さて、一日お休みを頂戴して山歩き(とついでのあれこれ)をしてまいりました。今回の玄関口は信州の茅野駅でして、そこからアルピコ交通バスでもってずいずい奥へと向かった次第です。

 

 

アルピコ交通HPには一般路線バスと区分されている白樺湖・車山高原線のバスですが、乗ってみたら車内では「定期観光バス」というアナウンスでありましたよ。ですので、地図では下側欄外の茅野駅を出発した後、市街地のバス停に停車することはなく、白樺湖入口に至るまで停車(予定)は2つの停留所のみという具合で。

 

乗車後しばあらくして、最初の停留所の案内アナウンスが流れると、前方モニターの運賃表に初乗りの金額が表示されましたが、やおら1400円と出ると「おお!」と思ったり。もちろん最終の車山高原までは2300円と知っておりましたから、本来驚くところではないですが、それにしても…。

 

ちなみにこの路線、始発バス停前の案内所に尋ねると、運賃支払いは現金のみということですので、予め案内所で乗車券を買っておくのが簡便かと。ついでに、帰りの分の現金2300円也をきっちり用意しておく両替ともなりますしね。

 

ともあれ、夏休みもとうに過ぎた9月半ばの平日、茅野駅で乗車したのは7~8人でしたでしょうか、いかにも山に登りますという姿かたちの人たちに加えて、観光然とした人が少々。後者の方の目的地は白樺湖だったようですな。

 

そのようすからゆったりとした山歩きができるものと想像しつつ、車中で揺られることしばし、バスは白樺湖を巡る道路に差し掛かります。湖の周囲にバス停が点在するのは、それだけあちこちに宿泊施設やら観光客向け商業施設があるからなのでしょうなあ。

 

さりながら、白樺湖の人気はすでに今は昔の物語でもあるような。おそらくは清里や蓼科高原といった、近いエリアが昭和のいっとき、大いに観光客を集めた時期がありましたですが、バブルのような状況であったのでしょう。バスの車窓からは、廃業した宿、飲食店などの廃墟、残骸がちらりちらりと目に留まるところでして。

 

そんな中でひとり気を吐いているのが池の平ホテルであるような。バス停で言うと、東白樺湖から西白樺湖方面にかけた一帯で広く、あれもこれものアトラクション施設を展開している。手広い分、ケアの行き届かないところも見られたりはするも、その飽くなき新規事業展開こそが集客減を何とか食い止めている健気な努力のあらわれでもあろうかと。

 

かつて一度泊まったことがありますが、大人から見たら安っぽいアトラクションと思えるものの、子供が楽しいと思うものを作れば、必ずやファミリー層(それこそ親子孫三代のグループ)を取り込めるということなのでしょう。ある意味、成功しているとは思います。

 

再びちなみにですが、高原リゾートとして知られる(知られた?)白樺湖ですけれど、バスの車内に流れた案内(なにせ定期観光バスですから)によりますれば、そもそもは温水ため池として作られたものであるそうな。「温水」と聞いて一瞬、「温泉水でも溜めるのであるか?」と思ったりしたですが、要するに高所(標高は約1400m)故に水が冷たいのでそのままでは農業用水に適さず、いったん溜めて日光で温めてから使う、そのための貯水池だったわけですね。

 

ですので、湖周辺の土地やら水利やらあれこれの権利を地元の人たちが持っているようでもありまして、考えてみますとこれだけ知られたリゾートであるのに、大手の開発業者とか有名系列ホテルとか、その手の蚕食が起こっていないのは、そのあたりにも理由がありそうですね。ま、それが反って集客力を損なってもいるのかも。もっとも、そうした大企業に頼ると、いざ出ていかれてしまったときには殊更廃墟感が目立つことにもなりますので、痛し痒しとも言えますが…。

 

と、バスの車窓から白樺湖を見かけたことで、企図せぬ思い巡らしに及んでしまいましたですが、湖を越してバスはもうひと登り、ほどなく終着点の車山高原に到達するのでありました。

 

後に山歩きの途中で白樺湖の全体像を眺め下すこととはなりますが、ここでは通りすがりに揺れるバスの車中から撮った一枚、とてもこれが白樺湖なのですよとは言い難いものの、今回は写真が少ないので一応載せておきますかね。

 

 

後方に見えるなだらかな(に見える)丘の連なりの、もそっと左手奥の方にある(つまり見えていない)ところに車山はありまして、そこをゆるゆる歩こうというのが今回も目的でありますよ。ということで、次には車山に登るというお話となってまいります。

静岡市のタミヤ歴史館を訪ねて、創業当初の浮沈(木製模型の金字塔を出したり、初のプラモがこけてしまったり…)を辿りましたですが、その続きになります。

 

一時は木製模型に回帰せざるをえなくなり、またその場しのぎ?に発泡スチロール製の模型を出したりもしたタミヤですけれど、いかにも安っぽい発泡スチロール製品であっても、キットを収める箱の意匠には手を抜かなかったのですかね、「模型の内容はともかく、ボックストップのイラストはすばらしい!」(展示解説より)てな評価があったりしたようで。例えば、こんな。

 

 

プラモデルの箱を飾るイラストは「ボックスアート」と言われたりもするようでして、「(昭和30年ごろからアメリカ製のキットが輸入され始めた)当時アメリカのメーカーのボックスは、イラストもとても新鮮で箱のデザインとともに、まさにボックスアートとして成り立ってい」たくらいであると。

 

これに触発されたタミヤとしては「正確な資料性」を箱絵に込めようと手抜き無しの方向を打ち出したようでありますね。そんな箱絵へのこだわりも一段と進化して、雌伏2年を経た1962年、遂にプラモデルでもって起死回生の一発を放つことになるのですなあ。

 

 

同社沿革にはただ「モーターライズ・プラスチックモデル戦車の第1号・1/35 パンサータンクを発売」と、さらり流してありますが、実際のところ、発売早々に追加注文が舞い込むような具合で「うはうは」だったのではないかと。箱絵にも気合が入っているようすが窺えるところでして、担当したのはかの!小松崎茂。兵器もさりながら空想科学小説(SFというよりこの言葉の方が馴染むような)的な挿絵を描かせたら天下一品の描き手になりますですね。

 

また、この製品の凄いところは「モーターライズ」とありますように、リモコンで動かせる点でもありましょう。こんなヒット商品からタミヤの快進撃が始まったのですなあ。ですが、いつまでも兵器(人気は根強いものがあるとしても)ばかりというわけにもいかず、培った動くプラモの技術でもって、登場させたのがこちら、「ミニ四駆」シリーズでございますよ。

 

 

同社沿革でも1982年7月のところに「のちに大ヒットシリーズとなるミニ四駆がフォード・レインジャー4×4を第1作としてスタート。」と、堂々と「大ヒット」と記してありますな。上の写真は何度か代替わりした後の発展形ミニ四駆ですけれど、続々とシリーズを発表するほどに盛り上がった「ミニ四駆」も近頃はちいとも耳にすることがなくなって…と思っていましたら、ミニ四駆のレース大会は今でも続いているのであったとは?!

 

今年も「ミニ四駆ジャパンカップ2025」の予選が各地で進行中であり、11月にはこのタミヤ本社のホールでチャンピオン決定戦が行われる運びであるとか。根強い人気があるのですなあ。個人的にはプラモ作りは遥か以前に遠のいた昔のことですので、近頃の動向は知らず、人気プラモの主流はガンプラ(発売はバンダイ)ばかりかと思っておりましたが。

 

てなことで、もっぱら懐かしさばかりで訪ねてしまったタミヤ歴史館。HPの案内に「要事前予約」とあったものですから段取りを踏んで出向いたところ、「予約して来てくださったからには、これを」と受付で、タミヤの二つ星マークが入ったクリアファイルがプレゼントされて…ということは、予約無しで行ってもよかったのか?と。まあ、かの二つ星クリアファイルのデザインに一瞬ながら懐かしさで心が震える感覚がありましたので、予約の甲斐はあったというものですけれどね。

 

 

ちなみに現在のタミヤでは、動きの技術を活かして、スケルトンタイプで動く仕組みが見えるような教育玩具も作っておるようで。ガラスケースの端に見えている「タミヤの工作ガイドブック」には「モノ作り体験で創造力と思考力を育む」とありますけれど、将来日本のモノ作りの担い手がここから生まれてくるのかもしれませんですね(と、さすがにタミヤのお話はこれでおしまい。次はまた違うお話で)。

 


 

で、またまた唐突ながら、「思い立ったが吉日」をなおのことひしと感じている頃合いだけに、またちょいと山歩きに出かけてまいります。先月の入笠山でヘタレたトレッキングシューズの代わりを調達しましたので、そのデビュー戦という次第。明日(9/18)はお休みで、明後日(9/19)にまたお目にかかれますよう、ではでは。

近隣図書館の新着図書コーナーで見かけたのがこちらの『終着駅の文化史』でして、瞬間風速的に読む本が途絶えた間隙につい手にしてしまった一冊でありました。

 

 

「交通ブックス」という叢書の一冊ですが、なんとはなし、マニア御用達のシリーズのようでいて、もちろん専門的なところのものもあれば、一方で素人衆にもわかりやすくを提供するものもあるようで。こう言ってはなんですが、玉石混淆でもあるのかな…と本書を読んで思ったような次第でありますよ。

 

なまじ「文化史」といった学術っぽいタイトルが付いていましたので、それ相応の内容が期待されたところ、著者自身、まえがきで「総花的にならないように…」と言っていながらも、たくさんお持ちのようすの知識のあれこれが並んでしまったなあという印象。どこかで深まりがあるとよかったのですけれどね…。

 

と、読んだ本の残念感を長々述べても詮無いことですので、ちと方向を変えますと、ここでタイトルにもなっている「終着駅」という言葉には少々の「?」が。著者自身、というか一般的にも?、いわゆるターミナル駅(terminal station)を指して終着駅という訳語がもはや自明のことのように使われておりますけれど、「終着駅」という日本語が醸す含意はターミナル駅というのと異なるものではなかろうかと。その点、Wikipediaの「終着駅」の項目に、「対義語は始発駅」と書かれていて、「ほらね!」と。

 

ターミナル駅の機能は終着駅にもなり、始発駅にもなるわけですが、これを終着駅という日本語に押し込めてしまっている違和感でしょうか。このあたり、「Terminal」という英語に「終わりの」の意があることから「終着駅」の訳語が生まれたのかもが、むしろこの語にある「末端の」に着目した方がよかったんではないでしょうか。

 

鉄道の歴史の始まりの頃、最初から縦横無尽に鉄道網が張り巡らされたわけではありませんので、必ず線路の両端は行き止まりになる。その末端部に置かれた駅のことをターミナル(駅)といったのでしょうし、形としては今でいう頭端式ホームが並ぶ駅こそがターミナルだったと理解すると語源的には得心のいくところです。

 

ですので例えば東京駅のようなにいくら大きな駅であっても、ターミナルというのはどうよという気も。JRの英語アナウンスでは平気で「Tokyo terminal」などと呼んでますれど、むしろ「Tokyo centeral staion 」くらいの方が現実的ではないですかね(今の日本では、阪急梅田駅あたりが立派なターミナルと言えましょうか)。

 

現に、通過式ホームがたくさん並んでいる点でも(外見も)東京駅と似ているといわれるオランダのアムステルダム駅は「アムステルダム中央駅」と呼ばれておりますしね。もっとも、列車発着の点で頭端式よりも通過式の方が優位なせいか、旧来の歴史的なターミナル駅舎を残しつつ、地下に通過式ホームを増設したりするケースがあったりしますから、欧米でもターミナル駅の意味合いは見た目との間で緩やかに変化しているのかもしれませんですが。

 

と、ひとしきり「終着駅」にこだわってみたついでに、この際ですので言葉つながりで往年の名画?『終着駅』を見てみることにいたしましたよ。もしかして…と全くもって想像でしかありませんが、この映画の邦題を考えるときに、ターミナル=終着駅という訳語関係ができたのではなかろうかと思ったもので。

 

 

話としては、今見るとのけぞるほどの超弩級メロドラマと言えそうですが、ローマのテルミニ駅を舞台に、大きな駅に行きかう人々を(ところどころでこの人、まだ構内をうろちょろしていたか…といったことも含め)写し取っている点が興味深くはありました。ヴィットリオ・デ・シーカ監督らしいネオリアリズモの一端なのでしょうかね。

 

タイトルとしては、原題は「Stazione Termini」はローマのテルミニ駅を示す固有名詞ながら、これが英文タイトルの「Terminal Station」となったとき、ロンドンにはいくつもターミナル駅があるわけで普通名詞化し、それを和訳して「終着駅」を当てたのでしょうか。

 

登場人物、とりわけ悲劇の?ヒロイン・メアリ(ジェニファー・ジョーンズ)はテルミニ駅を旅立つところ(これがなかなか旅立てず、全編ほぼテルミニ駅の中で終始してしまう)ですので、字義的に「終着駅」では適当でないところながら、「終わり」という含みが生きて、すっかり定着したのではなかろうかと。映画のタイトルとしては、ですけれどね。

 

ということで、思いがけず未見だった往年の名作?を見ることになったりもした、終着駅という言葉への思い巡らしの一幕でありました。

 

静岡市にあります模型メーカー・株式会社タミヤの「タミヤ歴史館」を訪ねて、旅の振り返りというよりは子供の頃の思い出話のようになってしまっておりますが、歴史館の展示からタミヤ苦闘の歴史?を見ておくことにしようかと。

 

以前立ち寄った静岡ホビースクエアでの説明を思い出してみれば、「(ホビーのまち静岡は)歴史的にも戦前の木製模型作り以来のものであ」るということになるわけでして、そう考えますとタミヤはむしろ後発組ということになるのかも。

 

 

現在の模型メーカーに至る会社の設立は戦後の1946年であったと言いますし、元々の業種としては製材業、「一般建築材の加工販売を目的」(同社HP沿革)であったそうですから。それが模型メーカーへと転身する(しなければならなくなった)理由には、1951年に火災で工場が全焼したことがあるようで。木製模型はすでに手掛け始めていたとはいえ、工場の焼失で大きな建材でなくして小さな木製模型専業へと切り替えざるをえなかったようです。

 

 

 

 

当初作られていた木製模型はこのあたりですかね。いずれも「あったねえ!」という懐かしの品々でもあろうかと。いかにもな子供の玩具然とした姿かたちですけれど、これが5年も経ちますとリアルさの再現性で勝負するようになっていくようすが見えますですね。

 

 

当時は船舶模型に力を入れていたのでしょう、しかも時代相なのですかねえ、戦艦の模型が人気を呼んでいたようで、1959年には1/200スケールの戦艦武蔵が発売されますが、これは「木製艦船模型の金字塔」(自称?)とも言われたようで。

 

 

さりながら、1950年代後半の時期、アメリカから入ってきたプラモデルに市場の目は注がれるようになっていたようで、想像するに成型のしやすさとそれに伴う再現性の高さ、加えておそらくは(初期投資はともかくとして)安価で提供できる点がメリットとなって、木製模型メーカーはプラモ製造へと向かうことに。タミヤも同様に、ですな。

 

 

木製模型の金字塔とまで言われた戦艦武蔵をリリースしていたタミヤだけに、同社初となるプラモには満を持して?戦艦大和で勝負をかけたのが1960年だそうで。ですが、黒歴史的な述懐を展示解説から引用しますと、こんなことになります。

1960年、…やっと発売日のメドが立ってきました。ところが発売直前になり、思わぬ事態が起こりました。私たちより一足先に「戦艦武蔵」が発売されたのです。…いちばんあわてたのは、私たちが予定していた小売価格より、はるかに安いことでした。結果は惨敗でした。…

社運を賭けたプラモ参入戦で惨敗を喫したタミヤ、新たな勝負を掛けたくとも資金不足となり、よもやの「木製模型への苦渋の大回顧」を迫られることに。

 

 

その頃の製品も展示にありましたですが、「う~む、おもちゃっぽい…」という印象が。でもって、プラモデル製作が無理ならば、別素材でとばかりに発泡スチロール製の模型キットも発売したそうですが、見るからに残念感が漂うというか。安価だったので、子供にはそこそこ売れたそうではありますが…。

 

 

てな具合に苦しい経営の続き時期があったわけですが、今でもタミヤは世界的な模型メーカーとして知られておるというからには、後に飛躍が待っているということになりますですね。プラモデルの話が長くなって恐縮ですが、次にその飛躍のほどを辿ってタミヤ歴史館探訪を締めくくろうと思っておりますよ。

ちょいと前に見かけた新聞記事を思い出しておりまして。戦争絡みのことですので、先月8月のいつだったかですけれど、東京大空襲の戦火に見舞われて戦争はこりごりという感じを露わにしていた父親が、何故かしら晩年になって、零戦その他戦闘機などの精巧な模型を作り始めたことに、息子さんがその思いを量りかねていた…てな話だったような。

 

元来エンジニアであった人らしいですので、手先の器用さも持ち合わせていたらしく、自ら設計図を引くところから始めたとなれば、さぞや精巧に作ったのであろうなあと。中には戦後の国産航空機であるYS-11なども作品には含まれているようですけれど、そも戦闘機・爆撃機を作るのは何故?と息子さんが思うのは自然な感情でありましょうねえ。

 

想像するしかないわけですが、兵器というのは常にその当時に最高水準を集めた作品とは言えましょうかね。本来の使途が好ましからぬものであったとしても、科学の粋を集めたものとは言えてしまいそうです。そうしたものの再現に心動く部分は(自らはおそらくジレンマを抱えつつも)あったかもしれませんですね。

 

…といった想像をめぐらしたところで、戦争はいけん、世界中みんな仲良くせねばてなことをつぶやくことしばしである我が身を振り返って、戦車、戦闘機、戦艦の再現プラモデルで知られた模型メーカーの歴史館を訪ねるとは自らのことながら「どういうこと?」と思ったりもするところでありまして。

 

 

ただ昭和の20~40年代くらいになっても、戦車、戦闘機、戦艦といったものを模した玩具というのがたくさん出回っておりましたですよね。そうした中にあっては、多かれ少なかれその類の玩具でもって遊ぶということがあったわけで、ある意味、懐かしさと結びついてしまっている。タミヤのプラモデルもまた。

 

ですから、本物の兵器が何のためのものであるかはともかく(本当はそうはいかないのですけれど)、その類に懐かしさを感じたりもしますし、ともすると様々な面で極限を極めて開発されたその姿かたちをなんとなくかっこいいと思ってしまったりも。どうにもしがたい捻じれた気持ちが渦巻いたりもするのですが…。

 

とまあ、そんな言い訳がましい言い訳をこぼしてしまうのも、映画『アイダよ、何処へ?』を見たからでもあるのですなあ。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に際して、国連軍管理下の非武装地帯とされていたスレブレニツァにセルビア人武装勢力が侵攻し、住民が虐殺された事件を扱ったものです。

 

 

映画の詳細はこの際措いておくとして、入ってくるはずのない戦車部隊が堂々、スレブレニツァの町に入って来るシーンに、全くもって今さらながら、兵器本来のありようを見た思いがして、暗澹たる思いが兆したものですから。

 

出来事としては1995年のことで、今から30年前のことではありますが、この戦車の隊列、最近も見たなあと思い出すわけなのですね。ひとつは5月に行われたロシアの大祖国戦争(要するに第二次大戦)勝利80年のパレード、そしてもうひとつは今月初めにあった中国の抗日戦争勝利80年の軍事パレードでありますよ。

 

自国の軍備を誇示する国のありようというのはどうなのであろうか…とは思うも、これを見に集まる人々の側で「おお!」と思うところがあったとすれば、子供心にプラモデルを見て何となくかっこええと思ったようなところが良いわけではありませんが、それよりも遥かに危うい現実と言わねばならないのではと感じた次第。

 

何とも歯切れの悪い物言いを重ねたようでもありますけれど、実際の兵器を連ねて見せること、さらにはそれに歓呼をもって応えるようなこと、どうしても人間は物事の解決を武力に頼ることから離れられないのであるかあとも思ってしまったものでなのでありました。誠に「うむぅ…」なことながら…。