおうと望んだものであった。

武士たる者、自らの佩刀は立派な曰くあるものであると権威に証してほしいと思うのでありましょうね。さすれば、大名たちとのかような関わりを通じて、本阿弥家はステイタスも財産も手に入れるところとなったろうかと。ではありますが、そんな本阿弥家の話を取り上げたのが作家・中野孝次、最も知られた著作が『清貧の思想』であることを思い出さねばならないのですよね。

 

早い話が光悦は清貧の人であったとことででありまして、例えば「侘び茶」といったことでも知られる千利休をも「悪風俗」と一刀両断の評価を下したりもしたようで。

利休は千金の値の道具でもつねづねの用に使い、茶道は炉風呂という様式に改めて、行儀・作法・諸道具もみなそれに従うように定めた。かねてから「この道に執心するならば行住坐臥すべて茶の湯である。普段は粗末な道具を使っていて、炉風呂のときのみ珍器を扱うのは、寺院が千年に一度秘仏を開帳するようなものだ」と言い、自身も日ごろから千金の道具を使っていられた。まだ禅学者ぶったところといい、その身の器量はたしかに名人であったが、いろいろ驕慢な面も多い方だったという。

まあ、利休にしてみれば例え千金の値の道具であっても、分け隔てなく普段遣いにも用いることが驕りと離れたものと考えたかもしれませんが、実際には価値が定まった高価なものをこれ見よがしに普段遣いですよと使うこと自体、驕慢でもあったことに気付いていない…てなことですかね。

 

確かに利休もすでに価値の定まった茶器ばかりを用いるでなく、新たに楽茶碗を焼かせたりしているわけですが、新しい(価値が定まっていない)ものであっても利休という名人が「良し」としたものには価値が出てしまうことを果たして自覚していたかどうか。

 

その点、光悦はといえば「書でも焼物でも茶の道でも蒔絵細工でも」自分で作ってしまう。刀の目利きとはいえ、それぞれの分野では素人の手すさびで、もっぱら自分のためのものを自分で作っているわけで、後世になってそれが大きな価値を生ずるのは存外であったと。

「陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れどもこれを家業体にするにもあらず。只鷹ケ峯のよき土を見立て折々拵え侍るばかりにて、強(たつ)て名を陶器にあぐる心露もなし」

そんな心持で作っていたであろう数々の品。例えば、畠山記念館(現・荏原畠山美術館)で見た赤楽茶碗「銘雪峯」、山種美術館で見た書の「鹿下絵新古今和歌巻断簡」や「四季草花下絵和歌短冊帖」などなど、今ではいわゆる大名物と見られるようになっていること(おそらく価値は計り知れない…)を知ったら、果たして光悦はどんな顔をするでしょうなあ。ついつい想像したくなったりもするのでありましたよ。