JR中央本線の茅野駅で列車待ちの折、駅西口に隣接する複合施設内で映画監督・小津安二郎に関する展示コーナーに出くわしたわけですが、駅の反対側、東口の方にもちとちょっかいを。

 

駅から跨線橋でもって繋がった公共施設がありまして、中には市民館やら市美術館やらがあるもので、美術館の方にちょいと。折しも(入場無料で)「木之下晃-音楽を撮るⅡ」という写真展が行われていたものですから。

 

 

主にクラシック音楽関係の、指揮者や演奏家たちの写真を手掛けたことで知られる写真家:木之下晃。フライヤーにもあるとおり、カルロス・クライバーやマルタ・アルゲリッチをはじめ、数々の音楽家にカメラで迫った人でありますねえ。作品はかつて音楽関係の雑誌などにも取り上げられて、接したことはわりとあったのではと思うところです。

 

諏訪市の出身ということで、いわば地元近隣出身の芸術家として作品が多く茅野市美術館には収蔵されておるようす。その蔵出し展ということになりますか。

一瞬を逃さない集中力で、本来なら姿のない音楽すらも写しとる力。その作品は 国内外で「音楽が聴こえる」と高く評価されています。

同美術館HPでは木之下作品をこんなふうに紹介おるのでして、写真は確かに一瞬を切り取り固定するものではありますけれど、確かにその一瞬から音楽という時間芸術がこぼれ出すといった想像が働いてしまうものになっていようかと。

 

その一方で、上の指揮者カルロス・クライバーの姿からは、キャンセル魔と言われた気難しい人というよりも音楽を生み出す喜びに溢れた様子が見てとれる。おそらくは覚悟を決めて?本番に臨むにあたっては気難し屋の一面は引っ込んで別の内面が表出している、その瞬間を捉えたてなところでもありましょうか。曲目が何だったのか、気になるところでもあろうかと。

 

他に画像を紹介できないのは致し方ないとして、曲目がヴェルディの「レクイエム」と分かっているリッカルド・ムーティの指揮姿などは、まさに「怒りの日」の瞬間であるか?!といった激しさが窺えたり、カルロ・マリア・ジュリーニの祈りにも似た姿はあたかも聖職者であるかのよう。些か失礼ながら、カラヤンの単に(?)目を閉じて指揮するところは異なる雰囲気が醸し出されていると思えたものです。

 

ま、こうした印象・感想はおよそ鳴っているであろう音楽を(勝手に)想像したところから来る(それこそ勝手な)思い込みかもしれませんけれど、木之下作品を見る際の楽しみ、引いてはその演奏家の演奏に改めて接する(といって物故者が多いので録音媒体の再生になりますが)ときの楽しみを増すことにもなりましょう。

 

ちなみに木之下作品には音楽家を撮る以外に、世界の歌劇場やコンサートホールを撮ったシリーズもありまして、本展ではそのシリーズの撮影にあたる写真家の姿を収めたビデオが上映されておりました。

 

東京近辺のコンサートホールですと、何度も出かけている関係で、ホールを見て何かしらの音楽を想うということもありませんですが、これが海外となりますと、個々のホールや劇場を訪ねたのが一回きり、多くても数回にとどまりますから、ホールの写真を見ただけでその時の演奏を思い出すことになったりもしますですね。

 

本展を覗いたときはまだまだ暑さが募る時期でしたが、これを書いている10月初旬になって、自宅で音楽を聴くにも良い頃合いとなってきたようで。ネット検索で木之下作品のあれこれにふれながら、被写体関連のCDでも取り出して聴いてみようかいねと思う、芸術の秋、音楽の秋の今日この頃でありますよ。

まあ、経緯はともかくとして、静岡県富士市にあってJR東海道本線の吉原駅で接続する岳南電車に乗っていくことに。とりあえずホームで待つことしばし。ホーム上を少々うろちょろしたところ、「富士山ビュースポットなる表示がなされておるではありませんか。

 

 

されどあいにく暑いばかり暑くて水蒸気たっぷり、お山の頂上付近がかろうじてうっすらと見えるくらいなもので…。まあ、ともかく日陰であることは助かったと。吉原駅は海に近い分、いささかなりとも風が抜けていくような気がしたものです。

 

 

そうこうするうちに折り返しの岳南電車がやってまいりました。余談ながら、上の写真で車両が大きく左に寄って撮れているように見えますのは、左側のベンチに腰掛けたサラリーマン風の(製紙会社関係の?)人物が組んだ脚が写り込んでしまっていて、トリミングした関係です(と、エクスキューズ)。

 

 

ですので、今度はちと接近しすぎの先頭部だけもう一枚(笑)。「9101」という番号が見えますので、9000系の車両であるようですが。元々京王5000系→富士急1000系という経歴をたどったものであるとか。そも岳南電車は富士急グループですものね。

 

 

他の乗客(といってもほんの数人でしたが…)写り込まないように車両の中も撮ってみましたが、ボックスシート主体のようすは、昔々の国鉄の急行列車を思い出させますなあ。こんなふうに、座席番号表示が貼ってあるのもまた。

 

 

しかしまあ、これほどのローカル鉄道に座席指定の番号が付いているとは?!と思うわけですが、経営厳しい地方鉄道のご多分に漏れず、岳南電車でもあれこれとイベント列車を運行しているようですので、その関係かと。分けてもよおく知られておりますのは、「夜景電車」という企画。いつしか顕れ出でた「工場萌え」の人たちを中心に?沿線にひしめく製紙工場の夜景を目当てに結構人気があるようですね。

岳南の夜景電車は夜の気配を楽しむひととき、、、 全長9.2キロの沿線に散りばめられたどこか懐かしい昭和の駅舎・車両・静寂な夜景・暗闇に包まれた工場の灯など流れる景色でノスタルジーに浸り、ゆったりとしたひとときをお楽しみください。

岳南電車HPにはこんな誘い文句がありますけれど、昭和レトロもわりと人気があるようになってますので、経営の大きな助けとなっておるのかもです。まあ、実際に乗ったのは真昼間ですので、車窓風景は「ああ、たくさん工場があるなあ」というくらいのものでしたが…。

 

 

てなことで、住宅地と工場とが交互に現れるような沿線風景を目にしつつ、ことこと進む岳南電車に乗っていたわけですが、この路線は終点の岳南江尾駅でどん詰まり。つながる鉄路の無い盲腸線ですので、いったいどこで降りるのがいいのやら。乗り鉄系であれば、行って帰ってくるのに乗車した事実こそ大事なのでしょうけれどね。

 

 

もちろん本当のところはそこまで行き当たりばったりではなくして、硬券の切符を買う段階で下車駅を決めてあったのですけれどね。それが、終点の3つ手前の岳南富士岡駅でして。

 

 

この閑散とした駅に降り立って果たして何を…というのは、駅名表示板に記された「がくてつ機関車ひろば前」に答えが。さてはて、機関車ひろばとはどんな?それを次回に振り返っておくことにいたしましょうね。

車山高原を歩いてきた帰り、ふいとJR中央本線・茅野駅に隣接する施設内で「小津安二郎・野田高梧・蓼科の映画人」を紹介するコーナー展示に遭遇したことでもありますので、この機にまた小津安映画を一本ということに。

 

蓼科高原で(野田高梧とともに)手掛けた脚本は最晩年の作品群で、カラー作品が出てくる頃ですな。カラーの小津映画は見た記憶がないことでもあり、この際は遺作となった最後の作品『秋刀魚の味』を見てみることにしたのでありますよ。

 

 

「松竹映画100年の100選」サイトによりますと(ということは、100年の歴史から選んだ100本のひとつに入っていると)、あらすじならぬ「おすすめコメント」として、こんな紹介がありましたな。

デリカシーがなくノーテンキな父・兄・弟。 適齢期の娘が嫁ぐ迄の周囲のお節介を描いた軽妙洒脱な物語! 戦後、アメリカの真似ばかりする日本! それでも「負けてよかったじゃないか」と微笑む笠智衆。 遺作に込めた名匠小津の想いとは?

小津安の映画は海外でも高く評価されたりしていて、ともすると名声先走り感があることからも文芸大作でもあるかと思われたりするわけですが、基本的には「面白うてやがて哀しき」といった風情。これがじみじみとしてくるところに味があるのではなかろうかと。

 

そんな中でも、先のコメントはコメディ路線であることを些か強調しすぎかとは思いますが、ユーモアとしてちりばめられたところは1962年に公開された時期の世相が、良くも悪くも濃厚にあるもので、笑ってばかりもいられない。むしろ考えてしまう…てな面も。

 

ですが、父と娘の関わりといったあたりは普遍的な要素があるのでしょうなあ。岩下志麻演じる娘の嫁ぎ先を心配する父親を笠智衆が演ずるとなりますと、本作から十数年前に撮られた『晩春』を思い出したりしますですが、娘役の原節子に対してその頃から笠智衆は老父役であったとは、当人の年齢にかかわらず毎度毎度老父の役をやっていたとは、こりゃ大したものでありましょうね。

 

で、モノクロ画面で笠智衆と原節子が少なめな言葉を交わす『晩春』に比べると、やはり戦後の十数年は時代の代わりが早いようだとも。こういってはなんですが、原節子の醸す時代感覚が実際の時の流れについていけなくなってきたのかもしれません。その点、岩下は(その当時としても)とてもモダンな印象がありますですね。

 

そうはいっても、結局のところ父の進めるまま、父の友人の紹介で見合いした相手に嫁いでいくのですけれどね。父親の方は妻を亡くして、てきぱきする娘が家事を取り仕切ってくれることをもやは日常と考えてしまっていたことを、友人が持ち込んだ縁談話から「これではいけん!」と結婚推進派になるも、いざ出ていってしまうと、寂しくて悲しくて…。

 

登場人物たちの立場は全くことなりますけれど、かぐや姫の歌った『妹』の状況を思い出したりもしたものです。そう考えると、小津安が『秋刀魚の味』を作ったのが1962年で、かぐや姫の『妹』が1974年。戦後の立ち上がりに著しい世相の変化はあったものの、家族の状況は60年代、70年代にあまり変わっていなかったのかも…と思ったりしたものでありましたよ。

 


 

てなふうに、家族の関係に思いを馳せたところで(と言って娘も妹もおりませんが)、ちと両親のところへ行って実際の家族関係を見直してこようかと(とはこじつけか)。要するに毎度父親の通院介助がありますので、明日(10/7)はお休みを頂戴いたしまして、明後日(10/8)にまた。ではでは。

車山高原で山歩きをしてきた帰りがけ、JR中央本線・茅野駅で列車を待つちょいとした時間のお話をついでに。

 

駅を西口側に出ますとペデストリアンデッキで繋がった「ベルビア」という施設がありまして、公共施設と商業施設が併設された…といってはどこの地方都市にもありがちなものですけれど、建物内の印象とここのショップ・ラインナップとが相まって、実にレトロな妖しさを醸して居るように見受けたものでありますよ。

 

茅野駅を利用することがあったならば、是非一度覗いてみていただきたいものですが、それはともかくとして、そんな雰囲気と些か近しくも片隅にこんな展示コーナーが設けられておりました。

 

 

小津安二郎は世界にも知られた映画監督、そして野田高梧は監督とともに小津映画の脚本を務めたことで知られるようでありますよ。展示コーナーのある謂われとしては、茅野駅が玄関口となる蓼科高原で毎年「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」が行われているからと。今年2025年も9月20~21日に開催されたようですな。

 

 

さらに、そもこの映画祭の由縁はとなりますと、「小津安二郎 監督は晩年、蓼科に作品づくりの場を移し、美しい自然、人情、地酒をこよなく愛し、名作を生み出していきました」(同映画祭HP)ということで。蓼科には「無藝荘」という小津が使った山荘が残されてあるようで、日時限定で時折公開されているそうな。折を見て訪ねてみたいものでありますねえ。

 

ところで、かような関わりから設けられた展示コーナーは至ってミニサイズでして、小津(と野田)に関わる品々が展示されておるも、メインは毎年の映画祭の告知ポスターであるような。

 

 

もちろんさまざまなゆかりの品々も展示されていますけれどね。

 

 

 

ちなみに、小津がこの地を訪ねたのは1954年8月、すでに蓼科に山荘を構えていた脚本家の野田に誘われたからであったそうですが、「雲低く寝待月出でて遠望模糊、まことに佳境、連日の俗腸を洗ふ」と書き残すくらいに気に入ったようで。翌々年の1956年には「仕事の場を茅ケ崎から蓼科へ移した」(蓼科高原観光ガイドHP)ということでありますよ。

 

ただ(時期は詳らかではありませんが)蓼科を気に入って山荘を構えた映画人、文化人その他はたくさんいたようでして。

 

 

展示にあった「蓼科山荘地図」では何やら数多くの方々の山荘が示されておりました。ま、上の写真ではなにがなにやらでしょうから、めぼしい名前を拾ってみますと、小津安、野田高梧の他には片岡千恵蔵、津島恵子、藤田元司、水原茂、川上哲治(このあたりプロ野球村かと)、振動兼人、佐田啓二、高橋圭三、西河克己、梅崎春生、笠智衆、今村昌平などなどと(順不同です)。

 

いわゆる別荘地にある特定の業種の人が集まる…とは政治の世界によくあることですけれど、これは密談しやすい?のかどうかはともかく、一時の蓼科には文化の風が吹いていたのかもしれませんですねえ。

静岡県富士市の田子の浦港を傍らに見ながらひと巡りして、JR東海道線の吉原駅に戻ってまいりました。歩き出しは駅の南口でしたですが、今度は北口に来ています。

 

 

いずれ劣らぬ閑散さを湛えておりますが、実は駅のすぐ近くを東海道が通っておりまして、ちょうど北西方向にカーブしていっているのですな。先にも触れたとおり、昔々の東海道はそのまま直進して、見付宿に到達し、富士川水系の河口部を舟で渡り越して先へ…というルートだったようですけれど、水難を避けて宿場を内陸に移動した関係で、東海道の道筋もぐっと内陸に入り込むように曲げられたのでありましょうかね。

 

で、当初の目論見としてはその旧東海道をしばし辿ってみようかいねと。さすれば、途中には移転後の本吉原宿のあったあたりを通過することになりますし、歌川広重が『東海道五十三次』吉原宿の名所として描いた「左富士」(「狂歌入東海道」版が分かりやすいですかね)を眺めることができようかと。さらにはその先には源平合戦で富士川合戦の場としてしられる平家越えの碑にも到達するはずで。

 

さりながら、南口からのひと巡りの最中から気温がぐんぐんと上がってきているようす。そして、旧東海道歩きの途上はおよそ炎天下をひたすら歩くことにもなりますので、これはどうにもたまらんと予めへたれを予想してしまった次第でありますよ。

 

そも9月半ばに差し掛からんとしていた時期になっても酷暑が続こうとは思っておらず、甘い見通しだったわけですが、それはともかくとして、一転方針転換に及んだのですな。幸い?上の写真でも見られるとおりに吉原駅は岳南電車の始発駅ではないか!というわけで。

 

 

全長10kmにも満たない超ローカル線である岳南電車、この機に乗らねば一生乗ることはないのでは…てなふうにも思い、東海道歩きから気持ちを切り替えたのでありますよ。

 

ところでこの岳南電車、なぜここにこんな鉄道が?と思ったときに「富士市といえば製紙業」ということに気付くわけですね。となれば、工場からの貨物輸送、勤務する方々の旅客輸送であるかと。が、実は(Wikipediaによれば)そうではないようでありますよ。

吉原は東海道の宿場町であったが、東海道本線は町の近くを通らず、町外れに鈴川駅(現吉原駅)が設置されただけであった。戦後になって、鈴川駅と吉原の中心部とを結ぶ鉄道として開業した。

ここで言う「吉原は東海道の宿場町であった」というのは、元吉原宿から移転を重ねた先の新吉原宿のことですな。確かに鉄道駅から離れていますけれど、昔ながらの街道と明治以降にできた鉄道路線が離れているのはよくある話ですな。

 

以前、甲州街道勝沼宿を訪ね歩いた際も、中央本線の鉄道駅(現在の名称は勝沼ぶどう郷駅)からずいぶん離れていることに関して、地元の人が「機関車の音や煙を嫌った」てなことを言っていたのを聞いたことがありますしね。ま、吉原駅(元の鈴川駅)の場合に同じ理由が当てはまるのかは定かでありませんが…。

 

 

と、余談はともかくも、この際ですので岳南電車には乗っておこうと。左手の自動改札はJR東海道線との乗り換え口。ここを通過すると乗り換えには至って便利ですが、本来のJRの改札口を通り抜けてしまうと(今回のように一度南口の方に出てしまうとか)JRの駅舎をぐるぅり回り込んでようやくたどり着くというふうな不便さがあるのですけれど。

 

ちなみに岳南電車の乗車券は中ほどの駅務室に申し出て、現金(のみ)で買うことになります。でもって、手渡されるのは今どき貴重な硬券でありましたよ!

 

 

ということで硬い切符を握りしめ、日中は1時間にほぼ2本という運行頻度でいったいどんな電車がやってくるのであるかを楽しみに、ホームで待つ時間を過ごしたものでありました。