NHKドラマ10で『舟を編む』を見ておりますが、「紙の辞書は今の時代に必要か」と考えを巡らす場面がありましたですね。時代の流れの速さによる修正加筆、はたまた誤植が生じたりした時の訂正などに即応できない紙媒体はデジタルに敵わない…という面は確かにあろうかと。

 

ただ、そうした流れに反論するように、紙の辞書を編集していたその時、その時の言葉のようす、載っていれば新語であっても一般化したのであるなとか、まだ載ってなければ一部の流行にすぎないのかとか、あるいは語釈そのものも「その時にはそう理解されていた」という軌跡が残せるのだといったような話がありました。

 

確かにそっち方面のことも大事でないとは言いませんですが、そうなってくると、紙媒体発行時を生きる人たちのために「言葉の大海原を渡る舟を編む」というのとはちと目的がズレてしまっているようにも思えたり。

 

ではありますが、人々が辿った軌跡を残すという作業(これを一営利企業がやるという判断は別として)、なるほど後々に歴史を知る手がかりになることもあるのだなと、このほど覗いた展示を見ていて思ったものでありましたよ。

 

 

立ち寄りましたのは東京・国分寺市にある東京都公文書館。夏企画展として開催中の「江戸の地誌・絵図~その系譜をたどる」を覗いたわけですが、「系譜をたどる」という部分、これは必ずしも一つの出版物の改訂経過をたどるのではないものの、年代の異なる地図・地誌を参照することで、経年変化をたどることができるのですよね。本来ではないにせよ、辞書の改版にも結果として同じことが言えるような気がしたものです。

 

『寛永九年江戸図 内題;武州豊島郡江戸庄図』(1632年)

 

『寛文十年江戸絵図(新版江戸大絵図)』(1670年)

 

『分間江戸大絵図(新板江戸大絵図)』(1676年)

 

こちらは江戸時代初期、お江戸の市中を描いた地図を年代順に3種並べたものでして、地図だけに細かいところを見てしまいたくなる(が、画像ではちいとも判別できない…)ところながら、差し当たり目を留めるべきは、江戸の町がどんどん拡大していっていることと作図の緻密さが増して行っていることでしょうか。

 

一番上は、いかにも手書きで作った地図という感じである上に、お城などが立体的なイラストで表示されている。こうした地図の作り方は今でもあるでしょうけれど、地図の正確さに頼る実用性とは別の意図で作られるのではなかろうかと。

 

それが44年後の一番下を見る限り、これはどうしたって地図そのものですよねえ。こうした経年変化は、(この時代ではありえませんが)常に上書き改訂が行われていたならば、知ることができない情報なわけです…てなふうに考えたり。

 

ちなみに一番下の精巧な地図を描いたのは遠近道印(おちこちどういん)という、人を食った名前の絵図師であると。当時「開発の進んでいた江戸東部…本所・深川を図の左下、江戸湾海上に組み込むという新機軸を見せてい」たりと、なかなか工夫に富んだことをしている。広げたときに収まりのいい形にしている一方で、「図中の○印・△印を合わせると接合できるという仕掛け」(切り取ればぴったり合わせることができる)も施しているそうな。

 

 

さらにこの遠近道印、大型地図を方形に収まりよく配置したものの、狭い場所では広げて見られない、繰り返し広げると折り目の部分が傷んでしまうてなことが気になったらしく、「自ら製作した図の正確さはそのままに、地図帳に仕立てるという画期的な発明を」も手掛けたのであると(上の画像の真ん中上)。惜しむらくは頁ごとに東西南北がまちまちであったことで、重版出来には至らなかったそうですが…。

 

ただ地図帳の発想は、全体像を把握するよりもむしろ細かい地域の情報を参照するものとして、後の「切絵図」に繋がっていったのでもあろうかと。

 

『東都番町図 全(内題:番町絵図)』(1755年)

 

こちらが切絵図の始まりとされるものですけれど、番町という地域を切り取ることが選ばれたのはもっぱら実用本位の故であるようで。「旗本屋敷が建ち並ぶ番町は、江戸屈指の道に迷いやすい街区」だったそうですのでね。今ならばスマホでマップを見ながら「あっちかぁ、こっちかぁ」とやるところを、江戸期の人たちは切絵図片手に目的地にたどり着いたのでありましょう。

 

ということで、地図は不案内な町を歩く際に欠くべからざる携帯品となっていった一方で、花のお江戸に出てくる人たちへの情報提供として「名所案内」(要するにガイドブックのようなものですな)も刊行されていたとか。

 

 

「江戸最古の絵入り名所案内的地誌と評価されている」という『江戸名所記』(1662年)は、「江戸御城・日本橋・東叡山から始まりけ、計80箇所の名所を挙げてい」るそうな。これが京都の版元から出されたのも徳川の世となった時代のなせるところでしょうかね。

 

 

地誌の方では天保五年(1834年)に刊行された「『江戸名所図会』において集大成を見」たとされるようですが、これに対し「編さん開始から足かけ40年をかけて行われた精緻な調査と考証、挿絵の高い写実性」と説明があったのを見て、「ああ、辞書編纂みたいだ」と思ったものでありますよ。ということで、ドラマ『舟を編む』を思い出しながら、興味深く見てきた展示なのでありました。

 

 

信玄ミュージアム@甲府の常設展示室を眺めて、もっぱら武田信虎と躑躅ヶ崎館のお話にばかりで終わってしまいましたので、続きを少々。といって、特別展示室の方は撮影不可で画像はありませんので、展示を振り返りつつ、武田神社にも(以前行ったことはあるのですが)立ち寄ったというお話でして。

 

 

そも武田神社は甲斐武田氏の本拠として知られる躑躅ヶ崎館の跡地にある、とは先にも触れたとおりですけれど、神社の境内に入るにはまずこの朱塗りの橋、神橋を渡ることになります。武田氏の居館であった当時の主郭中心部に現在の本殿・拝殿が設けられていますので、あたかも濠を渡り越して城跡に踏み込むがごとしの印象です。

 

 

橋を渡った先にある医師団の両側には高く石垣が積んでありますけれど、いかにもお城然としている分、信玄らの古い時代のものではなくして、豊臣・徳川支配時代に組まれたものかもしれませんですね。

 

 

余談ながら、鳥居をくぐったすぐ右側には「太宰治の愛でた桜」という解説板が。美知子夫人との新婚時代をしばし甲府で過ごした太宰は『富嶽百景』などの有名作を残したわけですけれど、甲府住まいの散歩の途中にでも立ち寄ったのですかね。『春昼』という一編で、ここの桜に触れているそうでありますよ。と、太宰はともかくとして、石段を上がって参道をまっすぐに進めば、拝殿に至ります。

 

 

土地土地に自慢の?お殿様というのがいて、駿府では今川ではなしに徳川家康でしょうし、肥後熊本では細川でなくて加藤清正とか。甲斐国でも武田氏滅亡の後に甲府城に寄ったお殿様は何人もおりましょう(その一人が柳沢吉保だったり)けれど、やっぱり武田信玄なのですよねえ。領国支配の拠点が今の甲府駅近く、甲府城に移った後も信玄ゆかりの場所は何かとありがたがられて…と思えば、実はこの神社、わりと新しいのですよねえ、思いのほか。

大正四年(一九一五)大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、官民が一致協力して、社殿を造営、大正八年(一九一九)四月十二日、鎮座祭が盛大に齋行されました。(武田神社内解説板)

甲府城が造営されると、おそらく躑躅ヶ崎館跡は顧みられることが無くなっていたか、さはさりながらなんとなく遺徳を偲ぶ風はあって手つかずの土地になっていたか、とにかく新しいわりに神社の領域がかなり広いのでありますよ。それだけに、なんとか昔々を思うよすがのようなところもちらりほらりと。

 

 

 

本物の富士山を借景にした庭園とは何と贅沢な!ですけれど、この主郭庭園の看板近くに昔のよすがのひとつがひっそりとありましたですよね。

 

 

葉っぱが茂って分かりにくいですが、清水が湧き出しておりまして、神社の説明板に曰く「一説によると信玄公の御息女誕生の折、産湯に使用した事に因り「姫の井戸」と名付けられたと云い…」ということで。ほとんどの参拝者は「姫の井戸」の向かいにある水琴窟にばかり目を奪われて、こちらはスルーだったようですけれど、「飲用可能」ということでしたので、試しにひと口ごくりと。なるほど癖の無い水とは思いましたが…。

 

もうひとつのよすがは、拝殿・本殿のある主郭を西側、かつて躑躅ヶ崎館の時代には西曲輪と呼ばれた場所ですな。今ではただの雑木林のように見えますけれど、わざわざ信玄が嫡男・義信の婚姻に際して増築したそうな。専用の出入り口もある新たな曲輪に義信を置いて甲府盆地の広がりを眺めさせ、武田家当主となる意識醸成を図ったのでもありましょうか。

 

 

ただ、歴史が物語るのは信玄から義信へ、うまい具合に継承が行われたわけではないということですなあ。なまじ濠で区分けて独立感のある西曲輪を設けたがために、信玄排除の密謀を企てやすくなってしまったのかとも。

 

 

てなことで、武田神社にはもそっと武田氏居館としての名残りが感じられるところはあるようながら、あまりの暑さに熱中症を危ぶんで早々に退散することに。信玄の時代には、甲府もかほどの暑さに悩まされることもなかったのであろうなあ…などと思いつつ…。

この間まで大相撲名古屋場所が開催されていましたけれど、先日に両親のところを訪ねた折、ちょうど夕刻になって、TVは当然のように相撲中継となっていたもので、「ああ、まだ相撲、見てるんだ…」と。

 

相撲のことをあまり語ったことはありませんが、まだ両親と暮らしている時分に目が釘付けになったことがありましたですねえ。当時、相撲取りといえばぼっちゃりした体形としか思っていなかったところに現れた筋肉質体形の力士に「!」と。比較的小柄であったせいか、力任せの投げに頼って肩の脱臼に悩まされていた千代の富士でありましたよ。

 

ところが、ちょいと気に掛けてみていると、いつしか相撲の型が変わり、相手の懐に飛び込み前褌(まえみつ)を取ると一気に寄せていくスピーディーな相撲、これが見ていて実に爽快感があったのですな。あれよという間に横綱に上り詰めていきました。ライバルはいろいろ挙げられましょうけれど、個人的には北天佑との対戦に忘れられないものがありますですよ。

 

ですが、1990年に北天佑が、翌年には千代の富士が引退してしまいますと、一気に相撲熱は冷めてしまいました。時代は若貴が主役の頃となり、これにハワイ出身の曙、武蔵丸が絡んでいき、やがては大相撲はモンゴル出身力士の天下となっていった…とは一般的な知識として知っているくらいで。

 

で、今でもモンゴルをはじめ外国出身の力士の活躍は結構目立っておるようだなとは、先ごろ両親のところで見たTVを垣間見て…と、長々大相撲の話で来ていますが、実は申し訳ないながら相撲の話がしたいわけではないのでして。

 

先ごろ天皇皇后モンゴル訪問というのがあって、現代のモンゴルのようすがニュース映像で映し出されたりしたものの、モンゴルのことってあんまり知らんなあと思ったのですな。それこそ、相撲取りが数多存在するということと、チンギスハンと元寇と『スーホの白い馬』がせいぜいですかねえ。

 

と、たまたまにもせよ、そんなことを思っている折、たまたま見たのがモンゴル映画であったとは。『セールス・ガールの考現学』という邦題は苦肉の策として付けられたのでしょう、必ずしも内容を反映するとも言えないようですが…。

 

 

本人の希望とはかかわりなく(家族の希望を容れて)原子力工学を学んでいる女子学生のサロールは、これまた不本意ながら友人(といってもほとんど話をしたこともないような)からアルバイトの代役を頼まれるのですな。勤務先はなんとまあ、アダルトグッズショップであるとは…。この代役を引き受けるところもショップで勤務するところも、主人公は至って淡々としているのですけれど、なんとはなし、昭和のひと頃の印象を感じ取る瞬間なのでありますよ(もちろん、個人の印象です)。

 

その雰囲気は映画自体の淡々さでもあって、話が似ているというようなことではありませんが、森田芳光監督の劇場用作品デビュー作である『の・ようなもの』とか、村上春樹の原作を大森一樹監督が映画化した『風の歌を聴け』とか、奇しくもいずれも1981年の映画ですけれど、そうした時代の空気を2021年製作のモンゴル映画に感じるとは、不思議な感覚になったものです。

 

モンゴルといえば草原のイメージが浮かぶも、もちろん国じゅうそんな土地ばかりではなくして、映画の舞台となっている首都ウランバートルは当然に都市然としている。さりながら、その都市が纏う雰囲気は日本でいえば1980年代的なところがあるように見えたと言ったらよいでしょうか。

 

このことをもって、モンゴルは40年がた時間が遅いのであるか…という優劣みたいな形で見るのは明らかに誤った思い込みにつながりましょうね。引き比べて40年ほど先んじている(かのような)日本の行きついた現状を異論なく肯定できるかと言えば、そうではないでしょうし。40年前と比べ、得たものはもちろん多いでしょうけれど、よくよく考えると失ったものも多いのではなかろうかと。懐かしみの正体はたぶんそのあたりにあるのでもあろうかと思うところです。

 

どうも映画そのものの話ではなくなってしまっておりますが、そんなこんなの思いがやおら呼び覚まされたことに、この映画の見甲斐を(まったくもって個人的な感想ですが)感じたものなのでありました。

山梨県立美術館のお話を先延ばしにして恐縮ながら、このほど甲府で訪ねた場所のひとつのことを。予て「信玄ミュージアム」なる施設が、信玄時代の武田氏の本拠地、躑躅ヶ崎館跡(現在の武田神社)の隣接地に開館していたとは聞き及ぶところで気には掛かっておりましたが、2019年の開館からしばらくしてコロナ禍に見舞われたことは言わずもがな。

 

ま、武田神社には以前に行ったことがあるし…てなことで、ついぞ訪ねるのが先送りになっていましたが、ようやっとこの際にということで覗いてみたのでありますよ。

 

 

館内は常設展示室(入場無料)と特別展示室(大人300円)とがありまして、まずは常設展示室へ。さすがに無料とあって、ひたすらに解説パネルが立ち並ぶといった印象。武田氏自体は長く続く系譜であるも、甲斐府中(甲府)を舞台に活躍した信虎、信玄、勝頼の武田三代のことが紹介されておりましたよ。

 

 

ところで甲府を舞台に活躍…と言いましたですが、その場所に躑躅ヶ崎館という居館(後の時代には城が作られるところが、古い時代の名残でしょうな)が設けられたからこそ、この地が甲斐国府中、すなわち甲府と呼ばれるようになったわけですから、それ以前はどんな地名であったことか。

 

甲府駅からまっすぐに緩い坂道を上り詰め、やがて神社の鳥居に至る現在の武田通りの両脇は、いわば城下町的な整備がされたとなれば、信虎がここに居館をと想定した当時は何にも無い場所だったのかもです。

 

 

躑躅ヶ崎館以前、武田氏の本拠はもそっと石和温泉に近いところにある川田館であったそうな。ただ、ここは想像するだに全くの平地であって、周囲の見晴らしは良さそうですが、些か守るに堅固とは言えないような。躑躅ヶ崎へ移転を断行する永正十六年(1519年)当時、甲斐の統一を視野に入れていた信虎にとって「三方を山が囲い、西に相川、東に藤川が南流する天然の要害」こそ居館にふさわしい場所と考えたのでありましょう。

 

同時に、「有力国人衆の集住が断行され」て、味方として旗色をはっきりさせた者たちを城下に置く、その集住スペースの確保をも満たす場所であったわけですな。

 

さりながら、信虎が設けた躑躅ヶ崎館は、嫡男晴信(信玄)によって駿河へ追放された2年後の天文十二年(1543年)火災の影響を受け、再建は晴信の手に委ねられる。晴信には晴信の思惑、戦略があったでしょうから、信虎時代を果たしてどれほど偲ぶことができましょうかね。

 

もっとも、信玄の手による居館も息子の勝頼が新府城に拠点を移すにあたって破却され、武田滅亡後には織田、豊臣、徳川と続く天下人たちによって躑躅ヶ崎館後は様々に手を加えられていったようですが、最終的には現在の甲府駅の近く(上の地図の最下方)にある一条小山に改めて甲府城が築かれるに及んで、放置される運命に。

 

そんな経過ながら、引き続き行われている発掘調査では異なる時代時代の特徴なども浮き彫りしてきているようですね。「現在残る館跡には豊臣氏時代の加藤光泰の改修による遺構が多いと推定されてい」るのだそうでありますよ。

 

こたび立ち寄った施設を冒頭で「信玄ミュージアム」と言い、あたかも武田信玄メインと見えたところながら、実のところは甲府市武田氏館跡歴史館の通称とすれば、館跡の発掘紹介こそが展示の本分というべきなのかもしれませんですね。

 

 

ちなみに甲府駅ある銅像といえば、南口にあるどっしりとした武田信玄像が夙に知られるところですけれど、現在の甲府市につながる街並みの基礎を築いた武田信虎の像も、躑躅ヶ崎館跡へとまっすぐに道が伸びる北口で見ることができる。顔の向きとしては駅の反対側を向いているようで、信玄像を背後から睨み据えている恰好なのかもと思ったりしたものです。

 

(甲府の話がまだ途中ですが)ちょいと前、『おとなのEテレタイムマシン』で1998年放送ETV特集「最後の舞台~津軽三味線・高橋竹山の挑戦~」が放送されておりましたですねえ。例によって録画を後から見るもので、話題にするのが周回遅れですけれど…。

 

ともあれ、津軽三味線の高橋竹山、全くもって津軽三味線に興味を抱くことのなかった若いころにもその名前だけは聞き知っておりましたな。なんとなれば、東京・渋谷のジァン・ジァンでライブをやったりしていると。つうことは、1970年代から80年代にかけて当時の、畑違いのミュージシャンなどが真価を認めて渋谷に引っ張り出して来、クロスオーバーな活動でもしていたのであるか…と、勝手に思い込んでおりました。

 

それがとんでもない勘違いであって、高橋竹山=生涯一三味線弾きを貫いた人であったと、先のTV番組で知ったような次第。いやはや、もの知らずですなあ。

 

番組では名人と称された竹山の最晩年、死を間近にして思うように弾けなくなってもなお、青森の温泉場の宴会場で演奏に挑む竹山の姿が映し出されていました。痛々しくもありますが、自らの三味線が名人の域にあるといったふうには思ってみることもなく、その日その日が精進のような考えて人だけに、技巧的には上手くもなり拙くもなりするのも、自分の三味線であると思っていたのかもしれませんですね。

 

そんな竹山の姿を番組で見て、も少し何か…と思ったときに見つけたのが、『津軽のカマリ』というドキュメンタリー映画でありましたよ。

 

 

「カマリ」というのは土地の言葉で「匂い」といった意味だとか。竹山自身が「「それを聴けば津軽の匂い(カマリ)が湧き出るような そんな音を出したいものだ」 と語ったことに由来するタイトルのようです。

 

そんなタイトルであることからも、カメラは竹山を追うばかりでなしに、青森・津軽の気候風土やその土地に暮らす人たちの生の姿をも写し込んでいくのですな。かような作りのドキュメンタリーで見たせいもあるのでしょうけれど、竹山の三味線、という以上に津軽三味線といわれる音楽世界は、津軽の気候風土と共にあるのであるなと改めて感じ入った次第でありますよ。

 

暴風雪に曝されながらすっくと立って三味線を弾く…てなことは現実的な演奏の姿ではないでしょうけれど、太棹の重く深い響きはそういった姿を呼び起こしてくるもので。そして、名人と言われた竹山の三味線は、例えばパガニーニのヴァイオリンのような(という喩えが適切かどうかは別ですが)ヴィルトゥオーゾの生み出すものというわけでもないように思えたりも。

 

弟子の方々の中にはよほど技巧的に達者な演奏をされるようすが映し出されもしましたですが、竹山の演奏はむしろ深みであり滋味であり、聴いている側が津軽の風土を勝手にフラッシュバックさせてしまうようなところがあるとでも言いましょうか。ただの巧者とは異なる領域に入り込んでいるのかもしれませんですねえ。

 

では、竹山の音楽がひたすらに津軽のもので…ということではなさそうです。TV番組の中では竹山が世界各地の音楽を聴いていたことが紹介されて、弟子にも外国の音楽を聴けと言っていたようで。

 

先に、竹山が渋谷ジァン・ジァンでライブをやっていたことだけを聞きかじって、クロスオーバーな音楽をやっていたのであるかと勝手な思い込みがあったと申しましたですが、聴こえてくる音楽の外見がクロスオーバーなのでなくして、一見というか一聴、津軽三味線そのものである竹山の音楽の中にグローバルな音楽の普遍性があることを感じ取った音楽人たちがこぞって竹山を支持した…てなところだったのかもしれません。

 

最晩年になって竹山は弟子の中から二代目竹山を指名しましたですが、「何も東京から来た女性に継がせなくても…」てなことから地元青森では襲名を認めない空気があったとか。おそらく竹山の奏でた音楽はいくら弟子として近くにいたとしても同じ音楽は出てこない。それならば、津軽三味線の今後に、初代とは違った形でグローバルな普遍性をまとわせてくれるのが、この人であるかといった感覚を初代が感じていたのかもしれませんですね。いずれにしても唯一無二ということで。