先に『ベートーヴェン捏造』を読んでいる頃からですので、ゆうにひと月くらいは過ぎておりますが、
この間、ベートーヴェンのピアノ・ソナタをヘビー・ローテーションで聴き続けておりまして。
しかしまあ、何度も何度も繰り返し聴くのは馴染みが無い曲でもあるからでして、
手持ちのCDはたった2つきり、そのうち後期ソナタ集をとりわけ聴き続けていたのでありますよ。
元来ピアノ曲をさほど多く聴く方ではありませんし、それがベートーヴェン晩年の作品となりますと、
かなり敷居が高いわけですが、何度も聴いておりますとさすがに輪郭がつかめてくるといいますか。
何故にそこまで聴きこまないと…?となれば、曲の構成といいましょうかね。
一般にベートーヴェンの三大ピアノ・ソナタと呼ばれる「悲愴」、「月光」、「熱情」の方を振り返ってみますれば、
曲全体の構成が実にすっきりきっちり、よく出来ているものだと思ったものです。
取り分け「月光」はしばらく前のTV朝日「題名のない音楽会」で辻井くん(相変わらず「くん」付けですが…)が
オリジナルなイメージ展開で3つの楽章を物語り、そのイメージのままに弾いてみせてくれたりしてましたけれど、
3つの楽章がそれぞれに物語の展開を、誰にも容易に想像させてくれる…そのあたりは実に馴染みやすいわけです。
さりながら、これが後期のソナタになってきますと、いささか様相を異にしてくるような。
上に画像を挙げた2枚組CDには27番以降が収録されておりますけれど、
27番が作曲されたのは1814年だそうですから、交響曲でいえば第8番を書いたあたり。
それ以降のベートーヴェンの晩年の作品群の中に入ることになるわけでして、
晩年作としては「第九」や「ミサ・ソレムニス」などがよく知られいて、
いずれも真面目で深刻なベートーヴェン像(よく音楽室に貼られている肖像画のような?)が浮かぶものの、
どうも後期のピアノ・ソナタを聴いているとどうもようすが違う気がしてきたのでありますよ。
これまたちょいと前の「題名のない音楽会」では、「お願いです、変ホ長調の音階を書いてください」という
実に人を食ったタイトルのベートーヴェン歌曲を紹介しておりましたけれど、これも晩年の作だったでしょうか。
もっとも、珍妙なタイトルの曲を取り上げたこの放送回では、モーツァルトの「おれの尻をなめろ」の方が
圧倒的にインパクト大だったわけですが(笑)。
ともあれ、こうした曲を嬉々として手掛けたのもまた紛れもないベートーヴェンの姿であるわけですから、
ベートーヴェンを堅い面だけで見ては人物像を見誤るということになりましょうねえ。
確かに頑固で偏屈で、とても人付き合いが上手いとはいえない人柄だったでしょうけれど、
それだけに耳の病を患い、歳を重ねて、日々の憂いを慰めるすべはピアノにあったのかもしれません。
晩年のピアノ・ソナタはまさに自分のための音楽だったのでありましょうかね。
先に曲の構成のことに触れましたですが、馴染みある言葉でいいますと、
4楽章から成る曲ならば起承転結とか、3楽章構成の曲であれば序破急とか、
そんな言葉に通ずる構成感を、綿密に作り上げていたのがかつての姿でもあったかと思うところながら、
ここで繰り返し聴いてきたいくつかのピアノ・ソナタはなんとも自由な形であるのですなあ。
楽章構成もまちまちで、長大だったり短かったり、ピアノの音が唐突に飛び跳ねてみたり転がってみたり、
はたまたやおらポップな印象が飛び出したりもするような。
この自由闊達さはピアノと戯れているように思えてならないわけです。
中にはフーガが付いていたりする曲もありますから、単に戯れではすまない、
そしてまったくのフリーハンドでのインプロビゼーションであるとは思いませんけれど、
この頃のベートーヴェンは先のおふざけタイトル曲でありませんが、
変ホ長調のような勇壮なイメージのある曲(例えば「英雄」や「皇帝」)はもう卒業したよと、
そんな気持ちであったかもしれませんですね。
耳の聞こえなくなったベートーヴェンが、わずかな響きの感覚を頼りに(?)
ピアノと戯れている…。これもまた、ベートーヴェンの姿であろうと、
そんなことを思いつつ聴き入っていたものなのでありました。