全部揃えたい…

 

糞コンプラ時代、糞つまらなくなったテレビ、YouTubeですらコンプラで息詰まりそう → そんな現代にスカッと一発!

「コンプライアンス」って本当だったら真っ当な概念のはずだったのだが、世の中バカが多かったがゆえに(バカは「中庸」ってのが出来ないからな)適用の範疇を遥かに逸脱し、結果民衆自ら管理社会を作り上げた異常な現状。

そんな時代なんで、昭和~平成いつ頃までだろう? のやりたい放題だった笑いは今や絶滅危惧種。そんな現在にあえてのとんねるず全落・水落を取り上げるというね。

コレ、要は落とし穴ドッキリだが、ドッキリには安全性の問題がどうしてもある。インフルエンサーとかド素人はやるな。(ドッキリに限らず番組収録全般にいえることだが)長けてるはずのテレビ局でもたまぁに事故を起こすこともあるんだから、まず素人はマネするもんじゃない。見るだけにしとけってやつだよ。

…そのうえで、さぁダイナミズムのある笑い、落とし穴ドッキリを堪能していこう。

 

 

単純にまず“ドッキリ” “落とし穴”の面白さというものがあって。

他人をドッキリにかける楽しさ。イタズラを仕掛けるという一種の興奮。

ドッキリにかかる人のリアクションを見る面白さ。普段の姿から虚飾が排される意外性というか。

加えて“落下”や“爆破”などにはエキサイトメントがある。

本作は落とし穴ドッキリに特化している。落下という現象を扱い続ける。その気持ち良さ。

…今のアクション映画がつまらなくなった一因には、デジタル加工やワイヤー演出によって落下が不自然になったこともある。落下という現象には絶対重力が伴ってないとならない。であるからこそ落下は気持ちがいい、あるいは迫力があるんであって。現代の偽アクションはそれを喪失しているからつまらない。だから昔のアクション映画を観たくなる。

しかし落とし穴ドッキリにデジタルやワイヤーはない。純粋に落とし穴と落下現象だ。そこには本当の重力とリアクションがある。

 

音響効果も実は面白さや迫力をハネ上げている。派手な音をたてて落下してくが、改めて聞いてほしい、この強烈な破壊音は音響ポストプロダクション、つまり後入れの音であり、

映画は当然ながら、テレビのバラエティ番組やギャグでも音は実は重要だったりする。音響で効果が増大する、インパクトが爆発的にハネ上がるんである。

 

しかもだ、とんねるずの「全落」「水落」シリーズはただ落とし穴ドッキリ企画ではなく、ゴルフと(要は他のものと)融合させてるのが面白いし上手い。ここもまたド素人とは(他番組のドッキリとも)レベルが違う。

落とし穴ドッキリ現場をゴルフのグリーンに見立てる。

現場に向かう車にターゲットを乗せると実況「さぁいよいよグリーンに向かいます」

車が落とし穴に横づけすると実況「ピンまで約1ヤード」

落ちると「ナイスイ~ン!」

ターゲットが穴と位置がズレて落下しなかった時「スライスしカップインせず」

水場の上にデカい穴の開いた島を浮かせて、落とされた奴がその穴にピッタリ落っこったらホールインワンとか。

石橋貴明によるゴルフ界の大物・青木功モノマネでのフザけた解説と判定。青木のパロディをやれるのはとんねるずのテレビ界でのネームバリューゆえだろう。

落とし穴ドッキリというのは見ていると気持ちのいい落ち方とパッとしない落ち方とがある。それは豪快か否かだったり、角度だったり。いい落ち方でないと、見ていてなんだかスッキリしない。石橋はターゲットが落ちた後、バーディーだのイーグルだのと判定してく。

そしてターゲットたちは順位がつけられていく。落とし穴ドッキリで順位をつけるという発想は普通ない。「トップタイ、並んでいます!」 ここにもスポーツと連動させたことによる特異な面白さがある。

ただ単に落とし穴ドッキリのみで進行してくのではなく、工夫がある。別の要素とも融合というかトッピングというか、させてもいて、重層的なギャグになっている。

 

また“陥れる”という形でなく、ターゲットを「選手」として扱う(小木プロ、IKKOプロなどと名称する)ことによって、“被害者”ではなく“参戦”という形に(結果的に)なっているのが実に上手い。ターゲット当人にとっても視聴者にとっても悪感情を抱かせない。

木梨から「ナイスイーグル出ました!」 実況から「遂に逆転のイーグルショット、見事に単独トーナメントリーダーに立ちました!」などと言われたら落とされた本人も苦笑するしかないだろう(笑)。

そもそもが落ちたターゲットへの第一声「ナイスイ~ン!」は魔法の言葉である。笑い者にするのではなく“オマエは実にいい仕事をした(グッジョブ!)”という賛辞を贈ることはリスペクトの意を表しており、本当にそう思っていようがいまいが、言われた方は置かれている状況が相当救われるのもまた事実だ。

前述した“順位をつける”というのも笑いだけでなくリカバリーとしても機能している。被害者というマイナスの立場ではなく参戦選手という積極的な立場に反転して、もはや被害者ではなくなる。

あと「ホワイトシャークIKKO」とか「森三中最後の刺客“神の子”村上選手エントリーです」とか勝手に付けてるキャッチコピーも笑えるんだけど、これも意外にターゲットにされた人の心情を緩和するところがなくもないと感じたりもする。

加えて“選手”たちは自分が落とされた後、石橋と共に実況・解説スペースで他ターゲットが落とされる様を一緒に見るという流れも実は意外にいい配慮といえる。他の人がやられてるのも見るんで、個人的な怒りや惨めさが消失する万全のアフターケア。視聴者もその後一緒に楽しんでるターゲットを見ると安心する。という絶妙な配慮の番組構成。

 

落下がうまくいかなかった時の対応も可笑しい。もっともらしいこと言って再度穴の上を通らせる時もあるが、開き直ってストレートに もっかいやってくれる?とまさかのテイク2というドッキリではあり得ない要求する時がある(苦笑)。→ それを堂々と「打ち直し」と言う(笑)。(石橋の、ディレクターへの「中川押せ! 中川押せ!」のケースも可笑しい)

また緊急事態の時の最終兵器・リポーター木梨憲武の存在。素晴らしい突発的対応・臨機応変さ。ムリヤリぶつかってもう一押し――追加攻撃――を独断で敢行する強引っぷりも可笑しい。

またドッキリすでに成功したのにさらに追加攻撃を投下する時もある。特に日村が落ちた時にバカ高い時計をしていて、引き上げられた後のコメント時にブチブチ文句言ってると木梨が「じゃもう1個買えばいーじゃねーかよ!」といきなりウエスタンラリアートをブッ込んで日村が再び穴に転げ落ちるのは爆笑!

いつもテンション高いイメージな石橋とは違う、穏やかそうにみえて突然キレる木梨のキレ芸とでもいうか、いきなりの変容・突発的暴力は木梨独自の魅力!

 

ターゲットとの化学反応も全落・水落の魅力。お笑い芸人を落とすのは安定の笑いだが、だけでなくメジャーアイドルやアーティストも落とすという標的のボーダレスぶりに反応やギャップの面白さがある。

オカマのIKKO(本人はオカマと言われるのは傷つくらしいが、本エントリでは悪意はない)はそのジェンダーレスというかなんというか、男でも女でもない(といって美人(あるいはかわいい)ニューハーフとも異なる)存在自体が独特であり、そんなIKKOがスカートで落下しても修正が入らない(石橋いわく「見事なV字だ」)・ヅラが取れる(しかも木梨は前後逆につけ直してあげる←爆笑)などの様はIKKO自体が複層的な人物なので、それが生む笑いは実は多層的である。

 

ジローラモや大久保佳代子にカマす、現場に異性を配置しておいて、異性を意識させておいてからの直後に落下は意地の悪さが笑える(苦笑)。落とし穴に落ちること自体が恥ずかしいものではあるが、それでもただ落ちただけならアハハというリアクションで済ませることもできるが、異性を絡ませることでターゲットを襲うあまりのバツの悪さ・こじれる羞恥心という、重層的な仕掛けにより被害者の心理にダブルダメージを負わせるビターかつ複層的な、これまた手の込んだドッキリ。(その後 大久保佳代子にそのイケメンと絡ませてあげる配慮も、良いリカバリー(笑)。ジローラモもそのあと女を抱き上げたりしてるんでまぁ結果オーライじゃないでしょうか)

 

反応がレッドゾーンを超えた時の興味深さもあって、特に錦野旦が落とされて怒って現場はかなり険悪な空気になるが、なだめつつ引き上げた錦野をさらに第2・第3・第4の落とし穴へと連続波状攻撃で落とし続ける悪ノリ過ぎ・やり過ぎっぷりには感心(爆笑)。

 

挙句の果てにはスポーツの本物の有名選手などもターゲットにするに至っては、ターゲットとの化学反応と石橋の青木モノマネのヤバさのミックス、既述例とはまた違った許されるか許されないかギリギリの線を狙ってく、バレーにおけるラインギリギリでイン、あるいはテニスでいうオン ザ ライン的ショットなミラクルな笑いといえる。(→そうして遂に青木功本人までゲストに呼んじゃうんである・苦笑)

 

 

…かつてはただゲラゲラ笑って見てただけだったが、見当違いで異常な現在のコンプラ社会においては、本作はまったく違った意味合いをも有して我々の前に改めて立ち現れてくる。

とんねるずというのは昔から好き嫌いが人によって分かれてた。(まぁビートたけしとかドリフとかもだけど。)

しかし窒息しそうな現代において、それはもはや好き嫌いでは言い切れない存在となった。

本作で石橋が女性芸人の1人をある動物呼ばわりしたり某監督をある野菜呼ばわりしたりするくだりなど石橋の例えアビリティの秀逸さといったところだが、これも現在では差別発言だとアウトになるわけだ。たしかに言っていいこと悪いことあるが、この発言なんかは言い得て妙っていうさ(笑)。しかし現在では批判されるのだろう。

これらを笑えるか笑えないかは、今ではシミったれた奴か否か、(悪い意味で)ナイーブか否か、さらに言えばファシストか否かの試金石ですらある。

『あのとき』という映画を観たいなと最近思ってた。アップリンク吉祥寺でやってる。

が、どうも20分くらいしかない短編らしく、料金は¥1500かぁ、う~む… 作品としては良さそうなんだけど、俺 金ないからさ(苦笑)、20分で¥1500となると思わず考え込んでしまう。

調べると、監督ともう1人誰かゲストを迎えての上映後トークショーがある日とない日があって、ない日は10分くらいのメイキング&NG集を併映してるとのこと。トークショーある日はトーク約30分の後パンフかポスター購入者限定でサイン会があるとなっている。

トークショーを取るか併映を取るか、悩ましい…。

上映は4/2まで。(※追記:本エントリアップ時点ではそうなってたが、その後4/4にも上映が決まり、それが東京上映最終日とツイートされた) 4/1水曜サービスデーに行こうかどうしようか(トークショーはあるが、併映がない) …と思ってたら、公式から「アップリンク吉祥寺にて上映中の #映画あのとき 3/31(火)13:35〜の回上映後、近藤笑菜監督による舞台挨拶が決まりました✨ 皆さまぜひ、劇場でお待ちしております! ※「あのとき」特別映像(メイキングなど)の併映もございます。」というツイートが。

何ィ! というわけで3/31に観に行くことに。

しかしワタクシ夜型人間なんで日中出かけるのがしんどく、この日もいざ出かける用意が8割方できたところで“間に合わないかも…”と思い、取りやめかけたのだが、でも今日を逃すと本編上映+メイキング&NG集併映+舞台挨拶というトリプルコンボはもうないっぽい?

なので一転やはり家を出た。

ところが外はしとしと雨が降っている、それはまぁともかく、加えて風が強い! これから台風来るのか!?って感じで風が吹きすさんでいる。なんかもう髪ぐしゃぐしゃになるわ、途中見かけた通行人で傘の骨が風で反対になってる人までいたし。

でもまぁ間に合いましたよ。

スクリーン5。ここは20数席しかなく、スクリーンもデカくはないので最前列のセンターをチョイス。

実はあまり予備知識がない。予告編は見た。チラシは前回アップリンク吉祥寺来た時か、貰ってったけど。あとは劇場公式サイトの本作の紹介を読んだぐらいで。

なんか主演の人、俳優の人らしいんだけど本作では監督もやってて、母子の映画らしいけど子供は実際本人のお子さんらしく。…そのぐらいしか把握していない状態で、上映が始まった。

 

お母さんと子供(みーちゃん)の微笑ましい日常の光景。子育て。お出かけ。

牛のカット。キツネ(だっけ?)のカット。

外で1人でいるその女性が、他所の父子を見て複雑な気持ち?(ペットの飲み物ばくばく飲む女の子がかわいい♪)

主人公女性の自宅でみーちゃんがイスから落ちたらしき場面。(床に落ちるスプーンと女性の「…みーちゃん!」というカットのみで描写しているのがデリケートでありつつ、想像すると心が痛みもする。表現としてとても良かったと思いますよ)

その女性が田舎の道路を歩いてる場面(夕暮れ時に歩いてるカットはとても郷愁を誘われて、良い!)。

ひと足またひと足、山を登ってゆく女性。

頂上でギリギリ淵にある女性の足のカットと不穏な音。落ちたのかと思ったが、次にきたのは女性が遠く前方を見る顔にクローズアップしてく映像と、その女性の後ろ姿越しの大自然カット。

…といった映画。脚本はないに等しい。セリフがほぼなく、何がどうしてどうなってというストーリー主軸で展開する作品じゃない。

ドラマはある。(ドラマとストーリーは違う

俺は映画というものをこういうふうなものだと思っており↓

なので良い映画だと思いましたよ。

ありふれた日常、かけがえのないもの、その喪失、それで独り山登りしてるのもわかる気がするし、画もいいし、途中かかる歌も素朴なとこが良く、ストーリーとセリフで展開させず映像と音楽だけで表現されてて、鑑賞していて心で感じ取るという…

お話を楽しむとか脚本に拠ったテレビドラマ的なものではなく、気持ちとか感性とかで創られた、映画でなければならなかった作品。本作に満ちる思いの様は言葉で語れるものではなく、脚本で展開するテレビドラマでは表現出来ない。

親と小さな子供の様は観てて微笑ましく、山や田舎の場面は画的に非常に映画的であり、この2つの要素は分断しておらず有機的に繋がっていて、間にある“喪失”はドラマを生じさせていて、

パブリシティ(ポスターとかチラシ)に「ドキュメンタリーとフィクションの境目で生まれた、はじめての映画。」とあるがその通りで、初監督作品であり、実際に近藤笑菜監督とそのお子さんであり、その日常を撮った映像がありつつもホームビデオではなく、フィクションのドラマが連結されているというかフィクションに昇華してくというか。

日常と、悲劇。

存在と、喪失。

親と子供場面と、その後を生き続けている単独山登り場面の、差。

哀しみと、強さ。

この世に生きてる儚さ、かけがえのなさ、慈しみの気持ちに満ちた映画。

俺は好きな映画だなー。良かったですよ。観終わって、心地の良い作品だった。単純に映ってるものも、また映画としての良さも、共に。

 

メイキングとNG集は当然だが劇中とは違い、撮影現場で監督しつつ主演として演じてもいる様。

そして子供と共演なんでスムーズにいかない様も。

たった数人で撮影している。(→たった数人でも良い映画は創れる事実を垣間見れる)

出演者を撮っているスタッフも含めて撮っている、現場の様。

本来俳優である近藤笑菜さんが監督をしている様子も興味深く見たが、本作の舞台挨拶で日によってはみーちゃんが近藤笑菜さんに抱かれて登壇している(←ツイッターにアップされてる)のと同様、メイキング&NG集も本作で描かれてる悲劇・喪失がフィクションであることが見れてホッとする^^

 

スクリーン5はホント小ぶりの劇場であり、俺はその最前列センターに座っちゃったわけで(なるだけ視界いっぱいで観るべきという俺個人の映画鑑賞持論に則っていつも通りのチョイスしたに過ぎないのだが)、なので舞台挨拶となったらすぐ前で額に入ったポスターとイスが用意され、俺の1メートル真ん前で近藤笑菜監督のトークショーが始まったのだった。近い近い(笑)。こんな近距離で舞台挨拶見るの初めてだよ(汗)。

実はこの日、観客が非常に少なかった。最前列も俺1人だったんで、どうでしたかとか振られたらどうしようかと気が気じゃなかったっス(苦笑)。

でも他の日の舞台挨拶の写真見ると客席埋まってるし、本作は2度かな、上映が延長されているので好評なわけであり、おそらくこの日は悪天候だったんで例外的に人が少なかったのだと思われる。

(→ 後日ニュース記事見て知ったんだけど「「まっすぐ進めない」関東で傘も壊れる強風」「観光スポットにも人の姿なし」「強風で傘がひっくり返る人の姿が至る所で見られました」「外国人観光客は「最悪だわ。風が強すぎる。もう何もできないわ」と話しました」「関東では今年一番の大雨になるおそれ」などと異常事態だったみたいね?)

今日はゲスト登壇者はなく近藤笑菜監督単独なので1人語り。すぐ前なので&観客が少ないから時々目が合っちゃうのも貴重で珍しい経験というか(笑)。

 

例によってワタクシ記憶力があまりよろしくないので正確な発言再録は出来ませんが。

・私もそこで一緒に観ていました(→同じ場内(しかもスクリーン5は狭い)に上映中実は我々と一緒に居たという事実に軽く衝撃を受ける・笑)

・撮影監督は女性の人だったんだけど撮影入る前に子供ができて、最初が山登りの場面の撮影からスタートで山に登っての撮影が無理だろうということで急遽男性の撮影監督をたてた。初対面。で撮影初日が山での撮影でいきなりキツいミッションを課してしまったと。

・山の場面は北海道で撮った話

・夕日のカットは寒い季節の方がよく撮れるのだけど9月だかに撮ったので思うように撮れてなくて、本編で使ったのは後で別撮りしたものだそう

・子供には(まだ小さすぎるので映画出演という)許可とってないわけなので、だからとりあえず上映のみ(配信とかの予定はないみたいな)

・子供に無理強いして撮る気はなく、子供が泣きだしたら“あ、無理だね”と中断

・公園のベンチの場面だったっけ?子供が落ちそうで?撮るのやめたと →だから抱いて撮ったんだっけ?

・赤い実の場面は当初はなかった(↑撮れなかったことと関係してたっけ?) それで抱いて撮った予定になかった場面

・(子供を抱いて一緒に映ってる時に近藤笑菜さんが突如涙を流し出すカットがあるのだが)(撮影がスムーズにいかなかったり、他にもあって)気持ちがいっぱいいっぱいになってて、それで涙が出てきてしまったというような話

・現場で(スタッフに)どうかと聞きながら撮ってた話もあったね

・表現について言ってたよな… ストーリーとか脚本でなく映像と音楽で表現したかった的なこと言ってた。

音楽で助けられたとも。壮大な感じを出したかったんだけど画角? 映像では思ったように出てなくて、音楽がそこをカバーしてくれたみたいな話も。

 

質問を募り、に対して

・撮ろうと思ったきっかけは乳腺のなんかあったらしく、ところがその時ゴールデンウィークですぐに病院にかかることが出来ず、医者にかかった時にはもう悪化してて手術が必要で、切開して、授乳はしてくださいと、で産後鬱もあったそうで、全部投げて逃げ出したくなったそうだが(そういうわけにもいかず)、創作欲、ちょっと落ち着いた後に映画撮ってみようとなったらしい。

 

…30分弱のトークショー。終わり際に写真撮影タイム。

画角に俺の膝が入っちゃってる(笑)。すぐ目の前におられます。

このパブリシティの絵がまた素朴で優しくていいんだよな… 描いたのは近藤笑菜監督のお友達の俳優仲間だそうで。

そうした周辺の人たちの呼応(この絵を描いた方が登壇した日もあったようで)もまた、本作に対して個人的に好感度がさらに上積みなところでもあったり。

なんか映画の内も外も優しさに満ちてるというか… 人と人との繋がりが溢れてる作品だなぁと。

 

パンフ購入。ロビーにいる近藤笑菜監督のもとへ。

…実は以前アップリンク吉祥寺で他作品で上映後に某監督のサイン会あった時、作品はとても良かったのだがその監督自身はなんか冷淡というか印象が悪く、その時のことは非常にヤな体験で悪い記憶になってるので(作品自体は複数回に渡って大特集して思い入れたっぷりに書いたが、実は裏ではそんな事があったんである)、今日はただサインだけ書いてもらって立ち去ろうと「お願いします」とだけ言ってパンフ差し出したのだが、近藤笑菜監督は「今日風強くないですか?」と気さくに話しかけてくれて、俺も「すごいですよね、これから台風来るのかみたいな(苦笑)」と普通に会話が始まり、とても感じのいい方だった。

そもそもは俳優さんなわけだけど、本作が良かったのでまたこの方の監督作品観たいなと思ったんで、また撮る予定は?と聞いたら、撮るつもりあるそうで。ただ、本作はクラウドファンディングで実現できたそうだけど、通常の映画製作はプロデューサーとか関わってくるから(いつ撮れるか、撮りたいように撮れるか)わからないというような感じだったけど、ご本人的にはまたやる気があるそうで。

また監督作観てみたいと伝え、礼を言って、サイン入りのパンフ持って気持ちよく去る。

いやぁなんかとてもいい人だった! 作品も良かったけど、トークショーはたっぷりあったし、真ん前で聞けたし、ご本人と直接お話できたし、そのご本人がめっちゃ印象のいい人で、来るのやめないでよかった!とマジで思った。ご本人にも「今日来るのやめようかと思ったんですけど、来て良かったです」って言った。

ここ最近…というか人生ずーっとだけど、外部が問題あり過ぎで、なんか俺は正直ね、地獄で暮らしてるようで(苦笑)、加えて特にここ最近別件でもよろしくない状況で、しかも観に行った日は雨&強風で、そんな渦中で、作品は心穏やかにさせてくれるいい映画だったうえ近藤笑菜監督も印象とても良くて、なんだか久々に平和ないい気持ちになれた。行ってほんと良かったですよ。

俺の中にある「日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画」なるジャンルの中では、スティーブン・ごんぶと・セガール主演のキテレツアクション映画『イントゥ・ザ・サン』(2005年アメリカ映画)も外せないね。

コレ最初観た時つまんねーって思ってそれっきりだったんだけど、一時期何を血迷ったかセガール映画を集めた時があって、その延長線上で、そういやセガールが日本でゴタゴタするしょーもない映画あったよな…と思い出しDVD再入手したのだが、ディスクに異常ないかチェックするために早送りでプレーヤーにかけたぐらいで、あとはセガールケース… 今はもう売ってないと思うがキャンドゥでディスクが6枚入るトールケース売ってて、そのケースに『刑事ニコ 法の死角』『ハード・トゥ・キル』『死の標的』『アウト・フォー・ジャスティス』そして『イントゥ・ザ・サン』を収納したきりほったらかしだったのだが(他の4作品も入手したらそれで安心満足したかロクに観てない。ちなみにセガールがメジャー進出成功以降の大作系(『沈黙の戦艦』とか)及び没落期以降の主演作品はそそられないので集める気はない)

しかし自分の中で「日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画」というジャンルが確立されてきた時、『イントゥ・ザ・サン』はこれまでとはまったく別の価値を持って俺の前に改めて立ち現れたんである。

そして本作はめでたく?6枚ケースから離脱し単独トールケースに入れ直して今では「日本が舞台の外国映画」枠の方に保管してある。

 

さて、それでは本作の内容である。

映画における「内容」とは、ストーリーのことではない。

だから例えば『デモンズ』という映画を説明する時に、“映画観に行ったら映画館から出られなくなって…”なんて粗筋を説明したところでこの作品について全っ然説明出来てないわけで、セット・ライティング・特殊効果などのビジュアルや不気味なサウンド、全編に横溢する禍々しさに言及することこそ『デモンズ』の説明であって。

同様に『イントゥ・ザ・サン』の内容はどんなかと聞いた時に、都知事暗殺に端を発してCIAがセガール投入、FBI、捜査、都内に蠢くヤクザ、チンピラ、中国人犯罪グループ、華僑有力者が絡んでの闘争模様…そんな物語・展開を聞かされたら俺はこう言うね、「いや俺が聞いてるのは内容なんだけど?」

テレビドラマ作品についてどんな内容か聞いてストーリー説明されたらこれは間違ってない。

しかし映画の内容とはその作品が有する「要素」だ。そしてその作品の「特長」だ。それがその映画の「内容」であり、「観所」であり、それを語ることが「その映画を説明」したことになる。

そこを堪能してどう思ったか・考えたかが、「映画の感想」あるいは「その映画の評価」である。

 

ハイでは『イントゥ・ザ・サン』の内容いってみっか。

 

【スティーブン・セガール】

まぁ何はなくともまずはセガールである。セガール主演の一人治外法権アクション映画ですよ、という。アクション映画界においてセガールというのは一応1つのブランドではある(他のブランドとしては「ブルース・リー」「シルベスター・スタローン」「ジャッキー・チェン」「ジョン・ウー」「アーノルド・シュワルツェネッガー」「メル・ギブソン」「ジャン=クロード・ヴァン・ダム」「ドルフ・ラングレン」「トム・クルーズ」などがある)。セガールが好きとかB級アクションが好きという界隈にとってのセガールの魅力や存在意義。

アクション映画俳優の中でもホントに格闘技やってた俳優という野郎どもがいて、セガールも合気道など実際やってたんで、そういう特長がまずある。

セガールの格闘アクションは合気道ベースなのでクンフーとか空手など他の人の格闘アクションとは動きやテイストが異なるのも特長。殴る蹴るというよりひねる・極める・相手の攻撃を流すように受けたら次の瞬間に相手が吹っ飛んでるとか、ちょっと他では見かけないアクションで面白い&独特に気持ちいい。

あとセガールは基本的に自分がやられることはなく敵たちを一方的に皆殺しみたいな、なんかサメのような存在である点もまた他のアクション俳優と違って突出してる特長である。

ただし本作でのセガールアクションのキレはあまりよくないですな。全盛期を過ぎてたようだ。(でも(セガールの格闘術とはなんの関係もないんだけど)敵の1人をビルの窓にブッ込んで放り投げ墜落葬とかクライマックスで敵の頭を刀でザクザク撲殺するように叩き斬って殺害する場面はキテてナイスよ。)

ちなみにセガールはギター愛好家にしてミュージシャンとしてもデビューしてるらしく、ぬぁんと本作エンディングの歌もセガールである。

またセガールは日本在住してた時期があり、これが次とそのまた次の要素に大きく絡んでくる。

 

【セガールの絶妙日本語カッコ笑い】

セガールは10年以上日本に住んでたことがあるので一応日本語が喋れるのだが、住んでたのが大阪なので関西弁であり、関西弁話す外国人、しかも関西弁話すアクションヒーローという妙ちきりんさ――

「ドナイシテマンノ」

「ソリャアアンタモウ忙シクテネェモウ、死ニモノグルイコチラ」

(「ご注文はお決まりですか?」)「ンーチョット待ッテテネ。※(あと聞き取れず)」

(「あんたが大竜か」)「マァ、ソウモヨバレテンダ」

(「指切りげんまん 嘘ついたら 針千本」)「飲ーマス 指切ッタァゾォ 指切ッタゾ。…ハイ」

(刀を手にしながら)「コレ人斬レマスヨコレ。ネッ。コレ、今晩使イマスヨ、人斬リマスヨコレハ」

「カカッテコイー!」

「オマエカァ! カノジョ殺※(以下聞き取れず)」

「叩キ殺シテヤル!」

「バキャロウ、来ルナトイウタヤロ! ソコマデ死ニタイカ!」

「ボウヤ。ナンヤコレ? 寿ゥ司?」

(「笑わせんなこのアメリカのイヌが!」)「バキヤロー!」

――がまた見どころ(聞きどころ)である(笑)。

 

【日本が舞台、日本で撮影】

都庁及び新宿各所(後述の毛ガニキャッチャーも新宿で撮ったらしい)、築地、増上寺・東京タワー及びその近所、銀座、井の頭公園、浜離宮、パチンコ屋、荒川河口橋、東京駅、横浜中華街…etc.

日本で“実際撮影率”とでもいうか、高い。(室内場面はタイなどで撮ったそうだけど)

日本が舞台という体、ではなく本当に日本でかなり撮ってる。つまりエセ日本ではなく本物日本。

そこにスティーブン・セガールが居て、徘徊して、日本人出演者と会話したり時々人ブッ飛ばしたり殺したりしてるという、この異物感というかコラボ感というか(笑) 取り合わせの妙が見どころ。

というワケで次コレ。

 

【日本人共演者たち】

ロケ地同様、日本人出演者もいろいろ出てくる。

大沢たかお、寺尾 ルビーの指輪 聰、伊武雅刀、栗山 日浦のサバ折りじゃき或いはゴーゴー夕張 千明… まぁ俺が知ってるのはせいぜいこの程度だけど、他にも結構出てくる。しかしそんな中でなんつっても一番「おーっ!」と感激するのはコロッケだよ! そのまんまで出てくる。五木ひろしのモノマネとか、野口五郎ネタ、小指で鼻ほじくって舐めるとかやってるからね(笑)。そんな姿の映像使う方も使う方というか、むしろそういうとこがウケて起用したのだろうか?

本作2005年作品で、同様に日本で撮ったアメリカ映画で2003年に『ロスト・イン・トランスレーション』ってのがあるんだけど、そっちでは藤井隆がヘンな個性で出てて面白かったのだが、『ロスト~』の藤井に対してコロッケ当ててきたのか!? まぁ藤井もコロッケも人選がなかなか素晴らしい。実に微妙なところを起用してるよねぇ(笑)、そこがいい。

ラスボス大沢たかおは初観の時はショボいと思ったけど、「日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画」として観ると、大沢たかおってちょっとヘンな顔じゃん?(たかおファンに襲われそうだ(苦笑)。悪気はない。コロッケは可笑しいから起用したんだろうけど、たかおはまさに独特なルックスから起用したのではないか?) それで裸の上にメッシュのノースリーブ?着て その上からジャケットなどトチ狂ったファッションセンスも可笑しくて、まぁ改めて観ると奇異なんで本作に合ってるかもしんない。

 

【リアル日本からカン違いニッポンまで手広く網羅】

桜、僧侶、芸者、着物、寿司、ヤクザ、入れ墨、指詰め、刀、寺、東京タワー、盆栽ジジイ、繁華街、ビル街、大通り…等々外国人からみたテンプレニッポンから都知事選挙、住宅街、下町、路地…などの現実的で日常的な日本まで色々撮ってて意外に幅広いというか。

AIBOだっけ? が出てくるのも外国人が描く日本っぽいなぁと思うけど、

毛ガニのUFOキャッチャーにウケてさ、なんじゃこりゃ!?って、いくらなんでもこりゃねーだろと、和食店的?な水槽の蟹とUFOキャッチャーという別々の日本ぽいものをドッキングさせたムチャクチャにも程があるトンデモでたらめ日本描写という美術のオーバーヒートぶりがここまで振り切ったら逆に面白くてアリなんじゃない?(笑)とか思ったら実在したらしいね! 侮れねーわ日本(笑)。

そういう諸々も本作の観てて飽きないとこだし、リアル日本自体がいろんな所・いろんな面があるのに、さらにコロッケがMCやってる店まであって、横浜中華街の映像には“東京  チャイナタウン”とかテロップ出るし、虚実入り交ざってカオスな劇中の東京は他の国にはない一種独特な世界観まで有してるとすらいえる。

疑似体験が真髄の映画というものにおいて、世界観はものすごく大事である。(ストーリー、脚本で進行するだけのテレビドラマは世界観ナシで成立するし乱暴に言えばどこで撮ろうが関係ない。)

テレビ画面に女子の顔カットからガメラという意味わからん映像が突然出てこの辺も外人が作ったキテレツ日本な映画だなァと感じる場面あるが、このコがセガールの娘の藤谷文子で、彼女は平成ガメラに出てたということで、そういう繋がりかと納得… ってわかんねーよ! ウィキ読んで初めて知ったよ(苦笑)。

 

【映画として合格点に達している】

【リアル日本からカン違いニッポンまで手広く網羅】の項だけでもすでにかなり“映画的”だが、さらにアクションというものもテレビからは容易にハミ出し映画のデカいスクリーンに適してるので その点でも本作は映画足り得てるし、セガールもテレビに収まりきらない俳優なんで映画向きであり、多角的に本作は“映画的である”ということを満たしていて、B級映画と思いきや意外に実は映画として結構高得点な作品だったりする。

 

あとまぁ音楽もそこはかとなく良い。

 

…というわけで『イントゥ・ザ・サン』、憶えてる人もあまりいない映画だと思うんだけど、「日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画」という観点からいくと必ずリストアップすべきであろう一品であり、

また改めて観てみるとちゃんと映画足り得てもいる。

だから忘れ去ってしまわず、みんなもたまには観てあげて♪

 

この宣伝文句も なんか悪ノリ効いてて好きだな(笑)

2004年製作のドイツ映画『トウキョウ アンダーグラウンド』。

日本のマンガとかそっち方面のカルチャー好き?らしいドイツ在住の主人公アンジェラが好きが高じて来日、事前に紹介されてたホステスやってる女のマンションへ。

同じ職場の女たちがルームシェア共同生活してる。生活するには金が要るのでアンジェラもその店で働き始める(その割にはピンクのセーラー服とか着てる時もある。どうもクラブとメイドカフェがごっちゃになってる!?)。

女同士のギスギスなどもありつつ異国日本での生活が続く中、アンジェラはかつてこの部屋に同居していたが行方不明になっている女がいることを知る…。

 

サスペンスとかスリラーかというと、そういうんじゃない。何があったのかとか誰が犯人か とかが見どころじゃない。そもそも映画とテレビの違いにより、映画とサスペンスは相性が良くない。(テレビドラマとサスペンスは相性がいい。)

だから堪能すべきは、アンジェラの異国生活の疑似体験。それも外国映画にありがちなヘンな日本。しかも結構画が良くて、映画足り得てる。

俺たちはリアル現実から一旦離脱し、85分間この奇妙な状況をうろつくアミューズメントチックな体験をする。ストーリーがどうこうじゃない。プラネタリウムで宇宙に浸るように、お化け屋敷に入って怖がって出てくるそれ自体を楽しむように、本作もこの不可思議な劇・世界観に没入し体感し劇中世界を疑似体験するんである。

テレビドラマやネット配信前提製作作品では絶対不可能なエンタテインメントであり、文学でも絵画でも音楽でもマンガでも不可能な事―― 「疑似体験」。

だから映像を観ろ。音を聴け。「見る」じゃなくて「観る」だぞ? 「聞く」じゃなくて「聴く」だぞ? ただ見聞きするのとはわけが違う。テレビドラマ見てるんじゃないんだから。「映画鑑賞」なんだよコレは。

だからストーリーで見てると映画というものを本当に堪能することは永久に出来ない。

ほんとストーリーで展開してる間は映画は止まってるからなー。逆にストーリーが展開してない時ほど映画足り得ることができる。ストーリーを展開させてる時は映画的余地が激減しまう。

ストーリーがスカスカである程、映画はその真価を発揮できる。脚本に拠っていないほど映画的になるんである。

だからこそストーリーで見てる奴は本作に退屈し、映画脳で観てる人は本作にライドオン出来る。感想がまったく逆になるんだよ。

俺は本作、結構気に入ってる。映画として堪能しがいがある。少なくとも言えるのは映画として本作は星5つ中4つではある映画。

ストーリーで見てる奴は星ゼロか1つってとこなわけだけど。

映画脳で観てる人とストーリーで見てる奴とでは評価がまるっきり逆転する。ここに映画の本質と価値が在る。

映画とテレビドラマは本来競合しないものだし、Vシネが決して映画になれなかったようにテレビドラマも永久に映画にはなれない。(したがって映画と自称してるけどネット配信前提で製作された作品は映画として扱うべきではなくVシネやテレビドラマと同じ括り・認識であるべきなんである。)

 

映画は疑似体験するものだから、宇宙でエイリアンと戦うとか、山小屋で死霊と一泊とか、核戦争後の地球上をヒャッハー!とか、自分が生きてきたのとは違う時代や場所を、自分の生活には起こらない事態を、体感する。それが醍醐味。

『トウキョウ アンダーグラウンド』はミステリアスな異国・日本での外人女子の裏冒険・奇妙な経験を観客も疑似体験という、奇妙な世界観・奇妙なドラマを体感・堪能するところが美味しいところ。なんというか不思議の国のアリスならぬ東京アンダーグラウンドのアリスというか…

なんかどっかヘンな日本なので、我々日本人が観てても異世界徘徊感がある。

海外の人が観ればミステリアスなジャパン体験ツアーであり、それはそれで興味深いかもしれない。

日本人からすれば日本で撮られた日本でありながら、ちょっと現実から遊離した日本である&外人視点からの日本であるがゆえ、まるっきりのファンタジーではなくちょっと次元のズレた日本であり、この“ちょっと次元がズレてる”というのが絶妙な面白さや妙な求引力があり、海外の人が観るのとはまた違った魅力がある。

『ブラックレイン』で大阪をあんなふうに撮る監督は今までいなかった、とか『牛頭』の謎名古屋、とか『うる星やつら2 ビューティフルドリ―マー』の現実の壁1枚裏側にある異次元な日常に迷い込む…みたいな、まるっきり異世界とかSFでなく現実が基になってる異次元体験。我々が生まれ育った日本が異次元空間と化す面白さ。

行方不明の同室者の件はそのミステリアスぶりをさらに加圧する効果があり、本作の怪しさをハネ上げている。サスペンスとかスリラーとして機能してるんではないんである。

 

本当の映画好きなら楽しめる一品。

ちなみに個人的に好きなセリフはアンジェラがコケて壁ブチ破って隣室に倒れて転がり込んだ時の、あれマンションの隣室の住人? あんな簡単に壁外れるコントのセットみたいなマンションないでしょ、意味わかんないんだけど、その隣室の日本人一家の妻? 「ウチカラデテケ!」とか言うのがウケる(笑)。

コギャルみたいなのがチラホラ映ってるのもいい味出してるかも。

まぁともかく日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画、たまんねーっス!

俺の中でコレは今や1ジャンルになっている。

昨日アップリンク吉祥寺で『小学校~それは小さな社会~』という映画を観てきた。「アンコール上映」となっていて、新作ではなく旧作である。

 

世田谷の小学校で撮られたドキュメンタリー。

中学生に密着撮影した『14歳の栞』って映画があるが、あれはある中学のあるクラス全員及び担任をフィーチャーしてたドキュメンタリーだったが、

本作は新たに入学してきた小学1年生と、小学最後の年となる6年生と、先生たちという、三者三様、それも同バランスで取り上げている編集になっている。

1年生は新しい場所・新しい出会い。やがて社会人の大人となってく最初の礎、共生していくルールや人間関係などの端初を優しく教育されていって、観ていて微笑ましい。

他方、6年生は先生の要求のレベルが上がっている。責任感とか、出来ないことを克服する努力とかを、教育してゆく。

ちなみに本作観た人の中に坊主の先生が時にちょっとキツく感じられる人もいるようだが、あれをもしパワハラと言ったらこの社会に正義はなくなるよ? ホント現代人は豆腐メンタルなのか人間が出来てない奴が増えすぎたのか、「注意」や「教育」ですらパワハラとかヌカす。だから見当違いなバカが大量発生してるんだよ。

あの先生まともなことしか言ってないからね。別に問題ない。っていうか俺が小中学の頃、まぁ80年代だけど、他所のことは知らんよ? でも俺が通ってた学校では特に男子は教師から叩かれるとか蹴り入れられるなんて日常茶飯事だったからね。で納得いかねェ時もあるんだよ。だけど逆に世論がパワハラだとギャアギャア騒ぎ出してどうなったか? 自己中でワガママでメンタル激弱の出来損ないがその辺にゴロゴロ普通にいるクソな世の中になった。そしてそんな奴らが世の中に出てくるから、職場で神経疑う出来損ないに遭遇する。ちゃんとやれてないから注意されてんのにパワハラだと騒いで、オマエこそが逆パワハラだろうが。不当な扱いはあっちゃならないが、調子コイてるカン違いなガキはガツンと食らわして教育する必要がある。昔は普通にそういう大人たちがいた。しかし今は例えば公共の場でガキが騒いで周囲の人々に迷惑かけてても傍にいる親はまったく注意しないというね、だからバカなガキはなおさら下等生物になってく。そんなのが大人になって社会に出るから職場もクソまみれになる。そうした連中が日本社会を蝕んでいて、もはや異常な世の中になった。日本人のレベルというのはすっかり下がった。(他にも原因はあるのだがその話までしてると長くなるから割愛。例えば逆に人間出来てない年輩も増えたように思うが、あれの原因ってこの割愛する方の話に絡んでるのではないかと思ったりする。でも今回は子供の話なんで、その話は本エントリではしない。)

別の先生だが自分から希望してなったシンバルの子がダメダメだった時にキツめに言うのもパワハラではない。事実あれも言ってることの筋は通っているし、厳しく言わないと自分の言動や行動に責任を持たない人間に育ちかねない。陰険なのではなく、優しく言ってると一向に修正されないかもしれず、ならば厳しく言う必要がある。そしてその子がちゃんと出来るようになった時、その先生はちゃんと褒める。「教育」と「パワハラ」がまったく別物である証左だよ。

その一方で、子供たち同士の関係や姿、先生と子供の関係や姿だけでなく、職員室などでの先生たちの姿や考え、思いなども取り上げていて、1年生・6年生・先生が等価というか同バランスで扱っているところに監督・編集のバランスの良さ、意識の真っ当さを感じる。

 

日本の学校を手放しで賞賛しているというテイストでもない。ありのままを撮っている。

先生たち向けにどっかの大学教授だっけなんだっけ? を呼んで話を聞く場面がある。その人は日本特有な連帯責任というルールというか、についてその良さもあるが諸刃の剣で、これがむしろ人間関係の不和を呼んだりする側面もあると語るし、それを撮っていて、完成した映画の中でも使っているところもまた監督・編集の中立さを感じる。

…ちなみに俺は連帯責任というのはおかしいと思っていて、ダメな奴だけ正せばいいんであって、なぜ全体を駄目レベルにつきあわせる?っていう要領の悪さというかな。俺は問題の切り分けがちゃんと出来てないのを許さないから。かつてやったある仕事で、会社がバカでまさにその連帯責任ってやつをやらせんのよ。そのせいでちゃんと出来てる人間たちまで要らん手順増やされて、もう全体が駄目になりかけるっていうさ。マジで頭悪過ぎる。

ただ心得ておかないとならないのは、職場と 小中学校という義務教育の場はワケが違うという事。大人の世界では出来ない奴は置いてかれて当然っていうかクビになって当然だが、義務教育では出来ない子を置き捨てにするわけにはいかない。義務教育なんだからさ。高校以上からはもう出来ない奴は去れってとこだけど、義務教育とか小中学校というのはそうではない。そういうわけにはいかない。皆 等しくちゃんと育てないと、教育しないとならない。

また日本の“連帯責任”の概念は日本の悪い意味で特徴的な“同調圧力”という現象を生む大きな原因の1つと考えられるが、連帯責任ってものがない国の学校でもイジメはあるわけで、こういう点でもまた連帯責任というものが一概に悪いとは言えないところでもある。たぶん、義務教育で連帯責任というものを持ち込むのは責任感や協調性、節度といったものなどを育む上では適したものなのかもしれないが、それを義務教育で身につけたらもう連帯責任から卒業していいのだがヘンに染みついて、「同調圧力」という変質し歪んだものとしてその後もついてまわるという、義務教育終了と同時にスッパリ切り分けられないのが問題なのかもしれない。

…だから小中学における連帯責任というルールというか概念というか、は問答無用で否定できる単純な話でもないんである。その是非に触れることはちょっと難しい問題を孕むのだが、都合の悪いところを避けたりせずちゃんと取り上げてるところも好感が持てる。

 

また、本作を外国人が観たらどう感じるのかという点も興味深い。

日本の学校は生徒に掃除をさせるのを知った外国人が驚いているという話は以前から知ってはいたけど、YouTubeに上がってる日本ネタの動画で取り上げられてるのはあくまで一端であって、しかし本作は年間通して密着撮影してるんで、俺らにとっては当たり前な光景や決まりであっても、外国人からすると日本独特の教育模様が見れるのは興味深いのではないか。

日本は無宗教な人が多いが、外国人は何かしらの宗教を信仰してることが多いように見受けられる。なのに外国では戦争や紛争、テロ、災害時の略奪、日常の犯罪の多さなど、まぁ宗教を信仰してるとは到底思えない野蛮っぷりだ。

対して日本はよく言われるが普段もちゃんと列に並んだり災害の時にもほとんど混乱が起きない、略奪などもあまりないわけだ。

その違いがどこにあるのか。

その1つがまさに本作が取り上げたこの日本の教育模様ではないだろうか。本作のパブリシティ(チラシやポスター)の下部に「私たちは、いつどうやって日本人になったのか?」とあるが、日本の義務教育からそれがみえてくる。義務教育(あるいは子供~高校時代あたりまでの成長過程)がいかに大事かがわかる。

 

…前から思ってるんだけど、社会というのは他者と共生してる場であって、共生してるんだから共通のルールや常識は必要であり、それがあって、それをある程度ちゃんと守ってるから日本社会はまぁまぁスムーズに動いている。

で、「社会不適応者」ってのはひきこもりのオタクみたいなのをイメージするだろうが、違うと思うんだよね。いやそれもそうではあるかもしれないけど、あとさ、煽り運転するような輩とかネットに誹謗中傷書き込んでるような連中、車や自転車で人にぶつかってトンズラする奴ら、ぶつかるといえば駅とか人混みでわざと他人にぶつかる異常者、学校や職場でイジメとかやってるゴクツブシども、挙げたらキリないけどさ、そうした奴らこそまさに社会不適応者だろうっていうさ。ルールを守らない、穏やかに他者と共生出来ない奴らなんだから、その能力に欠けるわけだ。不特定多数が共生する場を乱し壊す、それはすなわち社会に適応出来ない=社会不適応者。社会の落ちこぼれであって、出来の悪い奴。いい歳して恥ずかしいことであってさ。日本人のレベルに達してない奴ら。ダサすぎ。

 

ところで映画は

である。

その点において本作はどうかというと、まず小学生・小学校に密着取材という時点で映画足り得てる。大きいスクリーンと効きのいい音響で鑑賞することにより、観客は(疑似的に)小学校という空間に居て、小学生たちや先生たちを目の前で見ている、という疑似体験度。

それから途中ちょいちょい印象的な光景のカットも挿し挟まれるのも映画的と感じた。詩的というと合ってるかわかんないが、ただテレビ番組見てるのとは違う感覚とか情感というかな、を喚起して印象深い。

低音の効いた不吉な感のスコア?効果音?が鳴る時が何度かあり、これも効果的だった。

あとまるで音楽が低予算だが良質な内容の邦画のような、うるさくなくて過不足なく作品に寄り添っている質のいいスコアで(大作や話題作はガチャガチャうるさい傾向がある)、でも本作の音楽担当してる人って外国人だよね? 意外に思った。そのぐらい本作のスコアはそこはかとなく良くて、印象的な光景のカットとともに本作の質に貢献してる。

 

それから本作は撮影されたのがコロナ禍の時であり、この未曽有の状況は小学校にも影響していた様もまた収められている。これは不可抗力なわけだが、結果的にこの要素はなんだか妙に本作を重層的に感じられるものにしている気もしなくもない。ただ学校という教育の場を取り扱ったドキュメンタリーという範疇をオーバーし社会情勢の状況も絡んでくることが、学校の中だけでは終わらない作品になってることに寄与しているというか。「学校」という単体の場所の話ではなく、学校の外側も含めた「社会の中の学校」を取り上げることを結果的にだが成し得てもいる。

 

最後はまた春を迎え、2年生になった かつて1年生だった子たちはちょっと成長していて少し大人に近づいていってるのが見ていてわかる。6年生は結構大人っぽくなっててすでに中学2~3年のようだ。

新しい1年生の子供たちが入学してくる。出会いがあれば別れもある。シンバルの子を慰めてた年輩の女性教師(←優しい)は転任が決まって(一定期間で転任する決まりらしい)三鷹の小学校に移ってゆくのが正直寂しくもあるが、それもまた人生を感じさせるというか。

 

俺、夜型だから日中映画観に行くのしんどいのよ。しかも水曜サービスデーに観に行ったんだけど(俺は基本サービスデーにしか観に行かない) 1週間限定上映だからチャンスは1日しかないうえ、上映が1日1回の9:20からという つまり朝っぱらからであり、朝のラッシュの電車に乗って観に行くハメに。だからアップリンク吉祥寺の入ってるパルコの正面出入り口もまだ開いてない時間帯っつーね。

でも、それでも、わざわざ観に行って良かったと思った映画でしたよ。良作。