さて、旅立ちの経緯というか、顛末というか、そのあたりはざっくりと先に触れてしまいましたですが、改めて旅のこまごまを振り返っておこうかと。

 

タイトルに「岳南富士見紀行」とは、実際に富士を存分に望めたわけでもありませんから、当初の目論見ではそうだった…という程度と思召していただけましたら幸いでございます。何しろ、新横浜から乗車したこだまが三島を通り過ぎた折、すでにして富士山の姿はこんな感じだったわけでして…。

 

 

ともあれ、今回の旅は富士市を中心にとなれば、こだまを新富士で下車するというのが本来でしょうけれど、初日はちと静岡まで足を延ばして寄り道を少々。静岡市には何度か赴いておりまして、都度都度立ち寄ろうかと思いつつ、不便なところにあるので叶わずにいた「タミヤ歴史館」を覗いてみることに。

 

「タミヤ」と聞いてご存じの方は限られるかもですが、昭和の子供には馴染みあるプラモデル・メーカーなのでありますよ。そのタミヤを始め、数々の模型製造メーカーを擁する静岡市は「ホビーのまち」、「模型の世界首都」を標榜しておりますしね。

 

 

静岡駅南口(駿府城のある側とは反対側の観光的には地味な出口?)には「静岡ホビースクエア」なる施設がありまして、ここには以前に立ち寄ったのでしたっけ。ま、その頃から懸案事項であった「タミヤ歴史館」にいよいよという次第でありますよ。

 

同社HPに案内のある最寄りバス停から灼熱の下を歩くこと約7分、株式会社タミヤ本社に到着となります。陽光にきらめくタミヤの二つ星マークを目の当たりにしますと、些かなりとも心ときめく瞬間となったことは、子供の頃にプラモデル作りを経験したことのある方々には想像できようかと思うところです。

 

 

と、ここまでタミヤを持ち上げておいてなんですが、実のところタミヤの模型を実際に作ったのはもしかすると一度きりであったかも。精巧に再現された、質の高い模型はそれなりの値段がしたのでしょう、子供の小遣いでそうそう手に入れられなかったように思います。

 

で、もっぱら作っていたのはどこの製品とも知れぬ、比較的廉価なものばかりだったと記憶するものですから。つまり、タミヤの模型は手の届きにくい憧れの存在とでもいったらいいのかもしれません。そんな模型の数々が一堂に会した展示には「これ、欲しかったんだよなあ」と思うばかりでありましたよ。

 

 

一方、「1946年の創業から時代とともに歩んできたこれまでのタミヤ製品を紹介する」と同時に、いくつかのジオラマ作品も展示されておりましたなあ。例えばこのような。

 

 

 

プラモデル作りと言えば、単体の車両などを設計図に基づいて組み上げれば出来上がり!となるわけですが、ジオラマ製作は複数の模型を組み合わせて何らか、ある情景を作り出そうというものですな。おそらくは子供向け漫画雑誌などでも、プラモ作りをするなら「いつかやってみたいジオラマ作り」といった特集記事が出ていたりしたのではなかったかと。

 

そんな唆しに幼気な子供はすぐに釣られるわけでして、「おお、ジオラマ、かっちょええのお」と。ですが、上のジオラマをご覧になっても分かりますように、キットを組み上げておしまいではなくして、リアルな着色を施したりするのが踏み出すべきはじめの一歩なわけです。これにちゃあんと取り組むか否か、ここが後々まで、場合によっては大人に至るまでも模型作りを趣味とするかの分かれ目かとも思うところです。

 

 

歴史館とは別室のショールームを覗いてみれば、専用塗料にもいろいろな種類があるようですし、はたまた本格的なモデラー(模型作りをする人をこういうらしい)が使う工具類もこれまたさまざまであるのでありますよ。

 

 

やはり少年誌の記事だったか、プラモをきれいに作るには部品を枠から切り離す際、(上のショーケースにあるようなニッパーを使うのが良いわけですが、せめて)爪切りで切る方法が紹介されて、これは実践していたこともありましたなあ(笑)。

 

ただ入れ込んだ程度はそのあたりどまり。とても専門的な工具に手を出すまでに至らなかった子供が今となっては、ブランド「タミヤ」が会社として辿った苦闘の歴史を紹介するあたりに興味津々で眺めいっていたという。長くなりましたので次回送りにいたしますが、「タミヤ、その苦闘の歴史」は振り返っておきたいところなのでありますよ。

ちょいとお休みを頂戴して静岡に行ってまいりました。気象状況の点から言えば、いやはや何とも思い通りにはいかぬ結果に終わったと申しましょうか…。天気を恨んでも仕方がないのですけれどね。

 

このほど出かけた旅の目論見は実のところ、3月に澤田瞳子の小説『赫夜(かぐよ)』を読んだことに端を発しておりまして。巻末の参考資料の中に静岡県富士市の富士山かぐや姫ミュージアムの名が挙がっていて、「ほお、そんな施設があったのであるか」と興味を持ったのがひとつ。

 

そして、富士を眺めるのに中央本線が近しい存在である者にとってはとかく山梨県側からばかりであるので、この際静岡県側からもじっくりと思ったことがもうひとつ(このところは東海道新幹線でびゅっと通りすがりに見るばかりでしたので)。

 

ということで、この際じっくりと富士市を歩き回ってみようかいねと思い立った次第ながら、3月当時は1月に発症した腰痛をまだ治療中の段階ですぐには出かけられず。その分、入念にプランニングをして、5月にいよいよ出かけようという段になったものの、4度めのコロナ罹患により敢え無くキャンセルすることになってしまったのですなあ。

 

それにしても、いい加減、4度も罹るか?と思い、ただの風邪とも判別しかねたわけですが、コロナ後遺症らしき抜け毛がまたもや…てなことでもあり、「ああ、やっぱり」と。2~3カ月経って生じるこの後遺症、さすがに4度目ともなりますと、もはやつるつるてかてか頭になってしまうような気も…(苦笑)。

 

と、余談はともかく、コロナを乗り越えて6月を迎えますと、誰しもご記憶のとおり酷暑の予感が始まっており、7月、8月の耐え難い猛暑が訪れたのでありました。その炎天下には、うろちょろ歩き廻る旅などしている場合ではない、何せ毎度のようにTVニュースなどでは「外出を控えてください」などと言っておりましたしねえ。

 

てなわけで、またしても旅のプランはお蔵入りか…(実はそういうプランがいくつもありまして)と思いかけたつい先頃、TV朝日『題名のない音楽会』を見ていて「そうだよなあ」と思うことがあったのですな。

 

内容はアマチュアの楽器奏者がプロ・オケと共演する機会を提供するというものでして、オーディションに参加されていた方の一人、ホルン奏者の方が語った応募動機に「ほんとにねえ」と。その方はプロ・オケとの共演を夢見て「いつかは応募したい」と思っていたところ、思いのほか早く母親の死に直面することとなって、「いつかは…」の「いつか」は無いのかもと気付かされたようすなのでありましたよ。

 

ついでにもひとつ、これまた先日、NHK『知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?』で取り上げられた認知症の話からしても、先のホルン奏者の方以上に「いつかは…」があるわけではなさそうであるなあとも。結局のところ、今後はなお一層に「思い立ったが吉日」を実践していくのがよいのだろうと思ったものなのでして。

 

それにしても、ちょいと旅行に行くかどうかというだけの話がやけに大袈裟になってますが、こうしたいきさつを経て、ようやっと重い腰をあげたという次第…なのですが、それにしても初日、二日目、暑かったですなあ。当初の歩き廻り主体プランをその場その場で大幅修正して乗り切ったという。

 

で、二日目の夜中、静岡地方は大変な豪雨、雷雨に襲われ、朝までには雨はあがっていたものの、東海道線は富士~熱海間が不通になっておりましたよ。静岡方面から熱海へでも行こうとしていたのか、外国人観光客がたくさん富士駅で停滞を余儀なくされ、「いったいここはどこの国?」といった状況にも。

 

 

この三日目の静岡地方は、大気の状況が不安定で雷雨が予想されているとなりますと、前の晩の豪雨が思い出され、なかなかに身動きが取りにくい。そもそも富士のお山をあちこちから眺めるつもりも、およそ常に雲の中に隠れており、三日目の朝早くこそすっきりとした姿を見せたものの、すぐに笠雲がかかり始めてしまい.…。

 

 

パーシャル・マウンテンビューであった?ホテルの窓から見るとこんな具合。笠雲は観天望気で雨の予兆とされていますけれど、この後みるみる富士全体が雲に取り巻かれていったのでありましたよ。

 

そんなわけで、この日も歩き廻るのに難がありそうな。朝段階で雨が降ってはおらないものの、すでに気温は急上昇中になっておりましたしね。思い立ってというか、思い切ってというか、出かけてみたものの、なかなかに思い通りにはいきませんですねえ。

 

もっとも東海道線上り方向が不通であったこともあり、帰路に別経路を選択したおかげで首都圏の豪雨被害に直面することは無かったのは、個人的には幸いなるかな。ま、それは後のお話となるわけですが、思うに任せぬ経過をたどったとはいえ、旅先のあれこれはやはり振り返っておきたいところ。この後、ちらちらと触れてまいりたいと存じますです、はい。

アイヌの人々とその文化に些かの関心を寄せたのは、そも松浦武四郎の存在を知ったことからだったですかねえ。その松浦武四郎は自らの見聞から、アイヌの人々が和人のもとで過酷な環境に置かれた(男性は強制労働に駆り出され、女性は慰みものにされてしまう…)ことに触れて、こんな一文を残しておるのですな。

…それ(過酷な環境に放りこまれること)を拒むとひどい目にあわされるので、泣く泣く彼の地で日を送っている有様です。ですから、寛政年間は二千を数えていた人数も、今はその半ば足らずにに減り、このままではあと二十年もすればアイヌの種が絶えるのではと案じられ、誠にもって情けない限りです。

松浦武四郎は幕末の人で「北海道」という地名の名付け親として知られていますけれど、幕末から明治にかけてアイヌの人たちが置かれた状況の一端を伝えておりますですね。また、それ以前に北方探査を行った最上徳内を扱った小説『六つの村を越えて髭をなびかせる者』などを読んでも、幕藩体制下で蝦夷地(の一部)を治めた松前藩が、明らかにアイヌを蔑んでいたようすがありあり。

 

ですので、とりわけ江戸期のようすばかりを思い浮かべてしまいがちでしたですが、15世紀半ばにはアイヌの長であるコシャマインが蜂起するなど、和人とのいさかいは江戸期の遥か以前から繰り返されていたのですなあ。

 

先ほど触れた松浦武四郎のひと言を巻末においた武川佑の小説『円かなる大地』は、コシャマインの戦いからおよそ10年後、アイヌと和人の諍いが小規模噴火を起こしていた頃を背景に話が語られるのでありますよ。本州ではいよいよ戦国時代の動乱が激しくなっていく頃合いです。

 

 

結果から言えば、本書の帯にも書かれてありますのでネタバレではないでしょう、アイヌと和人の間の「歴史上たった一度の和睦」を目指し成就されるお話ですな。画期的な協定が結ばれるわけですが、それが決して長続きしなかったであろうことは、すでに江戸期の状況を見てきて想像が付くところですが…。

 

しかしまあ、とかく戦争のことなどにも関わって、人種や宗教などを超えて「どうして仲良くできないのであるかなあ…」と思うことしばしであるも、それが「難しいであるな」と思い知られることにもなりますですねえ。

 

本書の中、アイヌと和人との対話でアイヌ側から和人の悪逆非道が口々に語られる中、アイヌ女性と結婚し子どもも生まれている和人の武士・平八郎をして「良い和人」もいるという意見が出た場面で、当の平八郎が自らこんな言葉を吐くのでありますよ。

…わたしだって、子が和人として生きるか、アイヌとして生きるか、大人になったとき彼ら自身に任そうなどと対等な振るまいをしているようで、その実対等ではない。父は武士として禄を頂戴し、子らはここ浪岡の地で、和人に囲まれ和人の暮らしをして育っている。アイヌの村へは二、三度帰るだけ。現に子らはおなじ年頃の子ほど、アイヌの言葉が達者ではない。けっして五分と五分ではないのだ。それでもわたしは良い和人か?

およそ平八郎にはアイヌに対する差別意識は微塵もない。ですが、例えば自分の子どもたちの育て方についてはこんなことになってしまう。そこには、武士として主君に仕えるという生き方を支える生活様式(当然に和人の)を変えていないことがあるわけで、結果として対等を実現してはいないのであると、平八郎は気付かされたのですなあ。

 

現代においても「マイクロアグレッション」といった言われようがあるくらい、難しいことではありましょうけれど、ソクラテスの「無知の知」ではありませんが、知っている、気付いただけでも平八郎はましとは言えるのかもです。

 

そんなことからも、そうそう簡単に誰しも仲良くできるわけではないのであるか…と思ってしまうも、それでもさまざまに知見を、そして対話を積み重ねることで対処はできるのではなかろうかとも。今現在も世界のあちこちで対話を放棄して、武力を用いるなどの方法で相手を屈服させようとする状況が続いていますけれど、やっぱりそうではないありようがあるのではないですかね。それこそ、アイヌ文化の「チャランケ」を取り入れてみたら?…と思ったりしたものなのでありました。

 


 

と、かような本を読みますと、9月になって尚いつまでも暑い日々だけに北海道にでも行きたくなるところですが、全く方向違いの静岡方面へ出かけてまいります。ですので、少々お休みを頂戴いたしまして、次にお目にかかりますのは9月12日(金)あたりになろうかと。その節はまたどうぞよしなに願います。

 

酷暑続きでしばらくご無沙汰になっておりましたクラシック音楽の演奏会@秋川キララホールに出かけてきたのでありますよ。8月あたまにシャルパンティエのミサ曲を聴いて以来ですので、ゆうにひと月は経ってしまい…。

 

ま、今回は演奏会といっても、レクチャー&コンサート『ラフマニノフとブラームスを学ぶ』というものでして、前半レクチャー(実際のところは演奏者たちによるトークの趣でしたですが)、後半演奏という内容で。

 

 

それにしても、ラフマニノフとブラームスを組み合わせて「学ぶ」とは?と思いましたところ、10月初旬に同ホールでもって東京交響楽団の演奏会が予定されており、それが『ラフマニノフとブラームスを聴く』としてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番とブラームスの交響曲第1番というプログラムであって、要するに「番宣か?!」と。両作曲家を結ぶ何かしらをレクチャーで解きほぐしてくれる…といった話では、全く無いのでありました…。

 

演奏を担当したのは弦楽四重奏団のクァルテット・エクセルシオですので、前半トークの中でブラームスのハンガリー舞曲第5番とラフマニノフのヴォカリーズ(それぞれ編曲版)で取り上げてたほか、後半のメインプロとしては、ラフマニノフの弦楽四重奏曲第1番(未完)とブラームスの弦楽四重奏曲第1番を聴くことができましたので、これはこれで良しということに。

 

それにしても、ラフマニノフの弦楽四重奏曲とは?!ですけれど、あいにくと会場配付のプログラムには楽曲紹介が全くありませんでしたなあ。そこで後付けでネット検索にも頼ることになりましたが、ラフマニノフが弦楽四重奏曲を手掛けたのはモスクワ音楽院在学中のことであったと。作曲技法修練の一環であるのか、「こういう曲も書けなくてはいけんよ」と課題にでも出されたのですかね。

 

ですが、未完と言われるとおりにロマンスとスケルツォ(一般的な曲構成からすると、第2、第3楽章にあたりましょうか)が残されたのみで終わってしまったようですな。若書きの断片ということになりましょうかね。

 

でも、演奏されたところを聴いてみれば、なかなかにいい曲のような。レクチャー段階で、ラフマニノフらしい印象というよりはチャイコフスキーを思い出させる…的な紹介がありましたですが、なるほどねえと思うところです。希代のメロディーメーカーであったチャイコフスキーの衣鉢を継ぐのは「おれだもんね」という気概が感じられそうでもありましたよ。

 

とはいえ、これに続いてブラームスの弦楽四重奏曲が演奏されますと、いやはやなんとも厚みと奥行きが全く違う。ラフマニノフの曲が若書きであると一層強調されてしまうような印象もありましたですねえ。同じく先人の衣鉢を継ぐといってもブラームスが意識したのはベートーヴェンであって、意識するのが強過ぎる余り、交響曲第1番の作曲には20年余りの歳月を要したとは夙に知られるところですが、弦楽四重奏曲第1番の方も8年近くを費やしたそうな。

 

ただ、時間をかけた弦楽四重奏曲が完成できたことで3年ほど後、ようやっと交響曲第1番を完成と言える至る弾みがついたかもしれません。何しろ両者はよく似た空気をまとっておるなと、一聴して感じたもので。

 

てな流れで行くとラフマニノフの曲が可哀想になりますけれど、今や必ずしも作曲技法へのこだわりをもって音楽を聴くばかりではないですので、美しいメロディーだけをとってももそっと聴かれても、つまりは演奏されてもいいような気がしましたですねえ。

 

ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』はシンフォニック・ジャズの礎を築いたといわれる一方で、その作曲技法のほどを指して、結局のところ、オケとピアノが交互に登場してくるだけと言われてしまったりするわりには、演奏される機会がとても多いといった例もありますしね。

 

そうは言っても、弦楽四重奏団のレパートリーと定番化していくことはなかろうと思いますので、アンコールピースとしてもそっと聴かれるようになったりしないかなあとは思ったものでありますよ。

『ごみと暮らしの社会学』を振り返っておりますときに、ふいと思い出された映像がありまして。とある漁港で魚が水揚げされる場面ですが、大型魚を次々は陸に運ぶ一方で、残った大量の小型魚を海に投棄しているのが映されておりました。

 

日本でもいわゆる雑魚といいますか、本来狙っていたのでない魚、取り分け消費者にとって馴染みのないような魚(つまりは買値がつかない、売れない)は打ち捨ててられてきたのでしょうけれど、近頃はそうした中にも調理の仕方によっては実はおいしく食せるような種類もあって、未利用魚などという呼ばれ方で積極利用を図る動きがあったもするような。

 

と、ここで思い出した映像は日本の漁港ではありませんし、投機の量も尋常ではないのですな。ところはアフリカのガーナの港、映像の元はちょいと前に(BSスペシャルを地上波で再放送した際)見たNHK『デジタル・アイ 暗黒船を追え』という番組のものでありました。

 

「暗黒船」とは何とも怪しげな言葉であるなと思うところですが、「IUU漁業」という違法行為に携わる船のことを暗黒船と言っておるようで。ちなみに「IUU漁業」というのは、魚食普及推進センターHPの至ってやさしい解説によれば、こんなふうにあります。

わかりやすく言うと、密漁や、ルールを無視して自分勝手に獲っている状態の事で、国際社会・水産業界全体が無くそう、追い出そうと考えている漁業です。
Illegal    : 違法・法律違反等の犯罪。他国の海での漁、密漁(泥棒)
Unreported : 無報告 何をどれだけ獲ったか報告せずに獲っている状態。
Unregulated : 無規制 ルールを決めずに自分勝手に獲る。決められた量以上に獲って報告しない等。
個人・企業で行う場合もあれば、国の方針として行っている(止めさせない・やめさせられない)場合もあります。どうにかしたいものですが・・・。

つまり、どこの国の領海だろうとお構いなし、資源保全のために一定の漁獲量制限があってもお構いなし、しかも乗組員には低賃金、重労働を強いてもお構いなしなどなど、なんでそんなことをするかいね!と思わずにはいられないことが行われているのであると。されど何故にそんなことが?と思えば、商売になるからなのですなあ。NHKの番組紹介ページには「ニッポンの食卓に欠かせない魚。魚の5匹に1匹が規制を無視したIUU漁業=違法・無報告・無規制だといわれているにまつわる」とあるくらいで、平然と流通しておるようで。

 

で、番組ではそんなIUU漁業に携わる船を監視・追跡する国際間の組織協調を紹介する一方で、ようやっと先のガーナのお話に到達いたします。

 

ガーナでは中国から支援を受けて大々的な港湾設備の改修が行われ、漁業関係者は使い勝手がよくなったと喜ぶのも束の間、地元漁業が比較的小さな船で日常の食卓に欠かせない小型魚を獲っていたところが、近代的な港湾設備を中国の大型船(船籍は便宜的置籍船として)他国に置いているようですが)が我が物顔で利用するになってしまったと。

 

でもって、行われるようになったのは先にも触れましたのように、海中を根こそぎして小型魚を大量投棄するというシーンが示す状況であるとは。投棄される小型魚こそガーナの人たちにとって日常食であるにもかかわらず。ま、このこと自体、中国という国が「国の方針として行っている」のではないにもせよ、「止めさせていない」のでもありましょう。その点ではやはりIUU漁業に当たることになりましょうね。

 

酷い話もあったものですが、中国の資金援助で行われることの全て、一事が万事ではないのでしょうけれど、ちょいと前に目にすることとなったマレーシア、マラッカの壮大なる夢の址?のことを思い出したりもしてしまいましたですよ。いやはやなんとも…。

 

ところで、日本の食卓にのる魚の5匹に1匹はIUU漁業由来となりますと、おちおち魚料理も食せなくなるような。安売りがあれば、なにもかも値上がりばかりのご時勢にあって、ありがたい!と飛びついてしまいがちですけれど、安い魚にはからくりがあると考えると、喜んでばかりもいられない。ですが、単なる消費者のひとりとしては、何事につけ、こうした違法行為にもよるからくりに絡めとられていくしかないのでしょうかねえ…。

「(IUU漁業を)減らすために世界中の関係者が頑張っています。消費者の皆さんは、応援したいモノ、応援したい場所のモノを購入する事が後押しになります。値段ではなく、ルールに沿って手間をかけている人たちが漁獲した魚を選んで購入してくださいネ。

先ほど触れた魚食普及推進センターHPでは消費者に対してこんな呼びかけをしていますけれど、適正な手段で漁獲された魚であるかどうかを、分かりやすく示してくれるものがあると有難いですなあ。ひとつとして「水産エコラベル」、「海のエコラベル」てなものがありまして、もっぱら環境配慮が主眼ながら、水産物を選択する際の材料にはなりそう…ですが、あまり普及してなさそうなのが難点かと…。