うっかり?『文人、ホームズを愛す。』なんつう本を読んでしまいますと、やっぱりまたうっかりとホームズ譚に手を出してしまいたくもなるわけでして。で、何をチョイスするかなあというときに、ホームズ登場となる第1作『緋色の研究』かとも思ったですが、先の本で諸氏が語るところに「やっぱり短編がいいよね」とあったことを思い出し、それならばと第1短編集である『シャーロック・ホームズの冒険』、これしかあるまいということになりますなあ。
既に『緋色の研究』と『四つの署名』は世に出ていたものの、その後のホームズ人気を決定づけることになった『シャーロック・ホームズの冒険』。当然のように以前読んだことはあるものと思いますし、ジェレミー・ブレット主演のBBCドラマ版で思い出される作品もあるところでして、『ボヘミアの醜聞』、『赤髪組合』、『唇の捩れた男』、『青いガーネット』、『まだらの紐』といったあたりはもはやネタバレも何も…というくらいに知られたものでもありましょう。ではあったも、慌てず急がず、一日一篇くらいの感じで読み進めるのはなかなかに楽しいものでありましたよ。この再読に耐える感がホームズ譚の魅力なのでもありましょうね。
では、ミステリー、推理小説でとうにネタバレしつつも再読に耐える(もちろんホームズ譚にばかり言えることではないのですが)という由縁はいずくにありやと思ったりするのですが、どうやらそれは話に突っ込みどころがたくさんあるからとでも言ったらいいのかも。昔、さっさかと次から次へと推理小説を読み飛ばしていた頃にはおよそ気付いてもいませんでしたけれど、「ああ、シャーロック・ホームズって完全無欠ではないのであったか…」と。その無欠でなさが読みしろ(造語ですのでご想像くださいまし)を増やしているのだなあと思ったものでありますよ。
何しろ、ワトソン(新潮文庫版の本書ではワトスン)が毎度ホームズの推理の冴えに最大限の賛辞を贈るようすから、ホームズの推理力はすごいものなのだと思ってしまいところですけれど、訪問者がある度ごとにホームズはその職業やらなんやらを本人が語る前に言い当ててしまう…というのも、先の『文人、ホームズを愛す。』でも触れられていましたように、かなりご都合主義っぽくはある。それをワトソンがことさらに「見事!」と言うものだから、その気にさせられるものの、ちとゆっくり考えれば「本当にホームズが決めつけたとおり以外の解釈はないのであるか(反語)」と気付くのですよねえ。
例えば『椈(ぶな)屋敷』という一篇では、ホームズが「犯行はかくなされた」と推理した上で犯人と対峙した際、「悪党、お前の娘をどこへやった?」と言い放つホームズに対して、かの悪党氏の曰く「それはこっちがいう文句じゃ!」と切り返されてしまう。その後に事の顛末を屋敷の家政婦が語ってきかせると、「おかげでわからないでいたことがすっかりわかった。お礼をいいますよ。」というのがホームズの言葉なのですなあ。最初から家政婦さんが警察に一部始終を訴え出ていればおしまいのお話…。
先に突っ込みどころと言いましたですが、こんな具合に自らの推理に誤りというか、穴があったりした場合のホームズの反応はじつにしらっとしたものなのですね。これがまたホームズの(完全無欠でない)人物像の魅力?になっていたりも。これがもしもエルキュール・ポワロであったなら、苦し気な表情で「ポワロはとんでもない愚か者でした」と悔恨しきりのひと言を発するのはなかろうかと。この場合、どちらの人物の方が取っつきやすいかといえば、ホームズに軍配があがるでしょうから。
そんな具合ですので、ワトソンもホームズが扱った事件を回顧して記録に残すにあたって、有象無象の事件が混じっていることを隠さないわけでして、もちろんさる王室や貴顕のスキャンダル(『ボヘミアの醜聞』、『花嫁失踪事件』)などの大事?もある一方で、ガチョウ探しや家庭教師の勤め先調査(『青いガーネット』、『椈屋敷』)などの小事?を扱うこともしばし。ポワロが「いなくなってしまったコックを探してほしい」と頼まれたときの苦り切ったようす、「そんな些細な事件をよく持ち込んでこられたものだ」という反応との違いを思い出したりもするところでありますよ。
読みしろという点では、ホームズが関わった事件にはあんなものもこんなものもあって…と、ことあるごとにワトソンが(場合によってはホームズ本人も)触れながらワトソンの回顧では詳細を語られないままになっている件がたくさんあるものですから、それがどんな事件だったのかを想像させるということもありましょうね。また、本書の巻末解説にも出て来たようにワトソンは本来ジョン・ワトソンとして登場していながら、『唇の捩れた男』では妻から「ジェームズ」と呼びかけられたりしている。版を替える際に作者のドイルがいくらでも手直しできたはずなのに、なぜかしらそのままになっている齟齬が物語の中にそのままされているのだとか。このあたりがまたくすぐりとなって、たくさんのシャーロキアンを生み出すことになったのかもしれませんですね。
なんだかんだ言いましたが、ホームズ譚は再読に耐えるものであることは間違いなさそうです。それでも、その後に推理小説が百花繚乱の時代になっていく前だけに推理小説としての出来はどうか…という点でもやはり短編こそとは言えましょうか。もちろん、コナン・ドイルのホームズがその後のミステリに道を拓いた功績には何の変わりも無いとは思いますけれど。