先日のEテレ「にっぽんの芸能」では文楽を取り上げておりましたですね。

近松半二作「新版歌祭文」から野崎村の段が紹介されていましたけれど、

これが宝永七年(1710年)に起こったお染久松心中事件を題材にしているとは、

祭りばやしでも思い浮かべようかというタイトルから窺い知ることはできないような…。

 

野崎村の段自体は、お染と久松が心中を決意するものの周囲に諫められて、

その場ではそれぞれ大阪に向かっていく…という幕切れになるわけですが、

ふたり一緒にというわけにもいかず、久松は陸路、お染は船で移動となるのですね。

 

と、ここへ来て「ああ、あの歌は…」と思い出したのが「野崎小唄」、

東海林太郎が歌ったのだったそうで(どうもぴんとは来ませんが…)。

 

♪野崎参りは屋形船でまいろ~という、あの歌ですけれど、

2番の歌詞にはこんなところがあったとは知りませなんだ。

「お染久松 切ない恋に 残る紅梅 久作屋敷」と、これはまさしく「新版歌祭文」の話ですなあ。

 

以前、春日八郎が歌ってヒットした「お富さん」のことに触れましたですが、

本当に昔の歌には背景がありまして、それを知っている前提で作られているのですよねえ。

 

ヨーロッパでは、例えばシェイクスピア作品や詩など文芸作品から詩句が引用されることが多い反面、

それが今の日本にはあまり無いなとかねがね思ってはおりましたけれど、昔はたくさんあったのでしょう。

そもそも和歌には本歌取りといった作法があり、古典的なものからの引用や借用でその後の能や文楽、

歌舞伎なども出来上がっているものが多い。むしろそれを伝統とみれば、懐メロ歌謡のにもそれが

連綿と受け継がれてはいたように思うところです。

 

転機はやはり敗戦でしょうかね。これを機にひたすら欧米偏重に向かっていったところでもありますし。

先の東海林太郎なども、代表曲が「赤城の子守唄」とか「名月赤城山」とか博徒ものを歌って

戦前・戦中に人気があったわけですが、GHQから「博徒はね…」と歌えなくなり、しばらく後に

「懐メロ」として復権するまでは出番がない状態のようでしたし。

 

ところで懐メロは復権しても、江戸期やそれ以前からさまざまな形で引き継がれてきた古典の引用文化には

大きな断絶が起こったままになっているのでしょうか。歌舞伎などの演目に生きているといっても、

歌舞伎そのものが伝統の継承なわけで、新作もないではないですが、そこに引用文化があるかどうか。

 

また、歌舞伎をはじめとした古典芸能が妙に格の高いもの(翻れば敷居の高いもの)になってしまい、

誰しもが簡単に近づけないような印象が作り上げられてしまってもいるような。

 

その意味で、今でも健在と思わせるものは落語でしょうかね。裾野広くそれなりの人気もありますし。

落語が高いところに祭り上げられるでなく、庶民芸能として残っているのは「お笑い」であることでありましょう。

そして、そこには「パロディー」という形で引用文化も生きているわけで。

 

そういえば、「野崎詣り」という上方落語があるそうですなあ。

野崎観音に詣でる二人組の道中をおもしろおかしく語る話のようですけれど、

船で行く人と土手を歩く人と口喧嘩する場面があるのですよね。

 

これまた、先ごろEテレ「古典芸能への招待」で歌舞伎「女殺油地獄」を見ていて、

寝屋川の土手近く、茶店の場面でやはり土手と船との茶化しあいがでてくるという。

そうした「お決まり」があって、落語でも使われ、また「野崎小唄」にまでも

船から土手へ声をかけようかという場面が歌われるのですなあ。

 

まあ、ことさらに「日本文化が!」と力説するつもりは毛頭ありませんけれど、

また昔に戻りましょう的なことでもありませんけれど、断絶の仕方があまりに極端に思えたものですから、

顧みて改めて判断するてなことがあってもいいのかなあとは思いますですね。