伊香保の話 ばかりでは何なので、例によって他のこともおりまぜながらということで。
ベルギーの画家エミール・クラウスの作品を知ったのは、
6年ほど前に出かけて行ったブリュッセルの王立美術館でありました。
そのときのことは(昔のブログに)こんなふうに書いてます。
…つまりはこれらの有名な画家たちと同じ時代を生きたベルギーの画家たちがたくさんいるわけです。その中で、エミール・クラウスという、あまり知らない画家は、かなり注目かなと思ったのでした。上の絵は一見して牛を描いた絵なわけで、昨年の西洋美術館でもエミール・クラウスは牛の絵(「陽光降り注ぐ小道」)で紹介されていました。
が、そのとき同時に展示されていた「太陽と雨のウォータールー橋」を見たら、クロード・モネを思い浮かべるでしょう。それでもあんまりピンと来ないとしたならば、積み藁を描いた絵を見れば「なるほど!」ではないかと…。
画風は典型的な印象派で、印象派大好きな日本人にあって、もしかして知らなかったのは自分だけ?ところが、ミュージアム・ショップで買った解説書によれば、「ターナーとモネの追随者」だがそれだけ!みたいな言われ方では、少々かわいそうかもしれません。
画像は省略させてもらいましたが、結構印象に残るものであったことは確か。
で、そのエミール・クラウスを中心とした展示であろうといことで出かけてみましたのが、
東京ステーションギャラリーで開催中の「エミール・クラウスとベルギーの印象派」展でありました。
以前の印象は、「ターナーやモネの追随者」というだけではかわいそうかもしれません…と言いつつも、
まだまだ美術館通いを始めたばかりの頃でしたから、クラウスの独自性にまでは迫ってませんが、
今回少々まとまってクラウス作品を見てみると、むしろ独特の世界であったのは比較的初期であって、
その後はどうも迷いが生じてしまったのでは…と思ったりもするところでありますよ。
実際、本展でも最初の方に展示されている作品には引き付けられるものがしばし登場します。
例えば、1891年の作品で翌年のサロンに出品され、
ゲント美術館に買い上げられた「そり遊びをする子どもたち」(本展の図録の表紙を飾ってます)の、
氷上の照り返しの表現に「おお!」と思い、「アンプレッショニスム」といわずして「ルミニスム」というは
これか!と思うのでありますよ。
極めつけと思われるのは、1892年頃の作とされる「レイエ河畔に座る少女」でしょうか。
入場券の半券に使われていますけれど、川辺の花が咲き乱れる中に坐る一人の少女の姿。
横顔なればこそかもですが、表情に乏しく、タイトルのわりには本当に少女を描くつもりだったのかと
思えるような一枚なのですね。
ともすると、画家の気持ちが対象に向いていないのでは…とも思えるところですが、
実はそのとおりかなと思うのは、少女を対象だと考えてしまうとそのとおりだからなのですね。
では、何だってそんなことになってしまったのかと考えてみれば、
画家が対象としたはあくまで「光」だからということになるのではないかと。
印象派の画家たちは戸外で光の移り変わりによって
描かれる対象が醸す色彩の変化に目を止めていたと思いますけれど、
エミール・クラウスは光そのものを対象にしてしまってるのではないですかね。
そう考えると、絵の中でひときわ光が際立つようにも感じられるわけで、
その空気感たるやゾクゾクさせられてしまうのですね。
他にも、そっと早い段階の作品で1887年から1890年頃の作品とされる「昼休み」からも
同じような印象が得られますが、やはり「レイエ河畔に座る少女」はいささか後の作品な分だけ
極まってる度合いが高いものと思われます。
「昼休み」、「レイエ河畔に座る少女」ともども個人蔵ということですので、
そうおいそれとは見られない作品かと思うと、ここでの出会いはまさに僥倖というべきではないかと。
この路線がさらに大成したならばどんな作品が生み出されていたことかと思うわけですが、
どうもその後の作品になってくると「光」を見失ってしまったのではないかと。
「印象派」の大波に呑み込まれてしまったのでしょうか、なんだか残念に思われてならないような。
とはいえ、本展の後半部分で紹介されるように、
太田喜二郎や児島虎次郎(大原美術館のコレクション購入を任されたことで有名ですね)といった
日本人画家にも影響を与えた存在であったわけですから、
もそっと見る目を養うとまた違った感慨が湧き起こるのやもしれませぬ。
ただ、さしあたってはここで触れた2~3点を見るだけでも
出掛ける甲斐のある展覧会であろうとは思っておりますですよ。