予告どおりに?岳南富士見紀行、最終幕のお話を。これが何とも思いがけない終わり方を迎えたものでありまして…。

 

静岡県富士市の富士山かぐや姫ミュージアムと、その分館である歴史民俗資料館をじっくりと(実のところ戻りのバス便の少なさもありまして…)見て廻った翌日、旅の最終日のことです。目覚めていちばん、今日のお天気は?と窓の外を眺めやれば、このように。

 

 

前日に「富士と港が見える公園」から望んだよりは遥かに富士の稜線がすっきり見えるも、笠雲がかかっておるではありませんか。ウェザーニュースにも「富士山周辺に“笠雲”が出現 天気下り坂のサイン」とありますとおり、どうも予兆としては思わしくないようですなあ。

 

しかも昨晩はずいぶんと雨が降ったらしく、朝から蒸し暑さ満開のようすでもあり、当初予定ではこの日、先に富士山かぐや姫ミュージアムの展示にもありました富士川舟運に関わる史跡をぶらぶら歩きしようかとの目論んでいたあたりに揺らぎが生じたわけです。なんせ富士川の川端歩きは当然にして日陰もありませんしねえ。

 

どうしたものかいね…?と思いつつも、富士川歩きには東海道線でひとつ静岡方向の富士川駅まで行く必要があることから、取り敢えず富士駅へ向かってみると、そこには驚きの光景が。駅周辺が外国人観光客でごった返しているではありませんか。駅からちょいと離れた観光案内所にも集まってきておるようで。

 

 

確かに富士山のお膝元とはいえ、そしていかにインバウンド熱が高まっているとはいえ、富士駅にこんなに来るかぁ?!と思ったところ、改札口前でこの告知に出くわしたという。

 

 

昨晩は確かにずいぶんと降ったような気がしてはいましたけれど、富士よりもそっと東側、沼津のあたりでは電車が不通になるほど降ったのでしたか。結果、静岡方面から普通列車で熱海やら箱根やらへと向かう旅行者が全て富士駅で足止めを食っている恰好であったのですなあ。

 

まあ、旅にトラブルはつきものと言ってはなんですが、他人の心配よりも自分の身の振り方を考えなくては。この後いつまでも東海道線上り列車が不通のままということはないにせよ、運転再開の目処が立っているわけでもなく、状況を知らずに富士駅までたどりついて滞留する旅行者はさらに増えるとは想像に難くない。となれば、いつまでもここにおってはいけんなと即断したわけですが、結果として思い浮かべたのが身延線に乗って甲府廻りで帰途に着こうというものでありましたよ。

 

富士駅から東京方向に向かうのに甲府廻りとはどう考えても遠回りなわけですが、距離が短くなる迂回路などあるはずもなし、またこの日の当初予定は富士川沿いを歩くというもので、それが叶わぬならばいっそ富士川沿いに線路の伸びる身延線の特急「ふじかわ」に乗ろうでないのと。おそらくはこの機を逃せば、そうそう「ふじかわ」に乗る機会もないでしょうし。

 

つうことでホテルに取って返して預けた荷物をピックアップ、いちばん近い時間の特急ふじかわを待ち受けることにしたのでありました。

 

 

座席指定の際、ふと頭に浮かんだのが富士山の見える側としてしまったのですが、これは失敗。なんとなれば、ここでは富士山とは反対側にして富士川をこそ気に掛けるべきだったのですよねえ。しかも、右手によおく見えるはずの富士山が、朝方に笠雲が掛かっていたことがやはり予兆であったか、せいぜいこの程度の姿しか拝むことができず…。

 

 

最後の最後まで「富士見」紀行としてはしゃきっとしないままになってしまいましたけれど、思い通りにかないのがお天気ではありますかね。ともあれ、特急といえども急流富士川に沿って走るだけに、さほどの高速走行も叶わないわけでして、かつて四国の高松から高知まで、土讃線で大歩危・小歩危あたりを通り抜ける特急「しまんと」のことを思い出したり、またこの富士川沿いの難路を武田信玄らも通ったものであるかと考えたりもしながら、2時間ほどの乗車で甲府駅に到着と相成りました。

 

甲府では次の列車待ちの微妙な空き時間を利用して、北口駅前にあるNHK甲府放送局のイベントスペース「ハートプラザ」を覗いてみたのですね。折しも「たのしく学ぶ 防災・減災」という展示が行われていておりましたよ。

 

 

で、フロアの係の方と「やっぱり備えが大事ですよねえ」などと話をしていたのですが、時は2025年9月11日午後、まさにこの時分には「東京都心や神奈川県では14時ごろから1時間に100ミリを超えるような雨が相次いで降り、「記録的短時間大雨情報」も複数回発表されています。この記録的な大雨により、目黒川など氾濫危険情報が発表されている川があり、浸水の被害も複数確認されています」(日本気象協会「tenki.jp」)という状況に、東京方面は曝されていたのでしたか。

 

幸いにもこれに巻き込まれずに済んだのは怪我の功名とでもいいましょうか、そんなこんなの中で実に思いがけない旅の幕切れとなったのでありました。とまれ、これをもちまして長らく続いておりました「岳南富士見紀行」は全巻の読み終わりにございます。どうぞ、他の記事もよろしくご愛顧のほどお願い申し上げる次第でございます。

静岡県富士市の歴史民俗資料館を訪ねてじっくりと、1階、2階の展示を見て来たわけですが、2階の片隅に残るひとつの小さな展示室、これにどうしても触れておきたい気になってしまいまして…。

 

 

こんな感じの展示室内となれば、「ああ、これもあちこちの郷土資料館にありそうな、昔の学校の風景であるな」と。さりながら、この「子どもの学びと遊び」という展示コーナー、片隅の片隅には学校給食のことが些か詳しく?取り上げられていたもので、食いつきどころはその部分なのでありましたよ。

 

 

これは「昭和30年代の給食運搬の様子」とありますが、30年代には給食当番はこんな恰好だったのですなあ。三角巾で頭を覆い、白い前掛けだけ掛けてますけれど、これがも少し年代が下ると真っ白なうわっぱりに袖を通すタイプに変わったのですかね。

 

もしかするとそれを「かっぽうぎ」と呼んでいたような気もしますが、昭和のおかあさんが台所仕事で着た、いわゆる割烹着(袖は通すも前ボタンではない)とは違うんですけどね。一週間の当番が終わると、持ち帰って自宅で洗濯して翌週月曜に持っていく…そんなことも思い出されますが、ちと展示解説にも目を向けておきますか、ちと長くなりますけれど。

富士市内の学校給食は、太平洋戦争後の食糧難で、子どもたちの栄養状態が心配されていた昭和20年代に、一部の小学校で脱脂粉乳やみそ汁を中心に始まりました。
昭和30年代には、ほとんどの小中学校でパン・脱脂粉乳・おかずからなる完全給食が週5回実施されるようになりました。
…昭和52年(1977)には、伝統的な米飯の食習慣促進や食文化への着目を背景に白米を提供する米飯給食が始まり、平成4年(1993)には週3回に増え、子どもたちの健康を支えてきました。
現在は、郷土食材を生かしたふるさと給食をはじめ、メニューの多用化が進んでいます。

ということで、先ほど触れた給食当番の服装ばかりでなくして、給食を懐かしく思い出す向きは人それぞれにあろうものの、どんなものを食しておったかという点には大きな年代差があるわけで、一口に学校給食といってもそれを懐かしがれるかどうかもまた人それぞれになりましょうか。

 

 

そうでありながらも、学校給食と言ってイメージされるのはこんなところであったりも。個人的にはこのイメージを懐かしがれるところではありますが、地域差もあったりするのでしょうか、レプリカと用意するのであればやっぱり食パン2枚(あの耳の部分が異常に硬いもの)こそ定番ではなかろうかと。また、ここではソフト麺としてあるものがスパゲティ状に細いのも、懐かしさを揺るがしたりしますけどね(笑)。

 

ですが、上のレプリカが昭和40年代ということに対して、昭和52年(1977年)の給食献立表を見てみますと、だんだんと様変わりがしていっておるようで。先の説明では米飯給食が始まったとされる年ながら、この学校ではパン食メインで、時折めん類といったラインナップのようです。

 

 

丸パンが出た時の食べ方が解説されているのは何とも微笑ましい(そこまでしなくても…)ところですけれど、それはともかくとして、「クジラ肉はまだ給食で提供されていたのであったか」とか思う一方、「パンにつけるものも、各種ジャムやクリーム、マーガリン、はちみつ、からしバターなどバラエティに富み、パン食に飽きさせない工夫がみられる」と説明に。個人的に思い返すにはほとんどマーガリンばっかで、ごくごく稀にチョコマーガリンが出るとなると飛び上がらんばかりに喜んだほどではなかったですかねえ。やはり、給食の懐かしさには年代差が伴いますですね。

 

 

これが令和3年(2021年)になるとどうなるか…って、細かすぎて読み取れないでしょうなあ。取り敢えずは米飯食は確実に増えていることが分かるとともに、「平成時代後半以降の献立表には、食物に感謝し、地域の食文化や栄養、安全性などについて学ぶ食育が反映され」たのが特徴であると。地域の食文化というのが、その場その場というにとどまらす、献立表欄外の下部に「ラトビア料理を味わう」とあることに昭和世代ばびっくら仰天!もっとも、富士市はラトビアと友好関係にあるのだそうですけれど。

 

ということで、懐かしくありつつもそうというばかりでない学校給食のようすを見てきたところで、富士市の歴史民俗資料館探訪を終えたわけでして。でもって、岳南富士見紀行はいよいよ終幕となってまいるのでありますよ。

長野県茅野市に訪ねた八ヶ岳総合博物館の話の続きでございます。「総合」というからには、八ヶ岳の成り立ちだけが展示ではないわけでして、お次のコーナーは「八ヶ岳の生物」ということで。

 

 

まあ、土地土地でそこにはどんな生き物が棲んでおるのか、こうした展示はいずこの歴史民俗資料館でもありがちなものですけれど、ここの特徴は八ヶ岳という高山が控える土地柄と言えましょうね。

 

 

標高に応じて、低山帯、亜高山帯、高山帯の3つのゾーンに区分けて展示が設けられておりましたよ。まずは標高1500m以下の低山帯、もっとも人里に近いエリアになりますですね。

 

 

所によっては住宅地のすぐ裏がこんな感じでもあろうかという雑木林に棲むのはキツネ、シカ、そしてやっぱりいますか、クマもでありますよ。クマの出没は、取り分け秋田・岩手・山形などの東北で目立ちますけれど、結構全国的に市街地にまで及ぶようになってきているわけですけれど、今まで気に掛けずに済んでいたのが不思議なくらい隣の雑木林の中にクマはいたのでしたか…。展示ではそんな昨今事情に関わることは触れられておりませんけれど。

 

 

亜高山帯に入りますと、カモシカが現れるのが特徴的なことかと。標高はおよそ1500mから2500mのあたり、写真では判然としないものの樹種も変化しまして、このエリアは「針葉樹のシラビソやコメツガなどが茂り、林の中は薄暗くなっている」ということで。ちなみに、環境省レッドリストで絶滅危惧の状態にあるミヤマシロチョウは、八ヶ岳の亜高山帯で発見されたとか。八ヶ岳の向かい側にある入笠山ではアサギマダラの麗しき姿を見ることができましたけれど、ミヤマシロチョウは八ヶ岳といえども、今やそうそうお目にかかれないのでしょう…。

 

 

さて、標高は2500mを超えて高山帯に入りました。ここいらは8月でも「最高平均気温は16℃、最低平均気温は8℃」とあって「背の高い気は生育できず、背の低いハイマツやキバナシャクナゲなどが風当たりの弱い場所を選ぶように生えている」だけになるということです。動物も少なくなりまして、写真には写っていませんですが、イタチ科のオコジョが棲むのは高山帯だそうでありますよ。

 

とまあ、こうした自然分野のスペースを抜けますと、展示の様相は一変することとなりまして、文化分野の紹介となりました。

 

 

正面に見えるのは諏訪大社の御柱祭の関連展示ですな。ご存知のように諏訪大社には四社(上社前宮上社本宮下社春宮下社秋宮)ありまして、下社の二社は下諏訪町に、上社本宮は諏訪市にありますが、上社前宮は茅野市になることから、この展示なのでしょう。

 

上の写真の左壁面側には縄文土器が展示されておりまして、透明なプラスチック?の球体の中に収められているのはぐるりと回って眺めることができるようにということですかね。

 

 

ただ、茅野市にあって縄文を知るにはどうしたって尖石縄文考古館の展示を見るべきと思いますので、関心ある部分ながらちと端折り。それでも、この時代のものとして見逃せないのは(展示室でなくして)エントランス・ロビーに何気なく置いてある石なのですよね。

 

 

なんとまあ、こんなに大きな塊で黒曜石を見たことがありません。普段は加工された切片のような形でしか目に留まらないですものねえ。それにしてもご丁寧にも「手をつくと切れます」という注意書きが。切れ味の鋭さが黒曜石の持ち味なわけで。

 

と、話は文化分野の歴史を語る展示のところまで来ましたですが、一端ロビーに目を転じたついでに建物最上階にある展望室から見た周囲の眺めに触れておくといたしましょうかね。

 

 

博物館のある場所は茅野の市街地でも外れの方ですので、結構な急階段を登り詰めた先では眺望が開けておりましたですよ。

 

 

 

上は車山高原の方向を、下は八ヶ岳の方を眺めたようすですけれど、それぞれの山裾まで延々と森林に覆われているようでもあり、つい先ほどに振り返りましたとおり、低山帯にはクマがいる…。出てきそうな妄想を抱いてしまったりしたものでして、博物館を取り巻く雑木林には自然研究路がいい感じで儲けられているようでしたが、ひとりで入り込む気にはなりませんでしたですよ…。

 

で、実は八ヶ岳総合博物館の振り返りはこれでおしまいになりません…。特別展なんつうのもやっていたものですから、もう一回、次にそのあたりに触れておきたいと思っているものでして…。

先頃の福岡行きは「新・福岡古楽音楽祭」のことをクラシック音楽情報誌「ぶらあぼ」で知ったのがきっかけとなったわけですけれど、なんとなあく(つまりはさほど詳しくはない)バロック音楽が好みであるのはもとよりとして、かねがねオランダの「Festival Oude Muziek Utrecht(ユトレヒト古楽祭)に行ってみたいものだのぉ」と思っていたこともありまして。

 

コロナ禍前の2019年までは毎年夏休みを利用して、どこかしら海外へ出かけていくのを楽しみに仕事をしていたようなものだったのでして、2019年にドイツのライプツィヒ周辺を巡ってきた頃には「来年あたり…」と考えていたわけなのですね。

 

それがコロナ禍の到来、その後にはあちらこちらできな臭い交戦状態が伝わってくる状況が生じ、海外へ出たのは今年1月のマレーシアが実に6年ぶりということに。ですが本来、平時であれば日本・欧州間のフライトはシベリア上空を通る最短経路で飛ぶものであるのに今でも飛べないというのは、とても平時ではないなあと、欧州へ出向くのは未だに控えている次第。つまりは、ユトレヒト古楽祭に行けるのはいつのことやら…てな思いがある中で、「新・福岡古楽音楽祭」開催の情報を目にしたものですから、どんなものであるかもよく知らないままに飛びついたというのが実状なのでありましたよ。

 

ともあれ、ユトレヒト古楽祭代りにと言ってはなんですが、それこそ飛んで行った新・福岡古楽音楽祭、演奏家向けと思しきセミナー以外の全てのプログラムに(二つのコンサートを始め、先に見たパネル展の他にもレクチャーの類も)参加して来たのでありました。

 

それぞれに楽しい企画でしたですが、総じて振り返るに「何とも手作り感満載の音楽祭であるなあ」と。ですが、それもそのはずと申しましょうか、音楽祭HPの概要紹介には、こんなふうにあったわけでして。

本音楽祭は、音楽愛好家によるボランティア組織「18世紀音楽祭協会」により開催されてきた「福岡古楽音楽祭」を引き継ぎ、福岡県、福岡市のご支援のもと実行委員会体制により2014年(平成26年)再スタートした音楽祭です。この体制となって今年で10回目、また前身の福岡古楽音楽祭を含めますと通算25回目という節目を迎えます。

要するに、元来が市民手作りの音楽祭であって、県と市の支援を受けるようになってもその手作り感はそのままに温存されているといった形のようですな。でも、通算25回(つまりは四半世紀)も続いているとは大したものではなかろうかと。

 

もう10年以上も前になりますが、東京・府中市で「府中の夏 北欧の風音楽祭」というのが立ち上がったことがありまして、比較的近隣で開催されることと普段はあまり耳にする機会の無い北欧の作曲家の曲を取り上げるコンセプトが気になって、オープニング・コンサートに出かけていったという。

 

その後はなかなか出かけらないまま(当時は勤め人でしたのでね)数年が経つと、いつのまにか音楽祭自体が立ち消えになってしまっていて、(ほとんど参加できていないにも関わらず)ひどく残念な思いがしたものです。現在も続いていたなら、時間だけはたくさんありますので、いくらでも行けるのに…と。

 

そんなことを思い出しつつ参加してきた新・福岡古楽音楽祭のオープニング・コンサートは実に盛況でしたなあ。後にその盛況ぶりは、先にも触れましたとおりにアクロス福岡のランチタイムコンサートの位置づけにもあり、予め月々の公演のセット券を持っている方が多かったからでもあるかと気付かされはしたものの、それはそれとして「秋の豊穣イタリア・バロック名曲選」と題した演奏会、心地よい響きに取り巻かれるひとときでありましたよ。

 

 

トークにもレクチャー要素がありましたので、バッハがイタリアの音楽、取り分けヴィヴァルディなどの協奏曲という形式に影響を受けて書いた「イタリア協奏曲」あたり、普段はCDで聴いてただただ聴き流すばかりになってしまっておりましたが、「こういう音楽だったんだあね」と改めて。今、これを書いている時にも「イタリア協奏曲」を聴きながら…と、それではやっぱり聴き流しではないか?

 

ま、そんなこんなの音楽祭のこともこの後いくつか振り返っておこうと思っておりますです、はい。

国宝・松本城のフォトジェニックな姿を愛でた後、最寄りの松本城・市役所前というバス停から浅間温泉へと向かったのでありまして、個人的にはこちらの方が楽しみであったのですなあ。

 

 

ともあれ、バスにゆられること20分ほど、駅から乗って来るとも少しかかりましょうけれど、それにしても近いですな。松本の奥座敷と言われるだけのことはあるようで。

 

 

バスはあちらこちらに点在する宿それぞれの宿泊客に便利なように、温泉街をぐるりと周回してまた松本駅へと戻っていくルートをとりますが、その一番奥まったところにあたる「浅間温泉」のバス停で下車することに。そのままバスの進行方向に少々進みますと、湯けむり公園という小園地に行き当たります。

 

 

傍らの看板に曰く、「大正一三年(一九二四)から昭和三九年三月まで四〇年間運行されていた路面電車(チンチン電車)の終点で、浅間温泉の玄関口として大変賑わった」と。松本市街中心部から浅間温泉までは路面電車が通っておったとは。さそや風情があったことでしょうなあ。ちと、上州の伊香保温泉に上越線渋川駅から路面電車が通じていたことを思い出したりしてですよ(と言って、昭和31年に廃止されてますので、実際に見たわけではありませんですが…)。

 

ところでこの浅間温泉(あさまおんせん)、字面で見て「浅間(せんげん)」と読めば富士山との関わりを思い浮かべますし、実際の読み通りと受け止めれば上信国境に位置する浅間山を思い出すネーミングかと思いますが、どちらにしても近いとは言えず、かといって遠いとも言い切れず…。

 

そんな疑問に答えを用意するかのように、宿の部屋に置かれた案内などが詰まったファイルの中に紹介文がありましたですよ。もっとも浅間温泉、地名の由来は諸説あってはっきりしないということのようですが…。

浅間温泉が歴史のうえに現れたのは古く、日本書紀によれば天武天皇が白鳳14年(684年)に「信濃に遣わして行官を造らしむ、蓋し束間の温湯に幸せんと擬すか」と記されており、信濃の国の国府が平安時代の初頃に惣社(浅間温泉から徒歩圏内)にあったことなどからして、この束間の温湯は浅間温泉一帯を指していたことは、考古学者によってあきらかにされています。

日本各地の温泉には「弘法大師が見つけた」といった来歴を由緒として語るところがままありますけれど、浅間温泉は空海登場よりもさらに昔から続くのであるとは、大した古湯ではありませんか。

万葉集などに詠まれている浅葉の里、麻葉の湯は束間の湯とともに浅間温泉の古称だったと考えられます。…なぜその名前になったかは文献が残っていません。また言語的には南方民族では火や煙のことを「あすむ」と呼び、山が噴煙を上げるのと同じく、湯煙が立ち込めていたこの地方を「アッサ」⇒「アサ」⇒「アサマ」という風になまったのではないかと言われています。アイヌ語と関わったという風になまったのではないかと言われています。アイヌ語と関わったという説もあり、確かなことはわかりませんが、縄文時代の遺跡がこの地方から発掘されていることから、浅間の歴史はとても古いと考えられます。

宿で見かけた案内の引用がいささか長くなってしまいましたですが、そうですか、そうですか。アイヌや縄文との関わりまでが示唆されるとは、なかなかに詳しいですなあ。信濃はとりわけ、縄文と弥生のせめぎ合いが最後まで続いたところとも考えられるわけで、興味津々になってしまいました。

 

それにしても妙に詳しい説明書きのあった温泉宿は公立共済やすらぎの宿・みやま荘といいまして、公立学校共済組合が運営している宿泊施設。となれば、歴史が専門の教員が泊まりに来たりもするでしょう。なんだか長い説明に得心がいった気がしたものでありますよ。

 

 

温泉街の中でも取り分け山の端に近い高台に立地するだけに、部屋からの眺めが開けておりましたなあ。松本の市街地越しに乗鞍岳やら常念岳やら、ぐるり見渡せるようなパノラマビューで。

 

 

 

でもって肝心かなめの温泉ですけれど、無色透明なアルカリ性単純温泉ですのでインパクトには欠けますですが、秋の深まりつつあるこの時節柄にはのんびりとゆったり浸かっていられる心地よさがありますな。寒くなってきた時期には、家風呂の単なる沸かし湯でも「あったかいのお」となりますが、やっぱり温泉の湯は心地が違いますですねえ。

 

ちなみに、温泉宿の話をすればふつうは食事の豪華さに言及するところでしょうけれど、元々胃の小さい方としては(こういっては何ですが)さほど豪華でない食事の宿を選んでおりますので、まあ、触れずにおくといたしましょう(笑)。

 

おっと、余談ながら最後にひとつ。温泉街の中心部にホットプラザ浅間という日帰り温浴施設があるのですが、その傍ら、観光案内所の脇にかような自販機を発見しました。

 

 

キャペツ、にら、ねぎ、さらにはわさびや野沢菜、長野県の食材をふんだん使用した冷凍餃子と、塩尻峠東山食堂のタレを使用したという冷凍味付きジンギスカンとは、ついつい自分のお土産に!と思いかけたりも。ま、次の機会には保冷バッグと保冷剤持参で行きたい浅間温泉ということになりましょうかね。ああ、いい湯でした。