先にマグリット美術館のフロア図を示しましたですが、建物の地下二階からさらに下へと続く階段がありました。
これをたどっていきますとそのままいつしか「Musée Fin-de-Siècle」へと到達するのですが、
フランス語に疎いものとしては「Fin-de-Siècle」とは何ぞと思ったところながら、
どうやらこれは「世紀末」の意であるそうな。
ですので、王立美術館の中でマグリット美術館の次には訪ねたのは「世紀末美術館」。
かようなゲートにチケットをかざしていざ!という具合でありますよ。
まずは珍しく彫刻から取り上げますけれど、これがいかにも「世紀末」感の濃厚なものでありましたのでね。
やおら三連発でまいります。
左からアルフォンス・ミュシャの「ラ・ナチュール」、オーギュスト・フラマンの「ポピー」、そして最後が
フェルナン・クノップフ「メデューサの首」(言語的には「頭」ですが、日本語としては「首」の方がしっくりきますよね)。
世紀末は「ファム・ファタル」の時代でもありますけれど、いずれ劣らぬ「妖し」の姿ではありませんでしょうか。
「妖し」の形にもいろいろあるものですよねえ。
と、タブローのひとつめもフェルナン・クノップフで「シューマンを聴きながら」。
かつてのブログでこの女性をクララ・シューマンに見立てた想像の物語めいたものを作ったりしたのが懐かしい。
それも10年前にこの美術館で見たところから広がった想念であったような。
今見てもやはり想像力に訴えかける一枚でありますね。
一方、こちらはジェームズ・アンソールの「ロシア音楽」と名のついた1881年の作品。
実は2年後にクノップフの「シューマンを聴きながら」が発表されると、
アンソールは「ロシア音楽」を真似ただけではないか!と激怒したらしいのですよ。
…と、このエピソードの先の物語めいたものの中で触れているのですが、
個人的にはアンソールが怒りまくるほどに似てるとは思わないと感じて、
作品としてはクノップフの方にばかり肩入れしていたなあと。
さりながら、改めて見てみるとこちらの方も「ロシア音楽」というタイトルをも考え合わせて、
物語がありそうだなと、今さらながらに思うのでありました。
なにしろ、10年前にここの美術館で初めて接したアンソールに
「ジェームズ・エンサー(James Ensor)って誰?」と思ったくらいに知らなかったものでして。
ところで、クノップフもアンソールもベルギーの画家ですけれど、もう一人、ベルギー出身の画家を。
しばらく前に東京ステーションギャラリーで展覧会のあったエミール・クラウス。
この画家を初めて認識したのもこの美術館でありましたなあ。
この川辺の木立を描いた作品は純粋に風景画として見ればよいのでしょうけれど、
時代の空気のせいか(クノップフほどではないにせよ)どうしても幻想味が漂ってますよね。
とかく隅に置かれがちなベルギー作家たちの作品には佳品がたくさんあると知れる美術館なのでありますよ。
とはいえベルギー作品ばかりの美術館ではないわけで、展示室のあちらでもこちらでも「おお!」と思うものが。
それも一枚の絵を見るのに他人の存在を全く気にせずに見られるところが何にもまして「気分良し」てなもので。
ですので、美術館の名誉のために?ベルギー作家以外の作品にも、ほんの一端ですが触れておくとしましょう。
ボナールの浴婦の図は、窓から溢れる光が全体を実に健康的に仕上げておりますな。
飾っておきたい(飾っておける)ヌードと申しましょうか。
こちらはジョルジュ・スーラが描いたグランド・ジャット島のセーヌ川。
こうした点描画を眺めやるのに、遠目で見たり近接したりが誰にも遠慮なく自由自在なのはいいですなあ。
と、ボナールとスーラの2点は「世紀末」という言葉でイメージが増幅されるような作品ではないわけですが、お次は。
バーン=ジョーンズの「プシュケの結婚」。
ラファエル前派…といって、バーン=ジョーンズはラファエル前派の次世代というべきかもですが、
ラファエル前派がまた「世紀末」濃厚でありますよね。
とまあ、ついつい「世紀末」という言葉がまとう印象でばかり語ってしまいそうになるところながら、
まあ、本来的にはその時代の作品を集めてあるということ以外のものではないのでしょうねえ。
だからといって、この美術館でのお楽しみが損なわれることは全くないのですけれど。いやあ、堪能しました。