静岡県富士市の田子の浦港を傍らに見ながらひと巡りして、JR東海道線の吉原駅に戻ってまいりました。歩き出しは駅の南口でしたですが、今度は北口に来ています。

 

 

いずれ劣らぬ閑散さを湛えておりますが、実は駅のすぐ近くを東海道が通っておりまして、ちょうど北西方向にカーブしていっているのですな。先にも触れたとおり、昔々の東海道はそのまま直進して、見付宿に到達し、富士川水系の河口部を舟で渡り越して先へ…というルートだったようですけれど、水難を避けて宿場を内陸に移動した関係で、東海道の道筋もぐっと内陸に入り込むように曲げられたのでありましょうかね。

 

で、当初の目論見としてはその旧東海道をしばし辿ってみようかいねと。さすれば、途中には移転後の本吉原宿のあったあたりを通過することになりますし、歌川広重が『東海道五十三次』吉原宿の名所として描いた「左富士」(「狂歌入東海道」版が分かりやすいですかね)を眺めることができようかと。さらにはその先には源平合戦で富士川合戦の場としてしられる平家越えの碑にも到達するはずで。

 

さりながら、南口からのひと巡りの最中から気温がぐんぐんと上がってきているようす。そして、旧東海道歩きの途上はおよそ炎天下をひたすら歩くことにもなりますので、これはどうにもたまらんと予めへたれを予想してしまった次第でありますよ。

 

そも9月半ばに差し掛からんとしていた時期になっても酷暑が続こうとは思っておらず、甘い見通しだったわけですが、それはともかくとして、一転方針転換に及んだのですな。幸い?上の写真でも見られるとおりに吉原駅は岳南電車の始発駅ではないか!というわけで。

 

 

全長10kmにも満たない超ローカル線である岳南電車、この機に乗らねば一生乗ることはないのでは…てなふうにも思い、東海道歩きから気持ちを切り替えたのでありますよ。

 

ところでこの岳南電車、なぜここにこんな鉄道が?と思ったときに「富士市といえば製紙業」ということに気付くわけですね。となれば、工場からの貨物輸送、勤務する方々の旅客輸送であるかと。が、実は(Wikipediaによれば)そうではないようでありますよ。

吉原は東海道の宿場町であったが、東海道本線は町の近くを通らず、町外れに鈴川駅(現吉原駅)が設置されただけであった。戦後になって、鈴川駅と吉原の中心部とを結ぶ鉄道として開業した。

ここで言う「吉原は東海道の宿場町であった」というのは、元吉原宿から移転を重ねた先の新吉原宿のことですな。確かに鉄道駅から離れていますけれど、昔ながらの街道と明治以降にできた鉄道路線が離れているのはよくある話ですな。

 

以前、甲州街道勝沼宿を訪ね歩いた際も、中央本線の鉄道駅(現在の名称は勝沼ぶどう郷駅)からずいぶん離れていることに関して、地元の人が「機関車の音や煙を嫌った」てなことを言っていたのを聞いたことがありますしね。ま、吉原駅(元の鈴川駅)の場合に同じ理由が当てはまるのかは定かでありませんが…。

 

 

と、余談はともかくも、この際ですので岳南電車には乗っておこうと。左手の自動改札はJR東海道線との乗り換え口。ここを通過すると乗り換えには至って便利ですが、本来のJRの改札口を通り抜けてしまうと(今回のように一度南口の方に出てしまうとか)JRの駅舎をぐるぅり回り込んでようやくたどり着くというふうな不便さがあるのですけれど。

 

ちなみに岳南電車の乗車券は中ほどの駅務室に申し出て、現金(のみ)で買うことになります。でもって、手渡されるのは今どき貴重な硬券でありましたよ!

 

 

ということで硬い切符を握りしめ、日中は1時間にほぼ2本という運行頻度でいったいどんな電車がやってくるのであるかを楽しみに、ホームで待つ時間を過ごしたものでありました。

 

さて、車山高原の山歩きも最終局面に差し掛かりまして、往路は恩恵に預かった中腹部でのリフトを後目にそそくさと下りにかかります。まあ、ここからですとバス停のあるリフト乗り口まで30分ほどということですのでね、楽勝感が漂い出しました(笑)。

 

 

下りは登りにまして前方の展望が開けておりまして、往路に振り返り振り返り、「蓼科山のきりっとした姿が見えないのは残念であるな…」と思っていたところが、下りになってようやっと全容を見せてくれたのは少々のご褒美でもありましょうかね。

 

 

八ヶ岳連峰の最北端にあって、すっくと立ちあがる独立峰の山容は立派な印象を残しますけれど、また登ろうとは思わないですなあ。また、というのは高校の自分、学校の山荘が裾野の森の中にあって、そこを使う人以外に利用されていないようなクマザサ繁る山道を登った(というより登らされた)ものでして。頂上は開けているものの、ごつごつした巨岩が折り重なっているばかり、そんな記憶ですのでね。

 

ともあれ、下り道の途上、開けた草原に電気柵が張り巡らされているのに目を止めたのですな。往路から気付いてはおりましたが、何分ひいこらで余裕もなく…。改めて看板を眺めてみますと、どうやらシカによる食害避けのようでありますよ。

 

 

シカがニッコウキスゲを食べてしまうのでしたか。霧ヶ峰にニッコウキスゲは付き物ですので、これは守らないといけんですなあ。と、そんなシカ対策を目の当たりにしたところで、ふいと思いついてしまったのが、昨今あちこちで話題になっているクマの出没のことでありましたよ。

 

8月下旬に出かけた入笠山では、ほとんどの登山者がクマ鈴をぶら下げていて、これはもはや山登りの必須アイテムになっておるのだなと思ったのでした。が、今回の車山高原歩きは(何十年も前の記憶頼りながら)木立の無い草原の中を歩くような恰好で、元よりクマの好物である木の実、どんぐりの類は極めて乏しい。そんなところに出てくるものであるか、とまた高を括ってしまい、クマ鈴購入は先送りに。

 

ですが、下っていくにつれて気持ちの良い草原状態からだんだんと木立が続くようになってきたのですな。そうなりますと、もしかして森のくまさんとも遭遇したりする可能性ありか?!とふいに。

 

 

そんな不安が生じますと、草原地域に森のくまさん好物のどんぐりは至って少ないものの、一面がクマザサだらけだったではないか。もしかして、クマザサってくまさんの好物だからこのネーミング?などという妄想が。後付けながら、クマザサは漢字で「隈笹」と書くようでして、クマとは関係ないようですな(笑)。

 

 

とまあ、クマとの遭遇はおよそ無い(だろう)と思いつつも些か足早になりながら、そもそものリフト乗り場のところまで無事に下りてくることができました。正面に車山が見えているということは、冬場はスキー場となるエリアを大きくトラバースしてきたということですな。ですが、やっぱり次の山歩きまでにはクマ鈴を用意しておくといたしましょうね。

 

で、リフト券売り場のあるスカイプラザという建物にあったテイクアウトカフェでもって、帰りのバス待ちの時間にちょいと、本日頑張って歩いた自分ご褒美をひとつ。

 

 

「長野県産シャインマスカットソフト」という触れ込みから、濃厚ミルクにシャインマスカットフレーバーがほんのりてなふうにイメージしたですが、およそシャインマスカットシャーベットだったような。ちと思惑違いでしたなあ…。

 

それにしても、この高原リゾートのテイクアウトカフェでさえ(というか、だからというか)、どうやら南アジア方面とお見受けする従業員のワンオペで運営されている。こうした人たちの手を借りないと立ちいかない状況というのが日本のあちこちにある、そんな一端を見たものと思いましたですよ。

 

そんなこんなを振り返りつつもうつらうつらとしながら、茅野駅までおよそ1時間のバスに揺られて帰途に着くのでありました。

さて、静岡県富士市にある鈴川の富士塚、あまりに本当の富士山に近い富士塚のお話でありまして。

 

 

これまでにも都内や関東近県で富士塚に出くわしたことはありましたですが、だいたいは神社の境内に設けられている。こちはら、鳥居まで近づいてみますと傍らに「浅間宮」とありまして、どうやら富士塚そのものを神社としているようですな。塚の上に祠が祀られているようです。

 

解説板に曰く「江戸時代中期以降、関東地方を中心に隆盛した富士講によって多くの富士塚が築かれますが、この富士塚は性質や形状などが関東のもとは異なり、それ以前の富士山信仰に基づいて築かれたものであるとみられています」というのもむべなるかなと。

 

 

実際の富士塚を目の当たりにしましても、どうも印象が異なるような。富士塚には、本当の本当に富士登拝が叶わぬ人たちにとっても、それを疑似体験させるような要素が加味されて、例えば登る道を山道然と設えたり、はたまた途中途中に「何合目」といった石柱を施したりもしているものがあるわけで。それに対して鈴川の富士塚は、リアル富士山の遙拝所であるかな…という雰囲気なのですから。

 

 

すでにして上に登る前から、この場所からは「おやこ富士」(富士塚越しに本当の富士山)がよく見えますよと案内があるくらいですし。となれば、富士見ポイントとして期待が高まるのは自然のこととしても、「富士と港の見える公園」での眺望からして、お天気がどうにも…といった具合。過度な期待は禁物だったのですなあ。

 

 

どうでしょう?祠の真後ろ遠くにうっすらと、これ以上ないほどにうっすらと、富士の頂上付近の稜線が見えてはおりますが…。『ブラタモリ』だったら、好天時の写真パネルを取り出すところでしょうなあ(笑)。

 

それにしても、富士塚のてっぺんが見晴らしが良いというのは周囲に高い建物が無いからでもありますね。そりゃ、富士塚は土を盛って高くしてあるのだから…と思うものの、近隣の屋根の並びは見えるも遠景に建物らしきものは全く見えておらないですな。

 

 

これは富士塚周辺の地図ですが、先に触れましたとおりに「富士と港の見える公園」は田子の浦港に突き出す岬のような地形でして、おの尾根状の幾分高い場所に富士塚もある。そして、古くから住宅地であったことを示すように細い道が入り組んで走っておりますね。

 

一方でJR東海道線の向こう側は区画が大雑把で、八郎潟を埋め立てた大潟村ではありませんが、いかにも後付けの土地であるような。この低い部分はかつて大きな湿地が広がっていたようですね。後に埋め立てが進められて農地化していったのでしょうけれど、今ではそこに富士市の名物?大型製紙工場が立ち並んでいたりするという。そのせいで、高度成長期の田子の浦はヘドロの海として有名になってしまったりしましたが…。

 

てなことでもありますので、富士塚から吉原駅の方に向かってはゆるゆると下っていくことになります。駅の近辺はもはや海抜0mみたいな低い土地であるとは、港近くの鈴川港公園にこんな津波避難タワーが設けられていることでも分かるのではなかろうかと。

 

 

さすがに用途が用途ですので、がっしりした作りであるようです。が、これを見て(お門違いとは思うも)三内丸山遺跡の大型掘立柱建物を思い浮かべたものでありましたよ。ということで、JR吉原駅に戻ってきました。この後が当初予定と大きく異なる旅程をたどることになるのは暑さを舐めていたからですが、その辺りから次回のお話ということにいたしたく存じます。

先ごろ歩いてきました信州・霧ヶ峰のあたり、展望リフトを運営している車山高原スカイパークリゾートHPのハイキングマップで見ると、ざっくりこのようなエリアということになるのですね。

 

 

まずは右下の車山高原バス停からほど近いリフトに一本乗って中腹まで。その後はリフトを乗り継ぐことなしに歩きで車山山頂に至り、今度は車山肩まで下ってきて昼食をとった…というところまで来ました。

 

霧ヶ峰をぐるり一周となればその後さらに左上の八島ヶ原湿原をぐるり巡るというコース取りとなるわけですが、今回はかなりショートカットをした次第。理由のひとつは長年にわたり運動不足をこじらせてきた身なのでまずはお試し感覚であったのと、それに加えて新調したトレッキングシューズがどうも歩いているうちに妙に踝に当たる感が出てきてしまい、対策を施さねば痛みが出てくることが予想されたためでして。

 

ま、無理は禁物ですし、八島ヶ原湿原を巡るのはまたの機会として、車山肩から車山湿原を抜けて車山乗越を経、下山にかかろうということに。ちょうど車山の山腹を巻いていく恰好の道へと進んでまいります。

 

 

ちなみに建ち並ぶ立て札には、湿原に立ち入らないでください、ペットの連れ込みは御遠慮くださいという注意喚起。湿原の環境保全のためですけれど、もそっと進んだあたりでようやく「ああ、湿原であるか」と思うことに。長く続く木道がそれらしいではありませんか。

 

 

これは途中で来し方を振り返ったところでして、右手に見えているのが蝶々深山。中学の林間学校で来たときにはこれを登り越してその先の八島ヶ原に行ったのだったけなと思い出す。さらには時季が良かったのでしょう、霧ヶ峰一帯一面にニッコウキスゲが咲いていたっけ…とも。やっぱり霧ヶ峰にはニッコウキスゲの咲く時季に訪れたいものですよねえ。それはそれは壮観で。

 

 

そんな思い出に浸りつつ歩けばほどなく、蝶々深山との分岐に到達。眺めやってしまいますと、左方向の蝶々深山に登っていきたくもなるところながら、靴の関係でくるぶしに思いのほかダメージがあるようす。やはりここは小手調べと思い返して右方向、下山路へと向かいます。蝶々深山よ、また逢う日まで。

 

 

車山乗越という小ピーク(標高1815m)を過ぎ、やがて往路に登ってきた道との分岐点に戻りました。そもそもここで間違えなければ、逆コースを辿っていたはずですが…。

 

 

想定どおりなら右へ行かねばならないところを、そのまま左の広い道に行ってしまったのが敗因ですな。ともあれ、往路の登りでは幾分ひいこら言っていたせいか、気づきませんでしたが、あたり一面はススキが原だったのでしたか。間違いなく秋は忍び寄っていたようで。

 

 

ということで、下りは全くリフトに頼ることなしにして、写真の真ん中下に建物群が見えているあたりまでゆるゆる下っていくことに。例によってひとつの話が長くなってますが、次でおしまいですのでね(笑)。

岳南富士見紀行といった触れ込みで富士山絡みの話を書き継いでいる最中ということもありまして、些かの関わりもあろうかとかような本を読んでおったのでありますよ。『大人のための地学の教室』という一冊です。

 

 

かつて学校で「理科」という教科を学習していた頃合い、教科の中が区分けされて「化学」「物理」「生物」「地学」となっておりましたが、こてこての文系人間となればいずれの科目も覚えておらないというのが実状ですけれど、分けても「地学」、これについてはただただ鉱物標本が思い浮かぶのみでして。

 

そんな具合ですので、本書で「地学」とは「地球科学」のことなのですよと言われたときには「あらら、そうだったんですかあ」てなものでしたなあ。最初からそう言ってくれれば、興味のもちようもあった…とは、全くもって後付けの話ですが…。

 

それだけにタイトルから想像すれば、今さらながらに「地学」のいろはを教えてもらえるものであるかと。確かにその側面無しとはいえませんですが、むしろタイトルに添えられてある「「地震」と「火山」の国に暮らすあたなに贈る」という点こそ肝心なところであったかと、結果的に。どうやら(帯に見えておりますが)あちこちで「絶賛!」されたりしているのも、もっぱらそちら方面。つまりは、やがて来る大規模な地震、火山噴火への心の準備を促すものであるということで。

 

地震は、取り分けプレート型の地震は、常に大陸プレートに海洋プレートが沈み込んでいることでやがていつかはその跳ね返りが原因となって起こるのであるとは、もはやよく知られた話。ですので、過去に起こった地震は繰り返されることになるわけですな。

 

火山噴火の方も、火山の寿命が百万年と言われる中、地下のマグマだまりが充満してくるとやっぱりいつかは(頂上火口でないにしても、どこかから)噴火するということで、百万年の寿命が尽きていないのであればマグマだまりには地下からどんどんマグマが送り込まれ、これまた繰り返し起こるのであると。

 

そんなあたりは中途半端に知っているようでもありますけれど、本書を読むと「そりゃあ、ほどなく大地震も起これば、大噴火もありそうであるなあ…」と思うところでして、そうした啓発が各方面で本書絶賛の元になっているようでありますよ。

 

で、日本には地震の巣も活火山もたくさんあるわけで、あちらこちらに危機があるとはなりましょうが、そんな中で特に影響が大きいであろう、それだけに準備を怠ってはならんと指摘されているのが、まずもって南海トラフ地震、次いで首都直下地震、さらに富士山噴火であるという。

 

富士山噴火に関してはもうずいぶんと前にまことしやかな予測が流れて、結局のところ「なぁんだ、なにも…」と肩透かしを食らった感を一般庶民は抱いたりしたですが、噴火も地震も「いつ起こる」と予知することが不可能でありつつも、いつとは言えないながらもすでに先の3件はスタンバイ状態にあるので…と予測できることをもって、注意を促されるそのことに、「オオカミが来るよ!」的なものを感じてしまったりもするんではないですかね。

 

ですので、予言めいた言説に惑わされない(近頃はSNSですぐに広まりますけれどね)ようにする一方で、理屈に従えば長い歴史の中で繰り返されてきたものは必ずやってくるという心づもりはしておかねばならないのでありましょう。

 

ですが、どうしても眉唾めいたものと感じてしまうのは何故なんでしょうねえ。例えば富士山の噴火で大規模もなものは宝永噴火(1707年)から300年余り途絶えていますので、そんなに起こってないものがおいそれと起こりそうな気がしないという、素人感覚があるからかもですね。

 

例えば本書で言われているように火山の寿命が百万年だとして、300年噴火していないことを人の人生百年に擬えれば、たったの1~2日静かにしているに過ぎないことにもなりますな(苦手な計算があってれば…)。スケールが違うので俄かにはぴんと来ないですが、そういうものだと思うことも必要だということで。

 

となると、どうすればよろしいのでありましょう。早い話が「備えあれば憂い無し」を実践することのようですな。起こってしまうものは起こってしまうものとして、その影響を軽減できるように、個々人レベルでももちろんできる範囲で備えておく。さまざまな物資の備蓄だったり、家具の展望防止だったり、家屋の耐震補強だったりと。違ったレベルで行政には行政の備えはありましょうけれど。

 

とはいえ、そんな心づもりも例えば阪神淡路や東日本の大震災、近いところでは能登半島の大地震などに触れて勢いづくものの、ほどなく喉元過ぎればとなってしまうのですが、ふと思い当たったのが生命保険とか火災保険とかの保険のことですね。

 

誰しも、自分の命が明日をも知れぬと思っているわけではないですし、自宅で火災が発生すると思っているわけでもない。にも関わらず、さまざまな保険に加入して掛け金を払い続けている。掛け捨てとなるものも多いはずですが、「結果的何事もなかったのだから、よしとしよう」と考えているのかもですが、おそらくはそうした保険料に比べると、地震などに対する備えは金額的にむしろ低かったりするのではないですかね(家屋を大規模補修するような場合は別ですが)。

 

となれば、備蓄などに手が及ばないのは金銭的に余裕が無いといったこととは違って、やっぱり「そうは言っても、大地震や大噴火がそうそう起こらんだろう」という思い込みが元になっているような。

 

ま、そんな思い付きに至ったのは本書を読んで素人なりに考えたからですので、本書の啓発効果はあったと見るべきかもしれませんですね、少なくもひとりに対しては(笑)。食品を備蓄するとして、期限が近付いたら食べてしまって買い替える。掛け捨ての保険に多くの保険料を払うことを思えば、食べてしまえる分、無駄が無いてなふうに思い至った次第でありました。