甲府に出かけて山梨県立美術館の展示を見てきた…と言いつつ、うっかりと話は美術館のある芸術の森公園のところで止まってしまっておりました…。改めて現在の特別展『ポップ・アート 時代を変えた4人』の振り返りでありますよ。

 

 

時代を変えた4人として名前が挙がっているは、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズといった面々、いずれ劣らぬポップアートの旗手たちということになりましょうけれど、彼らをまとめて本展では「The FAB4(Fabulous four)」と呼んでおりましたな。

 

元来、「The FAB4」とはビートルズの4人を指すとは夙に知られたところらしい(知りませんでした…)のでして、ポップアートが華麗に花開いた時代がまさしくビートルズの時代に重なることから擬えたものであるようで。

 

ただ時代の空気は、単に「ポップカルチャー」といういささか浮かれた雰囲気の言葉が想像させる以上に、公民権運動や反戦運動、それと結びついたヒッピー文化が示した思潮とも大きく関わっていることを表しているのでしたか。

 

このあたり、しばらく前にNHKで放送されていた『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』を思い出したりも。ま、番組自体は1950年代から21世紀の始まりまでを広くカバーしていたわけですが…。

 

と、ここでちとフライヤーにあるポップアートの紹介文を見ておくといたしましょうか。

1960年代、アメリカなどを中心に発展した芸術動向、「ポップ・アート」。大量生産された商品、広告やコミック、著名人のポートレートなどをモチーフに、現代生活や大衆文化テーマとした作品は色鮮やかに、そして時には社会風刺的に表され、その後の芸術の方向性を大きく変えました。

ひとまとめに言ってしまうとこのようなことになるわけですが、例えばビートルズとローリングストーンズの音楽は、出てきた背景となる空気に共通性があるものの、やっぱり当然に異なるものであるように、ポップアートとして括られる作品群もまた作家の個性によって大きく異なるものでありますね。

 

ポップアートは「内省的で自己中心的な抽象表現主義へのアンチテーゼ」として捉えられるものの、「未来派やシュルレアリスムのような」、創作活動の底流を成す宣言があったわけではありませんので、それぞれ個性の赴くままとなるのは当然かと。時代を包む空気を共有していることこそがポップアートのまとまりといえばまとまりなのでしょう。

 

というところで、ウォーホルに始まる展示を見ていくわけですが、ここから触れだすと長くなってしまいそうですので、あれこれ感じたあたりのことはまた次の機会に。

 

ちなみに、展覧会の最後の方では「FAB 4」に加えて「another 4」とでもいうべき、「ロバート・インディアナ、ジェームズ・ローゼンクイスト、トム・ウェッセルマン、ジム・ダインも合わせて紹介」されておりました。先の4人に比べると、一般的な知名度ではやや劣りましょうけれど、筆頭のロバート・インディアナはニューヨークの街角で見られる「LOVE」の文字をデザインした造形が代表作で、「ああ、あれね!」となろうかと(東京の西新宿にもありますし)。

 

これを見るだけで、ポップアートがいわゆる(芸術的な)アートと(商業的でもある)デザインとの垣根をまたいでいることが想像されますですよね。とまあ、そんなポップアートのお話、また次に続くということで。

昨年以来「令和の米騒動」などという言葉が聞かれるようになっているご時世だけに、今年2025年3月刊行とは時事ネタ寄りの話かも…と思いつつも図書館で借りてきた『政治の米・経済の米・文化の米』なる一冊。実は副題に「稲と米で読む日本史」とあるとおりに、縄文から弥生へ、日本に稲作が定着するあたりから始まる、稲と米でたどる日本史の本でありました。興味深いところは多々あれど、読了まで妙に時間がかかってしまったのは、日本史知らずの故でもありましょうかね。

 

 

ともあれ、日本の政治経済、そして文化にも米という存在が常に大きく関わってきたことはよおく分かりました。ヤマト政権の大王が世俗的に政治を司る王であったともに、稲作の豊穣祈願にも関わる祭祀の王でもあったのですから、さもありなむ。ですが、政治にしても経済にしても、そのままその後の天皇に続いていく大王家が握り続けていたわけではないことは、歴史を見れば明らかなれど、そこに稲作、米の関わりがどうあったかを示唆してくれるわけでして。

 

そんな中で、ちと時代はずずいと下りますけれど、武士の台頭というのも、班田収授法以来、あたかも私有化されたような土地の自立性が増して、土地土地の収穫物を武装して守る存在が大きなものになっていったから…とつながっていくのは、日本史の授業を用語や年号の暗記だけで済ませてきた者にとっては、今頃になって「そうだったんだねえ」と思ったり。

 

ちなみにWikipediaの項目「班田収授法」には「班給を受け耕作する者は収穫物の中から田租を税として国へ収納し、残りは自らの食料とした」とありまして、この頃に自らの食料とした「残り」というのが、どれほどあったのかとも。歴史的に農民はすべての人が生きていく糧を生産しているにもかかわらず、どの時代も決して厚遇されることはなかったように思えますし。

 

取り分け、石高制が厳格になっていた江戸期、幕藩体制の時代には、トップに立った徳川家康からして「百姓は生かさぬように殺さぬように」と言ったとかいう話もあったりする(諸説あるようですな)。ですから、都市部の人々、お江戸の侍も町人も農民の上がりとしての米を食うことで生活していた(もちろん食えない人もいたでしょうけれど)一方で、農民の方は年貢を搾り取られた上に残ったとしても、最大の換金作物である米は生活必需品を贖うために売却し、自らは米以外のものを食してしのいでいたのであると。

 

しかも、その構図(生産者自身が米以外の者を食す)は明治になっても大正になっても、昭和の線前期まで(程度の差はありましょうものの)続いていたことが、本書所載の聞き取り調査結果で示されておりましたよ。

 

で、戦後の食糧事情が著しく悪化したのは徴兵によって生産者が減ったこともありましょうし、敗戦後に外地から復員する、あるいは引き上げてくる人たちがたくさんいたことで必要量が増大したこともありましょう。そこへ手を差し伸べたのがアメリカで、麦やら畜産品やらを持ち込んでくれたことには感謝しなくてはならないでしょうけれど、結局のところ、学校給食ではパンと牛乳(脱脂粉乳)が定着することで、日本の食生活が多様化した、つまりは将来的な米需要の減少を招くことになったとは、当時の政策では見通せないことだったようですよね。

 

実際に米をたくさん作らねばという政策がとられて、例えば戦後12年を経た昭和32年(1957年)、秋田県の八郎潟干拓事業が開始される。1964年に新しくできた土地が大潟村となって、米増産の担い手の入植を促したりしていったわけで。

 

それが、先行きの読み違えか、国では1970年に減反政策に転じるのですから、やっぱり農民は翻弄され続けのような気がしますですよね。以来半世紀あまり減反の方向性で来たのを、俄かに転換するといっても現実は難しいでしょうなあ。相手は植物という生き物であって、そこには馴染む土地が必要なわけですから、一時止めた工場の生産ラインを再稼働するてなことよりもずっと難しいのではなかろうかと思うところです。

 

思い出されるのは昨年訪ねた山形県で歯抜け状態のように水田と畑がまだら模様を描いているようすでありましょうか。乗っていたタクシーの運転手さん曰く「減反で、蕎麦や豆を作っている」ということでしたが、長い時間をかけて蕎麦や豆に馴染む土壌にしてきたのを、また米にとは即座にいかないでしょうしねえ。

 

まあ、ひたすらに米を消費するばかりの者がとやかく言えた義理ではありませんですが、ここまでの間で本書にある稲作や米にまつわる文化的な側面にちいとも触れてこなかったものの、今やかなり薄れつつあるとはいえ、長い歴史の中で培われた文化を振り返っても、日本という国はずいぶんと遠いところ(?)

に来てしまったのであるなあ…とも。

 

んじゃあ、いっそ農業をやるか!てな話ではないにせよ、あれこれ考えどころのある一冊でありましたですよ。

ちとお休みが長引いてしまいましたですが、両親は老人にありがちな「エアコンなんて必要ない」てな思いにとらわれることなしにガンガン冷やして、いつも以上に元気に過ごしておりました。取り敢えず何より。

 

と、それはともかくとして、帰宅後にまた録画が溜まったTV番組などをちょこちょこ見ておりました中、Eテレ『サイエンスZERO』で取り上げていた「球状コンクリーション」なるものに「!?」となったのですなあ。

 

海の中で死んだ生物の有機物が周囲の物質と化合して、球体状のカプセルのようなものにくるまれてしまう。これが非常に硬いものであるらしく、地盤の隆起などによって海中から陸上に出てくると、廻りの土壌は浸食やら風化やらで削られるものの、球状コンクリーションの部分だけ丸いままその姿を晒すことになるのだそうで。ですので、割って中を見れば、元々の有機物を出した生物の化石が入っている…となれば、天然のタイムカプセルということになろうかと。

 

長い間、球状コンクリーションの出来る仕組みが分かっていなかったところ、ついにこれが解き明かされた…というのが、番組の紹介点のひとつですね。詳しいことは番組でコメントしていた名古屋大学・吉田英一教授の研究室HPにありますので、ご興味があればどうぞ。

 

ところで、世界中で発見されるという球状コンクリーション、おそらくは日本でも見られる場所があるのであるかと思えば、結構あちこちで見られるような。ちなみに最大級のものは日本にあって、中にはクジラの化石が入っているとか…。ジオパークになっている秋田県、男鹿半島では鵜ノ崎海岸というところに丸い岩がごろごろしているそうですので、機会があれば、見てみたいものですな。

 

とまあ、科学の知見、新発見が伝えられた一方で、番組ではコンクリーションの性質を応用した研究を「人類の課題を解決!?」てな触れ込みで紹介もしておりましたですが、これには「うむむ…」と。要するに、頑丈なだけに「放射性廃棄物の封じ込め」ができるんでないのということなのでありますよ。

 

東日本大震災で甚大な被害を受けた福島第一原発のことを、世の中は風化させる速度がやたらに早いのは原発の再稼働ありきなのかと思うところですけれど、実際にはほんのちょっとデブリ取り出しでさえ何年も掛かっているのですよね。

 

一朝事が起これば、もはや人間の手出しの叶わぬことが起こると分かっているのに、核のゴミ処理=放射性廃棄物の封じ込めができれば人類の課題が解決するかのように伝えるありようには、どうしたって「うむむ…」となってしまうわけで。

 

封じ込めた上で地下深くに埋めるのだということですけどね、思い出すのは喫煙者にマナーを促すJTの広告だったりします。結局、こういうことなんでないのですかねえと。

 

 

自然にできる球状コンクリーションを割ると中からは昔々遥か昔の生物の化石が出てくるということですけれど、後々遥かの後の人類(がいるのかどうかは分かりませんが)が「なにやら地中深くに筒状のコンクリーションがたくさん埋まっている」と発掘したらば、出てきたのは大量の放射線でした…てなことになったりしないという保証は誰にもできないことでしょうに…。

2009年とあってはもう16年も経ってしまっておりましたか…。古楽アンサンブル「コントラポント」の名を目にして、「一度聴いたことがあったなあ」と思い出したわけですが、そんなに経っていようとは。

 

ともあれ、そのアンサンブルによる演奏会が比較的近所のJR中央線・武蔵小金井駅前のホールで開催されることを知り、出かけていったのでありました。

 

 

16年前の演奏会@トッパンホールは12月24日の開催で、「17世紀パリのクリスマス」を再現するような内容だったものですから、心持ちがほっこりあたたかになったことを記憶しておりますが、今回のプログラムはマルカントワーヌ・シャルパンティエの作品を集めて「聖母被昇天のミサ」を再現するような構成でありましたよ。聖母被昇天の祝日とは8月15日、奇しくもお盆と同時期であったとは。

 

会場の小金井宮地楽器ホールがきっちり冷房が効いているから…ということばかりではなしに、暑い最中に行われた演奏会、前回は冬場でほっこりだったですが、今度は心持ちが清々しくなるような演奏でありましたよ。

 

日本にも古楽アンサンブルは多々あって、取り分け「バッハ・コレギウム・ジャパン」といった有名どころが知られるわけですが、そうした大どころとは一線を画す地味さ?を感じるコントラポントながら、さほどに大きなホールでない空間(今回は578席、トッパンホールよりちと大きい規模)で奏でられる響きは都心のトッパンホールで、地味ならぬ滋味豊かなものだったのですよね。

 

近代の大オーケストラによる爆演もそれはそれで心躍るものではありますけれど、異常な気象状況に苛まれる毎日に心身をじわじわと蝕まれているような気のする頃合い、古雅な音色が癒しに通する、いい体験であったと思っておりますよ。

 

それにしても、プログラム・ノートには曲目にしても歌詞にしても詳しく記載があって、どこをどうとってもキリスト教の祝祭ミサであるわけでして、本来はキリスト者にこそ受け止められる内容なのでしょうが、そうした信仰心やら宗教感から離れた者であっても「癒し」を享受できるというのは、偏に音楽の力なのであろうと改めて。

 

近代になってきますと、楽器の用法なども変化していった結果、宗教的な意図でもって作られる音楽作品も非常に大がかりなものになってきますけれど、そうなる以前のバロック期、このあたりにこそ渇いた体にすっと、あるいはじわっと染み入るような音楽世界があるような気がします。酷暑となった夏には打ってつけなのかもしれませんですよ。

 

演奏を堪能した帰りがけ、外にでれば夕方となっても相変わらずの暑さについ、「ふう…」とひと息、吐息をついてしまいますが、この吐息がわずかながらも涼やかになっていた。そんな演奏会なのでありました。

 


 

という具合に酷暑が続いており、東京でも最高気温予想に38℃てな数字が見受けれる日々がありますので、ちと老親の慰問(?)に出かけてまいります。ま、世の中的にお盆休みも近いですのでね。てなことで明日(8/5)から数日(2~3日ですかね)、お休みを頂戴いたしたく存じます。どうぞ、皆さまも熱中症にお気をつけてお過ごしくださいまし。ではまた。

さてと、今回の甲府行きのメインイベント、山梨県立美術館の展示を見に辿り着いたわけですが、もひとつついでのお話を。

 

 

美術館の入口前には彫刻作品が見えておりますけれど、実はこの美術館(と県立文学館も)のある場所は「芸術の森公園」と言われて、園内あちこちに彫刻作品が置かれてあるという。美術館にはたびたび(文学館にも少々)立ち寄ったことがありながら、園内を見て回ったことがありませんでしたので、思い立ったこの時にということで。

 

エミール=アントワーヌ・ブールデル 『ケンタウロス』(1914年)

 

まずは美術館前を飾るブールデルの『ケンタウロス』。大いにロダンの影響を受けたと聞けば、「筋骨のあたりに…?」と思ったりするものの、瀕死状態の場面とあって胴が伸びあがり、首が極端に傾いたあたり、写実を超えた再現を目指したようにも思えるところかと。で、最初にブールデルが登場しましたように、この公園内の彫刻はかなり有名どころの作品が並んでいるようでありますよ。

 

ヘンリー・ムーア『四つに分かれた横たわる人体』(1972-73年)

 

これはもそっと入口近くにあって美術館の顔のようになっている作品ですな。ムーアは横たわる人体をさまざまに造形して、一見したところでは「ん?人体?」と思うも、だんだんと想像が追い付いてくるようなところがありますので、分かりやすい方なのかもですねえ。

 

アンリ・シャピュ『ミレーとルソーの記念碑』(1884年)

 

ムーアの像の左裏手あたりにちょっとした木立がありまして、その中にひっそりとあるのがこのレリーフ。ジャン=フランソワ・ミレーのコレクションで知られる美術館だけに、ミレーとやはりバルビゾン派のテオドール・ルソーが並んだ記念碑の存在はなるほどですが、元々は「フォンテーヌブローの森の開発計画に反対し、自然保護運動をしたミレーとルソーの功績を称え作られたもの」(と同じブロンズ型から鋳造されたもの)だそうありますよ。

 

フェルナンド・ボテロ 『リトル・バード』(1988年)

 

ボテロという名のとおり?絵画も彫刻もぼってりふくよかに作ってしまう作者にかかればリトル・バードもこのように。取り分け子供向け遊具と間違われやすいのか、「作品にのぼらないで下さい」という注意書きが反って登りたくさせるような気も(笑)。

 

アリスティード・マイヨール『裸のフローラ』(1911年)

 

マイヨールの造形はその顔付きで「あ!マイヨール?」と思ったりしますですね。ボテロの後に見ると、人体の美をそのままに写し取ろうとしている…と思うも、もしろフローラをボテロが作ったらばどんな?という余計な想像が湧いてしまい…。

 

エミール=アントワーヌ・ブールデル『叙事詩』(1917年)

 

もうひとつのブールデルは文学館の前に。『叙事詩』というタイトルから場所が選ばれたのでありましょう。ブールデル作品は結構激しい一面を見せるよねえと思うも、「ポーランドの自由と独立を目指して生涯をささげた詩人ミスキエヴィッチの記念碑の一部」であると知れば宜なるなかなと。

 

オーギュスト・ロダン『クロード・ロラン』(1880-1892年)

 

17世紀に神話画風のタイトルの下、実は風景画を描いてしまったという画家クロード・ロランの姿ということですけれど、ちとモダンに過ぎるような気も。まあ、風景画のステイタスがまだ低い時代に挑戦者であったとは言えましょうから、そのあたりの表出ですかね。

 

…てな具合にあれこれ見て回りましたですが、さほどに広い園内でないものの、作品は他にもまだあって…。とはいえ、折からの日差しの強さが芝生の照り返しで弥増して、暑いの何の!この公園は四季折々に花々を愛でる場所ともなっているようながら、どうにもサルスベリばかりが目に付く季節では、園内を回るのも適当な時季ではなかったようでありました。いやはや。