ちょいと前のTV東京「美の巨人たち」では
ピエール・ボナールの「黄昏(クロッケーの試合)」を取り上げて、
「ほうほう」という感じでありましたなあ。
「日本かぶれのナビ」ともいわれるボナールの画面は、
日本画よろしくおよそ立体感に乏しいところがあるとは思いましたけれど
(もっともそれを欠点として見るわけではありませんが)
実のところ芝居小屋の書割が奥から手前に段階的に配置されるのにも似て
あたかもレイヤーのようになっていると。「ほうほう」です。
まあ、そんなところに刺激を受けて
国立新美術館で開催中のピエール・ボナールの回顧展に
遅まきながら出かけてみたのでありますよ。
初期から晩年での作品を見て回るにつけ、その作風は一筋縄ではつかまえられないなと。
誰かに似ているというのは適切な例えではないかもしれませんですが、
時にゴーギャン を(まあ、ナビ派 ですから)、時にロートレックを、時にドニを、
そして時にはドガを思い出す…てな具合でありましょうか。
先の番組で取り上げられていた「黄昏(クロッケーの試合)」も展示されていて、
番組の解説どおりに「なるほど書割のレイヤー」と思うところながら、
異時同図法といいますか、ゴーギャンが「説教のあとの幻影」でやっているような
本来の視覚的には同時にその場には無いものを描き出しているようにも思えるところです。
クロッケーという球技に興じているはずが前景の人たちはなぜか心ここにあらず。
そのいずれかの心のうちの心象風景が奥に描かれた踊る女性たちであって、
それが誰の、そしてどういう心持によるものなのかは語られない分、想像するしかない。
下世話な想像にはなりますけれど、おそらくは穏やかならざるものではあろうかと
思うのでありますよ。
だいたいボナールはインティマシーの画家であろうと思うのですよね。
確かにアンティミスト(親密派)と呼ばれていますから、その通りともいえるところですが、
「インティマシー」という言葉はコトバンクでは「密接な関係、親密、親交、昵懇」とあり、
何の疑いもなく前向きに良好な関係と受け止めていいのかなあと思うわけでして。
そこはついつい隠微な方向で考えてしまったりもする。
直接おもてには表れないけれど、実は裏側では、心のうちでは…と。
妻マルトをモデルに多くの作品を描いているところにも
アンティミストと呼ばれる所以はあるとしても、どうもそれだけではないような気がしまして。
例えばフライヤーに使われている「猫と女性」を見ても表情がはっきりしない。
そればかりでなく、うつむいていたり、後ろ向きであったりという描き方が多いのは
陰りあるインティマシーともいえるような気がしてくるわけです。
先には時にドニを思い出すとは言いましたですが、
ボナールも家族を描くことが多く、一瞬、幸福家族のドニ一家を思ったりしてしまうものの、
描かれた内側ではとてもドニ一家のようにではないのだろうなあとは
「黄昏(クロッケーの試合)」を思い返しても思うところです。
そんな中では、決して本展で目立つ作品ではないながら、
最も目を引いたのは「黒いストッキングの少女」だったのでありますよ。
先ほどからインティマシー、インティマシーと言ってますけれど、
会場ではわりと早い段階で行き当たるこの絵を目にしたときに
即座に浮かんだ言葉が「インティマシー」だったわけでありまして。
偶然にもせよ、この絵のすぐ隣に掛けられていた作品のタイトルが「親密さ」、
つまりはインティマシーであったのには「おいおい、隣の絵の方が…」と思ってしまいましたですよ。
それはより想像を掻き立てるという点においてといえましょうか。
そんなこんなことを言って、ボナールの家庭をぶち壊しにするつもりは毛頭ありませんけれど、
やはり積極的に(ということは一面、前向きにと見えるわけですが)家族や妻を描きながら
その実、心象風景は別のところにある。それが作品にはちらりと顔をのぞかせてしまうのかなと、
まあそんなふうに作品にを見て回って思ったものでありますよ。
ボナールと言えば、先年にもブリュッセルの世紀末美術館 で見た一枚がすぐに浮かび、
この光の降り注ぐ中での裸婦像はきわめて健全なものと受け止めていましたけれど、
実はいろいろと物語があるのでは…と、この絵に関しては勘繰りたくないところを
勘繰りたくなってしまうように思えたボナール展なのでありました。