吉野ケ里遺跡を見むとて佐賀県まで出かけ、吉野ケ里歴史公園の入口へとたどり着きながらもたもたしているような嫌いがないではなし…。ですが、このとば口部分がすでに「入口ゾーン」というひとつのエリアとして同公園HP上でも紹介されておりますとおり、素通りできない場所でもあるわけですな。
で、その入口ゾーンには「遺跡巡りの予習としてどうぞ」とHPに紹介されております「ガイダンスルーム」を一渉り見ておこうと、そういう次第です。ちなみに、このガイダンスルームを眺めるだけならば入場券を買う前に(つまりは無料で)入れるように思いますが、吉野ケ里遺跡を目の前にして入場しない…という人もいませんね、きっと(笑)。
「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山縞に依りて国邑を為す…」と始まる『魏志』倭人伝。…その中に描かれた邪馬台国や女王卑弥呼について、長い間多くの人達が研究をしてきました。
当時の日本へは、中国から様々な文化が伝わって来ました。吉野ケ里は、その文化を受けて発展した、大きな弥生のクニの中心集落だったのです。
ということは、いかに吉野ケ里が大きな遺跡であっても、ここが邪馬台国だったというわけではないのですな。『魏志倭人伝』には邪馬台国に至る道筋にいくつものクニがあったことを示していて、そのうちのいくつかは「ここらだろう…」という目処は立っているも、全容は明らかとなってはいない。もっとも邪馬台国論争では、邪馬台国が北部九州にあったかどうかさえ、意見の分かれるところではありますが…。
ともあれ、多くのクニが乱立状態(争いが絶えなかったところを卑弥呼がトップに立って収まった?)だった2~3世紀頃、吉野ケ里もまたひとつのクニとして存立していたのでありましょう。吉野ケ里の位置関係も確認しておきましょうね。
大陸や朝鮮半島が先進文化を伝えてくれるとすると、最も近い海上ルートの玄関口である玄界灘一とは、脊振山地で隔てられておりますので、対外的に直接的なやりとりはしにくいように思えてしまいますな。さりながら、玄海灘は「灘」の文字が示すとおりに荒海だったであろうという想像は難くない。一方で、些か迂回ルートにはなるものの、有明海は内海ですから比較的穏やかで船の行き来はしやすかったのではなかいかと。
また、吉野ケ里は内陸深くにあるとはいえ、有明海に注ぐ筑後川が近くを流れていて、これを川舟で遡上すれば物資輸送も容易なのではとも思えるような。ま、対外的なやりとりは想像でしかありませんですが、弥生の時代に何より重要なのは稲作適地であるかどうかでしょうかね。実際、上の地図にも見る通り、吉野ケ里は平野部の中に位置しておりますものね。
紀元前、紀元後にまたがる約600年間の時代(紀元前3世紀~紀元3世紀頃)を、日本では弥生時代といいます。…弥生時代の大きな特徴は、水田でコメを作り始めた事です。吉野ケ里でもその頃に、小さい集落ができました。…(それが)弥生時代の終わり頃になると、集落はより大きくりっぱになります。「祭殿」や「物見やぐら」などの大きな建物が立ち並び、重要な集落のまわりには、二重三重に壕(溝)が掘られていました。
中央に見える前期の小さな円形の環濠が大きくなっていくさまは、まさに「ムラ」から「クニ」へと言ったところでしょうか。広がりがいびつな形をしているのは、遺跡のある場所が周囲の平野部からこんもり盛り上がった丘状の場所に位置していて、丘の形なりに広がったと言えそうです。
とまあ、そんな丘の上の遺跡から「歴代の王の墓や、一般の人達の墓、竪穴住居、高床倉庫、物見やぐら、そして大型の建物の跡など」数々の遺構が発見されたわけですな。ガイダンスルームの「昔の生活の跡を見てみよう」という呼びかけに送られて、さてと遺跡そのものを見に行くことにいたしましょうね。




