武蔵野市立吉祥寺美術館 は思いのほか地味な存在で、
ショッピングビルの7階にこぢんまりとしたスペースで存在し、
しかも入館料が100円であるところからも過大な期待を抱かせるところがないわけですが、
時折「こんなん、やっちゃいます?!」という企画に出くわすことがある。
12月27日まで開催中の「生誕110年記念 三岸節子展 私は燃えつづける」は
まさしくそうした展覧会でありましたなあ。しかも入館料がいつもと変わらず100円のままで。
それにしても、画家・三岸節子(1905~1999)を意識したのはいつ頃でしたろうか。
きっかけのひとつは、この二十歳の「自画像」(1925年)であったと思うのですが。
実物ではなく、何かしらの画像で見かけたときには
おかっぱ頭でこけしのようなといいますか、人形のようなといいますか、
そんな素朴なふうに見てしまっておりながらも、何故かしら印象に残る…てなふうでしたが、
いざ本物を目の前にすると、そんな悠長な印象ではありませんでしたですね。
よく肖像画はモデルの内面までを浮き出させて…てなことを言いますが、
自画像を描くときの画家の心持ちというのはどんなだろうという思いをめぐらさずにはおれない。
引き合いに出すのがいいのかどうかですが、デューラーやレンブラントの自画像を見ても、
そんなふうなことを考えたこともなかったですが…。
やはりある種、天才的なところがあるのでしょうね。
16歳で岡田三郎助の門下となり、その後女子美に入って首席で卒業。
女性画家としては初めて春陽会の展覧会に入選を果たす…と、
坂を駆け上がるような滑り出し。
ところが、やはり画家の三岸好太郎と結婚、3人の子供ができ…というところで夫と死別、
絵の制作は子育ての合間となって思うように外には出られず、そのうちに日本は戦争へ突入。
素材は自ずと限られることになっていったような。
そこで本人曰く「戦争中は花ばかり描いていた」ということになるわけですが、
花を描くことは三岸のライフワークにもなっていくようですね。
元来、奔放な色遣いは信条でもあろうかと思うところながら、
暗い世相の時代に描いたものはいささか趣を異にするも、
戦後の1951年頃に描かれた「花」は表現が溢れ出したようにも見えますですよ。
さらに後年、例えば上のフライヤーに大きく使われている1989年の「花」の
鮮やかな色彩は目が釘付け状態になりますね。
この絵のそばには、画家自身の言葉としてこんな文章が紹介されておりました。
…花よりもいっそう花らしい、花の生命を生まなくては、花の実体をつかんで、画面に定着しなければ、花の作品は生まれません。
つまり私の描きたいと念願するところの花は、私じしんのみた、感じた、表現した、私の分身の花です。この花に永遠を封じこめたいのです。
こう本人が語るところを知るにつけ思うところは、
この「花」という作品は失敗作なのではないかということなんですね。
花を描いて封じ込めたものの「圧」があまりに強いために、
もはや花を超えてしまっていると思えるからなのですよ。
また「私の分身」との言い方からは、
先の「自画像」でも封じ込めたものの強さを思い返すにことにもなるような。
そして、花の絵を描いて花そのものを超えてしまうように、
実は芸術の垣根をもまた飛び越えている思いがあるなというのが、次の言葉です。
晩年のボナールの作品や、ブラックの近作は、色調の諧調がもはや音楽であるということ、つまり近代絵画は、最後のゆきつくところを、色彩で奏でる、音楽の究極まで達したというのです。絵画で奏でる音楽なのです。
三岸は渡仏経験を経て風景画も多く制作しますし、
また室内画も花ばかりでない静物画もありますけれど、
なるほど引き合いに出されるように時にはボナールのような、
時にはブラックを思わせるような作品に遭遇するものの、いずれも個性が立っている。
絵の内側に収まりきらない「圧」は当然にして見る側に押し寄せてくる…
そんな作品に次から次へと対峙していくのはなかなかに稀有な経験でもありましたですよ。
前から気になってはいたですが、いつぞやに今回展の追体験をすべく
名古屋(実際には一宮市ですが)にある「三岸節子記念美術館」には
出かけてみんといけんですなあ。



