ある作家が生み出した小説の登場人物があまりに魅力的(個性的?)であるがために、後の書き手が数多くパスティーシュを生み出すといったことはままあるにせよ、取り分けシャーロック・ホームズほどに新たな創造を掻き立てる存在である例は珍しいのではないですかね。1887年に『緋色の研究』で登場して以来、すでに138年が経過しているにも関わらず…と、そんなふうに思いましたのも、昨年(2024年)刊行の森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』を読んだからでありまして。

 

 

後の書き手たちによる作品には、本来のホームズものが推理小説であることを踏まえた謎解きミステリーであるものもあれば、そうでない(冒険小説っぽいといいますか)ものもありますですね。シャーロキアンとまでは言わずとも、ホームズものと聞いてついつい手を伸ばす読者の期待はおそらく前者にあろうかと。

 

あまりやりたい放題の展開にすると、怒り出す人たち(取り分けシャーロキアンか?)がいたりもするのではなかろうかと思うところですが、本書はかなり際どいような気がしたものです。登場人物はそのままの名前で、ホームズもワトソンもハドソン夫人もモリアーティ教授もアイリーン・アドラーまでもが出てきますけれど、彼らが動き回る舞台がなんとヴィクトリア朝京都であるというのですから。ホームズの住まい、すなわちハドソン夫人の下宿はベーカー街221Bならぬ寺町通221Bであったりして。

 

ワトソンがメアリと結婚してベーカー街を離れた後、ハドソン夫人の下宿に入ってくるのが自らの研究が絶望的に行き詰まっているモリアーティ教授で、絶不調のスランプ状態にあるホームズと互いの傷をなめ合うように同居するというあたり、原典から借りてきている器が多いだけに、まあ、読み手によってはにやりとする部分もそこここにある一方で、「いやはやなんとも」の感覚を抱くことにもなりましょうねえ。

 

ですので、あまりに原典との関わりを意識しすぎるのは本書の読み方としては適当ではないのかもと思うところです。希代の推理力を誇るホームズもスランプに陥ることはありましょうから、その人間らしさを小説として描くということがあってもいいのでしょうし、それ以上にホームズ譚の書き手であるワトソンの逡巡を描くこともまた小説としてあり得ることであろうと。

 

その点をさらに言えば、ホームズ譚を書いているワトソンを、登場人物として描きだしているコナン・ドイル自身の逡巡といいますか、もうひとレイヤー重ねるならば、ワトソンを書いているコナン・ドイルを想起させるように書いている森見登美彦の存在も想像の範囲に入ってきそうですし。

 

個人的にはストーリーそのものの面白さはともかくも、書き手(を書く書き手を書く書き手…)の悩ましさ、別の例で言えばエルキュール・ポワロという探偵役を決して気に入ってはいなかったアガサ・クリスティーのことを思い出したりもしますが、そんな要素のある物語を、原典から借りてきた登場人物たちをヴィクトリア朝京都という異相空間に落とし込んでどう落ち着かせるかに、興味を持ったと言えましょうかね。

 

ホームズという超有名人にはいろいろな活躍をさせたいといいますか、超有名人だから名前を借りてくればそれなりに面白くなりそうというか、ホームズがヴィクトリア朝ロンドンとは全く時空の異なる場所で活躍する話は、つい作りたくなるところなのでしょうか、ふと気づいてみれば『歌舞伎町シャーロック』なんつうTVアニメもありましたっけ。本書よりもさらにシャーロキアンの方々は怒りだしそうな話でしたけれどね。

 

ともあれ、京都に現れたり、新宿歌舞伎町に現れたりとシャーロック・ホームズの神出鬼没ぶりは時空を超える状況であるわけですが、ホームズを滝壺に落として一端はけりをつけたコナン・ドイルも、やがて復活させざるを得なかったわけですが、それ以上に、130年あまり後にもホームズ譚を書こうとする作家たちがいるほどのキャラクター創造をしたのだとは思っておらなかったでしょうなあ。しかも、そうしたパスティーシュが、映画やドラマなども含めてそれなりに人気を呼ぶことになろうとは…。