若い頃、ディスクユニオンあたりにCD漁りに出かけていた頃かと思いますけれど、たぶんその店内でブルーノート・レーベルの名盤ガイド的な販促用冊子を見かけたのですな。お目当てCDのもっぱらクラシック音楽系であったものの、予て(その当時ですが)ジャズにはそこはかとなく憧れを誘うようなところがあった。他のジャンルよりもジャズはクラシックとクロスオーバーしやすい(実際、その手の録音も多々あるわけで)ことから親近感を抱きつつも、どうにもとっかかりが無いという状態だったわけです。

 

なにしろジョン・コルトレーンという名前は聞いたことがあるも、てっきりピアノの人だと思っていたくらい。今となっては笑うしかないところですが、そんな門外漢でも知っているブルーノートというレーベルの名盤ガイドが手に入ったとなれば、「ああ、こういうのを聴けばいいのね」と俄然弾みがつくわけなのですなあ。

 

以来、名盤ガイドを手に入れたディスクユニオンの都内各店のお世話になりつつ(つまりは中古盤探しで)次々とブルーノートで名盤の呼び声高いものを聴いて行ったり。果ては、その当時新橋にもあった「SWING」(今は銀座だけのようです)というジャズクラブに出入りするくらいになって、「ジャズにもいろいろあるのであるなあ」といかにも素人らしい思いに駆られたものでありましたよ。

 

ですが、結局のところ、個人的にジャズ熱は一過性のもの(麻疹みたいなものですかね、誰でも罹る?)で、徐々にフェードアウトしていき、今なおやっぱり素人なのですけれどね。ごくごくたまに、かつて買い集めたCDを取り出して聴いてみるくらいに落ち着いたわけで。

 

と、やおら昔語りを始めたですが、どうした加減であるのか、Amazon Primeで「あなたにおすすめ」的に出てきたのが、こんなドキュメンタリーだったのでありまして。

 

 

『オスカー・ピーターソン Oscar Peterson: Black + White)』。上に触れたとおりに多少聞きかじった程度のジャズながら、オスカー・ピーターソンの名前は知っている。さりながら、ジャズ関係のあれこれを渉猟しているときに、あまりに目に付く名前であったものですから、ジャズプレイヤーという以上にエンターティナー的な存在であるかと勝手に思い込み、その演奏に接することはついぞ無かったという。

 

てなことでしたので「まあ、この際に…」と見てみたドキュメンタリーだったわけですが、なかなかに凄い人だったのだなとは、今さらながら。映画の中で、彼にトリビュートの言葉を捧げていた人たち、例えばビリー・ジョエルやクインシー・ジョーンズ、ラムゼイ・ルイスにハービー・ハンコックといったあたりが「彼のおかげで今がある」といったふうで。オスカー・ピーターソン(の演奏)自体は知らずに来ていたものの、彼の影響下にあるという数々のミュージシャンの演奏には折々触れていたのであったかと、思ったものでありました。

 

ですので折角の機会ですので、映像とは別にCDでも一つ聴いてみることに。手持ちはありませんので、近隣図書館でもってオスカー・ピーターソン・トリオによる『プリーズ・リクエスト』を借りてきて。

 

 

一聴して思うところは「ああ、時代を感じるなあ」ということ。もちろん、自分自身が生まれる前の時代の雰囲気と言いましょうか。ちなみにオスカー・ピーターソンの演奏をWikipediaの記載から借用するとこんなふうなのですな。

スイング期の流れを汲む奏法にモダンな和声感覚を取り入れたスタイルで、ジャズ界きっての超絶技巧を誇り、ダイナミックかつ流麗な即興演奏で知られる。

スイング期とあることについては、CDのライナーノートの記載でも少し補っておきましょうかね。

1930年代、「スイング・ミュージック」とよばれたビッグ・バンド・ジャズが、ジャズ・ファンばかりでなく、一般大衆を湧(ママ)かせたのは、映画主題歌、ミュージカル主題歌、ポピュラー・ソングを素材として、親しみやい演奏を心掛けた点にあった。

何やら漠然とした印象でオスカー・ピーターソンに近づくことのなかった若い頃の想像は先に触れたとおりですが、どうやらあながち間違いでもなかったようでしたか。このCDの帯には「オスカー・ピーターソン永遠のベスト・セラー」てな言葉が載っていますので、いわゆる名盤のひとつでしょうけれど、曲目には(誰も知っているタイトルと思しき)『酒とバラの日々』や『イパネマの娘』といったスタンダードが見られますしね。

 

オスカー・ピーターソンの演奏活動は1950年代から2000年代まで、半世紀の長きにわたるかと思いますが、その間にもすっかりジャズも多様化していて、いわゆるモダン・ジャズの方向からすれば、分かりやすくも時代がかっているてな印象ということになりましょうかね。

 

ジャズというと何とは無し、灼熱のジャズライブみたいなイメージが浮かんできますけれど、真夏の夜のジャズとして耳を傾けるにはオスカー・ピーターソン・トリオあたりの演奏の方が安眠に導かれるのではなかろうかと思ったりもしたものでありますよ。ホットなものもいいですが…。

さて、山梨県立美術館で開催中の特別展『ポップ・アート 時代を変えた4人』の展示を振り返っておるわけですが、アンディ・ウォーホルに続く二人目はロイ・リキテンスタインということに。

 

個人的な興味対象としてはウォーホル以上にリキテンスタインなのでして、どうもウォーホルに付きまとう商売っ気といいますか、そのあたりが些か鼻についてしまいましてね。といって、リキテンスタインにしても、ウォーホルの『ブリロ・ボックス』を鳥取県立美術館が入手したほど直近の話ではないものの、1995年に東京都現代美術館がリキテンスタイン作品を6億円でこ購入したことが大きな話題となったことがありましたっけ。

 

おそらくは作家本人が自らの作品の高騰を思い描いていたのではなかろうと思いますが、ポップアートを取り巻く状況がアート投機的なところを結びついてしまっている点で、変わりがないとも言えましょうけれどね。

 

とまれ、東京都現代美術館が所蔵する『ヘアリボンの少女』のように、リキテンスタインと言えばアメリカン・コミックの一コマを切り出してきて、そのままに描いたもので取り分け知られる存在でありますね。本展フライヤーで左下に配されているものが、まさにリキテンスタインで。

 

 

オハイオ州立大で美術の修士を得た後、各地で教鞭を執ったというリキテンスタイン。ウォーホルがデザイン系であったのに対して、出自としてはファインアート系であったかと思うところですけれど、その点、あるものをあるがままに描いた古典的な静物画を思えば、漫画のコマをあるがままに描くのが常に「果たしてアートであるのか…」と問われたりするも、発想としては静物画などと同じなのかなと改めて。

 

ただ、静物画をあるがままにと言いましたですが、実のところものを配置するレイアウトや画面を切り取るアングル、あるいは見え方に至るまで、画家の思いがあらゆる点に入り込んでいる。決して単純に「まんま描く」ということでもないのですよねえ。実はリキテンスタインもまた、この点でもやっぱり同じであったと考えさせられることに。

 

オリジナル?であるコミックの一場面が作品と並べて展示されているものもあり、解説の指摘を参照しながら見比べて見ますと「なるほどなあ」と思ったものでありまして。これまで、コミックの一コマそのまんまと思い込んでいたところが、リキテンスタインが大画面のキャンバスに描くという大きさの違いのみならず、コマ枠(キャンバス)の形もコマの中の配置(トリミングの仕方やどこをどう強調して描くか)もそのまんまではないという。

 

コミックの戦闘シーンが続く場面から切り取った作品の展示解説に曰く「(忠実な)再現の一方、…本来の緊張感ある戦闘場面からの脱コンテクスト化がなされている」と。コミックの方は物語を語っていく場面場面として描かれているわけで、そこには当然にして流れがある。対して、リキテンスタインの方は一枚のタブロー(あるいは版画)として完結した作品であることが求められておりますよね。そこには、相当に作者の意図が入り込んでいるのでありますよ。

 

パッと見で見比べても、両者の違いを見てとることができる(ま、展示解説に助けられてますが)。何かしらをキャンバス上に再現する、絵画という芸術のありようをリキテンスタイン作品に見た思いがしたものなのでありました。

 

そうしたところに思い至りますと、後にコミック場面とは違う題材を描くようになった時に手掛けた「牛」の連作やら、ピカソ、ゴッホなどなどの先行作品を独自に再現した作品やら、見た目の画風は従来とはかなり異なるような気がするも、発想はやっぱり同根なのだろうなあと思えてくる。

 

さらに、画家としてはそれまでに個性を発揮してきた画家たちの影響から離れたものではないということも。コミック場面を見ているときには考えてもみなかったですが、全体を見通していきますと、そこにはピエト・モンドリアンやフェルナン・レジェ、カンディンスキーやジャン・デュビュッフェらの「既存芸術の影響」があったのであるかとしみじみと。

 

ということで、本展がクローズアップする4人の作家の、二人目を見てきたわけですが、次には最後に残り二人をまとめて思い返すことにいたしましょうかね、ひとつの話でちと引っ張りすぎてますので(笑)。

毎年8月はTV番組に戦争関連が多いと申しましたですが、近隣市の郷土資料館などでも関連する展示が行われておりますなあ。取り分け軍都と言われ、旧日本軍の施設が多くあった多摩地域(今も名残として在日米軍基地やら自衛隊駐屯地がありますが)はなおのことかと。そんな流れにあっては、近隣図書館でも戦争に思いを馳せるような書籍をコーナー展示してあったりもするようで。と、タイトルに「ふ~ん」と思って借りてきた一冊がこちらでありますよ。

 

 

『戦争とミステリー作家 なぜ私は「東条英機の後輩」になったのか』、トラベルミステリーを量産した作家・西村京太郎は戦争に行っていたのであったか…てなふうに思ったわけですが、このタイトル、そして帯に「戦後80年」「アメリカはこの国の何を変えたのか?」「軍国少年が見た日本人の戦争観」と並ぶところを見れば、「ああ、戦争を回顧して、西村なりの考えが記されているのだな」と受け止めてしまう。

 

つまりはまるまる一冊、戦争ものと思うところが、これが大間違い。ちと「戦後80年」に寄りかかって売らんかなという姿勢で、読者をミスリードするのではありませんですかね。

 

そも本書の元は、作者が亡くなる2022年の2年半ほど前、自らの人生を振り返ってぽつりぽつりと書き継いだような新聞連載コラムであって、昭和5年(1930年)生まれの西村がさまざまな思い出と印象を綴る中では当然に戦争の話も出てきますけれど、決してそればかりではない。むしろ東京生まれながら20年ほど住まって暮らした京都の印象を語っているところにもかなり紙幅を費やしていたりしますし。

 

前半部ではなるほど、庶民の肌感覚で戦争について触れていて、次々と舞い込む「大勝利」の方に快哉を叫ぶ軍国少年でもあったと振り返っていますが、大変な競争率の中で陸軍幼年学校に合格し、入学(これをもって東条英機の後輩と言っているのですな。それ以外の関わりは全くありませんですね)したのは、偏に腹いっぱい食いたいところでもあったようで。ある程度の軍国少年ぶりはおそらくそこここに見られた姿だったでしょうし(もちろん善し悪しは別ですが)、それが当時の世相で、「勝つとも思わなかったが、負けるとも思わなかった。延々と戦争が続くだけだと…」と庶民は受け止めていたのでもあろうかと。

 

これまた善し悪しは別ですが、西村は戦後の貧窮状況を思い返して、占領したのアメリカで良かったと述懐しておりましたな。米本土はほとんど無傷(風船爆弾による被害などがありましたけれど)だったアメリカは戦後世界中のどこよりも豊かであって、日本の占領政策に際しても(余剰物とはいえ)小麦などをばんばん送ってくれていた。

 

これがもし、ソ連によって占領されていたならば…と西村は思う。独ソ戦によって消耗著しい状況にあったソ連が日本を占領していたならば、支援物資をもたらすどころか、ありとあらゆるものを日本から奪い去っていったろうと、まあ、そういうことなわけですね。

 

てなぐあいに戦争関係の記述も確かにありますが、戦後、ふいと思い立って作家を志し、数々の文学賞に応募するも芳しい結果が出ない。それでもめげずに投稿を続け、掲載されることはありつつも、どうにも売れない。それでも次々と作品をものしていくようすからは、湯河原の西村京太郎記念館に立ち寄ったときに感じたもの書き職人の姿を思い浮かべたものでありますよ。

 

ともあれ、だんだんと世に知られるようになって初めてもらったファンレターを、送ってきたのがなんと!後の盟友・山村美紗であったようで。ひょんなことから京都住まいとなった西村が、独自の文化慣習に戸惑いを隠せない中、あれこれの助言を与えたのもまた山村美紗であったそうな。

 

それにしても京都というところ、観光で数日滞在するくらいならば、おもてなし精神が発揮されるのか、「ああ、京都、いいとこだったね」で済むものの、これが住む、暮らすとなりますと、ずいぶんと話が違ってくるようですなあ。本書で触れているように「京都には日本人と京都人がいる」てなくらいですしね。いかにもやっかいそうな気が…。

 

ということで、当初の思い込みとは異なる内容ではありましたけれど、取り分け最後の京都のことなどは「そうなんだねえ、やっぱり敬して近づかずのスタンスでいこう」と思ってしまいましたですよ。西村自身は、病気の温泉治療の関係で神奈川県の湯河原に住まいを移しますが、それでも京都住まいを懐かしんでいたようではありますが。

 

と、タイトルで触れた「ペンネームは東京生まれの長男だから」というのは京太郎の名付けの元のお話(苗字の方は知り合いから借りてきたと)。最初はそういうつもりでいたのでしょうけれど、後から振り返って「京太郎」の「京」は「京都」にも通ずと、自ら納得していたかもしれませんですね。

…ということで、『ポップ・アート 時代を変えた4人』展@山梨県立美術館の展示を振り返ってまいります。ここで言う「時代を変えた4人」とはアンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズのことなわけですが、まずは知名度の点で最も有名なウォーホルのことを(展示構成ではリキテンスタインが先に来てましたけれど…)。

 

 

ウォーホルの作品で誰しも思い浮かぶのはキャンベルのスープ缶ではなかろうかと。大量生産大量消費の時代風潮をスープ缶に託した風刺と理解されるところでして、上のフライヤーの左上に配されたマリリン・モンローの肖像も、映画女優と言う存在が大量生産大量消費の風潮を表すものであると受け止められたのでありましょうね。

 

たくさんのキャンベルスープ缶が並ぶ作品では、ラベルに書かれた文字の違い、つまりは缶の中身の違いが同じように見えて同じでない、バリエーションを提示することになっていたりしますが、マリリン(その他の人物肖像)の絵の方は配色をさまざまに変えてバリエーションを生み出したりしている。同じであるのか、違うものなのか、見方次第とも言えましょうが、見る側を揺さぶるところが、大袈裟に言えばアートたる由縁のひとつなのかもしれません。

 

元来、カーネギー工科大で学士号(芸術)を得るも専攻はデザイン系であったというウォーホル、作品はデザインであると言われればすっと入ってきますし、その制作意図に含みがあると聞けばアート然とも見えるわけですね。

 

作品の多くが複製可能なメディアで作られている点でも非常に商業的な側面と親和性が高いわけですが、例えば「シルクスクリーン」の技法を説明する展示解説に、インクのシミや版の擦れなどの点で同一のものを作れないものなのだと言われれば、まあ、そうでもあろうなあと。ただ、そこを根拠に一点ものと言いたかったわけでもないでしょうけれど、作品としての価値は一点ものであること、あるいは希少性によって高まることは事実ですねえ。

 

さりながらウォーホルの考えるところは、そんな俗人が考えるところからはもそっと先を行っているのですかね。版画的技法で作られた作品をよくよく見れば一点ごとに違いがある(それが希少性を生む)ところながら、当の本人は「機械になりたい」てな発言をしたのであるとか。むしろ商業的な大量生産物に求められているような(一点ごとの違いがあってはならない)均一性、均質性を機械は実現するからということでしょう。

 

まあ、キャンベルのスープ缶は近所のスーパーに行けばいくらでも目にすることができる、ありきたり極まりないものでありながら、それを「ポップ」としてこの上なくありが違った当時の世相。ニューヨーク五番街にある百貨店ボンウィット・テラーでは通りに面したショーウィンドウをウォーホルのスープ缶が飾ったりも。それが百貨店らしくプレタポルテの最新ファッションとして、スープ缶模様をあしらったドレスという形で。もはや社会現象のような状況だったわけですなあ。

 

そんな1960年代から半世紀以上経った今、ウォーホルはポップアートの旗手という看板は不動のものとなっていて、オークションなどの市場で作品は高額で取引されるのが当たり前ともなっている。近しいところでは今年2025年春に開館した鳥取県立美術館がウォーホルの立体作品「ブリロ・ボックス」5個を3億円で購入したことが話題になったりもしましたですね。

 

5個まとめてというあたり、ウォーホルの意図した(であろう)大量生産大量消費を展示で示すべく…てなふうに美術館側では考えたようなのですが、制作当時のウォーホルの意図はもはや夙に知られたところとなっていて、3億円という価格の作品実物をつぶさに見なければ大量消費の風刺に思いを馳せることができないわけでもなかろうにと思ったり。

 

その点、制作意図とは別に、結構金儲けの才のあった?ウォーホルの術中に絡めとられ続けているような気がしたものです。「自分の作品ながら、あらら、こんなに大量消費してくれて…」と、ウォーホルの冷笑が浮かんでしまったも。

 

確かにアート作品は「現物を目の当たりにすると、違うよねえ」とはよく聞くところであり、自身もそんなふうに思うことはたびたびあるわけですが、ウォーホルの場合には(その全てが、とは言わないものの)作品そのものよりも、作品制作の意図が伝わることが美術展としては求められるところなのでは…と思ったりもしたものなのでありました。

毎年のことですけれど、8月は戦争に思いを馳せる月とも言えましょうか。先の戦争が終結して80年とは、当時を記憶する人はかなり少なくなってきているのでは。「新しい戦前」という言葉を生んだタモリでさえ、80年前の生まれなわけで。

 

ただ、戦争の記憶にまつわるTV番組が増えるのも毎年のことですなあ。先日もNHKで『映像の世紀 高精細スペシャル』という3回続きの番組がありまして、これはもっぱら欧州大戦の話ではあるも、テヘラン会談の駆け引きなどを思えば、世界大戦の一翼に日本があってしまったことを思わずにはおれないわけですね。

 

英米をはじめ連合国軍はナチスに欧州大陸から押い出されたままになっており、正面切って独軍と対峙しているのはソ連軍だけではないかと不平を募らすスターリン、欧州大陸への再上陸に気乗りせず独ソの消耗戦をむしろ望ましいとみているチャーチル、一方で対日戦にソ連を引き込みたいルーズベルトはチャーチルをなだめて大陸への再上陸を約束するといった駆け引きには、日本軍の存在が影を落としているわけで。

 

これによって、後のノルマンディー上陸作戦は実行に移されることになりますが、先の番組の中では連合国軍最高司令官のアイゼンハワーがこの作戦展開に際して「5万人の兵員の犠牲」を覚悟していたてなことが紹介されていたような。

 

5つの上陸地点でそれぞれ被害の軽重はあるも、結果として想定を遥かに下回る損害(2000人とか…)で済んだことが伝わるわけですが、5万人とか2千人とか、これった単なる数字ではない、人の命であるのになあと思ったものです。

 

これに加え、上陸に先立って連合国軍は海岸近辺の村や町に爆撃を繰り返したのであるとも。上陸地点を独軍から推測されないように、ノルマンディー地方から離れた地点まで含めて空爆し、その被害は民間人にも及んだというのですね。

 

それが戦争だから…と言えばその通りなのでしょうけれど、そういうものであるとするならば、どう考えてもやってはいけないことだろうと思わずにはいられない。人の命を単に数として、平然と見積もったりする状況があっていいはずもないですよね。

 

とまあ、そんな今さらわざわざ口に出して言うこともないこと(それでいて、タモリをして「新しい戦前」と言わしめる空気は確かにあり…)ではありますが、そうした折も折、『オペレーション・ミンスミート ナチを欺いた死体』という映画を見たのでありますよ。

 

 

話は、ノルマンディー上陸作戦に先立つシチリア上陸の前夜、やはり上陸地点をナチに気取られたくない英国側では「ミンスミート作戦」を立案実行したという史実に基づく内容でありました。

…「オペレーション・ミンスミート」と命名されたその作戦は、「イギリス軍がギリシャ上陸を計画している」という偽造文書を持たせた死体を地中海に流し、ヒトラーを騙し討ちにするというものだった。(映画.comの解説・あらすじより)

この作戦のことは戦後長らく秘匿されたということでして、その理由のひとつには死体を利用したということにもありましょうかね。もはや生きてはいないにもせよ、他の生き物と異なって「死」にも尊厳を意識するのが人間でしょうから。

 

映画の中でも、身元不明として作戦に利用(?)されることになった遺体を巡って、作戦決行目前に現れた近親者に対して、遺体がどうされるのかも伝えられないことに、実行側にもいささかの逡巡が見られたような。それも、戦争に勝つため、御国のためといったような理屈で抑え込まれるのですけれど。

 

そのことには見ている側としても砂を噛むようなじゃりっと感が残るわけでして、それはやはり人の死を特別なものとして受け止める(くどいですが他の生物ににありませんですね)人間だからということがありましょう。

 

死者に対してさえそうなのですから、ましてや生きている一人一人を単に数として見るような(その状況下においてそれを仕方がないとさせてしまうような)戦争という状況は、それにどんな大義を被せようともあってはならないことですし、準備をすること自体にも危うさはあろうかと。

 

かようなことは長年の平和ボケ以外の何物でもないと見る向きもありましょうけれど、ボケるくらいに平和であったのであれば、それに越したことはないわけで、それが長く続くことこそを考えたいものではなかろうかと思ったりしておりますよ。