混雑を厭う余り、どうもめぼしい展覧会に行けず仕舞いとなるケースが個人的には続出…。
そんな中で、そうは言ってもこれは行っておきたいというものはあるもので、
このほど「オルセーのナビ派」展@三菱一号館美術館
に行ってきたのでありました。
人出が危ぶまれる場合は平日に何とかやりくりが付けば出かけるてなふうに考えており、
差し当たり本展に関してはまずまずのコンディションで展示を見て周れたという。
単にそれだけでも展覧会の好感度が増すのですから、絵と向き合うということもやはり
周囲の状況などを含めて考えれば、一度として同じ出会いは無いというべきでありましょう。
と、前置きはともかくも「ナビ派
」という括り、決して一筋縄ではいかないものと思いますが、
まずは展示解説にあった、1890年のドニの言葉を借りておくとしましょう。
絵画が軍馬や裸婦や何らかの逸話である前に、本質的に、一定の秩序の下に集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを思い起こすべきだ。
ここから説明文では「平面性を強調しながら装飾性に富む」という
ナビ派の特徴を導くことになりますけれど、描かれる対象に関してドニが
「軍馬や裸婦や何らかの逸話である前に…」と言っているのは
要するにアカデミスムに対する挑戦ですなあ。
それ自体はナビ派ばかりのことではありませんが。
一方で、1888年にゴーギャンがセリュジエに送った手紙の一節も重要なポイントでありますね。
これも引いてみるとしましょう。
これらの木々がどう見えるかね?これらは黄色だね。では黄色で塗りたまえ。これらの影はむしろ青い。ここは純粋なウルトラマリンで塗りたまえ。これらの葉は赤い?それならヴァーミリオンで塗りたまえ。
木肌が黄色で影は青、葉は真っ赤…これだけで頭の中でパズルを組み立てると
なかなかに斬新な図像になってくるのではないかと思うところながら、
描き手本人にそう見えるのならば臆することなく該当色を使うべしとゴーギャンは言ってますね。
ここでは色遣いの話ですけれど、冒頭で触れたようにモノを眺めるときにはその周囲環境や
それによって眺める側の者の心理状況がどうであるかといったことが単に視覚情報として
目から入ったものが頭の中で認識されるときに付加されて、同じものを眺めても人によって、
あるいは同じ人でも見るときごとに受け止め方が異なるということと背景は同じ気がします。
とまれ、ゴーギャンの言葉を受けて
セリュジエが描いた「タリスマン、愛の森を流れるアヴェン川」(1888年)は
大胆な色遣いとは思えるものの、説得力のある画面になっているなという印象がありましたですよ。
ヴュイヤールの「八角形の自画像」(1890年頃)もまた然りです。
アカデミスムからの離反、大胆な色遣い、そしてもうひとつ特徴的なことが
異時同図法的な側面ということになりましょうか。
本展の中でで最も有名な作品のひとつと思われるゴーギャンの
「『黄色いキリスト』のある自画像」(1890-91年)では背景に自らの過去作を配したりしてますので、
純粋な異時同図ではないでしょうけれど、中央に置かれた明らかな自画像ばかりでなく
左右に見られる顔も含めて一人の人間の持つ三面を一枚に封じ込めてみせた、
そんなように見えるのですね。
これはゴーギャン自身の3つの姿が同時に示されているわけですが、
左右をゴーギャンの心象とみるならば、「説教のあとの幻影」とも通ずるといっていいのかも。
また、こうした描き方がされている点ではドニの「ミューズたち」(1893年)も同じなのでは。
計10人のミューズが描かれている中で、展示解説では手前側の2人(3人だったかな?)には
妻マルトの容貌が窺えるとありましたけれど、個人的には全てがマルトなのではと思いますね。
家族愛が濃厚に現れた作品をたくさん残しているドニにとって
妻のマルトは掛け替えのないミューズであったわけですし、
ヘシオドスの「神統記」からミューズは9人姉妹とされているますけれど、
その個々のミューズにマルトを擬えると同時に、さらに10人目としてそのままのマルトを配して
ミューズの仲間入りをさせたのではないでしょうか。
9人のミューズは個々に司るものが異なりますけれど、
ドニにとってはやはりいずれの部分をとっても妻以上の存在はないと…まあ、
これはこれでとてつもない惚気ではありますなあ。
と、最後にはジャポニスムの影響に触れてきましょうか。
何でもボナールは「日本かぶれのナビ」と言われていたそうなんですが、
同じ頃の仲間の中でボナールは取り分け影響を受けていたとして、
他のナビ派がジャポニスムと無縁であったとは思われませんですね。
例としてはマイヨールが彫刻に転向する前に描いた「女性の横顔」(1896年)、
どこがジャポニスムとは絵を眺める方それぞれの印象にお任せしますけれど、
個人的にはこの女性が何を想っているだろうか、
その心象を雰囲気で背景としていないだろうか…てなあたりを思いながら見ていると
飽くことの無い一枚であったなと。
いやあ、久しぶりにタブローの展覧会を堪能して
気分も上々というところで会場を後にしたのでありました。