『祈り』について思うこと。
2018年11月11日〜12日熱海ひとり旅。箱根芦ノ湖からバスで山を越えて、熱海へ。来宮神社で降り、大好きな木々たちの近くで大好きなクリスタルと一緒に1時間半くらい瞑想のように祈りました。祈りと言ってもわたしの場合は、ただただ木々達や、鳥の声、風の声を聴いて、風に想いを伝えて、風から届く聲に耳を澄ましたり。その時感じたものを胸の中で言葉にしたり。大好きなひと達の笑ってる顔を思い浮かべたり。大好きなひとへの信頼で心を満たしたり。そんな感じの繰り返し。でもそうすると、自分の胸のあたりが温かくなり、頬を伝う風の優しさを感じて、自然に顔がほころんでいくのがわかります。大好きな木から、七色の光が溢れてる♡『祈り』を私が意識し始めたのは、今年の夏。東京であるイベントに向かう途中に、わたしが乗っていた電車が人身事故を起こした日です。一番前の車両に乗っていて、停止音と女の子の悲鳴で一時車内パニックに、確認に向かった車掌さんの声も震えていて、その瞬間に私は震えが止まらなくなり、誰のものかわからない悲しさで、いっぱいになってしまって、その時持っていたクリスタルを握りしめながら多分2時間くらい近くの駅で泣きながら"関わったひとの悲しみが少しでも癒されますように"と祈ることしか出来なかった夏の日からなんとなく『祈り』を意識し始めました。その頃ちょうど仕事で『祈り』の本を読んでいたり、日本列島祈りの旅1 ― 先住民の叡智を学び、アイヌの英雄シャクシャインの御霊の封印を解く1,620円Amazon今2巻目も出てます。読みたい。そのほかの日常の中でも、祈りについて考えたり、想いを馳せたり、体感として学ぶことがあったり、自然と手を合わせるようになったりと、日常の中に『祈り』が入ってくるようになりました。そうした日常を送ってきた中で最近『祈り』について、思ったことがあります。『祈り』とは、信頼。『祈り』とは、信じること。『祈り』とは、自らを満たすこと。ということ。もちろんひとの数だけ解釈はあると思います。それでも、『祈り』は古の太古から、されてきました。干ばつや、疫病、戦時の時、大きな自然災害。事故。友達の病気や、家族の心配事。国の将来や、子の将来、親の今後。地球の平和や、神々たちへ、癒されなかった魂。手を合わせると、自然と自分に繋がる気がします。自分の中を信頼で満たす。自然に、地球に、生かされてることを感謝する。日本に受け継がれる武士の教えのように、自分の声に従って、周りへの信頼を自分に満たしていくことが、今の私にとって『祈り』につながっている気がします。祈りながら、呼吸しながら、自然の聲を聴きながら、自分の道を歩いていこうと思えた熱海ひとり旅のひとつの気づき。『祈り』が日常にある生活を^^徳永菜