『ランボー4』をこれまで主にアクション的に語ってきたけど
『『ランボー 最後の戦場』とは何か?』
『ヘヴィな怒りにジャックイン『ランボー4』』
思想性及び映画的観方からするとどうか?

まず本作はミャンマーのニュース映像から始まる。
最初からこれが現実だと敢然と宣言して映画はスタートする。

社会からはじかれ、政治的に利用もされ、かつて激戦を繰り返した人間兵器ランボー(元グリーンベレー)は怒りから諦観を経て、世捨て人になりタイでひっそりと暮らしている。
そこへミャンマーで軍事政権に迫害されている少数民族(の、キリスト教徒の多いカレン族)に医薬品や本を届けようとしているアメリカ人のキリスト教系ボランティア団体から現地へボートで送ってくれと依頼されるが、
まずランボーの答えはノーであり、それでも食い下がられると武器の支援はしないのかと聞き、そんなものは持ってかないと聞くと、なら意味ないと言う。
しかしサラの人を助けることは意味なくはないという言葉、…現実をわかってないが、荒んだランボーの琴線に触れ、ランボーは引き受ける。
その道中 海賊に襲われ、ランボーは激殺する。まさに激殺、2秒かそこらで全員射殺!
その事態に団体のリーダーでサラの婚約者でもあるマイケルは激昂。ランボーは「彼女は何度も犯され貴様の首は飛んでたぞ」と言うが、マイケルは暴力的・非人道的であると、帰国したら君の件は報告すると言う。
そんな、動物が可哀想だからベジタリアンになりましょう的なヌル過ぎな現実認識の一団だが、ランボーと別れた後、彼らは本物の現実を知る。
(人間は文明によって自然界の弱肉強食から外れることに成功したような生活圏を実現したが、それは一瞬で崩れる脆い基盤のうえに成立していることは先進国でも震災の経験者などならわかっているはず(それでもわかってない奴が多いんだけどさ)。実際のところは人間も自然界のシステムから外れることは所詮出来ない。その認識が無い奴は、無知か横柄であるにすぎない。)

カレン族の村に着いた一団は物資をあげて、診察し、聖書を読み聞かせている。
そこへ軍隊が急襲。
一団は、彼らにとっては信じ難い、ランボーにとってはお馴染みの現実に直面する。
銃撃! 爆発! 殺戮! レイプ! 生きたまま火に投げ込まれる子供! ジェノサイドの嵐!
武器のない村人は蹂躙されるがまま。
一団の中で死ななかった者は軍に拉致される。
ランボーが武器を供給しないなら助けにならないとした意味。
ここでは人心も宗教も一切通用しない。むろん法律も無い。
これが現実。ここではマイケルの言っていた暴力的だの非人道的だの帰国したら報告するだのは戯言にすぎない。マイケルの言う事は社会的であり、だから社会的でない場所では一切通用しない。
マイケルは医薬品や本を届けることで村人の暮らしを変えられると言っていたが、対してランボーは武器の支援をしないなら何も変わらないと言った。
ランボーが言っているのは根本的解決なんである。日々起こっている殺戮の被害者たちに細々と援助するのではなく、そもそも元凶を潰せ、と。
我々だって会社で鬱でメンタルクリニック通院するとか過労死するなら、とっととそんな会社は辞めろって話でさ。そもそもの原因を取り除かなきゃ根本的に解決しない。

後日、一団の末路と、救出の為 傭兵を送り込むと聞かされ、案内を依頼されるランボー。
それ見たことかといったところだが…あの女を見捨てられない。また、
(コメンタリーより)スタローン「根本的な価値観の違いがある。 (中略) だが このまま別れる気はない。彼はもう何年も感情を抱いていない。その人間らしい接点をこのままやり過ごそうとは思っていない」(だからラストで実家に帰るわけだ)
傭兵たちは(1人を省いて)金の為にやっている。まぁ傭兵だし。
リーダー格のルイスはバカどもが仕事増やしやがって! と言いつつ、それに乗っかっているのもまたオマエだろうといったところなのだが。
ルイスも戦場経験者で現実を知っているとは言えるのだが、あまりに単純な現実主義すぎて、なんというか、拉致された一団と正反対でありながら、ものの考え方が偏ってるという点においては共通してるというか…。
ランボーは両者の中間にある。経験から現実主義でありながら、心の片隅にはひとかけらの人間らしさがまだ残っている。
現地に接岸すると、ルイスは一緒に来ようとするランボーをボート屋はボートの番してろと寄せ付けない。
彼らはまだランボーの正体を知らない――。

破壊された村の跡に着く傭兵たち。
そこへ軍が捕えた人々を連れて現れ虐殺を展開し始めようとするが、傭兵たちは銃器を持ってるが手が出せない。援軍を呼び寄せてしまうからだ。救出作戦をやりに来たんであって(生きて帰って報酬を得るんであって)、戦争をしに来たわけではない。
しかしランボーが現れ、敵を1人で虐殺! 弓矢で頭を貫き、地雷で粉々に四散する。ミャンマー軍に引けを取らないバイオレントっぷり!
傭兵たちにとってはオマエは一体何者だ!? & なんてことしてくれちゃってんだ! ってとこだが、
引き返すと言うルイスに弓矢を突きつけるランボー。
ランボー「こんな所に望んで居る奴などいない。だが俺たちのような男の仕事はここにある。無駄に生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ」
現実主義と理想主義の狭間で、どちらか一方ではなく… 現実をわきまえながら、人心も失わない。
救出作戦が再開する――。

クライマックス、ランボーを引き金に激戦が展開してゆく。
ランボーは斬首からの重機関銃でミャンマー軍の兵士を殺戮してゆく。というか破壊してゆく。それはもう粉々に。単なる射殺ではなく、人体が破壊されてゆく。肉塊と化す。ミャンマー軍に匹敵する暴虐ぶり。
目には目を、歯には歯を。毒には毒を。
ランボーは生き地獄に降臨した戦いの神のようだ。しかし彼は神ではない。心身ともに散々傷ついてきた1個人であり、今また片腕を撃ち抜かれてフゥーア!(`Д´)と痛みの叫びをあげる生身の人間である。
現場のミャンマー軍1個中隊くらいか?を殲滅し、そのリーダーの腹をランボーがザックリ切り裂き殺害し、とりあえず状況は終息する。
このクライマックスの中で、無下に殺される同僚を見たマイケルは自分を守る(生き抜く)ため敵を石で撲殺する場面がある。
マイケルの姿勢が変化すること、またさらにそれを銃でなく素手でやらせたことに意義がある。(その手にかけた、自分でやった感が強い。直截的。)

ランボーのやり方は平たく言えば“やられたらやり返せ”である。
自分(あるいは自分たち)を、戦って守る。
それは迫害されている民族からイジメで自殺を選ぶ人まで、規模の大小を問わない。
泣き寝入りはしない。ましてや右の頬をぶたれたら左を差し出したりはしない。話し合いが通用しない相手には話し合いなどしない。暴力に対するは暴力。それも同等の暴力。
生き残るには勝て。降りかかる火の粉は己で振り払え。戦いには覚悟が要る=人生を生きていくには覚悟が要る。お題目だけでは生きてはいけない。ましてや自分のケツを自分で拭けないような奴はおとなしく引っ込んでろ。
ランボーのやり方というか、スタローンの思想性。ランボーシリーズだけでなく、よく出てる一例として『コブラ』なんかもある。
『ランボー4』ではとにかく理屈や法律や良心や宗教や社会常識などといったものが一切通用しない非情な現実、“人間は簡単に死ぬ” “死んだらただの肉塊である”といった生々しい非情な描写、その中で敵を情け容赦なく断固として撃滅・排除してゆく。
“立ち塞がるものあらば、これを撃て”
本作はスタローンが監督・脚本・主演なわけだが、ミャンマーが舞台になったのは製作当時のリサーチで決めたもののようだが、無理解なアメリカ人、ベトナム、ソ連に代わる敵としてミャンマーの軍事政権を据えたと、これは敵として妥当なわけだが、それだけでなく、
人の命は等しく重いなどということはない。軽い命と重い命は確実にある。ロクでもない奴とまともな人とがいる。
そしてロクでもない奴には人心も理屈も無い。
死刑反対派だった弁護士が自分の家族が殺されたら犯人を死刑にしろと手のひら返したなんて話もある。実体験があるのとないのとでは考え方はまるで変わる。
物語のきっかけになるのがなぜキリスト教系の団体なのか? マイケルというキャラクターの意味、サラというキャラクターの意味、そこへランボーを絡ませる意味。
キリスト教の人間が多いアメリカなのに、アメリカ人のスタローンがハリウッド映画で、キリスト教で人は救われやしないとやってるのだから気骨がある(苦笑)。まぁキリスト教でというよりか「宗教で」ということだろうけど、でもキリスト教系の団体ということで描いてる。
ところでスタローンって宗教何よ?と思ったら、これがキリスト教だったりする。そういえばロッキーシリーズにはクリスチャンであることが色濃く出ている。
ところがランボーはどうだ(笑)。
…スタローンはバランスのとれた人なのではないだろうか? 神主義と人間主義と両方を持ち合わせていることがうかがえるのだが。
それは本作の劇中のランボーが現実主義でありながらサラの思いにも理解を示したように。
だからただの暴力的な男とか一元的な人物ではないんである。

…というわけで『ランボー4』はただの勧善懲悪なヒーローものでもなければ、見世物としてのみのバイオレンスアクション映画でもない。
なかなか興味深いテーマ性を孕んでいる、ヘビー級の映画である。
そして本作から目を逸らすことは、欺瞞の平和に浸って、我々と実は並存している凄惨な現実をモニターの向こう側へ押しやる行為だ。
わかっていて享受しているならまだしも、見たくないから見ない、ましてやそもそも知らないなどといった姿勢は愚か者だ。
昔の日本はメディアのニュースに死体の写真が出てたりもしたが、現在は出ない。外国の紛争のニュース含めメディアから死の要素を一切消し去ろうとする民意とやらは間違いなく病的である。とにかく異様に死を忌避している。だからこの国は延命治療が盛んで、最早動けないのに生命活動だけは維持し続けている(あるいは維持し続けさせられている)老人が溢れるという病的状況である。
バブル期ちょい前あたりから?シャレたライフスタイルに現を抜かすようになり、バブルがはじけた後もその延長線上に生きている日本ではメディアでの過激な表現は許されなくなり、今やちょっとしたことでもいちいち批判にさらされ(見当違いの正義感な奴のまぁ多いこと)、民主主義の不正義によって生々しい現実には蓋がされ、そんな世の中で育つ子供は現実を知らない大人に育つ。
ニュースで死体を見せるなと言っているような輩は何様のつもりだ? 何者でもないくせに。
アメリカでもメディアはいろいろ規制があるようだけど。
しかしスタローンには通用しない。スタローンは“モニターの向こう側”をリアルに描いた。
当ブログでは散々言ってるが映画とは脚本ではなく映像と音響が本領であり、『ランボー4』を映画館で観ることはミャンマーの生き地獄を疑似体感することだった。
本作は音響もかなりキテるんで、DVDorBDであってもデカい画面と重低音の効いたスピーカーorヘッドホンで鑑賞すれば、今でもかなり強烈な地獄体感はできるだろう。(『ランボー4』は『Uボート』『悪魔のいけにえ』などに近い種類の映画なんである。)
こういう作品を観ることも大事。別に実際に紛争地帯に行って見る、そこまでする必要はない。しかし知ってはおくべきだ。こういう現実もあるのだと。
…あと時折雄大な風景カットが挟まれる。これは人間たちの殺戮のドラマと大きな差を認識させ、人間が意識する現実と自然界の現実は別物であることを如実に物語る。こういうのもテレビドラマではやれない、映画のアドバンテージ。