東北の霊場・山寺といえば長い石段登りで夙に知られるところながら、本堂である根本中堂から本格的な登りの始まる山門までは至って平坦な道をたどってきました。いよいよたどり着いた山門を入ったところで、入山料を納めるわけですが、お寺さんの場合、〇〇山〇〇寺と称するだけに「拝観料」といわず「入山料」と言ってなんの差支えもないものの、ここくらい「入山料」という言い方が相応しいところもそうあるでもなしと言った雰囲気ですなあ。山門前に改めて「登山口」と表示されているのも、なるほどです。
…鎌倉時代の建立といわれる山門は、開山堂などへの登山口で、大佛殿のある奥之院までの石段八百余段。その途中、数十メートルの岩の上に建つ堂塔や、数百年の樹林の間に、貴重な宗教文化と、自然の景観が一体となった、日本を代表する霊場の入り口であり、石段を一段、二段と登ることにより、煩悩が消滅するとされている。
石段を登ることで煩悩が消えていく…とは、最後の方には登るしんどさで普段の煩悩まで忘れているてなことかもと思ったりしますですが、石段の数は1015段とも言われるものの、ここから先は800段余りということは、すでに根本中堂までの登りで200段くらいは消化していたということになりましょうか。幾分、気が楽になりますな。
ちょいと進んだだけで、山中至るところに供養塔であるのか、石塔やらが折り重なるように建てられていて「霊場」感に溢れてきます。この先、基本的には九十九折の登り坂をぐいぐい登る感じになりますが、ところどころにお堂があったりして小休止にもなるという。最初に出くわすのがこちらの「姥堂」でありましたよ。
この堂の本尊は奪衣婆の石像。ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの石清水で心身を清め、新しい着物に着替えて極楽に登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。
恐いもの見たさでもって堂内をちらり覗き見ますと。思いのほか迫力ある奪衣婆の姿に慄いて写真がぶれてしまい、反って迫力が弥増す結果に。つくづく恐いものは苦手なたちでして(笑)。
姥堂のところからは大きな岩を回り込むように登っていきますけれど、これは「笠岩」とも「笠投石」とも言われているのだとか。
なるほど巨岩ではあるも「笠岩」と呼ばれる謂われとしては、立石寺開山にあたり慈覚大師が入山した際にこの岩の下で雨宿りをしたと伝わるところから来ているようですね。こののちも慈覚大師ゆかりのものがあちこちに出てくるのですが、そのひとつがこの先にもう見えていますな。
左側が岩がせり出していて、道を塞いでいるように見えましょう。これには「御手掛岩」という呼び名がありまして、やはり慈覚大師が登って行く際、道を塞いでいたこの岩に手を掛けたと(のみならず、岩に手を掛けて道をこじあけたとも伝わるようで。
岩には丸くえぐれたような部分がありますが、慈覚大師が手を掛けた跡だということなのですが、はてさて…。実は大きな岩が道を塞がんとしているところはこの先にもあるのでして、そこでは慈覚大師も狭いところをすり抜けたようで。御手掛岩で力を使い果たしたのでもあろうかと。
ここが参道の中で最も狭いとして「四寸道」と呼ばれておりますな。四寸、即ちおよそ14cm幅ということで。ちなみに四寸道をすり抜けるとすぐ左側の岩壁に、ともすると見過ごしてしまうほどにすり減った摩崖仏がありましたな。
「摩崖仏 平安初期 伝・安然和尚像」と札に書いてありますが、天台宗の偉いお坊さんのようですね。しかしまあ、平安初期といえば優に1000年以上は経っておりましょうから、ぎりぎりにもせよ、形を残せたものであるなあと。ただ、根本中堂の傍らで見かけた清和天皇供養塔のようすからして、こちらの摩崖仏が年月を経て風化・摩滅したというよりは、たくさんの参拝者に撫でまわされてしまった結果、こうなってしまったのではなかろうかと思ったりもしたものです。
と、当日のお天気は曇り空で日差しは無いもの、それでも梅雨の時季とあって湿気があったものですけれど、四寸道のあたりまで登ってきただけも結構な汗かき具合でして。それだけに「わりと登ってきたのではないかな」と都合よく考えてしまうところながら、石段には折々、こんな看板が出ておるのですな。
「あらら、まだ半分までも来ていなかったのであるか…」。この看板、半分を過ぎればもうひと息の元気の源になるかもですが、そのちょいと前だと些か気を挫くところもあるような。ま、次のポイントは「せみ塚」、つまりは松尾芭蕉ゆかりの場所となりますので、気合を入れてまいるといたしましょう。
ということで、さらに登りは続きます。