♀×♀映画特集をやろうとして自分がパッと思いつく以外にもなんかあったかなー、とネットでその手の映画をググッたら、知らない映画ばっかというかそそられる映画が1本もない! ってか洋画ばっか。どういうこったよ!? 世間(?)がピックアップする♀×♀映画ラインナップに納得いかない。知ってるやつでも『バウンド』とか『アトミックブロンド』とか、♀×♀的な意味ではそそられないんだよな…。

俺がそそられる♀×♀映画ってのはこういうのなんだよ。

 

『1999年の夏休み』

俺が百合萌えになった原点か源流近くにある作品。

夏休みに入った学校。皆 帰省してしまい、寮に残ったのは和彦、直人、則夫の3人のみ。

そこへ2学期からの転入生だと言う、かつて自殺?した悠に瓜二つの薫が現れ、4人だけの夏休みが始まる。

悠は和彦が好きだったがノーマルな和彦は悠を拒絶したのだった。悠の死後気落ちしてる和彦に寄り添う直人は実は和彦が好き。

下級生の則夫は皆に構ってほしいが性的にはノーマルで、物語上は傍観者視点として機能してると思われる。

悠は大人しいコだったが、外見はそっくりでありながら薫の方は物怖じしない少年でありタイプとしては真逆である。

…って♂×♂じゃねーかよ!と思うだろ。違うんだよ。演じてるのが全員女子なんだよ! 特に直人=中野みゆきと 和彦=大寶智子がカッコイイ! ホレた。もうウットリ^^

外見がすごくいいのだが、声がまるで女のコなので直人は村田博美、和彦は佐々木望と声優が声をアテていて、この2人がまたマッチベター。特に本作では中性的な声で演じる村田が萌える! 村田の声が実装された男子役の中野みゆき最強(笑)。

中野みゆきと大寶智子のキスシーンが生々しいのがまた たまんないんだコレが♪ (あと大寶智子と薫/悠=宮島依里のキスシーンもある)

本作は加えて自然の中にある洋館のような学校&寮、夏の日差し、夜の静謐さ、綺麗な映像、SF的ガジェットで時代設定不明(「1999年」というのは近未来のことであり現実の1999年ではない)、薫/悠を巡るサスペンス(?)、生活感や生々しさを排した演出&映像(キスシーン除く)で異彩も放ってるが透明感溢れる爽やかさにも満ちており、1988年製作だが独特な魅力がいまだに観る者を惹きつけてやまないファンタジー映画。

 

『櫻の園』(90年版)

とある女子高の毎年恒例、創立記念日の演劇部による舞台劇『桜の園』。事件勃発して上演か中止かで揺れる当日朝の約2時間が描かれる映画。

演劇部が舞台なんで出演者の8~9割が女子だが、出番が多いのはジャケットに写るこの4人。

そのうち百合萌えなのは3人。しっかり者の部長・志水、前年男役で人気者になったが(ファンの後輩女子生徒多し) 今年はヒロイン役で自信なくてヘコみまくってる主役・倉田、本番前日に補導されて上演を窮地に陥れることになる不良っぽい部員・杉山。

志水と倉田は内心互いを好いていて実は相思相愛。この2人もいいんだけど(特に志水が倉田の衣装の胸の部分を縫ってあげて倉田の胸に顔を近づけて糸を噛み切る場面は萌える)、

さらに激萌えなのは部長の志水と不良な杉山の急接近なんだよ。立場も人間的なタイプもかけ離れてて基本関わりがなかったが、志水が“目覚め”て上演当日に校則ブッちぎってパーマかけてきたことから杉山共々教師に目をつけられ、同志のようになってく。この相容れなさそうな2人の友情の始まりもすごくいいんだけど、

実は杉山は前々から志水部長のことが好きだった…! ってのがまた たまんねーんだよ!(笑)

あと杉山が志水にパーマのこと聞くところがイイ。「倉田さん、なんて言ってました?」 「え…どうして?」 「だって倉田さんに見てほしかったんじゃないかなって思って…志水さん、倉田さんのこと好きなんでしょ?」 動揺する志水部長… キュン死しそう(笑)

本作の季節は春。女子と桜の取り合わせも良い。

 

『女校怪談』シリーズ

韓国映画。物語や出演者に繋がりはまったくないが、“女子高” “怪談” “女子同士の愛憎”という要素を共通項とするシリーズ。

俺的に1作目『女校怪談』(ビデオリリース時タイトル『囁く廊下』)、2作目『少女たちの遺言』、4作目『ヴォイス』が好きで。

『女校怪談』はメイン女性5人が全員魅力的で、そんな彼女たちの絡みがもう最高♪

特に、元々は親友だったのに、あまり努力してなさそうで喫煙までしてるのにクラスで成績No.1のソヨンと、どんなに頑張っても成績No.2で、他に家庭の事情もあって心に哀しみ抱えてる暗い女子ジョンスク(不気味なとこもいいが低音ボイスがまたイイ!)が対峙する場面は萌えーっ! 『櫻の園』の志水と杉山もそうだけど、相容れなさそうなタイプの絡みは興奮する(笑)。

当たりのキツいジオと大人しいジェイが友達になってくのも萌える。

担任のウニョンと、ウニョンの高校時代の自殺した親友ジンジュ。ジオまたはウニョンとソヨンの絡み、ウニョンとジオの関わり、ウニョンとジェイ…なども萌える。

皆それぞれルックスが良いうえ性格が違う&キャラ立ちしてるから、関わり合いが観てて萌えるんだよなー。

『少女たちの遺言』は、美人だが変わり者のヒョシンと体育会系のシウンの愛情と決裂が完全に百合超え。レズカップルを丹念に描いている。美人と体育会系というギャップのカップリングもいいが、美人が体育会系をではなく体育会系が美人を振るのもくすぐるものがあるような?

ヒョシンとシウンの関係に惹かれるミナがシウンにアクセスしようとするあたりも百合・レズ好きの嗜好をくすぐる。

ミナ、ジウォン、ヨナンの3バカトリオ等々も観てて飽きない。

今回もメイン女子はみんな魅力的。

『女校怪談』は暗く寒々として硬質なホラーだったが(←そこがまたいい)、『~遺言』は一転して明るく爽やか かつ馬鹿ノリなところもいい映画。

『ヴォイス』も出演者が魅力的。凛としたソンミン、その親友でアイドルみたいにかわいいヨンオン、高校生なのに怪しいクールビューティーのチョア、三十路の熟れた魅力の女教師、その女教師とレズ友だった人の良さそうな女子生徒ヒョジョンが織りなす♀×♀模様。

ヨンオンとソンミンの親友ぶりもとてもいいのだが、ヨンオンの正体が怪しくなってきてから、異なるタイプで本来およそ関わらないだろうソンミンとチョアが急接近で真相究明に乗り出しハードボイルドっぽいバディになってく意外な転回が萌える!

それでいて、霊は想い続けていると成仏できないと聞いたソンミンがヨンオンをシカトし始めるのだが、ソンミンの中にヨンオンと親友だった頃がぶわっと甦ってくる場面はグッとくる(泣)。

 

『魔法少女まどか☆マギカ』

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語』

魔法少女たちの壮絶な友情と対立、生死のドラマ。従来の魔法少女モノというジャンルを破壊した凄まじい作品。男のアクション映画のような激燃え展開、かつ映画史上に残る空前の感動、奇跡のドラマティックストーリー!

百合萌え的には親友だったまどかとさやかの友情と決裂、まどか&さやかとマミの良い後輩・先輩関係、さやかと杏子の敵対関係、ほむらを敵視するさやか及びマミと 彼女らに対して冷淡にみえて実は知られざる思いを持っているほむら、さやかを見下してたのに気持ちが愛情に変わってゆく杏子、一見相容れないほむらと杏子の共同戦線、哀悼、ほむらのまどかへの愛情…など、錯綜する感情・人間関係が萌える。

大ヒット作品となり、ゆえに二次創作(同人誌など)もたくさん作られている。

本編が相当ギスギスしてた&死の匂いが濃厚だったせいか、二次創作ではそれぞれのキャラクターがラブラブで描かれることが多く、本編ではあと一歩で結ばれなかった杏子とさやかが仲良く描かれたり、他のキャラたちも対立してもシリアスではなく微笑ましいケンカで描かれ、楽しい作品が多い。本編ではあんなに対立してたあの人とあの人が一緒に遊んだりルームシェアしたりなどと本編にはなかったカップリングもすごい萌える。(二次創作作品まで紹介してると文字数がパねェので、そっちは新作『ワルプルギスの廻天』の公開前に改めて特集するつもりなんで)

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』は二次創作の人気ぶりを踏まえたか、前・後編ではあり得なかった5人の仲間感全開!(喜) (いや前・後編の対立やすれ違いがまた良かったんだけどね)

やがて“これは何か違う…”と勘づきパラレルワールドなのか!? タイムリープ!? 偽造された世界!? 誰がリアルで誰が偽物!? と疑念が湧いた時、前作で相容れないのに共同戦線を張ったほむらと杏子がまるで前世でソウルメイトだったかの如くかつての相手との関係・想いに本能的に至るような場面は燃えるとも萌えるとも言い難いエモさ!

その人生模様から他人や現実を信用せず心を捨てて冷酷に生きてきたそれぞれ策士2人であり、利害の一致から組んだだけで信頼関係はないドライな“ビジネスパートナー”に過ぎなかったのに、杏子が最期を迎える直前のわずか数分間、2人とも素で心が通じ合う。そして杏子の死後、ほむらは杏子の死を悼んでくれた。(→改変後の世界では友人となった。)

…一転ガラリ変わった世界観と疑心暗鬼の本作。かつての事は憶えていない。しかし記憶は忘れていても魂が覚えているのがグッとくるんだよ!

前作で敵対しっぱなしだった、というか始終ほむらを敵視してたさやかだが、最後にほむらの正体と想いを知ったわけで、今回はほむらを温かく見守りクライマックスでは加勢するのもまた萌える♪

『叛逆』後~現在までもまどマギは同人誌が作られ続けている。まどマギは本編だけでも燃える&萌えるWモエ作品なんだけど、二次創作によって作品世界がさらに拡がっていて、本編も二次創作も楽しんでこそ極上の百合萌えが堪能できる。

 

『みちていく』

宣材にでっかく写ってる高校の陸上部エース・梅本が主役扱いのようだが、実際は陸上部部長・新田が主役といっていい。一見印象良くない。厳しくて感じ悪い部長。しかし部長をキチンと務めようとするがゆえであって、実際の本人の心の中には部長の孤独感や、選手としては梅本に対する劣等感のようなものがある。

しかしひょんなことから梅本が新田の自宅を訪れる。新田部長のプライベート空間に入る・私生活を見る。梅本は誰にも言ってない性癖を告白し心の不安定さを晒し、新田も本心を晒して、エースと仏頂面の部長の距離が詰まってゆくところがいい。翌朝通学路で自転車の新田が徒歩の梅本を一度は追い越した後、振り返って「…乗ってく?」は萌えッ!(笑)

2人は友達になってゆく。プライベートでお互い私服でのプラネタリウムデートも萌える。

新田と、真面目にやる気のない部員たちグループの軋轢。連中は梅本も自分たち側だと思ってたが、梅本は新田につく。

梅本のクラスメートには自傷行為を繰り返すヤバいコがいる。自身もメンタル的に不安定な梅本は共感なのか恐怖なのか、そのコが気になる。

新田は例の一部部員との齟齬からやる気を失ってしまって部長を降りる。だが辞めてからむしろ新田は自由になっていく。

真後ろの席のあっぱらぱーな感じの田所に話しかけられると新田は面倒くさそうにあしらっていたが、体と時間の空いた新田がたまたま入った喫茶店で田所がバイトしていて、田所は実は親が再婚でもうすぐ名字が変わるという非常に微妙な状況だった。田所は不思議ちゃんのようでいて接してみると実は心が自由な(あるいは自由でありたい)子だった。新田と田所も友達になってゆく。

本作もやはり、一見相容れないようなコたちが接近し繋がってく様に百合的萌えを感じて心地良い。

 

『プロミス 氷上の女神たち』

オリンピックに向けて急造で作られた韓国のアイスホッケーチーム。なんとか集まったメンバーは元北朝鮮の選手で脱北者のリ・ジウォン以外は、ラフプレーで追放されたショートトラック選手のパク・チェギョン、元ホッケー選手だが現在太ったオバちゃん、オシャレと婚活に血道をあげてる元フィギュアスケート選手で現ニート、選手が足りない&日当が出るから加わるアイスホッケー協会の事務員、選手だがまだ中学生の子、監督も親のスネかじりと、ポンコツや素人ばっか。

リ・ジウォンとパク・チェギョンの犬猿の仲ぶりが凄まじくケンカ上等の2人だが、基本的にはこの7人の練習の日々がユル~いほのぼのコメディで描かれてく。

しかし本番の試合を迎えるクライマックスはシリアスで、特に対北朝鮮戦ではリ・ジウォンが脱北時に泣く泣く置いていかざるを得なかった妹が姉を恨んでおり今では北朝鮮チームのエースといってもいいぐらいの選手になっており、かつて友人だった同僚ギョンスンもリ・ジウォンを憎んでいて、韓国vs北朝鮮は私怨が炸裂しまくる死闘になる。

北朝鮮側のリ・ジウォンに対するあまりの村八分・寄ってたかってのラフプレーにあれだけリ・ジウォンと仲の悪かったパク・チェギョンですら激昂。

♀×♀な見どころとしては敵対してたリ・ジウォンとパク・チェギョンの燃える共闘タッグプレー!

激闘の果てにリ・ジウォンに歩み寄るギョンスン。修復される姉妹仲。

試合中に殴り合いのケンカにまで発展したパク・チェギョンとギョンスンが次の大会の試合ではヘルメット越しに笑顔を交わし心の通じ合う友人になっているのも萌える。

女たちの激闘と融和がハード&メロウに描かれるドラマティックな傑作。

 

『おろかもの』

女子高生・洋子は、結婚式を控えてる兄・健治が浮気してることを実は知っている。兄の婚約者の果歩に対して悪い印象はない。洋子は浮気相手の美沙を尾行し、あげく本人に突撃!

しかし洋子と美沙は互いに印象があまり悪くなく、連絡先を交換して、兄に内緒で2人で会うようになる。さらに洋子が美沙の部屋にお泊りしたり。そして洋子と美沙は秘密の共犯関係を結び、兄と果歩の結婚のジャマを試みてゆく。

そんな洋子の家のドタバタを悪意なく楽しんでいる百合好きのクラスメート、シャオメイ。健治の浮気癖をゆる~くたしなめる会社の先輩。

彼女ら彼らの結婚式当日までの様子が、とても緩やかな時間・ほのぼのコメディで描かれる。

百合的にはやはりなんといっても洋子と美沙の関係。年齢差があり、ましてや洋子からすれば結婚控えた兄の浮気相手であり社会人女性、美沙からすれば浮気相手の妹の学生、そんな本来ならズレにズレた、出会うはずもなければ、まともに関わるはずもなかっただろう2人が友情を育んでく様が心地良い。

しかし健治が浮気癖を悔い改めたことから美沙の存在は宙に浮き、この緩やかな時間・ほのぼのコメディから弾かれるものとなっていく。健治が美沙に別れを切り出し、洋子と美沙は紛糾・決裂。

美沙は健治と果歩の結婚式に乗り込むが、ここでも美沙は完全に浮いており、独り惨めな状況になる。

ところがこの映画は洋子が美沙の手を取り、式場を飛び出してく! ドレス姿で手を取り合って駆け出してく2人を健治の先輩やシャオメイは素敵!と感動しながら見送る、ウルトラCな結末を迎えるんである!

レズカップル誕生なのかどうかはわからない。でも相容れない立場で出会いながら育んだ友情に萌え、さらにこの結末は爽やかな感動を残す。

結婚とはそれまでの家族関係に外部から赤の他人が入って来るものであるわけだが、本作は加えて同性カップル誕生!?で新しい家族のカタチ、新しい人間関係の概念まで提示してるように見受けられる。

 

…とまぁ俺的に萌える♀×♀映画を挙げてきましたが。

欧米映画のレズ系が1本も出てこない。なんかあっちのは萌えないというか? 俺の百合・レズ萌えの好みとは全然違うんだよな…

たぶんねぇ、いやコレわかんないけどね、欧米ってノーマルかレズか2択な気がする。格闘技もプロレスと総合格闘技の2択。でも日本ってカレーに甘口・中辛・辛口とあるように、プロレスと総合の間にUWFがあったり、ノーマルではないがガチレズまではいかない「百合」がある。中辛なんて外国にはないし、UWFスタイルを外人レスラーは嫌がるし、百合という概念も欧米にはない気がする。

韓国映画には百合を感じることが時々ある。以前どこだろう? タイかどっかかなぁ? の女子学生同士がチューしてる画像見たことあるけど、それも萌えた。不思議なんだけど欧米とアジア系で萌える萌えないが分かれるっぽい。やっぱ欧米の2択の極端さでは「百合」の絶妙な魅力――距離感、手触り、接し合い――は生じないということなのか?

アジア系ではノーマルとガチレズ2元論ではなく、その間がグラデーションになってるというか。1か2ではなく、1と2の間には1.1、1.2… 1.8、1.9とあるような、もっと機微があるというか、レズ一語で片づけられるものではなくもっと豊かな意識の様があるというか。

そういえば邦画の『GONIN』とか、香港出身のジョン・ウー監督作品みたいに、アジア系には絶妙な♂×♂映画があるが、欧米にはコレもない。

やはりどうも欧米圏とアジア圏には感覚に決定的な違いが何かしらあるようだ。

…あ、ガチレズも好きよ?(笑) ただ欧米のレズには「興奮」はしても「萌え」はどうもない、っていう。百合の魅力は奥が深いというか。

女性同士が魅力的であることは百合であろうがレズであろうが論を待たない(笑)。

『アルプススタンドのはしの方』って映画あったろう、ヒットしたそうだけど。

俺あれがどうも嫌いでさ。

観ようとしてレンタル落ちのDVD入手したことあって、今も部屋にあるんだけど、何度かプレーヤーにかけてんだけど再生するたび途中で観るのやめるもんな。腹立ってくるんだよ。

こんなのテレビドラマでやっとけ、映画でやってんじゃねェよっていうイラつき。

そもそも演劇の映画化ってのが根本的に間違ってんだよ。

当ブログでは絵画とマンガがまるで別物なように映画とテレビドラマも全然違うとは散々言ってきてるけど、映画と演劇も全然違う。

だから演劇をそのまま撮っても映画にはならない。

テレビドラマも演劇も脚本と出演者で推進するが、映画は映像と音像を堪能するものだから、本来映画とテレビドラマはそもそも相性が悪いし、映画と演劇も異質なのでわざわざ演劇を映画化するのも釈然としない。

演劇の映画化をやるなら「演劇」というものを「映画」というものに「転換」しないとならない。

これに成功した珍しい例が『サマータイムマシンブルース』。演劇が元でありながら、あれはちゃんと映画になってた。それはちゃんと映画に転換出来てたから。夏のクソ暑さとか四国の風情が体感できるというか。ただの会話劇で終わってない。

でも『アルプススタンドのはしの方』はそこに至ってない。ほぼ大半が野球場のスタンドで展開するが、天気悪ィんだよ。曇り。それは意図的に曇りで撮ったわけではなく、単に撮影時天候に恵まれず、でもスケジュールの都合があるからそのまま撮っちゃったみたいな強引さというか雑さというかいい加減さを感じる。

そんな何も見どころのない腐れ映像で会話劇が延々展開する。しかも特に野郎ども(男の教師とか男子生徒)がもう不快で。鬱陶しい。

致命的なのは、がなり散らす場面の声が汚い。聞くに堪えない。映画は映画館でデカいスピーカーの音響で鑑賞するものだから、あんなきったねェ声でがなりたててる音声聞かせられるのは罰ゲームとか嫌がらせとか拷問に近い。

さらに見た目がブサイク。テレビドラマは小さい画面だから出演者の見た目なんかどうでもいいっちゃいいんだけど、デカいスクリーンで観る映画においては非常によろしくない。

だから「こんなのテレビドラマでやっとけ、映画でやってんじゃねェよ」なんだよ。

このムカつきというのは、あの突出した糞映画、劇場版『映像研には手を出すな!』を観た時の不快感とかなり近い。

 

ところが『アルプス~』がヒットしたから演劇の映画化第2弾とかなんとかってことで企画されたらしいのが『水深ゼロメートルから』。

でもコレは観に行きたいと思った。それは監督が山下敦弘だったから。『リンダ リンダ リンダ』が素晴らしかった。俺これは映画ベストに選出したことがあるぐらいで。

即席バンド組んだ女子高生が文化祭でのステージを迎えるまでのグダグダな日常が描かれる。ストーリーだけ聞いたら“それって面白いの?”ってなもんだが、これが見ごたえあるのだ。女子高生の時間、学生時代の様が、魅力と臨場感をもって撮られている。最後間に合わなくて歌えなかったとしても映画として成立してた。『リンダ~』はアクションやスペクタクルがあるか否かは映画的であるか否かとは関係がないという事、映画はストーリーじゃない事、を見事に証明してみせた映画だった。

それを撮った山下だから、女子高生が学校の水のないプールで延々会話劇な舞台劇の映画化でも、アイツなら大丈夫だろうという信頼があった。

というワケで新宿シネマカリテで観てきた。

ここで観たことあってスクリーンが小さいことは知ってたんで、端から一番前のセンターあたりの席をチョイスした。

本当はデカいスクリーンで視界いっぱいに映像が広がると映画に没入出来て体感度高く鑑賞できるんだけど…。

どうでもいいけど前に観に来た時不愉快だった女従業員は辞めたのか休みだったのかいなかったので不快な思いをすることもなく。アレのせいでシネマカリテに悪い印象あったんだけど、払拭された(苦笑)。

 

で鑑賞して。

やっぱりアタリだった。『アルプス~』とは天地の差。

初っ端の青空の映像からすでに大合格。女のコたちが劇中ほぼ9割方 裸足なのもいい。

(ついでにパンチラしそうでしない絶妙な動き・映像が多々あり、夏の映画であること、女子高生であることと相まって、健康的なエロティシズムというよりエロティシズムなど完全に通り越して爽やかでパッションすら感じる。中年以上なら男女問わず感じるのではないだろうか? あぁ10代に戻りたい(苦笑)。憧憬・羨望すら感じる。そういえばアレだね、“女の身体はそれだけでもう映画を成立させる”って事とも通底するかもね。)

そして延々続くことになる水のないプールの中での4人の女子高生たちのグダグダした光景と会話劇だが、夏の感じがよく出てる。その中で展開するダラダラした感じ、日常会話は退屈どころか楽しいというか。観てて浸れるんだよね。女子高生たちの、ある夏の日を体感する87分。

「ストーリー」ではなく「時空間」「空気感」を見せてゆく。

デカいスクリーンと効きのいい音響で体感し鑑賞する映画だから出来る事。

それが出来ないテレビドラマはストーリーに頼るしかない。

だから映画でストーリーを描くとかストーリーで映画を語るのは見当違いなんである。

他方、演劇だと舞台上には役者と簡素なセットしかない。だから演劇というのは役者とシナリオで成立するものであり、生の役者と、生身の人間が今ここで繰り広げる舞台劇を鑑賞する臨場感や緊張感や一体感的なものを堪能するものであり、映画とはまるで異なる。

それを映画化するとなると、生の臨場感を全て失う引き替えに、演劇では実現することの出来ない要素(本作だと青空とか暑さとかドシャ降りの雨とかetc.)、映画でしか表現出来ない時空間や空気感を見せること、映画に転換すること…

本作はそれをちゃんと成し得ている。

 

女教師も加わり、各々抱えてる不満や悩みや憤りが噴出してくる。

男と女の違いの理不尽さ、大人と高校生の齟齬、最後はドシャ降りの雨がすべてに炸裂する――。

 

チヅル役の清田みくりってコが特に良かったなぁ! 1人だけすごいラフな感じのコで、女お笑い芸人のようにくだけていて、低めの声も良く、なんかパワフルさを内包してるのが感じられ、主人公っぽいミクや美人さんなココロなどと一緒に居てもまったく引けを取ってない存在感と魅力。ホレたもの(笑)。

補習メンツでないこのコがなぜこの場に来たのか当初不明なのだが、途中から水泳部の部長だと判明する。オマエ主将だったのかよ! 行き場のない帰宅部女子かと思ってた(笑)。その意外性に萌えると同時に、どうりで…という納得のパワフルさと存在感。

山下は体躯で選んだと言ってたけど、このコを配したのは大正解。体格もそうなんだけど、演技もこのコは安定感というか重心が据わってるというか。チヅルという役をシナリオで説明ではなく清田みくり自体が説得力をもたらしている。

こういうところも映画足り得てる。映画は映ってるものが重要であり、出演者もプロダクションデザインの一部といってよく、だから映画映えする出演者、見てわかる・伝わる出演者をチョイスしないとならない。このコはそこんところ見事に応えているし担っている。

 

ココロを演じた濵尾咲綺も良かった。補習組なのに補習代わりのプール清掃にほとんど参加せず外見やメイクばかり気にしている美人。なのにキツい女教師について

ミク「山本先生コワいもんな」 ココロ「そお? 性格悪いだけだろあんなん」と吐き捨て、さらにはその山本本人相手に紛糾・怒鳴り合いになる。見ごたえのあるコ。

邦画の出演者っていつ頃からかな、90年代ぐらいからかな、学芸会みたいな酷ぇ演技の奴ばっかになって、恥を知れっていうか、こんなの外国人に観られたら日本人の演技力ってこんなもんかって思われるだろって、日本人として恥ずかしくてもう。

この悲惨な状況はおそらくテレビ局が映画製作に非常に乗り出してきたことと、テレビドラマの出演者が生粋の役者でなくデカい芸能事務所がブッ込んだタレントばっかになったことに原因があると思われる。そこへかつての良い役者が高齢化してフェイドアウトしていく時期が重なったのもあるだろう。

そうしていつしか日本のテレビドラマや映画はレベルの低過ぎる演技が横行するようになった。

たまにいい演技してる人も見かけるんだけどね。『バウンス koGALS』の佐藤仁美とか、このコはちょっと凄いぞと感心するようなコが。

で、濵尾咲綺も凄みのある演技を見せる。

怒りの演技というとただ怒鳴ってるだけの稚拙な醜態見せる奴が多い(生理をただ剥き出しにするのは演技と呼べるシロモノではなく、非常に下品である)が、濵尾咲綺はきちんと演技が出来てる。ただギャーギャー喚くのではなく、魂が炸裂する様を演技という技能できちんと表現出来てる。

また、この怒鳴り合いの場面は2人の声が良く聞き取りやすいので『映像研~』や『アルプス~』のような汚いノイズにもなっていない。

(余談というか余談じゃないんだけど、テレビアニメ『うる星やつら』(リメイクじゃなく80年代の方ね←ここ重要!)は登場人物がデカい声で怒鳴り合ってることが多い、冷静に見ると異様な作品だが、声優だから声質がいいのでまったく不快でない。『映像研~』や『アルプス~』はそこんとこまったくわかってなくて、音声というものに対して非常に粗雑極まりない。)

 

…というわけで、やはり山下敦弘は映画足り得る映画を撮れる監督であること、映画はストーリーではない事、アクションやスペクタクルがなくても映画足り得る事をまたも証明した。ちゃんと「映画」を「鑑賞」させてくれた。

87分という上映時間もいい。今の映画は長過ぎるよ。3時間とかアホか。長くなるのはシナリオのせい。そんなに物語を描きたいならテレビドラマのシリーズでやれ。物語が進行してる時は映画は停止を余儀なくされ、映画が繰り広げられてる時は物語が停止するのだから。映像と音像を体感し疑似体験する場である映画というものは1時間20~30分ぐらいの長さがベストだよ。

そして性格バラけてる登場人物たちも、演じた女性たちも、とても良かった。

夏にはちょっと早いけど、夏の思い出が1つ増えたような、いい映画鑑賞だった。

 

ところでどうでもいいんだけど、本作は四国が舞台なのでセリフは方言(正確には方言と今の若いコな言葉のミックスなトーク)で、東京しかも新宿でこういう映画を観てるというのがちょっと面白い違和感があった。

地方が舞台・方言・わりと静かな感じという映画を観終えて、映画館を出ると新宿の猥雑かつ音が氾濫する雑踏。そのギャップに、今まで87分、四国の学校と女子高生に没入してたんだなァと感じ入る。

映画とは観ている間、その世界にトリップする素敵なものなんだと改めて思ったのだった。

86年、香港でジョン・ウー監督、チョウ・ユンファ出演(←主演ではないのだがあまりにカッコよすぎて最早主演といってもいいぐらい)『英雄本色』が香港史上(香港映画史上というレベルではなく香港という都市の史上というぐらいのレベル)において伝説になるぐらい大ヒットし、亜流が数多く作られたが、亜流はやはり基本的にレベルが低く、観応えあるのはほんの一部作品に限る。

一方、日本も『英雄本色』を買い付け邦題を『男たちの挽歌』として「香港ノアール」なる新語で喧伝しヒット。

当時の日本はレンタルビデオ店が増えてた時代で、ビデオ会社は当然2匹目のドジョウを狙って、つまんない亜流でも買い付けて香港ノアールとしてジャンジャン売り出した。

余談だけどその中でもかなり悪質な部類(←まぁなんつーか100%非難ではなく40パーぐらいはそのイカサマを楽しんでたところもあるんだけど・苦笑)でパッと思い出すのは『ワイルドギャンブラー』かな。コレなかなかタチ悪かったね(苦笑)。

89年のユンファの『ゴッドギャンブラー』って映画が香港で大ヒットして、当然日本も買い付けた。

まぁこの時点ですでにイカサマをカマしてるんだけどさ…(苦笑)

実際の本作は“賭神”と呼ばれる伝説のギャンブラー、裏切り(←結構鬼畜)、頭悪すぎほのぼのコメディ(ユンファ幼児退行現象)、銃撃戦、スタイリッシュさと下品さ、クールありバカあり、ほんのり泣かせる場面もあったりという闇鍋状態のトンデモ映画なんだけど、日本の映画会社はダンディでエレガントな雰囲気、香港ノアールなラインで売り出した。

したら、とあるビデオ会社はユンファが売れる前に出てたしょーもない映画を、ギャンブルネタの映画だから『ゴッドギャンブラー』に便乗しようと買い付けてきた。

内容クッソつまんないんだけどさ、『ワイルドギャンブラー』などと『ゴッドギャンブラー』の二番煎じな邦題を付け、スーツのユンファが不敵に笑う写真、薔薇、拳銃、都市の夜景、カジノテーブルという組み合わせのビデオジャケットにしてスタイリッシュなギャンブル映画をデッチ上げる。

どこを取っても嘘八百なのも問題ではあるんだけど、まぁ虚偽・誇大広告が公然と平然と堂々とおっぴろげで行われている映画・ビデオ業界ですがね(笑)

にしても一番問題なのはこのユンファの写真だよ。これ『挽歌』の写真なんだよ(苦笑)。他所の映画のスチールを堂々と使うという、

オマエは昔のコスモスかっていうさ(苦笑)。

コスモス:昔あったガチャガチャ自販機で、著作権ガン無視で流行りもののキャラクター商品や芸能人グッズを真正面からパクッてニセモノ商品を堂々と販売していた(苦笑)。今になってみるとホント昭和は超法規的だったな^^;

こちらビデオジャケット裏面。こっちは正直に本作の写真使ってるんで、実はパッとしない凡作であることが一目瞭然。貧乏臭ッ! 邦題の「ワイルド」ってのは一体どこから来たのかと思ったら、この笑っちゃうぐらいあか抜けない兄ちゃん(=売れる前のユンファ)のことか。モノは言い様だな(苦笑)。

なんかアレだよなぁ、きったねーボロアパートなのに名前がル・ソレイユとかさ、ドブ川沿いにあるアパートの名前がリバーサイド何々とかみたいな。詐欺っちゃ詐欺なんだけど、どう名づけようが大家・管理会社の勝手だしな。

まぁともかく本作、裏面見ると表面がいかにイカサマかがよくわかる。

同時に言えるのは、売る側からすれば、こんなモンを売るには相当盛ったり曲解したり偽装したりする必要がある(苦笑)。となるとジャケット表面は素晴らしい仕事ぶりと言えよう(笑)。

(ところで映画・ビデオ業界のイカサマ宣伝は規制する必要ナシと言っておきたい。“騙される”と“夢見させてくれる”はもはや同義語なんだよ映画・ビデオにおいては!(笑) だからコレに対してマジで景表法とか持ち出すバカいたら、そいつの方こそ危険人物だね。例え話として、仮面ライダー見た翌日にクラスでライダーキックやったら倍返し食らったなんてことがあったとするよ? に対してもし仮面ライダーの放送を中止しろとかトンチンカンなこと言い出す輩がいたなら、そいつは頭の足りないヤバい奴であって、しかも自覚ナシで、てめェが正しいと思い込んでて、そういう奴を日本語で「危険人物」「警戒を要す」って言う。そういう奴こそ規制・鎮圧しろよって話で。近年の「コンプライアンス」ってやつは薄気味悪い病的な領域に入ってるよなマジで。)

 

…まぁそんなわけで、『挽歌』の亜流もわんさかあって、そんな中の1本がコレ。

『愛と復讐の挽歌』

ユンファ主演だからまるっきりのZ級亜流ではない。なんせ本人だもの。

しかしまぁハッキリ言ってつまんね。映像センスは悪いし話もつまんないしユンファもカッコよくないし。

でもクライマックスだけ派手で、もうね、ホントここだけは観るに値する。

これだけで1エントリいけるのではないかと思ったんで今回のエントリなわけよ。…その割には『ワイルドギャンブラー』の話が結構長かったけどさ(苦笑)。

というわけでクライマックスだけ観ていこう。本作はクライマックスだけ観りゃいいから(笑)。

敵役アレックス・マンの屋敷に乗り込むチョウ・ユンファとアンディ・ラウ。

この明らかに別撮りの、キレイに撮られたグレネード弾。

 

なんつーの? 6発か8発撃てる回転式弾倉のグレネードランチャーみたいな。

これをブッ放すと――

 

あまりの火薬にスタントマンが炎に覆われて見えなくなってしまうほど!

爆発が凄すぎて映像がほぼ真っ白になってしまう!

 

生きてる本物の人間=スタントマンと人形が混在で吹っ飛んでくる!

爆破で吹っ飛ぶ+3階くらいの高さから飛ぶスタントマンも凄いが、

ボォーン!と景気よく無造作に吹き飛んでくる人形も爽快&ウケる。

CG、デジタル合成なんて糞だね! やっぱ実在する本物の物質でやるに尽きる!

 

爆発→スタントマンが1人吹っ飛んできて階下へ落っこちる→それで終わらず立て続けにもう1人吹っ飛んで落下!

 

スローモーションで雄々しくやって来る悪党アレックス・マン。

バックの音楽の仰々しさにいたってはもはや演歌の域(笑)。

 

室内でもこの有様。戦争映画かよ!

 

このカットでは1人が階段の手すりから階下に落っこち、もう1人は窓から外へ落っこちてく!

 

屋敷内に居た女たちが銃撃戦に巻き込まれ、廊下に女の死体の山が築かれる。

 

本作が映画足り得てないなと思うのはこういうとこでさ… こんなのテレビドラマのセットだろう。テレビドラマは脚本と出演者で引っ張ってくものだから撮る場所なんかどうだっていいとすら言えるんだけど、デカいスクリーンで体感して鑑賞する映画というものにおいては、こんな安っぽい軽すぎるセットで撮ったら映画として失格。

でもこの場面が凄いのは、一室に立てこもったユンファとアンディが敵の火炎攻撃に晒される場面なんだけど、ホントに次々バンバン火が投げ込まれるんだよ。

人がいるセットに火をボンボン放つのも凄いけど、そこに居るのがスターのユンファとアンディだぜ? ユンファは『挽歌』がヒットした後でもうスター俳優だし、アンディも人気歌手で。まさに体当たり撮影。やらせる方もやる方も命知らずにも程がある!

この場面で外から機関銃撃とうとした敵がアンディに撃たれて4~5mぐらい吹っ飛ぶカットも凄い。

 

人も燃える燃える!

 

自分の子分も撃ち殺し、笑って酒をグイッとあおってグラスを後ろに思いっきり放り投げる歯止めの効かない外道、アレックス・マン。やり過ぎ、ケレン味あり過ぎ。

(ちなみにマンはそのツラ構えもだし俺が見たことあるマン出演作は軒並み悪役だったんで映画だけ観てるとマン=悪党イメージしかないんだけど、80年代の映画雑誌かビデオ雑誌にアレックス・マンのインタビュー載ってたことあって、話も笑顔の写真もイイ人って感じで、それ見てやっぱ役者であって演じてるだけで役と本人は当然のことながら別物だよなぁと改めてしみじみ思ったのだった。あと『挽歌』や『ワイルドブリット』で映画史上に残る裏切者役をやったリー・チェーハンもインタビュー記事ではメッチャいい人そうだった・笑)

 

マンの股間へユンファの金的蹴りがクリーンヒット。

肉弾戦。燃え盛るセットでユンファの珍しい素手ゴロアクションが炸裂。

 

これも危ない! ユンファと銃を持ってるマンの取っ組み合いで、互いに顔のすぐ真横で発射! 実弾じゃなくても危ないっての!

 

最後はユンファに殴られ吹っ飛び燃える階下に落っこちたマンが爆死。

 

…というね、『愛と復讐の挽歌』の凄まじいクライマックス。

ジャッキー・チェン他の80年代キチガイスタント映画や、予算も現場の様相も凄い規模の撮影をやってた昔の大作映画などが、21世紀になって時代遅れになるどころかデジタル時代だからこそ逆に価値が爆上がりであり、

『愛と復讐の挽歌』も(トータル的にはつまんないが このクライマックスだけは)一見の価値がある。今の連中にはいちいち言わねェとわかんねェのかな、80年代の映画だからCGもデジタル合成もねェからな。これ全部キャスト、スタッフが現場で実際にやってんだからさ。爆破も! スタントも! 火も!

デジタルが氾濫して人の職人技や発想力や挑戦や努力がごっそり欠落しペラッペラに薄い偽物映画だらけになった(そしてそれを糞映画だとわからない輩が増えた)今となっては80年代当時の香港映画がいかに凄いことやってたかの記録映像ともいえる。

80年代に観た時はつまんねー映画だと思ったけど、そんな映画がまさか煌めく時代がくるとは思いもよらなかった。

それだけ現代がしょーもなくなった。(逆に20世紀がリミッター外れ過ぎだったという言い方も出来るけどさ・苦笑)

『祝日』という映画を観てきた。

っていうかさ、『ブルーを笑えるその日まで』って映画が観たいんだよ。でもその映画の存在を知ったのが遅過ぎて、都内での上映はもうとっくに終わってて、今は地方で次々上映されてるようで。だから都内に戻ってきてリバイバル上映されるのを心待ちにしてる状態。たぶんやるんじゃないかなーと希望持って待ってんだけど。

で、なんか映画観たいなと現在上映中の映画チェックして気になった何本かのうちの1本がこの『祝日』という映画なんだけど、予告編見たり記事読んだりしたら、なんか非常に『ブルーを笑えるその日まで』に似てるんだよね。

女のコが屋上から自殺しようとしたら『ブルー~』は霊に、『祝日』は天使に止められ、一緒に過ごす中で主人公に変化が訪れるみたいな、始まりがほぼ同じといっていいぐらいで。『ブルー~』の方が数ヶ月早かったけど公開時期まで近い。(あとどちらも監督が女性)

でもどっちも製作は数年前からスタートしてて、似てる部分とか公開時期とかはたまたまバッティングしたんだと思うけど。

『ブルー~』は調べれば調べるほど武田かりん監督の想いが詰まった映画で、監督の人となりに心打たれ、主演の2人もなんだかとてもいいし、さらに周囲(キャスト・スタッフら)の監督及びこの映画へのサポートぶりも温かさに満ちていて、まだ未観なのに俺の中で『ブルー~』に対する想いは相当募っている。

だからチラシ&ポスターと予告編で興味を惹かれた『祝日』だが、『ブルー~』と似てるようだと知ると、『ブルー~』より先に『祝日』を観ることに正直抵抗感が…。

でも『ブルー~』の都内再上映を待ってたら『祝日』の上映はとっくに終わってるから、観にいくことにしたのだった。武田かりん監督になんだか申し訳ないと思いながら。

kino cinema 立川髙島屋S.C.館で観てきた。新宿でもやってて俺的には新宿の方が行きやすいんだけど、kino cinema 立川髙島屋S.C.館は過去2度観に行ってて印象の良い劇場だったので機会があったらまたここに来たいと思ってたので、あえての新宿でなく立川。

 

(※ネタバレあり)

で観てみて。悪くなかったよ。傑作とか佳作までいかないけど、印象の良い映画。よい心根の愛すべき小品というか。好感度高い。

出演者良かったですよ。それぞれが好感持てた。

映像も悪くなかったし。映像が良くないと、だったら映画でやらずにテレビドラマでやってろってとこなんだけど、本作は映ってるものが――風景も出演者も――結構良かったし。

自殺しようとした主人公の子を自称・天使が引き留め、今日じゃなく明日にしようよ、と。実はこれまでずーっと主人公の傍にいたというこの天使も明日死ぬのだという。

そこから2人が明日まで1日一緒に過ごすことになる。外ほっつき歩き、近所をまわる小旅行の中で孤独な主人公がいろんな訳ありの人たちと邂逅してゆく――。

この巡ってく場所が大層な場所でなく、小学生の頃(だったっけ?)の通学路とか、小さい頃家族と行った中華料理屋とかなのがむしろいい。

最期を迎える前に、ありふれ過ぎてて忘れ去ってた場所、普段は気にも留めてない地元を巡るのが、道行きとしてかえって印象深い。なんでもないような事が幸せだったと思うって『ロード』じゃねーよ(笑)、でも最期の時にどこ巡るかってときに、ディズニーランドとか観光スポットとかじゃなくて、子供の頃にはありふれた日常だった場所ってのは盲点で、ハッとさせられるものがある。こんなふうになってしまった…という今と、こうなる前の普通に暮らしてた、暮らせてたあの頃…

かつてを巡る。子供の頃に帰る。…なんだか泣ける。

舞台が富山で、実際富山オンリーで撮られた映画らしく。地方都市のうら寂しい感じだったり、自然の良さだったり、シャレた所もちょっと出てきたり。

地元巡りにしたのは低予算だったからなのかもしれないし、富山をフィーチャーしたかったからなのかもしれないし、物語として意図的だったのかもしれないし、どれかはわからない。全部だったのかもしれない。

ともかく人生最後の旅が近所なのが逆にいいんだよ。

映画足り得てた。映画足り得てなくて端からテレビドラマでやるべきだった映画の一例が『野球少女』だったりするんだけど。でも『祝日』は全編大部分映画足り得てる映像だった。町の光景とか(地方都市なのが良かったりする)、あと主人公のマンションの一部が画角に入ってる夕日だっけ、夕日じゃなかったな、夜か否かな微妙な時間帯だっけ、の画なんか見入ったし。マンションの室内場面ですら悪くない感じだった。

この伊林侑香という監督さん、2本目の監督作だそうだけど、1本目の『幻の蛍』という映画の予告編見るとこちらもロードムービーっぽく、映像的に惹かれる感じあって、この人は良い映画監督かもしれない。

監督も主演の子も富山出身・在住とのことで、地元で作り上げた製作の様が、本作の内容の素朴さと相まって、そういうとこも愛すべき作品と感じる。

『祝日』というタイトルは劇中のこの日が祝日だった(これが自殺の引き金になる)というのと、主人公が死ぬのやめて生き続けることを選ぶことになるこの日を祝うべき日と捉えてるという、かけてるのだろう。うまいと思うよ。

 

本編観てた時は泣かなかったけど、帰宅して予告編改めて見たら泣きそうになった。

首&左腕の状態がかなり酷かった時、外出もままならず、座ってPCに向かい続けるのも無理で、といって横になっても痛くって、ベッドのなんつーの枠に枕立てて体預けて、上半身半ば起こしたような姿勢で寝てた時期が数ヶ月あったんだけど、この頃なんもやれないからずっと手持ちの本から映画監督・押井守の著作と小池壮彦の著作(コレとかコレとかコレとかコレとかコレとか)を読んでた。小池の本に至っては持ってる著作を片っ端から読み倒すくらいの読書量になった。

小池の著作はどれも読み応えあるんだけど、小池的な面白さとは別に、改めて読んで『幽霊は足あとを残す』ってこんな凄まじい本だったっけ!?って。昭和のいろんな事故や事件が取り上げられてるんだけど、昭和ってこんなに人死んでたんだ!と驚愕もの。小説とか映画ではなく、事実であり現実だったのが悪い意味で凄い。しかも俺もまぁ半ば昭和の人だから。よく死ななかったなと思うぐらい、本書で記述される昭和は人の死に溢れてる感がある。

 

鈴木光司の『リング』 『らせん』 『ループ』も一気に読んでしまった(苦笑)。そのぐらい日常生活に支障をきたしていた。ずいぶん久しぶりに読んだ。『ループ』に至っては発売時に買って一読して以来じゃないか?

 

ジェイムズ・P・ホーガンの有名なSF小説で名作らしい『星を継ぐもの』の古本をネットで注文して読んだりもした。これ読んだのはまだ仕事してる最中だった。

月面で生物の遺体が発見されるが、それは人間と同じ外見の遺体であり、しかも5万年前の遺体だった。一体何者なのか!?

面白そうじゃない?

でも実際読んだら苦痛でしたがね。科学とか宇宙とか好きなんで書かれてることはまぁまぁわかるんだけど、学術的なとこじゃなくて文体かなぁ? 読みづらい文体だよな。読んでてイラつくんだよ。訳が悪いのか元から悪いのか。多分両方。

ガマンしながら読み続けて(仕事で疲れてる状況であのこざかしい文体はしんどすぎる)、読むの放棄しようかと思ったんだけど、遂に事実が明らかになった時、感動的なんだよね。燃えるというか。なるほど名作と言われるのがわかったけど、もう一度読み返そうとは思わないね。

(あとSFなガジェットが、今となってはもうSFじゃないというのが結構ある。これはしょうがないんだけど。70~80年代に読んでたらSF感がもっともっと感じられたわけだけど。)

 

ところで今回は『リング』シリーズの話をしたい。

1作目『リング』については以前書いた通り。

 

『らせん』

前作の“ホントの話か!?”というリアル感、本書では塩基配列の図やリングウイルスの写真がリアル感をハネ上げる。

押井守の著書『立喰師列伝』みたいな凝りよう! 『立喰師列伝』も架空の人物の近影や架空の本の写真などが掲載されて内容のリアル度をハネ上げてたが、それがあっちではやり過ぎギャグとして機能して笑えたが、『らせん』ではリアルさを積み上げて“ホントの話か!?”という恐ろしさを喚起する。

また、浅川のリポートがビデオの代わりになる→『リング』をすでに読んでしまっている人は キュービックショック(←後半に「キュービックショック」の説明あり)、恐怖!

(ついでに言えば出版される展開からさらに映画化にまで発展していくが、『リング』は現実世界でも実際に映画化されている・苦笑)

映画版はテレビ画面から貞子が実際に出てくるという恐怖描写を採ったが、またそれについて“あれはビジュアル的なショッキング度は高いが、同時にあれによって貞子の恐怖感のレベルが落ちた”みたいなことを以前書いたし、そもそも映画版は原作の理詰めの魅力をごっそり取りこぼしてるので『リング』の映画化としては失敗みたいなことも書いたが、さすが原作者本人による『リング』の直接続編の小説『らせん』は怖さのレベルが違う。リアルに裏打ちされてる恐怖。

前作で唸ったのは1週間という期限がなんなのか(ビデオテープのダビングと天然痘ウイルスの見事な共通性!)理屈に裏打ちされてたことだったが、本書はさらに学術的に追及してく。前作を軽く上回る理屈・論理。それでいて心霊的不気味さも失ってない。ただのフィクションのホラーでなく、恐るべきリアルホラー。

貞子の出現も、映画版では科学的裏付けを無視したもので、霊から単なるモンスターに堕した。しかし本書での貞子降臨は、あくまで理屈をベースにしている。そこにも説得力と強度があり、それに比べると映画版の貞子は所詮フィクションとなり、『らせん』(原作)の方が段違いにレベルが高い。素晴らしい続編だよ。

 

原作の3作目であり完結篇?の『ループ』は、もはやホラーでない(苦笑)。映画版の方の続編はどんどん中身のうっすいチープなホラーになってったが、原作は真逆の方向性を突き進んだ。科学的裏付けに邁進し、この3作目に至ってはホラー要素はほとんどゼロといっていい。

だから単なるホラーや心霊好きには『ループ』は最後まで読むのが苦行な本だろうが、この物語の学術的な部分に惹かれた人や、世界の正体に興味のある知的好奇心ある人にとってはかなり興味深く読み応えある作品。

ただ、前半は病気の場面があまりに続くので読んでて気分が滅入る。前2作の登場人物や物語もほとんど出てこず、まったく別の登場人物たちとまったく別の物語展開であることも読むにあたって忍耐が要る。

しかしこれが前2作と有機的に絡んでく後半は面白い。そうして到達する全ての真実。

でも正直面白さは『リング』 『らせん』より劣ると思う。『ループ』はこれまで広げた風呂敷をいかに上手く畳むかという戦後処理の感が強い。着地の仕方はなかなか良いとは思うけど、心霊的な怖さがないうえでの理詰めの着地なので、そこが処理感の強さに繋がってるのだと思う。

本作は前2作とは違ってSFに近い。心霊的な怖さに魅力を感じてこれまで読んできた人にとっては3作目は肩透かし感ハンパない。でもそこに留まらない意識で読んだ人にとっては読み応えある。

ただ1コ不満というか、これは映画『2001年宇宙の旅』もだし『星を継ぐもの』もだし、リドリー・スコットの映画『プロメテウス』 『エイリアン:コヴェナント』もだし、というかおそらく人類の起源を扱ったすべての作品にいえると思うんだけど、神を持ち出さずに生物の起源に迫る時、問題を他所に先送りするだけに留まる。人間より進化してる知的生命体の介入とかで説明される。神を持ち出さない「上位構造」なわけだが、じゃあその上位構造の生命体の起源は?となると、結局テーマは進んでないんだよ。『ループ』もこの枠内に留まっている。

フィクションであろうがあるまいが、確証があろうがあるまいが、そこまで迫れる作家や科学者は存在しないのだろうか?

 

ついでにもうちょっと取り上げるか。

 

ネットで中古で1円で買ったんだけど(苦笑)、

一橋文哉『未解決―封印された五つの捜査報告』という本。

住友銀行名古屋支店長射殺事件、八王子スーパー強盗殺人事件、豊田商事会長惨殺事件、ライブドア「懐刀」怪死事件、神戸連続児童殺傷事件、という有名な未解決事件の真相に迫るルポルタージュ。

一時期ある占い師のタロットカードリーディングの動画を見るのにハマッて、その人のソフトな声音がASMR度高く、しかし未解決事件・事故や冤罪の疑いのある事件を占ってくとこが興味深くて。この人がこの本を紹介したことがあって、それで読んでみたんだけど。

俺は雑誌『不思議ナックルズ』『怖い噂』が愛読書の1つで、八王子のやつは真相が気になってたし、神戸のやつは小池壮彦も冤罪説を書いてるし。

テレビだけ見てるような人じゃなくて(テレビの情報には偏りがある。それは同じニュースでもテレビニュースとネットニュース見比べれば、テレビが何を伝えたくないかがわかる)前述した雑誌を読んでた人からすると社会というのは表と裏があるというのは明白なんだけど、あの雑誌は“こういう記事書いてて命狙われないのかな”と思ってたんだけど誌の基本的なジャンル傾向としてはオカルトで、そこが隠れ蓑になってる的なところもあった(?)けど、本書は偽装や攪乱なくストレートなルポで、有名な未解決事件を新聞記者とかが執念で追ったような硬派な感じ。

メディアに死体を載せるなって風潮がいかに阿呆かっていう、今やテレビだけでなくネットのYouTubeですらコンプライアンスうるせェしな、それによって結果どうなってくかっていうと現実わかってない脳内お花畑の馬鹿を大量生産するだけで。

(特に呆れてるというか怒りすら覚えるのはYouTubeで「殺」や「死」の字が入る言葉が伏字になること。でないとバンされると。死とは関係のない「殺伐」ですら「〇伐」となる。「コンプライアンス」は病的な領域に入ってる。『華氏451度』の世界が現実になってきてる。しかもあぁいうのは政府とか上が強行してたものなのに、YouTubeは国じゃなく企業だしね、また「〇人事件」「〇亡事故」などと伏字にするなどは一般人の一個人がやってる=現代では一般人が自らやってる。一億総管理社会人。これがキチガイ沙汰でなくてなんなのか。

それに死や血などを忌避し、平行して世の中にデジタルが定着することは、肉体の痛みや死をわかってない輩を大量生産し、いたずらな暴力や殺人などを多々生んでいくことになる。見当違いな平和主義者は気づいてないけど、結果的にむしろ世の中を危険にしていく。)

本書は社会ってとこが実はどんなとこなのかがよくわかるというか。我々一般人は実はこんなヤバいのが隣り合わせの中で生きてるんですぜ、というさ。

現実というものを知っとく必要がある。それを知らずに生きてくことは(悪い意味で)バカとして生きてくということ。コンプライアンスもやり過ぎると痴呆症のような奴ばかり生む。本書のようなものを読むことは平和ボケした頭にガツンと食らわされるような、現実を思い知らされる意義と効果がある。

ただ本書で気に食わないのは神戸のやつで、これは逮捕や裁判に明らかに疑問がある、だから冤罪説もあるわけだけど、本書はこの事件だけはなぜかそこを追及せず、逮捕されたAのその後を延々考察している。

ところが俺は前述の雑誌や小池の本で、この事件の決着のつけ方がいかに不自然か、真犯人はBではないかというのを読んできてるから、まさに小池が書いてたけどAの精神鑑定や矯正したところでなんの意味もないみたいな、

本書の本件の考察はまさにそれで、冤罪説を放置してAを延々考察したところで無意味っていうさ。ここだけ不満だね。

 

中古で数百円で、これまたネットで買った『プロレススーパースター列伝』9・10・11巻。初代タイガーのエントリで言及してたマンガ、もう手元になかったわけだけど、やーっと再入手。

小学生の頃読んだ時ほどドラマティックとか大河ドラマという感は強くは感じなかったけど、波乱万丈の展開は今読んでも十分面白い。

というか現代では実在するプロレスラーを題材にここまで波乱万丈な物語は描けない。理由は2つ。1つは今の人間は昭和の人間のように破天荒でない。つまんない奴を波乱万丈に描けるわけがない。もう1つは水曜スペシャル 川口浩探検隊を胸躍らせて見るような、そういう気持ちってのは今はもう見る側も作る側も持ち合わせてない奴ばっか。

このプロレススーパースター列伝の虚実入り交じりまくった内容は、今の現役レスラーを題材に描いたら認めない読者が多そう。

今の人間の度量が格段に狭くなってるということでもあり、底なし沼のような昭和の世界はもう失われたということでもある。

“昔は良かった”オッサンなんじゃなくて、実際問題今の時代は昭和の頃よりつまらないんだから、そう言う他ないだろ。それはもうテレビなんか見てても明らかだろ? つまんねェ しょーもない番組ばっかでさ。

あと改めて読んだらやられたレスラーの「ホゲー」などの声がウケた(笑)。

 

龍乃亮/ばかども。『あたしだって笑わせたい。』 『サンキュー・バディ&フレンズ』

この人の『魔法少女まどかマギカ』の同人誌は2019年のコミケでは直接本人?から買ってんだけど、その後コロナ禍でコミケの中止が続き、あと入場が有料になったじゃん、だからその後行ってなくて、でもその間もこの人は新作出してて、たぶん4冊出してんだけど、そのうち2冊を中古で入手した。

相変わらずいいね。まどマギが好き&♀×♀が好きな俺的には、まどマギのキャラクターたちによる百合以上レズ未満な睦み合い、ほのぼのした物語は読んでて多幸感があり、辛い現実を生きてる中で癒しと憧憬もある。なんつーかテレビドラマ『やっぱり猫が好き』を見てたり小説“箱崎ミャコ シリーズ”を読んでるような心地よさがあるんだよ。荒んだ心をトリートメントするような効果とも言う。