ちょいと前に放送されましたEテレ「日本の話芸」では、桂文治による落語「ラーメン屋」が演じされましたですね。
冒頭に、柳家金語楼が作った新作落語であると紹介されたのですけれど、
金語楼といえばもっぱらコメディアンとしてTVや映画に出ていたという、うっすら記憶しかないところながら、
落語家としては次々と新作落語を生み出した才人であったそうな。
落語「ラーメン屋」は老夫婦が出てくる人情噺になっていますので、
おばあさんの喋りを得意とした古今亭今輔が演じたところを今でもYoutubeで見られるようで。
いい話ですが、いかにも昭和(それも初期でしょうねえ)だなあという内容ですけれど、
その点、今輔曰く「古典落語も、できたときは新作落語です」とは「そうだよなあ」とは思うところでして、
さも古典のように聴く噺にも明治になってできたものはいくつもありますから、
演じ続けられることによって古典化するのでありましょうね。なにも落語に限ったことではありませんが。
ただし、いっとき盛んに演じられながら、その後はぱったりというものもあるのですよね。
そういう類いのひとつに「国策落語」(当時の言い方は「新体制落語」だったようですが)があるようで。
戦時中の国策に寄り添う形で、例えば美術では藤田嗣治らが戦争画を描き、
音楽では古関裕而が軍歌・戦時歌謡を作り…ということがあったわけですけれど、
そんな戦争遂行の国策に沿って落語まであったということは知りませんでしたなあ。
たまたま手にした『国策落語はこうして作られ消えた』という一冊で気付かされたわけですが、
消えていった理由は考えるまでもありませんね。なにしろプロパガンダですから…。
本書には国策落語の演目を文字に起こしたものが再録されておりまして、
読んでみる限り、これを落語として(楽しむまで行かずとも)聴きたい人がどれほどいたろうかと思ったり。
何しろ「お国のための出征、万歳!」、「戦時債券を買いましょう」、「欲しがりません勝つまでは」などなど、
落語とはいえこうしたことを聴かされるわけですからねえ…。
もっとも、「エール」総集編を見たときにも登場したような、愛国意識に燃える人たちなどは
「うむうむ」と頷きながら国策落語に耳を傾けながら、どうせならこういうものを聴きなさいと
周囲に勧めて回ったかもしれませんですね。
落語の世界では、かなり露骨な内容の国策落語が作られる一方で、
強制された自主規制?として53種の禁演落語(廓ばなしなどは時局に合わないとされたのでしょう)を設定し、
「はなし塚」なるものの下に葬ったともされますが、それでも禁じられなかったネタもあるわけですから、
国策落語以外の落語が全く聴けなかったわけではなさそうですので。
しかしまあ、落語までプロパガンダにしてしまうものなのですなあ。
そもそもが「お笑い」と言われる落語ですから滑稽なことはもちろんとしても、
マクラを含めて噺家が即興的に見せる部分には世の中への揶揄といったものが入るのはよくある話。
そういう特徴のある芸能をプロパガンダ化しようということ自体に無理があるような気がしますですね。
もっとも軍部の方でも考え無しにやっていたのではないわけで、陸軍省情報部から出た刷り物には、
「宣伝は強制的はいけないのであって、楽しみながら、知らず識らずの間に、自然の感興の中に浸って
啓発強化されて行くということにならなければいけないのである」てな一文があるという。
落語という思わぬ器で刷り込み効果を期待したというところでしょう。
狙いは外していないとは思うも、話の中身があまりに露骨では「自然と啓発強化」は難しいでしょう。
この点、古関が「若鷲の歌」を長調版、短調版の両方で提示したときに、
ひたすら勇ましい長調をこそ採用すべきと考えてしまう軍上層部の発想は
いささかも兵卒たちや庶民の心のうちを理解していなかったことと似たようなところかもしれません。
ところで、新型コロナウイルスの騒ぎが始まって早々、
「自粛要請」という言葉に違和感を抱いた人も多かったのではなかろうかと。
コトバンクにある「自粛」の語釈は「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」で、
これが本来の使い方でしょうけれど、それが要請された時点ですでに「自ら進んで」いないような。
本書の初版発行は2020年2月10日ですので、執筆の時点でコロナ禍は予見できていないわけですが、
はしがきに見られるこの部分は現状に照らしても考えてしまいますですね。
本来、自粛というのは、他から強制されうものではなく、自ら判断するものだが、自粛を迫るというのは戦争の異常さをしめすものと言える。
コロナ禍を戦争に擬えるつもりはありませんけれど、
求め方の体質が変わっていないのではなかろうかなあという点で、考えてしまうのでありましたよ。