東京オペラシティで「ヴィジュアルオルガンコンサート」を聴いた帰りしな、ちと杉並区立郷土博物館に立ち寄ったのでありますよ。
これがなかなかに不便なところにありまして、いささか二の足を踏んでおったのですが、オペラシティから少々北上した方南通りを通る京王バス(新宿駅西口~永福町駅)の存在に気付いたおかげで、楽に移動することが出来ましたですよ。ま、この部分はどうでもいい話ですが、東京にあっても全く縁の無い街並みを抜けて行くバス路線というのも楽しからずやではありまして。
ともあれ、たどり着いた博物館では特別展「昭和歌謡は杉並から生まれた テイチク東京吹込所物語」なる展示が行われておりまして、かつて杉並区堀ノ内にテイチクレコードのレコーディングスタジオがあった…ということに触れる企画展。1999年に閉鎖されたそうですが、まさにその当時は杉並に住まっておったものの、全然知らなかった…という思いも沸いて、出かけてみた次第です。
ただ、テイチクレコードと聞いて爆と思い浮かべるところは「演歌のレーベルじゃね?」ということくらい。まあ、展覧会タイトルも「昭和歌謡」と言ってますけれど、かなり年代物の昭和歌謡となりましょうかね。展示室の入口部分(室内は写真不可)ではこんなふうに、出迎えてくれるのは三波春夫と石原裕次郎という具合で。
現在のテイチクエンタテインメントの元となる帝国蓄音器商会が設立されたのは昭和6年(1931年)ですので、まさに昭和と共に歩んできたレコード会社ということになりますな。当初はなかなかヒット曲に恵まれず、ビクター、コロムビア、ポリドールといった外資系のレコード会社に押されっぱなしだったとか。まあ、レコードという媒体自体が外来のものですしねえ。
さりながら、昭和9年に社運を賭けて?東京吹込所(堀ノ内吹込所)を設けたところ、これが最新設備を誇ることになかったか、移籍組も含めて作曲家や歌手との契約も進み、「外資系と肩を並べる大手会社に休息に成長したそうな。特に、古賀政男を専属作曲家(昭和9~14年)に迎らえたことは大きかったようです。
ちなみにざっくりとした時代区分でもって、テイチクの名だたる歌手名を挙げてみますと、このようになるようですな。
- 戦前期:楠木繁夫、美ち奴、ディック・ミネ、藤山一郎
- 戦中期:東海林太郎
- 戦後復興期:田畑義夫、菊池章子、菅原都々子
- 高度成長期:石原裕次郎、三波春夫
あもちろん初めて目にする名前のありましたが、半数以上は知っている。これも親世代の影響ですので、個人差は大きいでしょうけれど、いわゆる「懐かしのメロディー」的な番組の常連だった人たちが多いですよね。つまり、懐かしがられるほどに売れた歌手たちだった…ということになりましょう。
ですが、それぞれの時代にはそれぞれの世相が反映しているのでもありますよね。例えば、戦前期の曲ながら今でもカラオケで歌われることのある藤山一郎の『東京ラプソディ』(古賀政男作曲)は昭和11年(1936年)の作であると。
展示解説には、藤山一郎は「楷書の歌手」と言われた…てな紹介がありましたですが、改めて東京音楽学校(要するに後の芸大音楽学部ですな)の出身であると言われれば、あの歌いぶりはアカデミックな音楽教育から出ていたことだったのであるなあと。展示には藤山が書いた『東京ラプソディ』の編曲楽譜がありましたけれど、なるほど系統だった音楽教育を受けたのであろうと思ったものでありますよ。
とまれ、帝都・東京の名所案内さながらの『東京ラプソディ』は勢いのあるアップテンポの曲であるわけながら、翌昭和12年(1937年)になり、日中戦争の時代となってきますともっぱら「戦時歌謡」が聞こえてくるようになるのですな。
当初の戦時歌謡は「哀調を帯びた暗い曲調」だったようで、思い返せば♪徐州徐州と人馬は進む…と歌われる『麦と兵隊』(昭和13年)あたり、いかにもな曲調かと。そして、これを歌ったのが東海林太郎でしたか。直立不動で歌うその姿勢から、東海林太郎こそ東京音楽学校出かいね?と思えば、満鉄の職員だったという経歴だそうで。時代ですなあ。
と、当初は哀調を帯びていた戦時歌謡ですが、太平洋戦争とともに戦時色が一層濃くなっていきますと、国民を元気にする(カラ元気ですかね…)ようなものに変わっていったと。要するに「国策歌謡」とでもいうべきプロパガンダですよね。やたら威勢のいい『月月火水木金金』とか表向き明るい『隣組』とか、作曲家・古関裕而が『若鷲の歌』、『露営の歌』などで大活躍したのもこの時期になりましょうか(古関はテイチクでなしにコロムビア専属だったようですが)。
さてと、戦後の復興期、ここらの時代背景という点では、もちろん戦時歌謡の類は姿を消しますし、GHQの指令によって時代劇映画が作れなくなった(日本刀を振り回すチャンバラは物騒ということなのでしょう)のと同様に、時代劇背景の歌曲もまた無くなったわけですが、その後の高度成長期、ここに三波春夫が登場する(もちろん時代劇背景の曲もばんばん歌う)のは、これまたやっぱり世相を思わせるところではなかろうかと。昭和32年(1957年)のレコードデビュー第2作がかの『チャンチキおけさ』であったとは、昭和のサラリーマンの大宴会が思い浮かぶではありませんか。
後に国民的歌手と言われて、東京オリンピック(1964年)では『東京五輪音頭』を、大阪万博(1970年)では『世界の国からこんにちは』を歌うなど、昭和の時代とは切り離せない存在になりますな。そんな三波春夫には日本全国からご当地音頭を歌ってほしいという依頼が続出。果ては(展示を見て知りましたが)『ルパン音頭』(1978年、映画版『ルパン三世』で使われた)や『21世紀の宇宙音頭』(1978年)なんつうものまで登場していたとは。
とまあ、テイチクレコードのことを概観いたしますと、やっぱり演歌のレーベルという認識もあながち間違ってはいなかったと思うわけですが、テイチクにもアイドル歌手がいた?!というのが高田みづえ(1977年、『硝子坂』でデビュー)だということで。活動期間は7~8年と短く、その後は相撲部屋のおかみさんになってしまったわけですが。ついでに言えば、個人的にひと頃カラオケでよく歌ったなあと思い出した雅夢の『愛はかげろう』(1980年)もテイチクでしたか…。
とまあ、年代的に懐かしがるは最後の方に出てくるほんの少々でしたですが、しみじみと昭和の世相を感じつつ見て廻った特別展でありますしたよ。


