『ブログ15周年記念 映画はテレビドラマじゃねェ! 映画ベスト PART1』から続き。

 

『デモンズ』

禍々しさがハンパない。セットや特殊効果(SFX)、撮り方、気味の悪い効果音、不気味なスコア(劇伴)… 映像や音響・音楽のそこかしこにいちいち薄気味悪く生々しい不気味さを有していて、視覚・聴覚から迫ってくる恐怖と臨場感。映像と音こそが映画。視覚と聴覚にアクセスするのが映画。

またテレビドラマに無く映画に有るものとして「質感」がある。デカいスクリーン・体感が特長である映画において質感は非常に重要。疑似体験を支える大事な要素の1つだ。

非常に2次元的であるCGは映画と相性が悪い。質感にごっそり欠けるCGは非常に薄っぺらく嘘臭く見える(だからテレビ番組やネット動画で使うのはまったく構わないが映画で使うと齟齬を起こす)。CG、デジタルは映画を駄目にした。

本作は80年代の映画なのでCGではなく、デモンズに変貌してく場面は職人技なSFXで実現している。

映画がフィクションであってもデモンズ変貌のSFXは本当の物理現実であり、悪魔的なこの映画に本物の質感と生々し過ぎる臨場感を伴わせてるのが白眉。

(本作は映画館が舞台で映像が暗いのでDVD化以降は見やすいように明度が上げられてしまっていて(さらにブルーレイでは画質が上がりすぎて)リアル感・禍々しさを著しく損なっている(作り物感が出ちゃってる)。見づらくともビデオテープやLDで観るべき。見やすさを優先すると雰囲気を損なうこともある。映画はテレビ番組と違って見やすけりゃいいってもんじゃない。)

 

『ブラックレイン』

本作はビジュアルがいいのでその時点で映画として充分合格なのだが、それだけでなく「ドラマを映像で描く」という代表作としてチョイスしたい。「いい画」で終わってない。そこにさらにドラマを孕ませられてる。

感情をテレビドラマでは出演者の演技で表現する。しかし映画は映像で表現出来るのだというか映像で表現すべきなのだと言うべきか。

それが如実に出てるのがチャーリーが殺された晩のシーン及びマイケル・ダグラスが高倉健から諭される晩から夜明けまでのシーンだ。哀しみを描く時に、哀しいストーリー展開とか哀しい演技ではなく、冷え冷えとした映像(暗い空、雨、スモーク(蒸気)、水滴、明け方の寒々しい大阪の空撮カット、ウェットで冷え込んだ空気といった情景)と哀感に溢れた音楽(ハンス・ジマーのセンチメンタルすぎるメロディとアレンジのスコア)で見事に表現している(詳細はこれこのエントリで話した)。映像でドラマを表現出来るというのは、そういう事だ。

また、辛い人生を送ってる人は、自分の人生と本作のストーリーはかけ離れてても、この映画に宿る悲哀に魂がシンクロする。ストーリーではなく、この切なさ・この哀しみ――この映画が孕んでる情念が心に沁みる。

テレビドラマは「ストーリー」で「見る」もの。映画は「感性」で「観る」もの。本作はストーリーで見る奴にとっては復讐と相互理解の話に過ぎないが、映画脳で観ると悲哀・センチメンタリズムのパッケージング。物語の堪能ではなく、何を感じるか→感じるということの堪能。見方が違うと同じ映画を観てるのに感想がまったく違くなるので要注意。

 

『ストーカー』

今の映画はやたらカット割る。割る必要なくても割る。3秒以上同じカット続くと耐えられないのかという、なんか病的なぐらい1カットが短い。なぜなのか。映画と、テレビ番組やネット動画を混同しているから。また、今の連中(SNS・スマホ人種)の意識の退化・精神年齢の幼児化。

今の連中は落ち着きがない。映画館で黙って映画観てられずスマホ見ないと気が済まないとか、今の学生は90分の講義を聞いてられないとか。

昔のアニメ演出の基本、子供は何も起こらないと他のことを始めてしまうから、脈絡なんかなくても5分に1回クマでも出しとけってのがあったけど、今の映画がやたらカット割りまくって落ち着きがないのもまさにそれだろう。

落ち着いた大人の感性の人間からするとカット多過ぎるガチャガチャした映画はバタバタしてるんでガキっぽくて、むしろ退屈する。

それに映画の本領が体感である以上、カット多過ぎは映画にそぐわない(映像を体感・没入するには1カットある程度の長さを要する。カット変わる度に人の意識・認識は途切れ 切り替わるから)。

というワケでワンカットが長いといえばあの男、アンドレイ・タルコフスキー監督。の今回は『ストーカー』いっとくか。

SFだが特殊効果撮影はない。しかし全編の静謐さ・格調高さ・映像美などが説得力となって、ただの田舎や廃墟が不気味な空間に変容する驚異的な映画。ロシア語の独特の響き、無人地帯徘徊。時空をさ迷い、人生をさ迷う。ひと目見てタダ者でない映画だが、悠久さすらある落ち着きに満ちた本作は堪え性の無いガキと同じSNS・スマホ人種にとっては耐え難いので脱落確定。

 

『ブレードランナー』

どの場面も静止画にして美術館に飾れるんじゃないかというぐらいの映像美、映像センス。

そして架空の世界が舞台なのに、世界観や各場面を匂うぐらいリアルに実現している。その街にホントに行って撮影してきたかのようなライブ感がある。観客は自分もあの街を徘徊しているかのような体感を得る。存在しない架空の街なのに! これが映画のアドバンテージであり、テレビドラマやスマホでの映像作品視聴が持ち得ないものなんだよ。

デザイン、セット、衣装、スモーク、雨、撮影、照明、特撮…あらゆる手練手管を駆使し、監督リドリー・スコットのセンスが炸裂し、現実に存在しないものをリアルに実現してみせた。セットを作ることも不可能な光景はCGでなくミニチュア撮影=物理現実だからこそ出た質感・空気感。だからCGでやっちゃ駄目なんだ。

またイラストが合成して使われてるが、これは人間の手仕事であり、それも含めて本作はすべて人の手で創造されている。

現代におけるデジタル製作によってアニメもどきに堕した実写映画(=偽実写映画)に対するアンチテーゼとしても本作を挙げたい。

 

『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』

アニメにはアニメのアドバンテージがある。現実が一切ない。生々しさがない。想像力・妄想力がダイレクトに出せる。架空の世界観実現・生身の生物に無いキャラの魅力・現実には撮影不可能な描写やガジェット…etc.

アニメの魅力に溢れてる作品として昔のテレビアニメ版『うる星やつら』を挙げたいところなんだけど映画じゃない… というワケで『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を。

夜の街の底知れない雰囲気や世界中から人が消えた真夏の廃墟の風景、現実から孤立した街という撮影不能な世界観、スケール感溢れる街の大破壊、生身の人間では存在し得ない魅力的なキャラクター…etc. 実写映画では実現できない魅力が炸裂!

と同時に本作は80年代の作品なのでセルアニメであり、現在のデジタルアニメに対する批判、アンチテーゼとしても挙げたい。

デジタルでアニメも実写に近接し、人の手作業感に溢れた昔のセルアニメと違い、CGのように人間の創造性・技能をあまり感じない。また「現実が一切ない」のがアニメの大きなアドバンテージの1つなのに実写に近接し過ぎるのは自分の特質を自ら葬るようなもの。

そして実写でないことによってアニメの映像には余剰というか、あったんだけど…これどう言ったらいいのか、実写は現実を撮ってるんで撮ったそのまんまだが、アニメは絵であるがゆえに底なし沼で、例えばまさに本作の「夜の街の底知れない雰囲気」だったり、あるいはどんなにかわいいコスプレイヤーがアニメキャラのコスプレしたって結局は生身の人間に過ぎず、『一騎当千』のようなツルテカなボディなど現実には存在しない(笑)。現実ではない絵というものだからこそどっぷり浸れた・ハマれたのに、絵は絵でもデジタルアニメの なんか薄っぺらい映像はどうもこの余剰を孕みづらいのだ。

 

『ワイルドブリット』

友情も未来も粉々になる幼なじみ達の運命を動乱のベトナムを背景に描く激動の大河ドラマ。軋轢、殺人、拷問、裏切り、死線、生き別れ、障害者、廃人…全編死と精神崩壊との隣り合わせ。ハードにも程があるドラマ。トラウマ級。

しかし出会い、信頼、ロマンティシズム、別離、再会、鎮魂、反撃、激闘――映画史上屈指のドラマティックさ!

ドラマ・アクション共に凄絶。超弩級の映画。

話が進むにつれどんどんボロボロになってく登場人物たちはあまりにも痛々しくリアル。ほとばしる監督の思いの丈、出演者の爆演、本物の軍隊動員の凄まじい戦闘アクション。デジタルなどカケラも無い。

CG・デジタル加工・ワイヤーでデッチあげた偽物アクション・デジタル映画に人の生命力や精神力のドラマなど描けるわけがないし、描く資格もない。

本作はデジタルを一切使ってないからこそ、また荒々しい映像だからこそ、説得力と切実さと迫力がある。

(香港映画のソフトは音声が勝手にいじられてることがよくあるのだが、本作も何度かDVD化されてるが皆音声がおかしい。少し早回ししたように音のキーが上がってる版とか、効果音差し替えで素晴らしいスコアが非常に聞き取りづらくなってる版とか、中でもベンとフランクの号泣ものの再会シーンの切ない音楽が勝手にカットされてる版に至っては  やった奴死刑にしろっていうさ(怒)。ぜひビデオテープ版で観てほしい(←これは劇場で観たのに忠実)。)

 

『ロッキー4』

10周年の時に入れるか入れないかで迷って本数の都合上外した映画だが、あれから5年、歪みきった現代だからこそ入れたい。

元々がテクノロジーと化学の粋を結集して作り出されたドラゴを原始的トレーニングとスピリットのロッキーが打ち倒すパワフルかつ感動のドラマ、映画的エネルギーとアドバンテージに溢れた1985年製作作品だったわけだが、

今年のエントリでも書いたが、映画も人間もデジタルに呑まれた現代において、CGやデジタル合成やワイヤーが一切無い極限のトレーニングシーンや史上空前のデスマッチ、この凄まじいフィジカルっぷりを36年振りに劇場のスクリーンで観て、“我々は人間を降りない”という断固とした人間性復権宣言ととれて、改めて感動したのだった。人間が駄目になってるこの現代社会の映画館に圧倒的なフィジカル・人間賛歌の『ロッキー4』が再上映され(正確には再編集版の『ロッキーVSドラゴ』だけど) 現代社会に再臨した凄みと感動。人間と映画が本来持つエネルギーと、体感、観るアドレナリン!

CG、デジタルは所詮偽物。本物はコンピューターを使わない映画にこそある。(補佐的に使うならまだしも、今はなんでもかんでもデジタルに頼るからな…)

 

 

 

ストーリーが面白いだつまんないだヌカしてるのはテレビドラマの感想であってまったく映画のレビューになってない。映画のレビューってのは何を体感出来たか? 何を感じたか? それが映画の感想というもの。

ウィキペディアの映画のページもストーリーをダラダラ書いている。ストーリーを語っても映画を語れてない。例えば『デモンズ』について粗筋を語ったところで内容について何も語ってないに等しい。あの映画の内容とは試写会観に行ったら出口が無くなって云々ではなく禍々しい映像・音像・音楽であり、それを説明しなかったらあの映画についてまったく伝わらないだろうが。

同じ絵というものでありながら絵画とマンガが別物であるように、同じ映像作品というものでありながら映画とテレビドラマも別物であり、絵画を堪能するには絵画の素養や知識が要るように、映画を堪能するには映画脳というか映画に特化した脳のニューロンが要る。ピアノが弾けるようになるには練習が必要であり、それはピアノを弾くニューロンを脳内に形成することであるように。

やはり映画の真骨頂は疑似体験を堪能するもの。

また人間は物理現実の存在であり、そこに価値や意義もあり、仮想現実への傾向やメタバースだなんだは見当違いであり、人間にとっての最上の疑似体験はVRではなく映画。前回からさらに5年経って、世の中はさらにおかしな方向へ驀進してて、仮想現実への傾倒もだけど映画のネット配信化もそうで、そうしたすべてにちょっと待て、と顧みる奴は誰かいないのか? 何も考えずただ世の中の傾向に乗ってないで、もうちょっとモノ考えようぜ?

デジタルだらけの映画があってもいいけど、それが傍流なら問題ない、でも中心にきちゃってるのが大問題。

…というわけで映画本来の魅力に秀でた作品を挙げてみましたヨ、と。