『バクラウ 地図から消された村』

ギャップに満ちた要素の数々。得体の知れない世界観。どこに向かうのかさっぱり先行き不透明&ジャンルの確定もままならない謎展開(すでにオープニングからホラー曲、和やか曲、宇宙空間でSF、女の顔被って白昼夢的、交通事故現場?でバイオレンスの匂い…とミスリードというかカオスというか)。時々むせ返る原始性。

なかなかトンデモ映画。

 

ブラジルの僻地の村・バクラウが舞台。もうブラジルって時点で俺らとは縁遠い感じだけど、まぁとにかく田舎というか後進国というかなんもない所。

ドラマも村の長老が死んだところから始まって俺らの生活してる現代社会からかけ離れている。

外界に出てた女性が水を積んで村へ向かうトラックに便乗し帰村する道中でも道路に棺桶とか日本人からすると異質な光景だし、水不足で外から水を取り寄せてるというのも蛇口をひねれば水が出るのが当たり前な日本人にとってはまったく異なる生活模様。

しかし村人はスマホを持っているし先生は授業でインターネットも使うし(子供たちの青空授業でもタブレットが出てくる)、現代であることは見てとれる。

近代以前っぽい世界観にスマホが出てくるだけで異様。土俗的と現代的とが混ざりあってる違和感・異質感。

冒頭の葬儀場面では魔女だ悪魔だと支離滅裂なババアがいて近代以前な異常さを漂わせつつ、葬列はギター弾くジジイとDJのマイクで曲とMCアリっていう、そしてデカいモニター付きの車に遺影映像流れてて写真じゃないのもギャップ(むしろ日本よりススんでる(笑)。ちなみにこのDJはマイクで町内の掲示板代わりなトークやってるのもいい味)。

また、村から嫌われてる市長が懐柔にやって来るが、コイツのアドトレーラーが傑作。やたらド派手でアップテンポに自分PR映像が流れる&バニラバス並みにうるさくて中毒性のある歌が流れまくるのがバカウケ! 映像が途切れ途切れなのがまた妙にリアルでいいんだよなぁ(笑)。村の辺境ぶりとのあまりのギャップ――

重ね重ねここはドコ? 何時代? ってな異質さが観てて異様であり楽しくもある。

…にしても周り荒野という感じの汗臭く埃っぽい世界観であり、近隣では何やら制圧されたエリアがあるらしきことに触れられていてなんだか若干『マッドマックス2』風味もあり、

そんな一方で村の落ち着いた生活模様。財政指数が圧倒的に低く貧しいのは明らかなのだが皆がそれぞれ自由に過ごしながら繋がりもあり孤独死などないであろう村中が顔見知り・家族みたいな感じであったり他人ン家に自然に勝手に入ってきてる(入ってきて構わない)おおらかさ、何で生計を立てているのかよく分からないがのんびりした暮らしぶり(村にないものは外部から仕入れてるが、基本的に村の中だけでまわってるガラパゴス的空間である。加えて先述のマッドマックス2云々の孤立してるっぽい感じもむしろ箱庭感覚というか閉塞空間モノに近い心地良さがある)、男女が普通に一緒に裸で体洗ってたり(日本も江戸時代まではそんな感じだったのに)、恋愛など経由せず結構簡単にセックスしたり、他人の目があっても構わずセックスしてたり、日中に娼婦がすれ違う時にオッパイ出してみせてきたり(主役(じゃないが)の女も普通にオッパイ出るカットある)と“未開の地”感が濃厚な集落で、この制約のない奔放な様が案外観てて心地が良い!

しかし同時に、外部からの来訪者をチェックしてたり(市長が来るのがわかるとすぐさま無人地帯に早変わる。後述のバイカーたちも監視しており、おおらかのんびり生活に見えながら不穏さ・警戒心も有している)、近代文明とは異なる独自の因習じみたものが見受けられたり(変わった風習、踊り、音楽、謎の薬?)、

総じてこの村自体がアンダーグラウンドな匂いが何やらあって、やはり我々からしたら異質な文化圏であることは間違いない。

なので、まずこの異国の生活模様を疑似体験といったところ。

しかしそれで済まず、本作は異次元空間トワイライトゾーンに突入してくことになる…。

 

村の生命線である給水車及び給水タンクが何者かによって銃撃される、ネット上の地図からバクラウが消える、突然電波が入らなくなり携帯電話が通じなくなる&ネットが切断される、家畜が殺される、近隣の農家の惨殺遺体発見、様子を見に行った村人も殺され、村の上空にはアダムスキー型UFO出現…

村に珍しい来訪者、バイクツーリスト2人組(派手なライダー服があまりにも異質で宇宙人的違和感がある。ブルース・リー『死亡遊戯』トラックスーツの近未来感・異質感みたいな)。彼らはただ立ち去るが、

村は警戒態勢に入り近隣の武装ギャングに加勢を求め、村中の武器も用意して姿の見えない敵の襲撃に備える。

やがて停電… 子供も殺される…。

だがここまでで描かれてきてるように村側もどこかミステリアスで、双方おかしい。

そしてバクラウ側の容赦ない迎撃が始まる――

観てて片時も飽きない。少なくともストーリーで観てない人はずっと観所が続いてて途切れることがなく全く退屈しない。

 

(※以下ネタバレ)

未知との遭遇なSFなのか? ミステリー? チュパカブラ的な何か? 怪村モノ? 辺境ホラー?(棺から水が勝手に溢れ出るのは超常的だし、女「さっきも死体を見た」のくだりは怖さも漂う) バイオレンスアクション? 異文化・風習の物語?

…このブラジルのド田舎の村を舞台にした奇妙な映画、終わってみれば、市長が暗殺者グループを雇って不支持層エリアを潰そうとしたが返り討ちに遭ったという、要は村人たちが外敵から村を守る話。

『ランボー4』などと並ぶ目には目をの「やられたらやり返せ」ムービーで、思想的に俺好みの姿勢。

降りかかる火の粉は己で振り払わないとならない。それが現実であり人生であり。

ところが平和ボケした脳内お花畑な甘ったれ馬鹿どもは話し合いで解決するのが文明人と思ってる。いやいや相手が話し合い通じねェ野蛮人だから殺るんだよ!

あのさぁ… 弱肉強食が自然の摂理であって、そりゃそうだ、光合成でもできない限り、生物ってのは他の生物を捕食してエネルギーを得ないと生きていけないんだから、当然生きてくということはイコール戦いであるわけよ。

だがホモサピエンスはやがて他の生物とはあまりカチ合わないような生活圏を実現した。他の生物にはおそらく無い概念の飛び道具(槍投げ、弓矢、あげく重火器。あるいは殺虫剤etc.)で他生物を狩り、あるいは駆除し、また畜産によって狩りをせずとも食肉を得ることにも成功し、弱肉強食から外れたかのような特殊な生活圏を実現した。こんなことを成し得たのは地球上の生物で人間だけだろう。

しかし、やはり弱肉強食というのは厳然とあって、人間社会から外れたらそこは当然相変わらず弱肉強食の世界であり、人間の常識とか認識なんて通用しない。去年大騒ぎの熊被害なんかまさにそう。熊に人間の論理なんて一切通用しないんだから。あっちは人間を八つ裂きにして、かわいそうなんて全く思っちゃいない。思うわけがない。

本来、生きてくうえで他の生物とカチ合うのは当然であって。

だからハッキリ言う、動物がかわいそうだからベジタリアンになりましょうなんて言ってる奴はこの世を生きていく資格はない。

また、異生物間だけでなく人間同士の間でも諍いや争いは途切れることなく常に勃発している。

『ランボー4』で軍事政権に迫害されてるミャンマーの一般人に薬とか本とか持ってって支援しようって宗教団体に、ランボーは武器の支援をしないなら何も解決しないと喝破した。実際その後その宗教団体は軍隊の襲撃を受けて地獄のような体験をすることになる。彼らを救うのは軍事政権に引けを取らないランボーの殺戮スキルと暴虐バトルだ。野蛮人たちは理屈や法律や良心や宗教や社会常識などといったものは一切持ち得ていないんだから、解決方法は「話し合いが通用しない相手には話し合いなどしない。暴力に対するは暴力。それも同等の暴力」なんである。

『バクラウ』という映画もまさにそうで、やられたからやり返しただけ。自分たちの生活圏を自衛したに過ぎない。

大事なのはあの村の人たちは野蛮人ではない事実。暗殺者たちが(最初ただのバイカーのふりして)現れた時、即刻排除はせずさしあたって普通に接する。が、その前に不穏な状況がすでに始まっていたので(といってバイカーたちが犯人かどうかはまだわからないので)、村人の1人は村の資料館を見に行くことを勧める(そこにはどうもこの村の歴史(=自衛・抗戦の歴史)が展示されている。賢明な人間だったら観覧して理解し考え直すところなのだが、当然金で雇われてる暗殺者たちは資料館に立ち寄ることなどなく、結果「賢者は歴史から学び、愚者は体験をもって学ぶ」を身をもって知ることになる(←もう手遅れ)。あとクライマックス前も、暗殺チームが村へ近づいてきた時、弾痕のある警察車両の廃車がある。ここには警察はないし、来ない。かつてやっつけたからなわけだ)。

俺らの日本でも憲法9条改正に反対してる平和ボケしたアホどもがいるけど、日本人と、中国や北朝鮮とかは、倫理がまったく違うからな? 日常生活の道端でもこちらがどんなに安全運転してても突っ込んでくるバカがいるように、日本がどんなに平和を唱えたところでそんなの知ったこっちゃない奴らはやると決めたら侵攻してくる。爆撃、地上部隊が土足で踏み込んできて日本の国土制圧、そして暴力、レイプ、殺人の蛮行が展開し日本人が蹂躙され続けてる時に改憲反対派だった奴らはどう責任とるんだよ? とれるわけないしとる気もないだろ。

頭の悪い奴は予想するとか想定するとか想像力とか危機管理能力ってもんが無いんだよな。

死刑反対派だった弁護士が自分の家族が殺されたら途端に犯人を死刑にしろって手の平返したって話もあるけどさ、

コトが起こった時の用意が平時から出来てないとならない。それが自衛であり、野蛮でもなんでもなく正常であり、度が過ぎる平和主義者こそが異常であり。

(ちなみに、熊を擁護してる奴の実は結構多くが動物愛護ではなく逆に好戦的な奴らで、ただの言いがかり・嫌がらせだと思うよ。人間が他の生物のテリトリーに踏み込んだらやられて当然なように、熊が人間のテリトリーを脅かすようになったらそれは排除されて然るべきなんだ。共生は出来ないが、お互いの縄張りに踏み込まなければ同じ現実世界の中で共に在ることはできる。子供ならいざ知らずまともな大人ならそんな事は当然の考え・姿勢であって、それを今まさに人間が殺られてる時に熊を狩るのはかわいそうとか言ってる奴は、知的障害者(大人のくせに精神年齢低い奴とか異常な平和主義者も含む)か、理不尽なことをワザと言って嫌がらせがしたい糞どもか、どちらかだ。悲惨な事件があった時に信じられないことに被害者を冒涜してるキチガイどもがいるだろ? あいつら愉しんでんだよ。水に落ちた犬を打ちたがる(叩きたがる)奴らというのがいて、まぁイジメがしたくてしょうがない霊位の低過ぎる連中ってのが潜在的にかなりいるわけだよ社会には。池袋で飯塚が母子を原型がわからないぐらい轢殺した事件で母子のダンナさんに誹謗中傷書き込んでた奴らと、熊の駆除に対して熊かわいそうとかホザいてる奴らって、そのうちの8割ぐらいは実は同一人物たちなんじゃないか?と俺は踏んでるけどね。)

だが本作、それで終わってはいない。

グローバリズムへの抵抗。文化やマイノリティの尊重。

『バクラウ』はアメリカの他国(あるいは他文化)への侵略や介入の歴史・関係性(南米、インディアン、ベトナム、白人至上主義etc.)みたいな解釈をしてる人たちもいる。(当然村の方が侵略・介入された側で、暗殺者チームの方がアメリカだ。)

この映画、宇宙人の侵略SFか? 闇鍋映画? カルト映画? とか思ったら、実はサスペンスの皮を被った社会派映画であることが解かる。

あるいは、いわゆる「ナメてかかったら相手が悪かった!系映画」でもある。

話の骨格としてはむしろオーソドックスといえ、探せば過去の映画でこのパターンの物語は掃いて捨てるほどあるのではないか?

しかし本作は明らかに異様な手つきの映画であり、まぎれもなく唯一無二な作品足り得ている。

映画というものは“どんな話か”ではなく、“どう描くか”が重要であることを如実に物語っていないか。

これまでどれだけの数の物語が口伝・書物・演劇・テレビドラマ・映画・ネット公開前提製作作品etc.で描かれてきたか? 物語のパターンはもう出尽くしているといっても過言ではない。そんな中で問われるオリジナリティは、どんな話かではなくどう描くかにかかっている。そこに才気が問われる。

この点で『バクラウ』は問答無用の屹立したインパクトを発しまくっている。

また先進国社会・システム社会だったりクリーンな世界とはまるで異なり、横溢する土着パワー、逞しさ、性的な奔放ぶり、エネルギッシュさ… 生きていくのにマッチョである必要はないがタフである必要はあり、そんなタフさに満ちた、実は『ツイスター』などのフィジカル系映画でもある。我々が日常生活生きてて悩みや面倒なこととかいろいろ些末な事、シミったれた問題などあるわけだが、そんなもん吹っ飛んで現実認識に風穴を開けてくれる(というかこっちの方が本来的な生だよなという)、人生を生きてくうえで観ておくべき「必修科目」映画の1本だろう。

バクラウの人々の普段の自由でおおらかな日々もそうだし、やられたらやり返すもだし、現代社会に辟易してる人にとっては憧憬すら感じるところがある。バクラウのような生活は野蛮どころかむしろ至極真っ当だよな、っていう。

実働1日8時間以上の週5~6勤務が当然ってなってるけど、実際のとこは異常だぞコレ? 1日8時間以上も稼働し続けてる生物なんて地球上に人間だけだっつーのよ。それで職場でストレス溜め込んだり、挙句の果てにはメンタルクリニックに通院とか過労死とか、どうかしてるぜ? 「生きる」ってそういう事じゃなかったはずなんだけどな。

そういうとこ改めて気づかせてくれる映画ってのがあって、『バクラウ』もその1本に入るだろう。

加えて、ましてや現代は見当違いなデジタル社会であり、俺たちは物理現実で生きている生身の存在であるという ごく基本的なことを失念してる奴が多くないか? 特にネットネイティブだのZ世代だのといった連中は、なおさらこういった映画観て(疑似体験して)現実の実相・現実の手触りとでもいうものを学ぶ必要があるだろう。

平和ボケしてる連中もだけどさ。

実際に戦場とか毒蛇蠢くアマゾンの奥地に行ってこいとは言わない。映画を観ることで疑似体験する、こういうエリアや文化や生き方が他所にはあるのだと知る、自分の経験や知識だけが全世界ではないのだと自覚する… 映画鑑賞にはそういう価値・意義もある。

 

ちなみに俺が本作で一番好きなのはジイさんが全裸でウロついてるところを急襲された時の反撃及び同じく全裸デブ女性の銃撃アシスト場面。普通にフルヌードな土着性というか溢れまくりのナチュラルさと頭吹っ飛ぶ強烈な暴力性ダブルパンチの絵面の強烈な原始性がもう現代では尊いと言っても過言でない、“これがありのままの自然界だよ”ってな名シーン!

4/22、アップリンク吉祥寺で『ザッケン!』という映画を観てきた。

なんかアップリンク吉祥寺で観ることがやたら多い気がする…。俺が今の話題作や大作を嫌っていて小品の映画の方を好ましく思っていて、だから小品の良作を上映することが多いアップリンク吉祥寺で結果的に観る率が高いのだろう。

こういう青春映画というのは80年代からこの方、邦画独特なものだと思うけど、昔から好きなんだよなー。なんかねぇ他国の青春映画とはまるで異なるんだよね。穏やかな雰囲気とか、瑞々しさとか、日本的な風景・光景や空気感とか、寂寥感とか、制服、日本人の青春… 邦画にしかないタイプの映画というかな。古くは『ステイゴールド』 『1999年の夏休み』 『りぼん RE‐BORN』 『櫻の園(90年版)』 『毎日が夏休み』 『水の中の八月』 『バウンス koGALS』 『リンダ リンダ リンダ』 『書道ガールズ』 『みちていく』、近年だと『ブルーを笑えるその日まで』 『水深ゼロメートルから』などなどコレ系の映画は連綿と続いていて、今年コレ系の1本が『ザッケン!』なんでそりゃ観に行くわけよ。

 

本作はマンガ版があるのだが通常のマンガ原作ではなく、監督(上村奈帆という女性の監督さん)が東京都立日比谷高校に実在する雑草研究部なる部活をモチーフに(共同で)作ったマンガを脚本化し監督して映画にしたという、もともと映画の人であって。ちょっと変わった経緯?で完成した映画。

 

実在するものをモチーフにしてはいるが、いわゆる“実話の映画化”とは違いお話はフィクション。

高校入学。必ず何か部活に入らないとならない。特にやりたいことはないゆかり。独り「雑草研究部」をやってる人畜無害で平和でかわいい“ドクダミちゃん”と出会うが、雑草研究部は前年で顧問の教師が退職して廃部状態になっており、存続させようとするドクダミちゃん、諦めさせようとするが強制的でもないヌル~い福澤先生、熱意がパワハラと化してる野球部部長、から追放直前な酷い扱いを受ける野球部員カオル、不登校の松田などによって展開する高校生活の様。

出色なのはドクダミちゃんの存在で、本当の意味での多様性を体現している。

他の部が全国大会目指してるとか、大人側も部活というのは将来に繋がるものを云々と言うなか、ドクダミちゃん及び雑草研究部は一見外れ者のようにみえるが、実は人として大事なこと・人生において大切なことのド真ん中を往っていたりする。

それは夜空を見上げることと似ている。星空を見ていると人間社会の日常のあれこれがとても些末なことに思える。実際些末な事なわけだけど、どうしても自分の生活圏とか社会ってものが全世界と錯覚し、目先の事に囚われてしまったり、自分と他人を比較したり、悩んだり勝手に行き詰ったり、あげく自殺したりしている。

でも本当のところは宇宙の中の天の川銀河という所の辺境の太陽系なるエリアの地球という惑星の中で生きている地球人(というか宇宙人)であってね。どうも皆 意識が偏狭になっている。まぁならざるを得ないところもあるんだけどね、社会の中で生きてるとね。

でもこの世に生きてるというのは本質的にはそんなことではない。

特にそれが際立つのが野球部との対比で、勝ち負けだけが全てになってる野球部と違い、ドクダミちゃんは自然、それも雑草と接し続ける。

ヒエラルキーや華やかな舞台や金や権力や自己顕示欲や承認欲求に囚われてる奴らからすれば雑草になんの価値がある!? ってとこだが、そうでない人間からするとそういう連中が欲するものこそが下らなくて、価値観が逆転している。

自然の息吹。感受性。好奇心。ありふれた日常にある小さな発見。我々大人からするとどうということのない道でも、子供にとってはいつもと違う道を通るだけで冒険だ。我々だって子供の頃は道端にあるどうということのないものが気になったり、飛んでる蝶に出くわせば思わず追っかけていたのに。

生命の起源はいまだに解明できてない。地球以外の星は死の世界に思える。そう認識してれば道端のありふれたタンポポだって愛おしくなるってものだ。

ドクダミちゃんからすれば「世界はたからもので溢れています♪」

ドクダミちゃんは雑草を慈しむと同時に、雑草を調理して食べ、ドクダミの殺菌効果を利してドクダミチンキを作り、ドクダミ茶を煎じて飲む。

頭に花輪を乗せて窓の外を見てたり、ドクダミ茶を飲んで「息吹くぅ~」とほっこりしてるドクダミちゃんは観てて和む。雑草入れた籠ブラ下げたドクダミちゃんの立ち姿だけでもほのぼのが渋滞してる(笑)。

ギスギスしてる野球部と、和みまくり癒し系全開なドクダミちゃん。チームである野球部と、個で成立してるドクダミちゃん。ヒエラルキーの中にいる野球部と、ヒエラルキーの埒外にいるドクダミちゃん。(野球部ばっか言ってるけどダンス部もちょっと出てきてて、こちらも何か大会に向けて練習してるらしきことがうかがえる。)

目からウロコなのはドクダミちゃんによる、視点や見方によって主役は違くなる、世界の見え方は変わるみたいな話。

この物語は「大会」や「コンクール」がクライマックスではない。そういうカタルシスとかスリルとか権威だとかを求めない。斜め上の展開とかどんでん返しなど小賢しいマネもない。終始緩やかに展開する。ギスギスする場面もあるにはあるが、それで本作がヤな感じになるのではなくむしろドクダミちゃんという存在を際立たせる。

ドクダミちゃんは優しくて暖かくて柔らかで、でもこれは譲れないという意思も持っている。緩やかでおおらかにみえても、雑草研究部の廃部だけは頑なに受け入れない。

先生は雑草研究部の存続にある条件を出す。といってそれをクリアすることが本作のテーマでもない。クリア出来るか出来ないかでなく、ありふれた日常の中で雑草をモチーフに、見過ごしてしまいがちな大切なものを意識すること、が描かれてくというか。

 

ストーリー的には一部ちょっとご都合主義に感じられるところがあったり甘く感じられるところがあるのだけど、それらをまぁ不問に付してもいいかなっつー他のところの良さね。

まぁ一言で言えば健やかな映画ですよ。そこがいいんだよ!っていうね。

 

俺は映画をこういうものだと思ってるので↓

優先順位の中でストーリーは低く、映ってるものと音こそ大事であって。そして、観て何を感じたか。ストーリーではなくね。

なもんで、俺に言わせりゃ映画においてプロダクションデザインは非常に重要であり、延いては出演者ですらプロダクションデザインの範疇に入るとすら考えてる。出演者も映ってるものの1つだから、プロダクションデザインと同等という。

このほのぼのした映画において、主役の2人に大島美優(ドクダミちゃん役)というコと中島瑠菜(ゆかり役)というコをキャスティングしたのは大正解でしょう!

ルックスが2人ともマッチベターですよ。大島美優は見た目でもうすでにドクダミちゃんを体現してるし、中島瑠菜も本作では(アイドル的ではなく)犬猫のようなかわいさがあって。(監督の演出もあるだろうけど)

(ルックとは違うんだけど福澤先生役の中島歩の絶妙すぎるユルさも特筆ものであり、本作の雰囲気・空気感にすごく貢献している。)

映像的には学校の校内及び敷地内、あと近隣の場面とか、画的にまぁまぁで、作品世界を損なってない。テレビドラマと違って画的に駄目だと全部が魅力なくなってしまうのが映画なんだけど、その点本作はクリアしてると思う。(映画は舞台設定やどこで撮るかは非常に重要。)

 

とにもかくにも、好感度の高い映画でしたよ。

世間も国際情勢も実にギスギスした時代になった。

こんな荒んだ世情、疲れる時代だからこそドクダミちゃんのような人物は貴重であり、本作のような映画が魅力的。

それに冒頭で「今の話題作や大作を嫌っていて小品の映画の方を好ましく思って」いると言ったけど、CGとかデジタル加工ばっかの映画とかさぁ、マジで辟易してんだよね。大作も昔のようにホントに現場で大規模に実際やって撮影してるなら観る価値があるんだけど、今みんなデジタルばっかで もはや偽実写映画じゃん。

そんな中でデジタルなしで、ガチャガチャ切り刻んだような編集をすることもない、素朴で実直な映画の方に惹かれる。小品の作品の方にそれがある。本作もそんな良作の1つ。

全部揃えたい…

 

糞コンプラ時代、糞つまらなくなったテレビ、YouTubeですらコンプラで息詰まりそう → そんな現代にスカッと一発!

「コンプライアンス」って本当だったら真っ当な概念のはずだったのだが、世の中バカが多かったがゆえに(バカは「中庸」ってのが出来ないからな)適用の範疇を遥かに逸脱し、結果民衆自ら管理社会を作り上げた異常な現状。

そんな時代なんで、昭和~平成いつ頃までだろう? のやりたい放題だった笑いは今や絶滅危惧種。そんな現在にあえてのとんねるず全落・水落を取り上げるというね。

コレ、要は落とし穴ドッキリだが、ドッキリには安全性の問題がどうしてもある。インフルエンサーとかド素人はやるな。(ドッキリに限らず番組収録全般にいえることだが)長けてるはずのテレビ局でもたまぁに事故を起こすこともあるんだから、まず素人はマネするもんじゃない。見るだけにしとけってやつだよ。

…そのうえで、さぁダイナミズムのある笑い、落とし穴ドッキリを堪能していこう。

 

 

単純にまず“ドッキリ” “落とし穴”の面白さというものがあって。

他人をドッキリにかける楽しさ。イタズラを仕掛けるという一種の興奮。

ドッキリにかかる人のリアクションを見る面白さ。普段の姿から虚飾が排される意外性というか。

加えて“落下”や“爆破”などにはエキサイトメントがある。

本作は落とし穴ドッキリに特化している。落下という現象を扱い続ける。その気持ち良さ。

…今のアクション映画がつまらなくなった一因には、デジタル加工やワイヤー演出によって落下が不自然になったこともある。落下という現象には絶対重力が伴ってないとならない。であるからこそ落下は気持ちがいい、あるいは迫力があるんであって。現代の偽アクションはそれを喪失しているからつまらない。だから昔のアクション映画を観たくなる。

しかし落とし穴ドッキリにデジタルやワイヤーはない。純粋に落とし穴と落下現象だ。そこには本当の重力とリアクションがある。

 

音響効果も実は面白さや迫力をハネ上げている。派手な音をたてて落下してくが、改めて聞いてほしい、この強烈な破壊音は音響ポストプロダクション、つまり後入れの音であり、

映画は当然ながら、テレビのバラエティ番組やギャグでも音は実は重要だったりする。音響で効果が増大する、インパクトが爆発的にハネ上がるんである。

 

しかもだ、とんねるずの「全落」「水落」シリーズはただ落とし穴ドッキリ企画ではなく、ゴルフと(要は他のものと)融合させてるのが面白いし上手い。ここもまたド素人とは(他番組のドッキリとも)レベルが違う。

落とし穴ドッキリ現場をゴルフのグリーンに見立てる。

現場に向かう車にターゲットを乗せると実況「さぁいよいよグリーンに向かいます」

車が落とし穴に横づけすると実況「ピンまで約1ヤード」

落ちると「ナイスイ~ン!」

ターゲットが穴と位置がズレて落下しなかった時「スライスしカップインせず」

水場の上にデカい穴の開いた島を浮かせて、落とされた奴がその穴にピッタリ落っこったらホールインワンとか。

石橋貴明によるゴルフ界の大物・青木功モノマネでのフザけた解説と判定。青木のパロディをやれるのはとんねるずのテレビ界でのネームバリューゆえだろう。

落とし穴ドッキリというのは見ていると気持ちのいい落ち方とパッとしない落ち方とがある。それは豪快か否かだったり、角度だったり。いい落ち方でないと、見ていてなんだかスッキリしない。石橋はターゲットが落ちた後、バーディーだのイーグルだのと判定してく。

そしてターゲットたちは順位がつけられていく。落とし穴ドッキリで順位をつけるという発想は普通ない。「トップタイ、並んでいます!」 ここにもスポーツと連動させたことによる特異な面白さがある。

ただ単に落とし穴ドッキリのみで進行してくのではなく、工夫がある。別の要素とも融合というかトッピングというか、させてもいて、重層的なギャグになっている。

 

また“陥れる”という形でなく、ターゲットを「選手」として扱う(小木プロ、IKKOプロなどと名称する)ことによって、“被害者”ではなく“参戦”という形に(結果的に)なっているのが実に上手い。ターゲット当人にとっても視聴者にとっても悪感情を抱かせない。

木梨から「ナイスイーグル出ました!」 実況から「遂に逆転のイーグルショット、見事に単独トーナメントリーダーに立ちました!」などと言われたら落とされた本人も苦笑するしかないだろう(笑)。

そもそもが落ちたターゲットへの第一声「ナイスイ~ン!」は魔法の言葉である。笑い者にするのではなく“オマエは実にいい仕事をした(グッジョブ!)”という賛辞を贈ることはリスペクトの意を表しており、本当にそう思っていようがいまいが、言われた方は置かれている状況が相当救われるのもまた事実だ。

前述した“順位をつける”というのも笑いだけでなくリカバリーとしても機能している。被害者というマイナスの立場ではなく参戦選手という積極的な立場に反転して、もはや被害者ではなくなる。

あと「ホワイトシャークIKKO」とか「森三中最後の刺客“神の子”村上選手エントリーです」とか勝手に付けてるキャッチコピーも笑えるんだけど、これも意外にターゲットにされた人の心情を緩和するところがなくもないと感じたりもする。

加えて“選手”たちは自分が落とされた後、石橋と共に実況・解説スペースで他ターゲットが落とされる様を一緒に見るという流れも実は意外にいい配慮といえる。他の人がやられてるのも見るんで、個人的な怒りや惨めさが消失する万全のアフターケア。視聴者もその後一緒に楽しんでるターゲットを見ると安心する。という絶妙な配慮の番組構成。

 

落下がうまくいかなかった時の対応も可笑しい。もっともらしいこと言って再度穴の上を通らせる時もあるが、開き直ってストレートに もっかいやってくれる?とまさかのテイク2というドッキリではあり得ない要求する時がある(苦笑)。→ それを堂々と「打ち直し」と言う(笑)。(石橋の、ディレクターへの「中川押せ! 中川押せ!」のケースも可笑しい)

また緊急事態の時の最終兵器・リポーター木梨憲武の存在。素晴らしい突発的対応・臨機応変さ。ムリヤリぶつかってもう一押し――追加攻撃――を独断で敢行する強引っぷりも可笑しい。

またドッキリすでに成功したのにさらに追加攻撃を投下する時もある。特に日村が落ちた時にバカ高い時計をしていて、引き上げられた後のコメント時にブチブチ文句言ってると木梨が「じゃもう1個買えばいーじゃねーかよ!」といきなりウエスタンラリアートをブッ込んで日村が再び穴に転げ落ちるのは爆笑!

いつもテンション高いイメージな石橋とは違う、穏やかそうにみえて突然キレる木梨のキレ芸とでもいうか、いきなりの変容・突発的暴力は木梨独自の魅力!

 

ターゲットとの化学反応も全落・水落の魅力。お笑い芸人を落とすのは安定の笑いだが、だけでなくメジャーアイドルやアーティストも落とすという標的のボーダレスぶりに反応やギャップの面白さがある。

オカマのIKKO(本人はオカマと言われるのは傷つくらしいが、本エントリでは悪意はない)はそのジェンダーレスというかなんというか、男でも女でもない(といって美人(あるいはかわいい)ニューハーフとも異なる)存在自体が独特であり、そんなIKKOがスカートで落下しても修正が入らない(石橋いわく「見事なV字だ」)・ヅラが取れる(しかも木梨は前後逆につけ直してあげる←爆笑)などの様はIKKO自体が複層的な人物なので、それが生む笑いは実は多層的である。

 

ジローラモや大久保佳代子にカマす、現場に異性を配置しておいて、異性を意識させておいてからの直後に落下は意地の悪さが笑える(苦笑)。落とし穴に落ちること自体が恥ずかしいものではあるが、それでもただ落ちただけならアハハというリアクションで済ませることもできるが、異性を絡ませることでターゲットを襲うあまりのバツの悪さ・こじれる羞恥心という、重層的な仕掛けにより被害者の心理にダブルダメージを負わせるビターかつ複層的な、これまた手の込んだドッキリ。(その後 大久保佳代子にそのイケメンと絡ませてあげる配慮も、良いリカバリー(笑)。ジローラモもそのあと女を抱き上げたりしてるんでまぁ結果オーライじゃないでしょうか)

 

反応がレッドゾーンを超えた時の興味深さもあって、特に錦野旦が落とされて怒って現場はかなり険悪な空気になるが、なだめつつ引き上げた錦野をさらに第2・第3・第4の落とし穴へと連続波状攻撃で落とし続ける悪ノリ過ぎ・やり過ぎっぷりには感心(爆笑)。

 

挙句の果てにはスポーツの本物の有名選手などもターゲットにするに至っては、ターゲットとの化学反応と石橋の青木モノマネのヤバさのミックス、既述例とはまた違った許されるか許されないかギリギリの線を狙ってく、バレーにおけるラインギリギリでイン、あるいはテニスでいうオン ザ ライン的ショットなミラクルな笑いといえる。(→そうして遂に青木功本人までゲストに呼んじゃうんである・苦笑)

 

 

…かつてはただゲラゲラ笑って見てただけだったが、見当違いで異常な現在のコンプラ社会においては、本作はまったく違った意味合いをも有して我々の前に改めて立ち現れてくる。

とんねるずというのは昔から好き嫌いが人によって分かれてた。(まぁビートたけしとかドリフとかもだけど。)

しかし窒息しそうな現代において、それはもはや好き嫌いでは言い切れない存在となった。

本作で石橋が女性芸人の1人をある動物呼ばわりしたり某監督をある野菜呼ばわりしたりするくだりなど石橋の例えアビリティの秀逸さといったところだが、これも現在では差別発言だとアウトになるわけだ。たしかに言っていいこと悪いことあるが、この発言なんかは言い得て妙っていうさ(笑)。しかし現在では批判されるのだろう。

これらを笑えるか笑えないかは、今ではシミったれた奴か否か、(悪い意味で)ナイーブか否か、さらに言えばファシストか否かの試金石ですらある。

『あのとき』という映画を観たいなと最近思ってた。アップリンク吉祥寺でやってる。

が、どうも20分くらいしかない短編らしく、料金は¥1500かぁ、う~む… 作品としては良さそうなんだけど、俺 金ないからさ(苦笑)、20分で¥1500となると思わず考え込んでしまう。

調べると、監督ともう1人誰かゲストを迎えての上映後トークショーがある日とない日があって、ない日は10分くらいのメイキング&NG集を併映してるとのこと。トークショーある日はトーク約30分の後パンフかポスター購入者限定でサイン会があるとなっている。

トークショーを取るか併映を取るか、悩ましい…。

上映は4/2まで。(※追記:本エントリアップ時点ではそうなってたが、その後4/4にも上映が決まり、それが東京上映最終日とツイートされた) 4/1水曜サービスデーに行こうかどうしようか(トークショーはあるが、併映がない) …と思ってたら、公式から「アップリンク吉祥寺にて上映中の #映画あのとき 3/31(火)13:35〜の回上映後、近藤笑菜監督による舞台挨拶が決まりました✨ 皆さまぜひ、劇場でお待ちしております! ※「あのとき」特別映像(メイキングなど)の併映もございます。」というツイートが。

何ィ! というわけで3/31に観に行くことに。

しかしワタクシ夜型人間なんで日中出かけるのがしんどく、この日もいざ出かける用意が8割方できたところで“間に合わないかも…”と思い、取りやめかけたのだが、でも今日を逃すと本編上映+メイキング&NG集併映+舞台挨拶というトリプルコンボはもうないっぽい?

なので一転やはり家を出た。

ところが外はしとしと雨が降っている、それはまぁともかく、加えて風が強い! これから台風来るのか!?って感じで風が吹きすさんでいる。なんかもう髪ぐしゃぐしゃになるわ、途中見かけた通行人で傘の骨が風で反対になってる人までいたし。

でもまぁ間に合いましたよ。

スクリーン5。ここは20数席しかなく、スクリーンもデカくはないので最前列のセンターをチョイス。

実はあまり予備知識がない。予告編は見た。チラシは前回アップリンク吉祥寺来た時か、貰ってったけど。あとは劇場公式サイトの本作の紹介を読んだぐらいで。

なんか主演の人、俳優の人らしいんだけど本作では監督もやってて、母子の映画らしいけど子供は実際本人のお子さんらしく。…そのぐらいしか把握していない状態で、上映が始まった。

 

お母さんと子供(みーちゃん)の微笑ましい日常の光景。子育て。お出かけ。

牛のカット。キツネ(だっけ?)のカット。

外で1人でいるその女性が、他所の父子を見て複雑な気持ち?(ペットの飲み物ばくばく飲む女の子がかわいい♪)

主人公女性の自宅でみーちゃんがイスから落ちたらしき場面。(床に落ちるスプーンと女性の「…みーちゃん!」というカットのみで描写しているのがデリケートでありつつ、想像すると心が痛みもする。表現としてとても良かったと思いますよ)

その女性が田舎の道路を歩いてる場面(夕暮れ時に歩いてるカットはとても郷愁を誘われて、良い!)。

ひと足またひと足、山を登ってゆく女性。

頂上でギリギリ淵にある女性の足のカットと不穏な音。落ちたのかと思ったが、次にきたのは女性が遠く前方を見る顔にクローズアップしてく映像と、その女性の後ろ姿越しの大自然カット。

…といった映画。脚本はないに等しい。セリフがほぼなく、何がどうしてどうなってというストーリー主軸で展開する作品じゃない。

ドラマはある。(ドラマとストーリーは違う

俺は映画というものをこういうふうなものだと思っており↓

なので良い映画だと思いましたよ。

ありふれた日常、かけがえのないもの、その喪失、それで独り山登りしてるのもわかる気がするし、画もいいし、途中かかる歌も素朴なとこが良く、ストーリーとセリフで展開させず映像と音楽だけで表現されてて、鑑賞していて心で感じ取るという…

お話を楽しむとか脚本に拠ったテレビドラマ的なものではなく、気持ちとか感性とかで創られた、映画でなければならなかった作品。本作に満ちる思いの様は言葉で語れるものではなく、脚本で展開するテレビドラマでは表現出来ない。

親と小さな子供の様は観てて微笑ましく、山や田舎の場面は画的に非常に映画的であり、この2つの要素は分断しておらず有機的に繋がっていて、間にある“喪失”はドラマを生じさせていて、

パブリシティ(ポスターとかチラシ)に「ドキュメンタリーとフィクションの境目で生まれた、はじめての映画。」とあるがその通りで、初監督作品であり、実際に近藤笑菜監督とそのお子さんであり、その日常を撮った映像がありつつもホームビデオではなく、フィクションのドラマが連結されているというかフィクションに昇華してくというか。

日常と、悲劇。

存在と、喪失。

親と子供場面と、その後を生き続けている単独山登り場面の、差。

哀しみと、強さ。

この世に生きてる儚さ、かけがえのなさ、慈しみの気持ちに満ちた映画。

俺は好きな映画だなー。良かったですよ。観終わって、心地の良い作品だった。単純に映ってるものも、また映画としての良さも、共に。

 

メイキングとNG集は当然だが劇中とは違い、撮影現場で監督しつつ主演として演じてもいる様。

そして子供と共演なんでスムーズにいかない様も。

たった数人で撮影している。(→たった数人でも良い映画は創れる事実を垣間見れる)

出演者を撮っているスタッフも含めて撮っている、現場の様。

本来俳優である近藤笑菜さんが監督をしている様子も興味深く見たが、本作の舞台挨拶で日によってはみーちゃんが近藤笑菜さんに抱かれて登壇している(←ツイッターにアップされてる)のと同様、メイキング&NG集も本作で描かれてる悲劇・喪失がフィクションであることが見れてホッとする^^

 

スクリーン5はホント小ぶりの劇場であり、俺はその最前列センターに座っちゃったわけで(なるだけ視界いっぱいで観るべきという俺個人の映画鑑賞持論に則っていつも通りのチョイスしたに過ぎないのだが)、なので舞台挨拶となったらすぐ前で額に入ったポスターとイスが用意され、俺の1メートル真ん前で近藤笑菜監督のトークショーが始まったのだった。近い近い(笑)。こんな近距離で舞台挨拶見るの初めてだよ(汗)。

実はこの日、観客が非常に少なかった。最前列も俺1人だったんで、どうでしたかとか振られたらどうしようかと気が気じゃなかったっス(苦笑)。

でも他の日の舞台挨拶の写真見ると客席埋まってるし、本作は2度かな、上映が延長されているので好評なわけであり、おそらくこの日は悪天候だったんで例外的に人が少なかったのだと思われる。

(→ 後日ニュース記事見て知ったんだけど「「まっすぐ進めない」関東で傘も壊れる強風」「観光スポットにも人の姿なし」「強風で傘がひっくり返る人の姿が至る所で見られました」「外国人観光客は「最悪だわ。風が強すぎる。もう何もできないわ」と話しました」「関東では今年一番の大雨になるおそれ」などと異常事態だったみたいね?)

今日はゲスト登壇者はなく近藤笑菜監督単独なので1人語り。すぐ前なので&観客が少ないから時々目が合っちゃうのも貴重で珍しい経験というか(笑)。

 

例によってワタクシ記憶力があまりよろしくないので正確な発言再録は出来ませんが。

・私もそこで一緒に観ていました(→同じ場内(しかもスクリーン5は狭い)に上映中実は我々と一緒に居たという事実に軽く衝撃を受ける・笑)

・撮影監督は女性の人だったんだけど撮影入る前に子供ができて、最初が山登りの場面の撮影からスタートで山に登っての撮影が無理だろうということで急遽男性の撮影監督をたてた。初対面。で撮影初日が山での撮影でいきなりキツいミッションを課してしまったと。

・山の場面は北海道で撮った話

・夕日のカットは寒い季節の方がよく撮れるのだけど9月だかに撮ったので思うように撮れてなくて、本編で使ったのは後で別撮りしたものだそう

・子供には(まだ小さすぎるので映画出演という)許可とってないわけなので、だからとりあえず上映のみ(配信とかの予定はないみたいな)

・子供に無理強いして撮る気はなく、子供が泣きだしたら“あ、無理だね”と中断

・公園のベンチの場面だったっけ?子供が落ちそうで?撮るのやめたと →だから抱いて撮ったんだっけ?

・赤い実の場面は当初はなかった(↑撮れなかったことと関係してたっけ?) それで抱いて撮った予定になかった場面

・(子供を抱いて一緒に映ってる時に近藤笑菜さんが突如涙を流し出すカットがあるのだが)(撮影がスムーズにいかなかったり、他にもあって)気持ちがいっぱいいっぱいになってて、それで涙が出てきてしまったというような話

・現場で(スタッフに)どうかと聞きながら撮ってた話もあったね

・表現について言ってたよな… ストーリーとか脚本でなく映像と音楽で表現したかった的なこと言ってた。

音楽で助けられたとも。壮大な感じを出したかったんだけど画角? 映像では思ったように出てなくて、音楽がそこをカバーしてくれたみたいな話も。

 

質問を募り、に対して

・撮ろうと思ったきっかけは乳腺のなんかあったらしく、ところがその時ゴールデンウィークですぐに病院にかかることが出来ず、医者にかかった時にはもう悪化してて手術が必要で、切開して、授乳はしてくださいと、で産後鬱もあったそうで、全部投げて逃げ出したくなったそうだが(そういうわけにもいかず)、創作欲、ちょっと落ち着いた後に映画撮ってみようとなったらしい。

 

…30分弱のトークショー。終わり際に写真撮影タイム。

画角に俺の膝が入っちゃってる(笑)。すぐ目の前におられます。

このパブリシティの絵がまた素朴で優しくていいんだよな… 描いたのは近藤笑菜監督のお友達の俳優仲間だそうで。

そうした周辺の人たちの呼応(この絵を描いた方が登壇した日もあったようで)もまた、本作に対して個人的に好感度がさらに上積みなところでもあったり。

なんか映画の内も外も優しさに満ちてるというか… 人と人との繋がりが溢れてる作品だなぁと。

 

パンフ購入。ロビーにいる近藤笑菜監督のもとへ。

…実は以前アップリンク吉祥寺で他作品で上映後に某監督のサイン会あった時、作品はとても良かったのだがその監督自身はなんか冷淡というか印象が悪く、その時のことは非常にヤな体験で悪い記憶になってるので(作品自体は複数回に渡って大特集して思い入れたっぷりに書いたが、実は裏ではそんな事があったんである)、今日はただサインだけ書いてもらって立ち去ろうと「お願いします」とだけ言ってパンフ差し出したのだが、近藤笑菜監督は「今日風強くないですか?」と気さくに話しかけてくれて、俺も「すごいですよね、これから台風来るのかみたいな(苦笑)」と普通に会話が始まり、とても感じのいい方だった。

そもそもは俳優さんなわけだけど、本作が良かったのでまたこの方の監督作品観たいなと思ったんで、また撮る予定は?と聞いたら、撮るつもりあるそうで。ただ、本作はクラウドファンディングで実現できたそうだけど、通常の映画製作はプロデューサーとか関わってくるから(いつ撮れるか、撮りたいように撮れるか)わからないというような感じだったけど、ご本人的にはまたやる気があるそうで。

また監督作観てみたいと伝え、礼を言って、サイン入りのパンフ持って気持ちよく去る。

いやぁなんかとてもいい人だった! 作品も良かったけど、トークショーはたっぷりあったし、真ん前で聞けたし、ご本人と直接お話できたし、そのご本人がめっちゃ印象のいい人で、来るのやめないでよかった!とマジで思った。ご本人にも「今日来るのやめようかと思ったんですけど、来て良かったです」って言った。

ここ最近…というか人生ずーっとだけど、外部が問題あり過ぎで、なんか俺は正直ね、地獄で暮らしてるようで(苦笑)、加えて特にここ最近別件でもよろしくない状況で、しかも観に行った日は雨&強風で、そんな渦中で、作品は心穏やかにさせてくれるいい映画だったうえ近藤笑菜監督も印象とても良くて、なんだか久々に平和ないい気持ちになれた。行ってほんと良かったですよ。

 

(4/27追記

近藤笑菜監督へ

ちょっとお伝えできる方法がなかったので今後もしまたお会いする機会があったらその時お伝えするしかないか…と思いましたが、やはり今言っておきたいというか言っておくべきと思うので、…まぁ本エントリをご覧になることはないとは思いますが、とりあえずこれしかお伝えする方法がないので、この場を借りて。

ちゃんと受け取りました。お忙しい中 迅速に対応していただき、あまりの早さにビックリすると同時に、誠実さと責任感の強さに感銘を受けました。

近藤監督のせいではまったくないのに、貴重なお時間を割いて誠に丁寧な対応をしていただき、とても恐縮であり、また非常に感謝しております。この度は本当にありがとうございました。

今後のさらなるご活躍とご多幸を願っております。)

俺の中にある「日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画」なるジャンルの中では、スティーブン・ごんぶと・セガール主演のキテレツアクション映画『イントゥ・ザ・サン』(2005年アメリカ映画)も外せないね。

コレ最初観た時つまんねーって思ってそれっきりだったんだけど、一時期何を血迷ったかセガール映画を集めた時があって、その延長線上で、そういやセガールが日本でゴタゴタするしょーもない映画あったよな…と思い出しDVD再入手したのだが、ディスクに異常ないかチェックするために早送りでプレーヤーにかけたぐらいで、あとはセガールケース… 今はもう売ってないと思うがキャンドゥでディスクが6枚入るトールケース売ってて、そのケースに『刑事ニコ 法の死角』『ハード・トゥ・キル』『死の標的』『アウト・フォー・ジャスティス』そして『イントゥ・ザ・サン』を収納したきりほったらかしだったのだが(他の4作品も入手したらそれで安心満足したかロクに観てない。ちなみにセガールがメジャー進出成功以降の大作系(『沈黙の戦艦』とか)及び没落期以降の主演作品はそそられないので集める気はない)

しかし自分の中で「日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画」というジャンルが確立されてきた時、『イントゥ・ザ・サン』はこれまでとはまったく別の価値を持って俺の前に改めて立ち現れたんである。

そして本作はめでたく?6枚ケースから離脱し単独トールケースに入れ直して今では「日本が舞台の外国映画」枠の方に保管してある。

 

さて、それでは本作の内容である。

映画における「内容」とは、ストーリーのことではない。

だから例えば『デモンズ』という映画を説明する時に、“映画観に行ったら映画館から出られなくなって…”なんて粗筋を説明したところでこの作品について全っ然説明出来てないわけで、セット・ライティング・特殊効果などのビジュアルや不気味なサウンド、全編に横溢する禍々しさに言及することこそ『デモンズ』の説明であって。

同様に『イントゥ・ザ・サン』の内容はどんなかと聞いた時に、都知事暗殺に端を発してCIAがセガール投入、FBI、捜査、都内に蠢くヤクザ、チンピラ、中国人犯罪グループ、華僑有力者が絡んでの闘争模様…そんな物語・展開を聞かされたら俺はこう言うね、「いや俺が聞いてるのは内容なんだけど?」

テレビドラマ作品についてどんな内容か聞いてストーリー説明されたらこれは間違ってない。

しかし映画の内容とはその作品が有する「要素」だ。そしてその作品の「特長」だ。それがその映画の「内容」であり、「観所」であり、それを語ることが「その映画を説明」したことになる。

そこを堪能してどう思ったか・考えたかが、「映画の感想」あるいは「その映画の評価」である。

 

ハイでは『イントゥ・ザ・サン』の内容いってみっか。

 

【スティーブン・セガール】

まぁ何はなくともまずはセガールである。セガール主演の一人治外法権アクション映画ですよ、という。アクション映画界においてセガールというのは一応1つのブランドではある(他のブランドとしては「ブルース・リー」「シルベスター・スタローン」「ジャッキー・チェン」「ジョン・ウー」「アーノルド・シュワルツェネッガー」「メル・ギブソン」「ジャン=クロード・ヴァン・ダム」「ドルフ・ラングレン」「トム・クルーズ」などがある)。セガールが好きとかB級アクションが好きという界隈にとってのセガールの魅力や存在意義。

アクション映画俳優の中でもホントに格闘技やってた俳優という野郎どもがいて、セガールも合気道など実際やってたんで、そういう特長がまずある。

セガールの格闘アクションは合気道ベースなのでクンフーとか空手など他の人の格闘アクションとは動きやテイストが異なるのも特長。殴る蹴るというよりひねる・極める・相手の攻撃を流すように受けたら次の瞬間に相手が吹っ飛んでるとか、ちょっと他では見かけないアクションで面白い&独特に気持ちいい。

あとセガールは基本的に自分がやられることはなく敵たちを一方的に皆殺しみたいな、なんかサメのような存在である点もまた他のアクション俳優と違って突出してる特長である。

ただし本作でのセガールアクションのキレはあまりよくないですな。全盛期を過ぎてたようだ。(でも(セガールの格闘術とはなんの関係もないんだけど)敵の1人をビルの窓にブッ込んで放り投げ墜落葬とかクライマックスで敵の頭を刀でザクザク撲殺するように叩き斬って殺害する場面はキテてナイスよ。)

ちなみにセガールはギター愛好家にしてミュージシャンとしてもデビューしてるらしく、ぬぁんと本作エンディングの歌もセガールである。

またセガールは日本在住してた時期があり、これが次とそのまた次の要素に大きく絡んでくる。

 

【セガールの絶妙日本語カッコ笑い】

セガールは10年以上日本に住んでたことがあるので一応日本語が喋れるのだが、住んでたのが大阪なので関西弁であり、関西弁話す外国人、しかも関西弁話すアクションヒーローという妙ちきりんさ――

「ドナイシテマンノ」

「ソリャアアンタモウ忙シクテネェモウ、死ニモノグルイコチラ」

(「ご注文はお決まりですか?」)「ンーチョット待ッテテネ。※(あと聞き取れず)」

(「あんたが大竜か」)「マァ、ソウモヨバレテンダ」

(「指切りげんまん 嘘ついたら 針千本」)「飲ーマス 指切ッタァゾォ 指切ッタゾ。…ハイ」

(刀を手にしながら)「コレ人斬レマスヨコレ。ネッ。コレ、今晩使イマスヨ、人斬リマスヨコレハ」

「カカッテコイー!」

「オマエカァ! カノジョ殺※(以下聞き取れず)」

「叩キ殺シテヤル!」

「バキャロウ、来ルナトイウタヤロ! ソコマデ死ニタイカ!」

「ボウヤ。ナンヤコレ? 寿ゥ司?」

(「笑わせんなこのアメリカのイヌが!」)「バキヤロー!」

――がまた見どころ(聞きどころ)である(笑)。

 

【日本が舞台、日本で撮影】

都庁及び新宿各所(後述の毛ガニキャッチャーも新宿で撮ったらしい)、築地、増上寺・東京タワー及びその近所、銀座、井の頭公園、浜離宮、パチンコ屋、荒川河口橋、東京駅、横浜中華街…etc.

日本で“実際撮影率”とでもいうか、高い。(室内場面はタイなどで撮ったそうだけど)

日本が舞台という体、ではなく本当に日本でかなり撮ってる。つまりエセ日本ではなく本物日本。

そこにスティーブン・セガールが居て、徘徊して、日本人出演者と会話したり時々人ブッ飛ばしたり殺したりしてるという、この異物感というかコラボ感というか(笑) 取り合わせの妙が見どころ。

というワケで次コレ。

 

【日本人共演者たち】

ロケ地同様、日本人出演者もいろいろ出てくる。

大沢たかお、寺尾 ルビーの指輪 聰、伊武雅刀、栗山 日浦のサバ折りじゃき或いはゴーゴー夕張 千明… まぁ俺が知ってるのはせいぜいこの程度だけど、他にも結構出てくる。しかしそんな中でなんつっても一番「おーっ!」と感激するのはコロッケだよ! そのまんまで出てくる。五木ひろしのモノマネとか、野口五郎ネタ、小指で鼻ほじくって舐めるとかやってるからね(笑)。そんな姿の映像使う方も使う方というか、むしろそういうとこがウケて起用したのだろうか?

本作2005年作品で、同様に日本で撮ったアメリカ映画で2003年に『ロスト・イン・トランスレーション』ってのがあるんだけど、そっちでは藤井隆がヘンな個性で出てて面白かったのだが、『ロスト~』の藤井に対してコロッケ当ててきたのか!? まぁ藤井もコロッケも人選がなかなか素晴らしい。実に微妙なところを起用してるよねぇ(笑)、そこがいい。

ラスボス大沢たかおは初観の時はショボいと思ったけど、「日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画」として観ると、大沢たかおってちょっとヘンな顔じゃん?(たかおファンに襲われそうだ(苦笑)。悪気はない。コロッケは可笑しいから起用したんだろうけど、たかおはまさに独特なルックスから起用したのではないか?) それで裸の上にメッシュのノースリーブ?着て その上からジャケットなどトチ狂ったファッションセンスも可笑しくて、まぁ改めて観ると奇異なんで本作に合ってるかもしんない。

 

【リアル日本からカン違いニッポンまで手広く網羅】

桜、僧侶、芸者、着物、寿司、ヤクザ、入れ墨、指詰め、刀、寺、東京タワー、盆栽ジジイ、繁華街、ビル街、大通り…等々外国人からみたテンプレニッポンから都知事選挙、住宅街、下町、路地…などの現実的で日常的な日本まで色々撮ってて意外に幅広いというか。

AIBOだっけ? が出てくるのも外国人が描く日本っぽいなぁと思うけど、

毛ガニのUFOキャッチャーにウケてさ、なんじゃこりゃ!?って、いくらなんでもこりゃねーだろと、和食店的?な水槽の蟹とUFOキャッチャーという別々の日本ぽいものをドッキングさせたムチャクチャにも程があるトンデモでたらめ日本描写という美術のオーバーヒートぶりがここまで振り切ったら逆に面白くてアリなんじゃない?(笑)とか思ったら実在したらしいね! 侮れねーわ日本(笑)。

そういう諸々も本作の観てて飽きないとこだし、リアル日本自体がいろんな所・いろんな面があるのに、さらにコロッケがMCやってる店まであって、横浜中華街の映像には“東京  チャイナタウン”とかテロップ出るし、虚実入り交ざってカオスな劇中の東京は他の国にはない一種独特な世界観まで有してるとすらいえる。

疑似体験が真髄の映画というものにおいて、世界観はものすごく大事である。(ストーリー、脚本で進行するだけのテレビドラマは世界観ナシで成立するし乱暴に言えばどこで撮ろうが関係ない。)

テレビ画面に女子の顔カットからガメラという意味わからん映像が突然出てこの辺も外人が作ったキテレツ日本な映画だなァと感じる場面あるが、このコがセガールの娘の藤谷文子で、彼女は平成ガメラに出てたということで、そういう繋がりかと納得… ってわかんねーよ! ウィキ読んで初めて知ったよ(苦笑)。

 

【映画として合格点に達している】

【リアル日本からカン違いニッポンまで手広く網羅】の項だけでもすでにかなり“映画的”だが、さらにアクションというものもテレビからは容易にハミ出し映画のデカいスクリーンに適してるので その点でも本作は映画足り得てるし、セガールもテレビに収まりきらない俳優なんで映画向きであり、多角的に本作は“映画的である”ということを満たしていて、B級映画と思いきや意外に実は映画として結構高得点な作品だったりする。

 

あとまぁ音楽もそこはかとなく良い。

 

…というわけで『イントゥ・ザ・サン』、憶えてる人もあまりいない映画だと思うんだけど、「日本が舞台で実際日本で撮影されてて内容が怪しい外国映画」という観点からいくと必ずリストアップすべきであろう一品であり、

また改めて観てみるとちゃんと映画足り得てもいる。

だから忘れ去ってしまわず、みんなもたまには観てあげて♪

 

この宣伝文句も なんか悪ノリ効いてて好きだな(笑)