田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける 山部赤人

岳南地域で富士見を目論んで出かけたわけですが、行きがけの駄賃が過ぎて、タミヤ歴史館駿府博物館、ふたつの寄り道話が長引いてしまいましたですなあ。ようやっと、JR東海道線で静岡から東へ逆戻り、吉原駅へとたどりついたのでありました。ここから旅の二日目のお話になってまいります。

 

 

ちなみに「岳南地域とは?」ということで、コトバンクの説明では「静岡県東部,富士川以東で,富士山,愛鷹山の南麓一帯の地域」とありますですね。東海道線の駅で言えば、沼津と富士の間あたりでしょうか。

 

その点、吉原駅は富士駅の一つ東どなりですので、まさしく岳南にあたりましょう。そして、富士見という点でも、やおら冒頭に引いた山部赤人の古歌に見るように、富士見の名所、歌枕ともなっている田子の浦の港は吉原駅の南側、目と鼻の先にあります。

 

ところで上の写真に見る吉原駅ですけれど、跨線橋は立派ながら閑散とした印象がありますなあ。かようなところへわざわざ何かしらを探訪にやって来るもの好き(自分はそうですが)がいるのかと思うところながら、一応駅前には観光案内板が立っていたりするという。

 

 

ただ、紹介されているスポットのほとんどは駅の北側、富士山寄りであって、南口の側、つまり海側の紹介はあまりありませんなあ。これから向かおうとしている「富士と港の見える公園」されも記されてはおらず…。ま、それはともかく歩き出すことに。

 

田子の浦港を右にしばし進んでいきますと、左手には岬の突端のような感じでちょいと高台になったところが見えてきます。これを巻くようにもそっと進むと小さなお社に到達します。案内には「阿字神社 里宮」と。

 

阿字神社は天正の昔三ツ股渕の毒蛇に人身御供として進んでその身を捧げ人々の難儀を救おうとした少女阿字と善竜と化した八大竜王をこの地を守る水徳の神として祀ったものである。

駿河湾を目の前にしたこの土地が毒蛇に見立てられた水難にたびたび遭ってきたことが窺える話ですなあ。この段階では、単に水の災難が多かったんだねえ…と思うのみでしたが、さらに災難の実像を知らされることになる…とは、のちのお話。とりあえず、お社の傍らから高台へと登る道に踏み込んでまいります。

 

 

上の方には展望塔が設けられておるということで、それこそ山部赤人が望んだような富士山と田子の浦を一望できるはず…なのですが、その前に「何かしらの史跡であるか?」という場所に立ち至ることに。

 

鎌倉時代のはじめごろ、このあたりに見付が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、吉原湊から対岸の前田まで舟渡しをしていました。

傍らの解説板にはこのようにありまして、関所とまでは言わないまでもいかにも昔の役所っぽさを醸しているのは見付があったからでしたか。先へ進むのに舟渡しが使われたのは、今思う以上に富士川が暴れ川でその河口を迂回することでもあったかと。自然、旅人の滞留などもあることから宿場の機能が整えられて、そもそもの吉原宿はかくも海に近いところに作られたようで。

 

 

図中に「元吉原宿」とありますが、交通の要衝とはいえ水害に遭いやすい見付のあった場所から移転してできた宿場であると。さりながら、それでも水害を避けることはできずに、吉原宿はその後も二度にわたり徐々に内陸へ、中吉原宿、新吉原宿という具合に移されていったのだそうでありますよ。先に阿字神社の由来を見ましたように、水難除けの神頼みが欠かせない土地柄であったということで。

 

そんな見付の面影あるところも、今では高台から眺望を楽しむ場所に変わっておるわけでして、いよいよ展望塔からの眺めを見やりにもうひと息の登りを。ただ、すでに気象状況からして、すっきりした絶景とはいかないであろうことは予測済み。それでもやっぱりここまで来たら、行ってみるしかありませんですよねえ。

前回(9/14)のEテレ『日曜美術館』では夭折の画家・有元利夫を紹介しておりましたですねえ。個人的には、かつてDENON・AliareレーベルのCDカバーにその作品が取り上げられていたことから知っている作家ではありましたですが、番組で紹介されていたエピソードに曰く「バロック音楽が好きだった」のであるとは。

 

かのレーベルがもっぱら日本人の古楽器奏者による録音をリリースしていただけに、その作品世界の雰囲気が古楽にマッチしているというばかりではなかったわけですね。なにしろ、作家の奥様の思い出話によれば、芸大美術の学生が学内でび~ひゃらリコーダーを吹いていた…ともいうことで。

 

こういっては何ですが、音楽学部ももっている芸大にあって、美術の学生が想像するに下手の横好きレベルでび~ひゃらやるのは、奥様(芸大同窓)からすれば「恥ずかしくないの?」と聞きたくなるのもむべなるかな。さりながらが、当の有元は全く意に介していないようすだったのであるとか。

 

この逸話で思うところは、「ああ、音楽のそもそものありようでもあるかな」というだったのですよね。そもそもの音楽の楽しみは、声を発するにしても楽器を響かせるにしても、自らがそれを行うところにあったはずですのでね。

 

西洋では教会の典礼などを通じて音楽の広まりがあるますけれど、音楽は「聴く」というよりも「する」ものであったのですよね。例えば讃美歌を歌うという自らの行為でもって。日本でも、民謡のルーツには労働歌があったりする。農作業などの日々の仕事がしんどくても、声を出して何かしら歌いながらこなすと気が紛れますし、憂さ晴らしにもなる。

 

讃美歌と労働歌の例えでは音楽の「楽しみ」とは話が違うのかもしれませんですが、いずれにせよ、自分の行為として音楽があることにはなってますですね。

 

時代は大正と今にかなり近づいてはしまいますが、昨年訪ねた山形県尾花沢で触れた花笠音頭も始まりは人足作業の労働歌だったとそうですなあ。おそらく仕事の景気づけに誰かしらが歌い出し、周りが唱和したり。はたまた一日の仕事を終えて飯場に戻り、仲間内で酒を酌み交わす段になりますと、「おまえはいい声してんだから、ひとつ、あの歌、歌えや」てなような一幕にもなったかも。歌の上手な者が歌い、周りでその他が聴き入る。この構図が要するに、演奏者と聴衆という関係を生み出したのでもありましょう。ま、花笠音頭の話ばかりではありませんけれど。

 

では、歌(あるいは楽器演奏)が上手いというのはどういうことなのであるか。楽譜に起こせば全く同じ節回しながら、聴こえてくるものに違いが出る。現在のプロ演奏家と素人とが同じ楽譜の音楽を奏でたとして差は、おそらく歴然でしょうけれど、いったいどこが違うのであるか…。

 

難しく説明しようとすればいくらでもできるのでしょうけれど、極めて簡単に言ってしまうと表現力の違いということにでもなりましょうか。ベートーヴェン作曲とはいえ、耳タコになっていて「なんだかなあ…」と思うばかりであった『エリーゼのために』をピアニストのラン・ランが弾いたのを聴いて、「こんなにいい曲だったのであるか?」と腰を抜かしそうになった(大袈裟ですが)のを思い出すところです。

 

また、モーツァルトの超有名曲である『アイネクライネナハトムジーク』も、楽譜を見ると譜面づらは全くもって易しい曲なのですよね。ですが、それを聴き手を「う~む」と唸らせるのは簡単なことではない。言い方が悪いですが、アマチュアの合奏団が取り上げたりすると、ひどくつまらくなってしまったり。

 

ですがこの場合、アマチュア楽団(一部のプロはだしの団体は別でしょうけど)の方々は聴衆に聴いてもらう以上に演奏する自分たちが音楽「する」楽しみを味わうためにやっているので、それはそれでの話ではありましょうけれどね。

 

とまあ、長い前置きで…というより、今回は前置きが主とも言えますが、横浜みなとみらいホールで読響の演奏会を聴いている最中に、かような思い巡らしをしていたりもしたもので。

 

 

プログラム、メインのシューベルトの交響曲第8番(今は8番なのですな)通称「ザ・グレート」は、実に実に素直な旋律線であって、こういっては何ですが、他の楽曲に比べると(作品規模は別として)易しくとっつきやすそうな印象だものですから、これでもって聴き手に「う~む」と言わせるのは難しいのだろうなあと思ったりしたものですから。

 

ま、当日の演奏自体は、かつての俊英が大御所の雰囲気を醸すようになってきたケント・ナガノの指揮の下で、近年充実の読響のストリングスが見事な合奏を繰り広げていましたので、読響の演奏自体を云々したいわけではないのですけれど。

 

ま、音楽のそもそもはともかくも、今ではどちらかというと音楽は「聴く」ものと一般大衆には受け止められているような気がしますですが、音楽「する」楽しみの方もやりようがないではなし、忘れてはいけんなあと思ったものでありますよ。かくいう当人はすでに楽器から離れて数十年ですので、言えた義理ではありませんが…(苦笑)。

JR中央本線の茅野駅から途中白樺湖を経由してバスに揺られること1時間ほど。たどり着いたのは車山高原なのでありました。

 

 

路線バスに乗って来た人数が少ないので静かな山歩きを期待したところながら、いざ車山高原のリフト乗り場までたどり着いてみれば、自家用車やら観光バスやらがずらりと並んでいる…。しかも、リフト前には小学生の団体と思しき塊が乗車待ちをしているようすを見ては、「あらら」とも思ったり。

 

さりながら、ここに至るまでにすでに記憶は蘇っておるわけですが、自分自身、初めてここに来た時は中学2年の夏、林間学校(その時は移動教室と呼ばれていたような)でもって、立派な?団体として来ていましたので、同じようなことが繰り返されているだけ、とやかく言ってはいけませんですねえ。

 

ちょいと一服したり、チケット購入したりしているうちに、「SKYLINER」と愛称の付いたクワッドリフトはその実力を遺憾なく発揮したものであるのか、ちびっこ団体は消え失せており、自分が乗る頃には混み合うこともなしにクワッド独り占めで登っていくことになりましたしね。左手上方に見えているのが車山(標高1925m)ですな。

 

 

ところで、リフトに乗っかってしまってからも少々思案をしておりましたが、それはどこをどういうルートで歩こうかということ。それに伴っては予めリフト券をどんな形で買っておくのかという問題でもあったのですけれどね。

 

 

車山高原の夏季シーズンは2本のリフトが動いておりまして、通称スカイライナーと通称スカイパノラマを乗り継ぐことで難なく車山山頂に到達できるようになっているのでして、駐車場に車がたくさんなのは全く山の装備とか関係なしに観光客として眺望を見にいけるというのがポイントなのですな。

 

さりながら、トレッキングシューズを新調して足元だけは固めてきた者としましては、山頂までリフトというのもなあ…と思っていたのでありますよ。かといって、体力に自信があるわけでもなく、むしろ運動不足をこじらせている身とは、かねがね自嘲的にこぼしているところです。

 

当然に元気な中学生だった頃に「余裕で歩けていたはず」などと思い返してみてみ、全くもって詮無いことなのですが、その余裕綽々感が忘れられずに、結局のところリフト券は途中駅までの片道で購入した次第。途中駅から山頂までは自分の脚で登り、下山は全部歩いてこようという算段にしたわけなのでありますよ(この選択がどうであったのかは後々のお楽しみということで)。

 

 

てなわけで一本のリフトを降りたところで、奥に見える二本目のリフトに向かう観光客然とした人たちを横目で見ながら、歩き始めたという。ただ、山頂までは30分ほどというコースタイムながら、まだあんなに先であるか…と思ったものなのでありますよ。

 

 

そう言いつつも、リフト上で思案の結果として、コース取りはいったん右側に山裾を回り込み、裏側(車山肩と言われるところ)から山頂に至って戻ってくることにしようという心積もりに。ま、靴も新しいのでやおら頂上へ登るルートを採る前に足慣らしとも思ったわけでして。

 

ところが、ずんずん進んでいくうちに、これはもう、どうやら山頂を目指すルートに入り込んでしまったのであると悟ることに。途中の分岐を一つ、やり過ごしてしまったようです。たぶん、道標に「蝶々深山⇒」とあるのを、中学の頃のおぼろな記憶によって「蝶々深山では迂回し過ぎだろう」と思い込んでしまったのが敗因だったのでありましょう。とまれ、目の前に待ち受けたのはひたすらの登りでありました。

 

 

当然のごとくひいこら状態になってくるわけで、途中途中で振り返り、景色を眺めるふうを装って小休止。まあ、眺望がよろしいのでそうするのもまた至極普通のことなのですけれど。

 

 

眼下はバスの車窓からちらりと見て通り過ぎて来た白樺湖が全容を現し始めました。もうひと息で到達するはずの車山山頂からはなお一層の眺望を期待して、気合いを入れなおしたものでありましたよ。

どうも岳南富士見紀行というわりにはなかなか岳南地方にたどり着きませんですが、もう一か所だけ行きがけついでに静岡市で訪ねた場所のお話を。

 

かつて静岡駅からほど近いところにあった駿府博物館。博物館と言いつつ実は美術館なんでうが、その頃に二度ほど立ち寄ったことがあったのですな。その頃は何とも古い建物、そしてこぢんまりした展示室…でありつつも、思わず目を止めてしまう日本画コレクションに出会えたりしたものですから、移転した後は「どんなかな?」と予て気に掛けておったところです。

 

で、いざ静岡に出かけるという段になって、何かしらの展覧会でもやっておるであろうかと同館HPを見れば「これ?!」と。日本画コレクションの様相とはずいぶんと異なる展覧会ながら、これはこれでついつい懐かしさに駆られて「この際だから寄らねば!」と思ったものでありましたよ。

 

 

最も知られたキャラクターとしては「それにつけてもおやつはカール」のCMに出てきたカールおじさんがありますが、これを手掛けたイラストレーター・ひこねのりおの作品展なのでありました(会期はすでに終了)。

 

キャラクターが有名なわりには作者の名前をこれまで聞いたことがなかったですが、アニメ・フリークの間では十分に知られた存在なのかもしれませんですね。なにせこの方、芸大美術学部の工芸科図案計画専攻を経て、東映動画や虫プロで働いておられたアニメーターでもあるということで。

 

一般的に知名度の高いTVアニメ作品との関わりでは、『ジャングル大帝』の原画、『ムーミン』の原画・演出、『天才バカボン』の絵コンテなどを担当していたそうなのですなあ。そして1974年、「カール」のCMを手掛けるに至ったということでありますよ。

 

 

「カール」のCMと言えば、先にも触れましたように思い浮かぶのはカールおじさんなのですが、どうやら当初の発想とは異なる独り歩きであったようで。展示解説に曰く、まずはこのように考えられておったようで。

…「カールを食べている子どもと村の動物たち」という設定うぃ考えた。そのため最初のCMは「坊や」がメインで「おじさん」は後ろにいる動物たちのなあに混ざったエキストラ扱い。ひこねは「いたずら半分で入れた」と振り返る。次第に人気が高まり、主役として定着し、生誕半世紀の超有名キャラクターとなった。

脇役が主役に躍り出る。その結果、1978年には三橋美智也があの独特の高い声で歌ったCMソングは、♪ハァ~あ おらがじゃあドカ雪が三日もつづき~と、どうしたっておじさんの村の物語感を醸すことにもなったのでしょう。ちなみに、このCMソングは『いいもんだな故郷は』というタイトルで1990年にシングルリリースされていたとは、知りませなんだ。この時までにはすっかりおじさんにお株を奪われた坊やだったのでしょう。

 

 

ところで、カールのおらが村から出て独り立ちを果たしたキャラクターがもうひとつ。上のセル画で、おじさんの左側にカールを持っているカエルが見えましょうか。これが「ケロ太」と名付けられて、「1978年には単独でアポロチョコレートのCMに出演した」と。そのことは個人的には記憶にないものの、ケロ太と言えばPARCO出版が出した『ケロ太のお天気カレンダー』でしょうか。

 

 

いったいどこでどう入手したものか、全く覚えておらないものの、確かひと頃は自宅の壁をこのカレンダーが飾っていたなあとうっすらと。これもひこねのりお作品だったのですなあ。

 

で、ひこねが描く動物たちはそれぞれに『きのこの山』や『たけのこの里』という活躍の場が与えられますけれど、それらを上回るもひとつのビッグヒットがこちらのペンギンということになりましょう。

 

 

こちらの新聞広告では、汗かきかき缶ビールを抱えたところはコミカルな印象ながら、一方でTV-CMの方では松田聖子の歌う『SWEET MEMORIES』をバックにしんみりした物語をペンギンたちが展開していたことが思い出されますよねえ。

 

 

サントリーのは「タコハイ」用にタコのキャラクターも提供したようでして、その後にも「実はひこねのりお作品だった…」というものを世に送り出しつつ、現在も90歳を間近にしつつ現役で活躍中であると。大したものです。

 

 

と、ゆったりと会場を眺めながら、思いは「あの頃…」に飛んだりしておったわけですが、今回の展覧会タイトルを改めて振り返ってみれば『ひこねのりお展 富士山を見におでかけ編』と。ですので、カールおじさんの富士見のようすを2025年最新作で見ておかねばなりませんですね。

 

 

三保の松原と清水港越しの富士のお山。カールおじさんは秀麗な姿を目の当たりにしておりますが、自らの岳南富士見紀行ではこの先どうなりましょうかね。静岡市内の立ち寄りはここまでとしまして、この後、JR東海道本線普通列車で少々東へと逆戻りしてまいります。

さて、一日お休みを頂戴して山歩き(とついでのあれこれ)をしてまいりました。今回の玄関口は信州の茅野駅でして、そこからアルピコ交通バスでもってずいずい奥へと向かった次第です。

 

 

アルピコ交通HPには一般路線バスと区分されている白樺湖・車山高原線のバスですが、乗ってみたら車内では「定期観光バス」というアナウンスでありましたよ。ですので、地図では下側欄外の茅野駅を出発した後、市街地のバス停に停車することはなく、白樺湖入口に至るまで停車(予定)は2つの停留所のみという具合で。

 

乗車後しばあらくして、最初の停留所の案内アナウンスが流れると、前方モニターの運賃表に初乗りの金額が表示されましたが、やおら1400円と出ると「おお!」と思ったり。もちろん最終の車山高原までは2300円と知っておりましたから、本来驚くところではないですが、それにしても…。

 

ちなみにこの路線、始発バス停前の案内所に尋ねると、運賃支払いは現金のみということですので、予め案内所で乗車券を買っておくのが簡便かと。ついでに、帰りの分の現金2300円也をきっちり用意しておく両替ともなりますしね。

 

ともあれ、夏休みもとうに過ぎた9月半ばの平日、茅野駅で乗車したのは7~8人でしたでしょうか、いかにも山に登りますという姿かたちの人たちに加えて、観光然とした人が少々。後者の方の目的地は白樺湖だったようですな。

 

そのようすからゆったりとした山歩きができるものと想像しつつ、車中で揺られることしばし、バスは白樺湖を巡る道路に差し掛かります。湖の周囲にバス停が点在するのは、それだけあちこちに宿泊施設やら観光客向け商業施設があるからなのでしょうなあ。

 

さりながら、白樺湖の人気はすでに今は昔の物語でもあるような。おそらくは清里や蓼科高原といった、近いエリアが昭和のいっとき、大いに観光客を集めた時期がありましたですが、バブルのような状況であったのでしょう。バスの車窓からは、廃業した宿、飲食店などの廃墟、残骸がちらりちらりと目に留まるところでして。

 

そんな中でひとり気を吐いているのが池の平ホテルであるような。バス停で言うと、東白樺湖から西白樺湖方面にかけた一帯で広く、あれもこれものアトラクション施設を展開している。手広い分、ケアの行き届かないところも見られたりはするも、その飽くなき新規事業展開こそが集客減を何とか食い止めている健気な努力のあらわれでもあろうかと。

 

かつて一度泊まったことがありますが、大人から見たら安っぽいアトラクションと思えるものの、子供が楽しいと思うものを作れば、必ずやファミリー層(それこそ親子孫三代のグループ)を取り込めるということなのでしょう。ある意味、成功しているとは思います。

 

再びちなみにですが、高原リゾートとして知られる(知られた?)白樺湖ですけれど、バスの車内に流れた案内(なにせ定期観光バスですから)によりますれば、そもそもは温水ため池として作られたものであるそうな。「温水」と聞いて一瞬、「温泉水でも溜めるのであるか?」と思ったりしたですが、要するに高所(標高は約1400m)故に水が冷たいのでそのままでは農業用水に適さず、いったん溜めて日光で温めてから使う、そのための貯水池だったわけですね。

 

ですので、湖周辺の土地やら水利やらあれこれの権利を地元の人たちが持っているようでもありまして、考えてみますとこれだけ知られたリゾートであるのに、大手の開発業者とか有名系列ホテルとか、その手の蚕食が起こっていないのは、そのあたりにも理由がありそうですね。ま、それが反って集客力を損なってもいるのかも。もっとも、そうした大企業に頼ると、いざ出ていかれてしまったときには殊更廃墟感が目立つことにもなりますので、痛し痒しとも言えますが…。

 

と、バスの車窓から白樺湖を見かけたことで、企図せぬ思い巡らしに及んでしまいましたですが、湖を越してバスはもうひと登り、ほどなく終着点の車山高原に到達するのでありました。

 

後に山歩きの途中で白樺湖の全体像を眺め下すこととはなりますが、ここでは通りすがりに揺れるバスの車中から撮った一枚、とてもこれが白樺湖なのですよとは言い難いものの、今回は写真が少ないので一応載せておきますかね。

 

 

後方に見えるなだらかな(に見える)丘の連なりの、もそっと左手奥の方にある(つまり見えていない)ところに車山はありまして、そこをゆるゆる歩こうというのが今回も目的でありますよ。ということで、次には車山に登るというお話となってまいります。