…ということで、かつては賑わった(かもしれない)商業施設パレットスクエアにある尾花沢パス待合所をあとにして、取り敢えずは羽州街道方面へとてくてく。途中でうしろを振り返り見たですが、やはり人の姿は皆無でありまして…。まあ、平日の昼下がり、折しも気温がぐんぐん上昇中のようすに、家から出ないということでもあったでしょうかね。
でもって、やはりパレットスクエア営業中であった頃ににはその中にあったという観光案内所に立ち寄ったのですな。古くから往来のあった羽州街道は今でもそれなりの車通りがありまして、観光案内所は今、羽州街道に面したところにあります。
中に入り「街なかをぶらぶらするのに、史跡などを記したマップのようなものはありませんか?」と尋ねて、当然に「これをどうぞ!」と返ってくるものと思っていましたが、職員の方々が顔を見合わせるようにして「これくらいですかね…」と出してくれたのは、こちらの総合パンフレットなのでありました(早い話が極めてざっくりしたものであって…)。
「うむむ、やっぱり尾花沢はとにもかくにも銀山温泉人気にあやかっておるのであるか…」と。総合パンフとなれば想像できましょうけれど、尾花沢市の観光スポットやイベント、グルメをざっくり、極めてざっくりと紹介するものであって、町なか散策にはちと(全く)向かないのですよねえ。ただ、ぱらぱらと見ていて「おお!」と思いましたのは、毎年8月下旬に開催されるという「おばなざわ花笠まつり」になると、この(およそ人の姿を見かけていない)尾花沢にかくも多くの人が集まるのであるか?!と。
わざわざ「おばなざわ花笠まつり」と言われるのは、山形市などでも土地の名を冠した「花笠まつり」が開催されるからのようですが、まつりで踊られる花笠踊りに添える「花笠音頭」はどうやら尾花沢が発祥ということでありますよ。元々は大正時代にため池(現在の徳良湖)を造る際に土手を搗き固める人夫たちの作業唄であったとか。ですので、「花笠音頭」と聞いて思い浮かぶ、♪めでためでた~の若松様よ、枝も(チョイチョイ)栄えて葉も茂る(ハァ、ヤッショ~マカショ~シャンシャンシャン)という歌詞は、この歌が親しまれ広がるにつれて、たくさん作られるようになったもののひとつのようですなあ。尾花沢では「正調花笠音頭」として6種の歌詞が伝わるも、「めでためでた~の」は入っておりませなんだ。
ともあれ、町なか歩きの参考になりそうなものはありませんでしたので、ぶらぶらは後回しにして、羽州街道を取り敢えず北上、ここに立ち寄るために尾花沢までやってきたと言ってよい「芭蕉、清風歴史資料館」(参考までに、芭蕉と清風は読点で区切るのが正式名称のようです)を目指すことに。観光案内所からは歩いて数分です。
こうなってきますと当然に、松尾芭蕉がわざわざ鈴木清風を訪ねて尾花沢に十泊もしたというあたりを含め、展示の振り返りになっていく…ところなのですが、館内では「尾花沢の歴史解説シート/尾花沢発祥の踊り 花笠踊り」てなものを発見しましたので、行き掛かり上、まずこれのことを。
どうも解説シートを見る限り、上で触れましたように花笠音頭の歌詞は多く、150種類にも及ぶのだとか。その背景としましては、そもそも(土を搗き固める)「作業にあわせて歌われたので即興の歌詞がたくさん作られ、一時は懸賞金つきで歌詞のコンテストがひらかれるほどで」あったとは、そりゃあ、どんどん増えていきますなあ。
一方で、花笠音頭とセットの花笠踊りの方ですけれど、赤い花飾り(いうまでもなく紅花由来でありましょう)の付いた笠を用いる点で、勝手に女性の踊り手を想像してしまうも、歌の元々が土手を搗き固める人夫の作業唄ですので、これに合わせる踊りのそもそもはこんなことなのだそうでありますよ。
「土搗き」作業中は、周りの人々が作業している人に笠で風を送りました。その「笠で風を送る」仕草が、花笠踊りの原型になったと言われています。
てな具合で、大正期の土木作業にルーツをもつ花笠音頭と花笠踊り、歌詞が続々とできてくるくらいに盛り上がったわけですが、「しばらくすると一旦途絶えてしま」ったということです。まあ、浮かれ踊っている場合ではないという時局の到来でしょうか。ですが、これを今では山形じゅうのあちこちで歌われ、踊られるようになるには立役者がいたのだそうな。練り物で知られる「紀文」の創業者がその人であると。
第二次大戦後になって、大石田出身で食品会社「紀文」の保芦邦人社長が、花笠踊りを見て気に入ったところから、花笠踊りの「復活」が始まります。昭和31年には、尾花沢のお祭で花笠踊りが初めて踊られ、その後もいろんな進化をとげつつ今に至っています。
いささかピント外れになりますけれど、ここで「?!」と思うのは、「紀文」という会社は紀伊國屋文左衛門や紀州とは全く関係が無かったということの方かも。山形県の大石田(尾花沢市のお隣ですな)から上京した創業者は、まず山形屋米店を開業するところから事業をスタートし、その後紀国屋果物店、転じて紀文という商号を用いるようになったそうな(ただ、何故に紀国屋であったかということあたり、紀文HPをちらり見た限りでは詳らかならず…)。
ということで、花笠音頭・花笠踊りにまつわるあれこれが長引いてしまいましたので、「芭蕉、清風歴史記念館」の展示についてはこの次に触れることにいたしましょうね。