近隣図書館の新着図書コーナーで見かけたのがこちらの『終着駅の文化史』でして、瞬間風速的に読む本が途絶えた間隙につい手にしてしまった一冊でありました。

 

 

「交通ブックス」という叢書の一冊ですが、なんとはなし、マニア御用達のシリーズのようでいて、もちろん専門的なところのものもあれば、一方で素人衆にもわかりやすくを提供するものもあるようで。こう言ってはなんですが、玉石混淆でもあるのかな…と本書を読んで思ったような次第でありますよ。

 

なまじ「文化史」といった学術っぽいタイトルが付いていましたので、それ相応の内容が期待されたところ、著者自身、まえがきで「総花的にならないように…」と言っていながらも、たくさんお持ちのようすの知識のあれこれが並んでしまったなあという印象。どこかで深まりがあるとよかったのですけれどね…。

 

と、読んだ本の残念感を長々述べても詮無いことですので、ちと方向を変えますと、ここでタイトルにもなっている「終着駅」という言葉には少々の「?」が。著者自身、というか一般的にも?、いわゆるターミナル駅(terminal station)を指して終着駅という訳語がもはや自明のことのように使われておりますけれど、「終着駅」という日本語が醸す含意はターミナル駅というのと異なるものではなかろうかと。その点、Wikipediaの「終着駅」の項目に、「対義語は始発駅」と書かれていて、「ほらね!」と。

 

ターミナル駅の機能は終着駅にもなり、始発駅にもなるわけですが、これを終着駅という日本語に押し込めてしまっている違和感でしょうか。このあたり、「Terminal」という英語に「終わりの」の意があることから「終着駅」の訳語が生まれたのかもが、むしろこの語にある「末端の」に着目した方がよかったんではないでしょうか。

 

鉄道の歴史の始まりの頃、最初から縦横無尽に鉄道網が張り巡らされたわけではありませんので、必ず線路の両端は行き止まりになる。その末端部に置かれた駅のことをターミナル(駅)といったのでしょうし、形としては今でいう頭端式ホームが並ぶ駅こそがターミナルだったと理解すると語源的には得心のいくところです。

 

ですので例えば東京駅のようなにいくら大きな駅であっても、ターミナルというのはどうよという気も。JRの英語アナウンスでは平気で「Tokyo terminal」などと呼んでますれど、むしろ「Tokyo centeral staion 」くらいの方が現実的ではないですかね(今の日本では、阪急梅田駅あたりが立派なターミナルと言えましょうか)。

 

現に、通過式ホームがたくさん並んでいる点でも(外見も)東京駅と似ているといわれるオランダのアムステルダム駅は「アムステルダム中央駅」と呼ばれておりますしね。もっとも、列車発着の点で頭端式よりも通過式の方が優位なせいか、旧来の歴史的なターミナル駅舎を残しつつ、地下に通過式ホームを増設したりするケースがあったりしますから、欧米でもターミナル駅の意味合いは見た目との間で緩やかに変化しているのかもしれませんですが。

 

と、ひとしきり「終着駅」にこだわってみたついでに、この際ですので言葉つながりで往年の名画?『終着駅』を見てみることにいたしましたよ。もしかして…と全くもって想像でしかありませんが、この映画の邦題を考えるときに、ターミナル=終着駅という訳語関係ができたのではなかろうかと思ったもので。

 

 

話としては、今見るとのけぞるほどの超弩級メロドラマと言えそうですが、ローマのテルミニ駅を舞台に、大きな駅に行きかう人々を(ところどころでこの人、まだ構内をうろちょろしていたか…といったことも含め)写し取っている点が興味深くはありました。ヴィットリオ・デ・シーカ監督らしいネオリアリズモの一端なのでしょうかね。

 

タイトルとしては、原題は「Stazione Termini」はローマのテルミニ駅を示す固有名詞ながら、これが英文タイトルの「Terminal Station」となったとき、ロンドンにはいくつもターミナル駅があるわけで普通名詞化し、それを和訳して「終着駅」を当てたのでしょうか。

 

登場人物、とりわけ悲劇の?ヒロイン・メアリ(ジェニファー・ジョーンズ)はテルミニ駅を旅立つところ(これがなかなか旅立てず、全編ほぼテルミニ駅の中で終始してしまう)ですので、字義的に「終着駅」では適当でないところながら、「終わり」という含みが生きて、すっかり定着したのではなかろうかと。映画のタイトルとしては、ですけれどね。

 

ということで、思いがけず未見だった往年の名作?を見ることになったりもした、終着駅という言葉への思い巡らしの一幕でありました。