前回(9/14)のEテレ『日曜美術館』では夭折の画家・有元利夫を紹介しておりましたですねえ。個人的には、かつてDENON・AliareレーベルのCDカバーにその作品が取り上げられていたことから知っている作家ではありましたですが、番組で紹介されていたエピソードに曰く「バロック音楽が好きだった」のであるとは。

 

かのレーベルがもっぱら日本人の古楽器奏者による録音をリリースしていただけに、その作品世界の雰囲気が古楽にマッチしているというばかりではなかったわけですね。なにしろ、作家の奥様の思い出話によれば、芸大美術の学生が学内でび~ひゃらリコーダーを吹いていた…ともいうことで。

 

こういっては何ですが、音楽学部ももっている芸大にあって、美術の学生が想像するに下手の横好きレベルでび~ひゃらやるのは、奥様(芸大同窓)からすれば「恥ずかしくないの?」と聞きたくなるのもむべなるかな。さりながらが、当の有元は全く意に介していないようすだったのであるとか。

 

この逸話で思うところは、「ああ、音楽のそもそものありようでもあるかな」というだったのですよね。そもそもの音楽の楽しみは、声を発するにしても楽器を響かせるにしても、自らがそれを行うところにあったはずですのでね。

 

西洋では教会の典礼などを通じて音楽の広まりがあるますけれど、音楽は「聴く」というよりも「する」ものであったのですよね。例えば讃美歌を歌うという自らの行為でもって。日本でも、民謡のルーツには労働歌があったりする。農作業などの日々の仕事がしんどくても、声を出して何かしら歌いながらこなすと気が紛れますし、憂さ晴らしにもなる。

 

讃美歌と労働歌の例えでは音楽の「楽しみ」とは話が違うのかもしれませんですが、いずれにせよ、自分の行為として音楽があることにはなってますですね。

 

時代は大正と今にかなり近づいてはしまいますが、昨年訪ねた山形県尾花沢で触れた花笠音頭も始まりは人足作業の労働歌だったとそうですなあ。おそらく仕事の景気づけに誰かしらが歌い出し、周りが唱和したり。はたまた一日の仕事を終えて飯場に戻り、仲間内で酒を酌み交わす段になりますと、「おまえはいい声してんだから、ひとつ、あの歌、歌えや」てなような一幕にもなったかも。歌の上手な者が歌い、周りでその他が聴き入る。この構図が要するに、演奏者と聴衆という関係を生み出したのでもありましょう。ま、花笠音頭の話ばかりではありませんけれど。

 

では、歌(あるいは楽器演奏)が上手いというのはどういうことなのであるか。楽譜に起こせば全く同じ節回しながら、聴こえてくるものに違いが出る。現在のプロ演奏家と素人とが同じ楽譜の音楽を奏でたとして差は、おそらく歴然でしょうけれど、いったいどこが違うのであるか…。

 

難しく説明しようとすればいくらでもできるのでしょうけれど、極めて簡単に言ってしまうと表現力の違いということにでもなりましょうか。ベートーヴェン作曲とはいえ、耳タコになっていて「なんだかなあ…」と思うばかりであった『エリーゼのために』をピアニストのラン・ランが弾いたのを聴いて、「こんなにいい曲だったのであるか?」と腰を抜かしそうになった(大袈裟ですが)のを思い出すところです。

 

また、モーツァルトの超有名曲である『アイネクライネナハトムジーク』も、楽譜を見ると譜面づらは全くもって易しい曲なのですよね。ですが、それを聴き手を「う~む」と唸らせるのは簡単なことではない。言い方が悪いですが、アマチュアの合奏団が取り上げたりすると、ひどくつまらくなってしまったり。

 

ですがこの場合、アマチュア楽団(一部のプロはだしの団体は別でしょうけど)の方々は聴衆に聴いてもらう以上に演奏する自分たちが音楽「する」楽しみを味わうためにやっているので、それはそれでの話ではありましょうけれどね。

 

とまあ、長い前置きで…というより、今回は前置きが主とも言えますが、横浜みなとみらいホールで読響の演奏会を聴いている最中に、かような思い巡らしをしていたりもしたもので。

 

 

プログラム、メインのシューベルトの交響曲第8番(今は8番なのですな)通称「ザ・グレート」は、実に実に素直な旋律線であって、こういっては何ですが、他の楽曲に比べると(作品規模は別として)易しくとっつきやすそうな印象だものですから、これでもって聴き手に「う~む」と言わせるのは難しいのだろうなあと思ったりしたものですから。

 

ま、当日の演奏自体は、かつての俊英が大御所の雰囲気を醸すようになってきたケント・ナガノの指揮の下で、近年充実の読響のストリングスが見事な合奏を繰り広げていましたので、読響の演奏自体を云々したいわけではないのですけれど。

 

ま、音楽のそもそもはともかくも、今ではどちらかというと音楽は「聴く」ものと一般大衆には受け止められているような気がしますですが、音楽「する」楽しみの方もやりようがないではなし、忘れてはいけんなあと思ったものでありますよ。かくいう当人はすでに楽器から離れて数十年ですので、言えた義理ではありませんが…(苦笑)。