というワケで。

 

『ロード オブ ウォー』はずーっと前に中古DVD入手したんだけど、1回観ただけで処分してしまった。面白いかつまんないかっつったら間違いなく面白いんだけど、なんかその時の俺の気分じゃなかったというか。

のちに“アレまた観たいな…”って思うことが度々あって、改めて中古で入手しようとしてたんだけど金額がどうも…とずっとスルーしてた。やっと安物に遭遇したんで再入手。

(配信で見る気はサラサラない(←スマホやPCで見るのは「観る」とは言わない)。映画は自宅で観るならそれなりのデカさのモニターでないと駄目。いやPCをテレビに繋ぐことも出来るのだけど、好きな作品は所持してないと駄目ね。ネットで見聞きするとか読むっていうのは物理的に手元には無い。そういうものは消費物として流れてく傾向が強い。ちゃんと物理的に所持してると、作品というものに対するこだわりや思い入れが全然違うんである。)

で改めて観たら、やっぱ面白い。しかも今回はタイミングが良かった。観たい気持ちがしばらく前から高まってたのと、本作は不穏なドラマなのでこの日の俺のイラついた気分にも合ってた。

前回言った「映画って観る機会とかタイミングって結構重要」ってやつだよ。タイミングが合わないと観る機を逸したり、「面白い」と思ったのに「なんかその時の俺の気分じゃなかった」で「処分してしまった」となったりする。

 

(ネタバレあり)

典型的低所得者層だった男・ユーリが武器商人に転職し、いい稼ぎになっていき、憧れてたモデルの女も手に入れ子供もでき、金持ちになるが、インターポールの捜査の手が伸びてくる。最終的には近しい人たちが全て身の回りからいなくなり、そして遂に逮捕されるが――

 

本作をストーリーで額面通りに観ててまず思うのは、武器密売を単純に一元的な悪として描いていないのが興味深いというところ。

ユーリは誰彼構わず売る。誰とでもビジネスするし、同時に誰にも肩入れしない。思想性もなければ偏見もない。

捜査官は“戦争犠牲者の9割が銃で殺されている。真の大量破壊兵器は核兵器ではなく銃器”と言う。

今まさに引き渡す武器が直後に目の前の一般人への虐殺に使われると察した弟とユーリの対立、自分が供給しなくても他の誰かがやるから変わりない、問題の根本はもっと別のところにある、

一番デカい武器密売組織はアメリカ合衆国――

そして映画の最後に出るテロップ「最大の武器供給者は米・英・露・仏・中である。この5カ国は国連安保理の常任理事国でもある」

よくまぁハリウッド映画で、製作費60億円という規模の作品で、この脚本はなかなか挑戦的。ちょっと感心する。

本作はいろんな要素・いろんな人間・いろんな考え方が絡まり、せめぎ合っている。

単純な勧善懲悪じゃない。

(そんな中で、だからこそというか、妻の言葉(“私の秀でてるところは結局容姿だけ。失敗な人生。でも人間失格だけは嫌”)が沁みる。)

 

しかし他方、別の見方もある。

今回観てて、『スカーフェイス』のトニー・モンタナと似て非なるというか、トニーの反面教師みたいな…とか思った。

移民で貧民のトニーは麻薬取引でのし上がっていく。

同じく移民で貧民のユーリは武器密売で成り上がっていく。

しかしトニーは非常に暴力的な男で狂気がそこかしこで暴発!やる事といい演じるアル・パチーノの爆演といい、凄みがある。なんならあまりにやり過ぎで笑っちゃうぐらい。 そこがトニーの、そして『スカーフェイス』という映画のたまんねェ魅力なのだが、

ユーリは大人しいというか節度のある男であり、演じるはニコラス・ケイジで、ケイジは狂ってる時も多々あれど(笑) 本作では抑えた演技で、そのソフトさがいい味出してもいる。

好きな女の落とし方もトニーは愚直なぐらいストレートだが、ユーリはあの手この手で虚構の自分をデッチ上げて手が込んでる。

頭はどちらも切れるが、トニーは予断を許さないスリリングさがあるのに対し、ユーリは常にどこか飄々としてるところが良い。なんかこう危機をヌルッと切り抜けてく感じで、これが観てて妙に心地良くて(笑)、こういうとこは初観の時も面白い!と思った点だった。

自分が扱ってる商品や麻薬に対する向き合い方は真反対。

麻薬密売のトニーは自身も麻薬に溺れていき、元々凶暴な男なのにさらに冷静さを欠いて、自滅へまっしぐら。(←迫力ある成り上がりぶりと壮絶な転落っぷりがトニーの見どころ)

しかし武器密売のユーリは自分では銃を撃たないし人を殺すこともない。徹底的にビジネスマンであり、自分が扱う商品に呑まれない。ある取引相手が現金でなくコカインを支払いに充てて寄越した時からユーリの弟は麻薬に溺れてくが、ユーリは麻薬にも溺れない。

ユーリは職業的には悪なのだが、どこかしら自分の中の一線があって、それを超えることはない。だからトニーと違いユーリは生き延びる。ラストで万事休すかと思いきや、冷静かつ穏やかに危機をクリアする。これはトニーには決して出来ない。(逆にユーリは自分を急襲してきた暗殺部隊を独りきりM203グレネードランチャー付M16で迎え撃って戦場のようなバトルを繰り広げることは不可能だけど)

そしてユーリ自身も言ってたが、商才がある。まるでジョン・ランボーが結局類稀なる殺人マシンの自分を受け入れたように? 結局ユーリは家庭を諦め、仕事の才能で生きてく仕事人間となる。人には向き不向きや適材適所ってもんがあって、自分が最も活きる仕事・生き方が一番良いのだ。

しかしユーリの仕事は武器密売である。向き不向きっつったって仕事は選べよってなもんだが、ユーリは一旦武器密売から手を引いてまともな分野で取引する期間があった。でも舞い戻った要因の大きな1つは、真っ当な商売でも才覚は発揮できたが、あまり金にならなかったことだった。

…ちょっと待て。

ユーリの生きがい足り得たのは、実は商才よりもエキサイトメントだったのではないか?

商才でいったら、別に真っ当なビジネスでもよかったはずなんである。

 

思い出してみよう。ユーリは貧乏人だった。そこから脱け出すために武器商人に転職したわけだが、ユーリに限らず貧乏から脱け出したい人の動機として考えられるのはおそらく3つある。

パターン1:金持ちになりたい

パターン2:狭い世界から脱け出したい

パターン3:劣等感に対する反発

トニーはパターン1と3で、ユーリはパターン2のみだったのではないか?

パターン3、トニーはコレある。トニーが常に孕んでるイラだちはこれにかなり起因してるのではないかと思われる。でもユーリにはないね。ユーリを見ててコンプレックスというのはほとんど感じない。ユーリは基本的に穏やかという感じ。

で1と2だが、

金がないと食べれる物もやれることも、付き合う人種も生き方も限られる。生きてる世界が限られるというかな。でも金があれば選択肢は途端に広がる。

トニーはいざ金持ちになったらそこから先がなかった。何の為に金稼いでるのか? 稼いだ金で何がしたいのか? …特に無いんである。金持ちになること自体が目的だったから。本来金は目的と手段でいえば手段に過ぎないのに。だからトニーは虚無感に陥る。(→ コカイン浸けになる)

しかしユーリは家族経営で細々とやってるレストランで働く日々=ルーチンワークな日々から脱け出したかった、だから危ない仕事に転職したのだろう。一寸先はわからないエキサイトメント。

冒頭の殺人・銃撃の目撃という一線を超えた現実を見たシーンでユーリの意識に風穴が空く。ユーリ「それは性の初体験に似ている」 新しい世界・新たなる生き方へ踏み出す。

命がけのエキサイトメントを欲する。でも死ぬのは嫌。ギリギリ縁がいい。

ユーリ「人の本質だ」 暴力的な世界を忌避するのではなく、むしろそこにエキサイトメントを見出して自ら身を投じてゆく。

エキサイトメントと大金両方得られる仕事。金は動機として2番目だが金大事。貧乏は嫌だし金は多いほど選択肢が広がるし、それになんつっても危険な仕事ならそれなりの見返りはあってしかるべき。

ギリギリのエキサイトメントな世界にいながら自分自身は戦わない(命を賭けない)――なら傭兵とか殺し屋でなく、武器の供給者だ。

トニーは常にピリピリしてたけど、なぜユーリはどこかしら飄々としてるのか?

楽しんでるからじゃないのか?

貧乏から脱したいという動機だけでやってたらこんな優男だもの、メンタル的に圧し潰されてる。でもユーリはそうならない。

ユーリ(尻尾と進化の話から)「どんな強者でも、本能には勝てない」

人間という生き物。好奇心がある。退屈に耐えられない。可能であることならば実現せずにいられないetc.

ユーリの場合、エキサイトメントだ。コレに抗えない。ルーチンワークや真っ当な仕事にはもう戻れない。

そして第一目的がエキサイトメントだからこそユーリはトニーと違って生き延びる。楽しんでるから心に余裕がある。窮地に陥っても閃きがある。精神的に追い詰められてたら機転は利かない。

それは延いてはユーリの矛盾してるのに破綻してないスタンスにも出てると思う。「戦争がなくなればいいと思っている」と沁みる口調と表情で語るし自分の手で人を殺すのは本当に嫌がる一方、バンバン武器を売りさばいてもいる。

捜査官の言うことも理解している、でもやめない。

なぜか?

充実してるから。平たくいえば楽しいから(苦笑)。

需要があるから供給が成り立ちビジネスとして成立する。武器を必要とする人間はピンキリだが国家間の戦争や民族間の紛争などは一個人の次元ではないし、もっと一般的な銃犯罪も(日本のような一般人が基本的に銃器と関わることなどない国なら件数はほぼないに等しいぐらい低いが米国はそうはいかず)どうにか出来るとしたら政府であって、これまた一個人の次元ではない。

だからユーリは割り切ってビジネスとして専念できるのだろうし、矛盾を抱え込まないのだろう。そっちは俺がどうこう出来る問題じゃない → 俺の問題じゃない。

でも弟は根が真面目すぎた。なので葛藤を抱え込んで麻薬に逃げてしまったり、虐殺される一般人を助けようとして犠牲になった(しかもその死はまったく無駄だった。やはり個人でどうこうできる問題ではないんである)

ユーリは弟の死に対して悲しみながらも切り替えは早い。最後に両親も妻も自分から離れていったことを知っても凹みはするがやはり切り替えが早い。直後に捜査官に対して最大の逆転をカマしてみせるし。

思い返せばユーリが大金を必要としたのは好きな女の前で虚構の自分を演出し続ける為だった。一時真っ当な商取引に転じたが、それでは巨額の収入にならず虚構を維持出来ないので武器密売にまた戻ったわけだが、最後に妻が去っても、ユーリは悲しみこそすれ 去る者追わずといった風情だった。

結局ユーリは女を第一に据えてなかったことになる。エキサイトメントが第一であることの証左。

ユーリにとって最も大事なのは人生のエキサイトメント。面白き  こともなき世を  面白く――。

自分が生きてくうえで核になってるのは他人ではなく自分自身。これは正しい。誰かの為に生きてる人生なら実のところ誰の人生なんだ? そうではなく自分に忠実に。

それは自己中とか己の欲望に忠実ということとはハッキリ異なる。精神衛生上の問題というか。自分が心地良いとか楽しい生き方が一番健康的に決まってるではないか。

だから近しい人たちが皆いなくなってしまったのは悲しいは悲しいのだけど、それが致命的でないのは、ユーリがユーリにとって一番大事なものをなくしてないから。

だからこれからもユーリは生き続けるし、やっていける。

(男の映画のようでありながら、実は女性観客にも示唆がある。人生を男で決めちゃダメだよ。自分の人生なんだから、男でなく自分自身を最優先にすべき。)

 

扱ってる素材や物語からするとどうしても社会派なテーマを感じたり、そっち方面から語るべき映画と思い込みがちになるが、本作が面白いのって、単純に面白いからだと思う。

物騒で不謹慎なアドベンチャーというかユーリのイカサマ博打的な人生模様というか? いっそのこと実はコメディ映画なのではないか?

実際本作は笑えるとこがちょくちょくある。一例…機関銃を発射してる時にアレなんつーんだ? コッキングレバー? ボルト(遊底)? 前後し続ける箇所あるじゃん、カチャンカチャンカチャンみたいな、あれの音がチン!チン!チン!とレジスターな音にすり替わる(弾丸が金に換算される的な=「弾丸(タマ)の数だけ札束(カネ)が舞う」)とこなんか不謹慎過ぎて笑う。

ユーリが捜査官に初めてガサ入れ食らった時に突発対応する場面は、鮮やかでスリリングかつ姑息な臨機応変ぶりが面白過ぎる。慌てて船名を書き換える時点でなんか可笑しいのだが、オランダ船舶を装おうとするがオランダの国旗がないってなって、フランスの国旗を縦にすればいい!ってのがウケる(笑)。

こんな調子で捜査の手をかいくぐり続けるユーリだが、

白眉なのは武器の空輸中に捜査官が差し向けたジェット機から強制着陸指示される場面。今ガサ入れされたら確実にアウト。ユーリの命運尽きるか――

ここでの切り抜け方は機転が効きすぎててブラボー感マックス(笑)。(同時にあのメリットとデメリットの天秤のかけ方と思い切った判断ぶりはリアル人生でも参考にしたいぐらいだ。)

面倒で危険な相手とも取引するが、それもまた まぁまぁ上手く切り抜けてゆく。“中古になっちまった”のくだりは機転を利かせたのか本気で言ってるのかよくわからないぐらいだ。

最後の切り抜けぶりはお笑いにはなってないが、ここも取りようによっては口八丁手八丁とも言え、

本作はトータル的に言うとコメディとシリアスを綱渡りし続ける。それはユーリの人生がデタラメとリアルを綱渡る様にも重なる。

ちょっと形を変えた『ビバリーヒルズコップ』アクセル・フォーリーっぽくもある。

なんだっけ、敵の所に潜入したいんだけど個人行動してるアクセルには組織的バックアップがないので、裏口からこっそり侵入するかというとアクセルは真正面から行って、水をパパパッと顔につけて即興で冷や汗を演出すると受付で“届け物がある、ヤバい物だ”とかすったもんだの末に「ご自身で持ってってください!」って言われて堂々と正面から入っていけるみたいな(これパート2だったっけ? パート1は性病ネタだっけ?・笑)、結局上手い具合に持ってく手腕は一種の才能であり、ユーリにもコレがあるといえる。

昔、なんでも屋をおっ始めた男の話の記事を読んだことあるのだが、コイツがデタラメもいいとこで、とにかくなんでも引き受ける。自分がさっぱり知識ない分野でも。

当然どうするんだとなるが、一晩で調べて付け焼刃の知識で臨んだりする。なんとかなるもんですよ、とかって。呆れるやら感心するやら、よくやるよな…と思いながら読んだが、

そういえばユーリも初めての取引の直前にウージーの説明書を読んでいた。わかってないんである(苦笑)。

本作も見ようによっては別の生き方はある、人生出たとこ勝負でもなんとかなるさというフロンティアスピリッツ&肩の力の抜けっぷりが心地良いドラマでもあり、人によっては座右の書ならぬ人生のフェイバリットムービーになるかも!?

 

本作がコメディ映画だったとして、内実は2層になっている。

脚本書いててただのコメディで飽き足らず、ヤバいネタ(武器密売)を盛り込んでブラックコメディまでイッちゃってみたが、さらにネタがネタなんでそこに関わる社会問題も盛り込んでみたのではないか? 武器密売問題は後付けと考えてみるのである。

となると“ユーリのお笑いアドベンチャー人生”と“シリアスな武器密売問題”がダブル進行してることになる。物語が単純に1層でなく複層になっている作品といえるのではないか?(=エンタメとテーマ性ともに備えた高度な脚本)

これは脚本家目指してる人にとってはいい参考になる作品かもよ?

…まぁ実際はネタがネタなんで観客が(また脚本家が書いてて)息詰まらないようユーモアも盛り込んでみた、が実際なんだろうけど。

テレビドラマは1本筋だけど、映画はいろんな見方・解釈が出来るのも面白いところ。

 

映画はテレビドラマではないのだから映像が本領。

その点ではどうかというと、こちらもなかなか悪くないのだ。

第三世界に結構売りさばくのでアフリカ諸国がかなり登場し、撮影もそういう所などで敢行しているので生々しさというか臨場感がある。

また重火器や戦車なども本当に武器商人から借りたり、ダミーを作るより本物買った方が安上りだったからと、登場するのは本物だらけ。(メイキングを見るとなかなかスゴイ話で感心するというか笑ってしまうというか)

映画は体感し疑似体験するものなので、本作はそこをちゃんとクリアしていて映画として成立してる。物語として単に面白いではなく、それを臨場感を伴って体感させられるかどうかが映画。

観客は本作を観ることでユーリの人生を、紛争地帯を、我々には縁のない武器商人という特殊な職業を疑似体験できる。

映画というものの醍醐味だよ。テレビドラマとの決定的な違い。

 

本作の唯一の欠点は捜査官役のキャスティング。イーサン・ホークなんだけど、若造って感じなんだよ。ユーリのキャラもユルめなんで、これで映画が全体的に(悪い意味で)軽くなった感はある。

これが捜査官がそうだなぁ… 例えば『ザ・ロック』のウィリアム・フォーサイスみたいな凄みと年輪のある男だったなら、厚みや対比がグッと出てキャラ対決的にも映画のテイスト的にも重みが出て、ズッシリ重心の効いた作品になってたろうに。そこが唯一悔やまれる点かな。

うーん…

この捜査官が真っ直ぐな正義漢なんで若い感じの男にしたのかな? であるならたしかに中年以上の男はそぐわないといえる。ある程度の年齢以上になると白黒二元論ではなく現実にはグレーゾーンがあることをわかってるから、この捜査官のキャラやセリフと相容れなくなってくる。

それともあれか、やっぱ本作はコメディなのか? 重みのある男なんかキャスティングしたらシリアスになっちまうだろうが!みたいな?

 

 

もう1枚の『2010年』は、あの『2001年宇宙の旅』の続編。

でも再生したら駄目パターンきたよ! 薄型テレビでDVDを再生した時、画面上下だけでなく左右にも黒い部分が出来て、要は映像が縮小再生されるソフトがたまにある。これに当たってしまった。

これを事前に判断する方法がいまだに分からない。

2010年代以降に発売されたDVDでは起こらない気がする。

じゃあ古いソフトが地雷なのかというと微妙で… 90年代に出たDVDでもそうならないものはならないし。

少なくとも言えるのは、ブラウン管のテレビではこの現象は存在しなかった。

経験則からジャケット裏側のデータ記載部分に「LB」(レターボックス)表示のある奴は怪しい確率高いと判断しかけた時期もあったのだが、そうとも限らないようだし。(まさに今回『2010年』はLB表記がないのに駄目だったのに、『ロード オブ ウォー』はLB表記があるのに大丈夫だったし)

縮小再生だと一気に観る気が失せるんである。映画はデカい映像を視界いっぱいに観ることで体感・疑似体験出来るものなんで、映像が小さいと話にならない。テレビドラマや配信ものやVシネはお話を見るものであって体感して観るものではないんで小さい画面で見たって構やしないのだが、映画を観るにはせめて最低限これだけはって環境ってもんがあって、縮小再生はそれをブチ壊す。

特に宇宙空間が舞台のSF映画は だからこそ映画向きであり、デカい画面で観なければ堪能出来ない。

というワケで今回は『2010年』については感想もへったくれもないな。

どうでもいいけど前回のエントリ、最後に加筆したんで。ほんとミスったよ…

それはともかく。

 

バルト9に『ルックバック』って映画観に行ったのよ、水曜サービスデーに。

 

出かける前に上映時間チェックしたら何コレ? 電車のダイヤかよ? 『鬼滅の刃』じゃないんだから

したら本作、ランニングタイムが57分しかないんだね。長編映画でなく中編。

 

劇場で券売機操作してたら、料金が¥1700としか出ない。いやいや¥1300でしょうが。何コレ?

従業員呼んで聞いたら、この作品は一律¥1700です、と。

なぜ!?と聞いたら、配給会社がそう決めたので…と。

わざわざサービスデーに観に来たのに… 納得いかねェ。

この作品57分ですよね?と嫌味ともいえるようなツッコミも思わず口をついて出る。従業員は、配給会社がそう決めたので… の繰り返し。まぁ従業員としてはそう答えるしかないだろうけどさ。

はァ…わかりました、どうもっつって、5秒ぐらい考える。

観るのやめたら交通費とここまで来た時間と暑いなか来た体力をドブに捨てることになるが、だからしょうがない¥1700でも観ていくか…というのはカマされた感が強過ぎて嫌悪感がある。57分しかない作品で¥1700はぼったくり過ぎだろ。以前60数分の映画観に行った時は(サービスデーでもなんでもない日の、レイトショー料金でもない日中で、旧作でもなくて)料金¥1500だった。そのぐらいが妥当だろう。やはり57分で¥1700は高い。しかもサービスデーも適用拒否とは。配給会社、ずいぶんとまぁ強気だな? がめつ過ぎ。

結局観るのやめた。

なんかぼったくりバーに遭遇したみたいで腹がたって。いや俺は酒飲まない人だからぼったくりバーに引っかかったことはないけれど。

途中から“あ、これマズいな”って気づいて“1時間ぐらいでとっとと出よう”ってビール1杯チビチビやって会計で5万ですって言われるみたいなさ、カマされたよっていう。

明朗会計、バルト9の公式サイトの『ルックバック』の欄に「本作は料金一律1700円となります」って金額ちゃんと記載しとけっての。

 

『ルックバック』は5年後10年後ぐらいにもし機会があったら観るかもね。

映画って観る機会とかタイミングって結構重要で。これが合わないと10年後になったり、あまつさえその後一生観ないまま過ごすなんてことがザラにある。

こないだ観た『デデデデ』なんかまさにそう。なんか映画観に行きたいなって思った時にあのイラスト見てヤられて。2つの要素の合致。タイミングだよ。でなかったら観に行ってなかったし、あの作品を知らないままだったろう。

わざわざ観に来てくれた客にこんなインチキみたいなマネかまして帰らせちゃ駄目だろ。作品がどんなに良かろうが悪印象。

これがまかり通るとヘタすると、ランニングタイム短くても通常料金ブン獲れるぞっていうヘンなビジネスモデルが確立しそうだし。

観なかった映画だけど、牽制の意で今回は取り上げた。

 

このままただ帰るのは本当の無駄であり癪にも障るので、西口のブックオフに寄ってみる。『ロード オブ ウォー』と『2010年』のDVDを数百円で買って帰宅。

 

新宿駅西口、京王百貨店前からの視点。

小田急百貨店のビルが消えてる! まさに忽然と無くなってた。

前から西口再開発工事中で地下ルートがえらいことになってるけど、この日も東西自由通路がどこいったかわかんなくてさ、工事開始後も何回か通ってるけど、ルート憶えてない。電車の改札だったらルート変わってても案内表示見ながら行き着けるけど、東西通路の案内表示ってなくない? ギブアップしてその辺にいた工事のおっさんに聞いたもんな、東西通路どこでしたっけ?って(苦笑)。

いやしかし小田急百貨店無くなってたのちょっと唖然としたな… ブックオフから歩いてきて、ふと気づいたんだよ。あ、無い!って。空がスッカスカで、思わず写真撮っちゃったもんな。

池袋駅もヨドバシで すったもんだしてたし… 秋葉原も相当変わっちゃったし(もう“夢のような街”じゃなくなった)、世の中は変わってくんだなぁ…とかしみじみ感じる。

 

…おっと、長くなったんで買ったDVDの話は次回

俺の大嫌いなものの1つに政治家ってのがある。政治家も大嫌いだし政治の話も嫌いだし。

生まれてこの方、選挙の投票に行ったこともなく。

政界は腐ってるからね。それはもうクロワッサンのように幾重にもなっていて、ブ厚過ぎてクリーンにするなど到底ムリ。選挙で政界が良くなったりなんかしやしない。投票したいと思える奴なんか1人もいない。なら投票しない選択肢しかないじゃない。

(他方、ワタクシが敬愛してる ある方はこう言っております。

(インタビュアー「〇〇さんは選挙に行ってるんですか?」)「行っていません。誰を選んでも結局は何も変わらないからとか、面倒くさいからなどという理由ではもちろんなく、私は日本の選挙制度自体を否定しているから行っていないんです。それは私の自己決定権の行使ですよ。さらに言っておくと、私は民主主義者ですらないですからね」)

 

前回2020年の都知事選についてはかつてちょろっと触れたけど。

百合子に満足なんかしてねェけど、かといって他にコレといった奴いないんだから消去法で百合子しかないだろうみたいな話。

 

で、その後の4年間の間に、百合子の結構よろしくない話がネット記事で目に入ってて。特に都の職員が迷惑してるって話。なら百合子の再当選は避けたいわな。

 

都庁の職員、百合子のせいで相当疲弊してるみたいね? セクションにもよるのかもしれないけど。

百合子に振り回されてる部署・職員は、百合子が再当選したらまた4年間我慢して耐え凌がないとならない。4年だぞ?

 

一方、百合子の対抗馬である蓮舫は個人的に元から嫌いで、感情的に攻撃しまくってくる様が見てて嫌悪感すごく感じるのよ。理性とか論理性に欠ける感が強く、人間性に問題アリ。

 

 

本命・百合子、対抗馬・蓮舫という感じになってるけど、どっちもどっち。

両方ともご遠慮願いたいっていうさ。

 

 

まぁしかし今年の都知事選は酷ェな…

どこの後進国だよっていう民度の低さ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…まぁこのロクでもないニュースの圧倒的多さ。

バカ多過ぎ。こういうのは本来 小・中学校ですでに怒られてるレベル。ところがそんなのが社会に出てる。

知能が低い幼稚な輩が多い。成人しててこの知能の低さは人格障害者・異常者。

「自由」と「無法」、「批判」と「誹謗中傷」、「議論」と「ケンカ」の区別もつかない、頭の足りない馬鹿ども。品位とか品格ってものに一生手が届かない奴ら。

「多様性」の意味もわかってない。頭の悪い奴は頭の悪いレベルでしか頭がまわらないから、オツムの足りない解釈しかできない。

注意されても一切聞かないし(というか注意されて聞くような頭があったらそもそも端からこんな醜態晒してないわけだけどさ)。脳に「省みる」というニューロンがないんだね。

普通子供から成長する過程で脳内に形成されるはずのものなのに、ごっそり欠落してる。

ニコニコのネット討論会でも逆ギレしてたキチガイがいたけど、「理屈」とか「論理」というニューロンが脳内に無いんだよアレ。てめェが間違ってるのに言い返してくる。正論で非難されてんのに、言われたらとにかく言い返さないと気がすまない脊髄反射で頭がまるっきり小学生。議論なんて出来ない奴。

(小学生ってそうじゃん? 「バカ」って言われたら「アホ」って言い返さないと気が済まない。何が不満か話し合うというところまでいかない。そういう頭はまだない。言われたら言い返す、言い返さないと負けみたいな単純バカ意識。でも小学生ならまぁ仕方ない、学んでく最中なんだから。しかし18歳とかハタチ過ぎてまだそうなら、そいつヤバいぜ? 明らかにまともに成長出来てない。問題児というか異常者。社会的に要注意人物っていうさ。)

他者と議論出来る頭を養ってこないまま成人したからもう取り返しがつかない。幼稚園からやり直してこいってとこだけど当然時間はもう戻せないから、一生不自由な頭のまま生きてく他ないし、百害あって一利なしだから社会から放逐されてしかるべき。

普通、中学か高校生ぐらいから誰もが顰蹙買うとか白い目で見られるということに対して意識的になってきて、そういうふうに見られるというのは恥ずかしい・みっともない・カッコ悪いという意識…何が常識で何が非常識かが身に付いてくる。

でもたまぁに公共の場でいきなり奇声あげたり独り言ブツブツ言ってる頭のおかしい奴いるじゃん? 普通誰もがそういう奴見かけると異常者って思う。近づかない方がいい、こっちじゃなくあっちの道通ろうかっていうさ。

わかってっか? そんな異常者と今回の選挙のバカどもって同類だからな。

社会性ってものが無い。

社会ってのは他者と共生する場なんだから最低限のルールや常識というものは要るし、それがあるから社会は成立してる。それに従えないということは社会不適応者ということであり、そういう奴は社会で生活してく資格はない。

家庭とか学校で成長してくる過程で社会性というものを獲得してくわけだけど、いい歳してそれを獲得してこれなかった奴なわけじゃん。そういうのを日本語で「出来損ない」と言う。

 

前から思ってんだけど、匿名状態だからってネット上で誹謗中傷やデタラメ書き込んでるような奴ら、タガが外れて現実世界でも他人に言いがかりつけたりカラんだりしてるよな? そうすごく感じてるんだよね、生活実感として。なんやのコイツ?ってのと遭遇することが昔に比べて圧倒的に多い。

現代はこれだけ犯罪者予備軍(というかもう犯罪者)がゴロゴロいるということ。

スマホ・SNS人種ってやつだよ。コレとかコレでスマホ・SNSが人を低能化させる経緯を説明したけど。

で、スマホ・SNS人種は短期意識の単細胞だから平気で公の場でバカなことをやる。後先も考えられないしセルフコントロールも出来ないし恥の概念もない。野蛮人だよ。どうにもこうにも文明人になれない奴。

民主主義は人間には高尚すぎたって話もあるが、人間には高尚すぎたというより人間には霊位の高い者・程度の普通の人・程度が低過ぎる奴とがいて、程度の低過ぎる奴が急増したからネットも荒れてるし選挙も荒れてるわけで。

今ネットやってる人間の控えめに言っても過半数は、なんつーか身についてないんだよね。突然テクノロジー手にした猿みたいなさ。だからいまだに使いこなせてない。てめェらでは使いこなしてるつもりだけど、実際にはまるで使いこなせてない。この先も使いこなせないだろうね。

使いこなせてる人にとってはネットというのは可能性を広げるグローバルなもの、またいろんなジャンル&常時更新されてく百科事典みたいなもの。いろんな人と話したり、いろんな知識を得たり、人間性や関係性を上げたり広げていくもの。

ところが使いこなせない奴は誹謗中傷やデタラメ書き込んだり、犯罪に使ったり、ソースも確認せず書かれてること鵜呑みにして信じ込んだりと、ロクな使い方できない。

民主主義と同じで、使いこなせる人は使いこなせるけど、ウンコな奴には使いこなせない。吊り合ってないんだよ。

 

都民には投票所入場整理券と、あと『東京都知事選挙 選挙公報』って新聞みたいなやつ届いたろ。

中身を見ると立花の名前が狂ったように乱舞でマジ腹立つな…

アイツNHKに文句つけてるだけならよかったんだけど、やがてあれは正義感ではなくて持て余してる野蛮さ・攻撃性・自己顕示欲を肉体方面でなく口先方面で発散してる病的な問題児であることが判明してきた。

なんかね、ひ〇ゆき(←嫌いすぎて名前すら打ちたくない)と共通する気持ち悪さがある。ただの問題児。コイツも実は議論が出来ないタイプ。相当意識に問題ある。憎まれっ子世に憚るって言葉があるが、異常者世に憚るだよ。存在自体が気持ち悪い。

立花のターゲットに対する絡み方はひ〇ゆきと共通する異常性。

今回の選挙が糞まみれになった原因の8割は立花のせいだろう。コイツ自体もトラブル起こしまくってるが、その尻馬に乗った頭の足りない輩たちがまた追随する。

自分とか魂なんて上等なモンはない人形みたいな奴ら。

コイツら下等生物に比べたらドクター中松が全然まともにみえるからな(苦笑)。

立候補者56人中、選挙公報を

◆パッと見ただけでもう場に相応しくない奴・知能の低さがダダ漏れの奴・明らかにフザけてる奴・コイツよりは絶対百合子と蓮舫の方が1億倍マシという奴が29人。

◆書いてあること読むと話にならない・ナメんな・怪しい奴ってのが10人。

つまり立候補するのにテストのようなものがあったなら門前払い確定が合計39人もいる。

◆そうしてやっと、立候補してもまぁいいんじゃない?って人が17人ってとこかな。(ドクター中松はここに入る)

だからポスター掲示板の枠が足りないとかなってるけど、17枠ありゃ事足りるんだよ。この17人だけだったら今回のカオスな状況はなかった。馬鹿を切り捨てれば事態はあっという間にスリム化する。

 

選挙なんて当初はこれまで通りスルーする気だった。百合子にも蓮舫にも与したくない。そもそも もとから政治嫌いだし。

ところが他の立候補者の頭の足りない異常者のあまりの多さ、この狂った状況に対していい加減にしろと思ってさ。

俺が地方民だったら傍観してる他ないのだが、都民だから都知事選に投票出来る権利がある。

んー…

と、1人ちょっと期待できそうなのがいた。

たぶんこの男も今は正しかったとしても、実際都知事になったら政界のゴチャゴチャや因習、パワーゲーム、利権争い、諸々いろいろとあって正義を貫くのは無理だろう。

しかしとりあえず今はこの男しかいないんじゃないか?

というわけで、生まれてこの方初めて投票してきた。土日混みそうだから金曜の昼間に。(ちなみにちょいちょい名前出してるけど、投票したのはドクター中松ではございません・苦笑)

 

 

 

…まともな人間よりバカが多ければ世の中はバカがスタンダードになってしまい、まともな人間はマイノリティになってしまう。

民主主義ってのは国民の大多数がまともだった場合に初めて成り立つものであって、バカだらけの社会では選挙も民主主義も成立しない。

(ワタクシの敬愛する ある方はこう言ってますがね。

「極論すると、もし善政を行ってくれる人間がいるんだったら皇帝陛下であろうが独裁者であろうが構わないと思っているよ」「図らずもプラトンが言っているように、民主政は衆愚政治との戦いなんだよ」「革命を繰り返したほうがよっぽどましだと考えている。何年かおきに革命を起こし、ふさわしい人を常にトップに据えるんです」「敢えて言うなら永世革命主義? あるいは永久革命主義? それを繰り返しているうちに、人間として多少まともになるんじゃないの?」)

 

本当は選挙の事なんかよりも、こういう事の方が重要なニュースなんだけどね…。

近い近い!

宇宙スケールで言うなら かすっていったというぐらい近い。

衝突してたら選挙どころか社会も命もへったくれもなかった。もうみんな滅亡だよ。

 

 

ところで6月29日、こんなことがあった。

 

 

 

 

 

 

閲覧数が驚異の565万!

 

 

俺的にはこのニュースを見た瞬間ウケると同時に当事者はギャアギャア言われるだろうなとも思ったが案の定、結構非難されたのであった。

俺、これに関しては別にいいんじゃねェの?とか思ったけど。まぁタイミングが悪かったけど。

百合子を擁護する気はあまりないんだけど、なんかカン違いしてる奴多そうだからこの件についてはちょっと言っときたいんだよね…

高木(DDTの社長兼選手)は間違いなくかなり前に百合子にオファーしてたはずで。当たり前だ、来週とか明後日出てもらえません?なんて話はない。ましてや都知事だからね。簡単にはキープできない。

プロレスは突然他団体の奴が乱入してきたりしても実際には事前に話はついてるもので。でなかったら営業妨害で警察沙汰だよ。事前にオファーしてんだからそんなことにはならない。だからオカダに乱入された清宮がオカダのマイクの間、倒れたまま大人しくしてる(笑)。

で、百合子って今回都知事選に出るか出ないかなかなかはっきりしなかったじゃん?

ギリギリまで首相の線を狙ってて、状況・情勢的に打って出れないと最終的に判断しての都知事選出馬への切り替えじゃん? 出馬表明したのが6月10日。高木のオファー受けた時は都知事選に出るか出ないか全然不確定だったはず。

まぁ百合子が選挙活動を意図的かあまりせず、なのにプロレスには出たからギャアギャア言われてるわけだが、

俺ねぇ、百合子って前からメーテルとかサリーちゃんのコスプレしてイベント出たことあったじゃん、あぁいうのは好きなんだよね(笑)。あぁいうのは好感持てる。だから俺的には百合子のプロレス参加はその延長線上に過ぎないから、都知事としての百合子の悪評はともかく百合子のプロレス参加には別に文句はない。

今回タイミングが悪かったから“政治に利用してる”とか言われるわけだが、このタイミングじゃなかったらそうはあまり言われなかったろう。コスプレの時文句言ってた人あまりいなかったと思うんだけど? タイミングの問題。

…ちょっとここで高木の立場から考えてみると、

プロレスというのはイマイチ市民権を得られない。戦後の力道山の頃は国民的なものだった。間が空いて80年代前半の新日本プロレスブームの時は市民権かなり得てたんだけどね。その後はどうも…。

高木はプロレスという業界全体の事も考えている。“プロレスに市民権を”

DDTの電車プロレスは前回新幹線で敢行して結構話題になった。あのニュースは海も越えた。

今度は都電でやると。で、高木は諸事情(社長業に邁進したい事に加え年齢からくる体調の不調)により7.21で選手を無期限休養すると今年1月に発表してて、だから都電プロレスは都電との折り合いに加え高木のラストマッチ日とも関係しており、無期限休養を決めてから(決めたのは少なくとも去年以前)今年7.21を据えて興行予定組んできたし、百合子をブッキングしようとした時は百合子が都知事選に出るか否かはまったく不明だったし、都知事選の直後だと都知事が変わってる可能性も無きにしも非ずだし、だから都電プロレスの開催日及び百合子投入はもう動かせない。

都電プロレスは新幹線プロレスより話題性は弱い。だからとんだビックリゲスト招聘をカマそうとして百合子にオファーしたのだろう。

新幹線は世界に冠たるものなんで、走行中の新幹線内でプロレスってのはインパクト デカかった。国内でも、国際的にも。

都電ではそこまでのインパクトはない。しかし都電プロレスに現役都知事をトッピングはかなりインパクトある。どっかの市長や区長じゃないんだから。東京都知事なんだから!(例えばワシントンD.C.市長がプロレス参加とか聞いたことないだろう?)

高木的には百合子にドタキャンされたら困ったろうな。

でも百合子はキャンセルしないで出てくれた。百合子だってわかってたはずなんだよ、この状況でプロレス出たら批判されるだろうなってことは。

選挙活動抑えてるのは意図があるだろう。でも都電プロレスは前から決まってたから出ただけじゃない?

プロレスを政治利用って、だったら互い様だろう。高木もプロレスの市民権獲得のために都知事だからこそオファーしたわけだし(肩書きのインパクト)。それにプロレスが選挙に影響するとはまるで思えないんですがね(笑)。

でさぁ。

外国人から見た日本の魅力は清潔だ安全だ親切だ四季だ神社仏閣だアニメだマンガだテクノロジーだラーメンだetc.といった事があるわけだが、

加えて、「ある意味トンデモな国」ってのがある。いい意味で(←ココ重要。「いい意味」であって「悪い意味」での方じゃない)可笑しなことがたくさんある国というか。

そして今回の東京都知事プロレス参加。ヒャッハー!である(笑)。

東京都にはクールジャパン推進的な話もあるわけだけど(俺は日本に外国人が多過ぎるのはちょっとよろしくないんじゃないかと思ってるけど)

都知事選という次元では“けしからん”と言われても、世界に対する日本キャンペーン的なところとしては結構な貢献度なんじゃないかと思うよ?

 

 

あ、それと当ブログで政治関連の話はたぶんもうこれっきりだろうね。政治嫌いなんだから。今回は度が過ぎる酷さだったからさ。ちょっと言わせろっつー、まぁそんなとこ。こっち方面にハマる気は1ミリメートルどころか1ナノメートルもないから。

 

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7月9日追記

 

結果は百合子291万8015票、石丸165万8363票、蓮舫128万3262票で百合子が圧勝した。

結果が出てまず感じたのは、日本人はつくづく変化を嫌がる民族だなーという事だが(『この世に生きてるって相当儚い』エントリで触れた事)、

次いで、

『「パワハラ臭ぷんぷん」石丸伸二氏「本当に熟読されました?」とライターを逆質問…ラジオ番組での対応が“高圧的”と批判続出』(女性自身)

の記事なんかが代表的と思うが、選挙終了後からの石丸批判記事及び書き込まれたコメント群を読むと、石丸って俺の大嫌いなひ〇ゆきと同類じゃん! 石丸も人間的に相当問題あることになる。(古館は一体どう思ってるんだ!?)

であるなら落選してよかったよ! むしろ2位になってしまったことはマズかったとすら言える。

 

百合子の勝因として

・蓮舫の掲げた「小池都政のリセット」に対し、子育て層からしたらリセットされたら困る(百合子は18歳以下に月5000円給付、第2子の保育料の無償化、不妊治療費の助成、給食費の負担軽減、私立も含めた高校の授業料実質無償化などを行っている、らしい)

・テレビしか見ずネットを知らない高齢者層で蓮舫にはなってほしくない人々が自動的に百合子に入れた

というのは、たしかにそうなのかもしれない。

 

結局、百合子・蓮舫・石丸の中で百合子が勝ったのは一番妥当かつマシな結果だったのか!?

百合子もいろいろとまぁ問題あるわけで、その百合子が一番マシって、やっぱ政界や政治家はロクでもない。今回自分がマズったこともあるし、やっぱり政治の話には関わるべきじゃねェな、と反省したのだった。

映画観れるタダ券のようなものを手に入れた。

その系列の映画館でやってる現在上映中の映画から何を観ようか…とチョイスしてると、

この画像にヤられた。

尊いぐらいホノボノする。コレいいかも?

タイトルはなんだ?

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章』

なんつータイトルだ。『デュラララ』みたいな(←見たことないけど)意味不明なタイトル。

ファンとかアニオタとかこの作品を言う時、なんて言うんだよ? どう略すんだと思ったら、パブリシティ見ると

「デデデデ」だけ色が違う。略す時は「デデデデ」なのか?

予告編(1分30秒のやつ)を見ると、「その日、世界が終わる」と出たり、ほのぼのギャグアニメのようでいて 事故のニュースで死亡者の中に友達の名前があることを知る場面とかあったりする。「君こそ、どこから来たの?」から途切れ気味の親友の映像には儚さとSF感を感じる。

これ観たいな。

『前章』はもう終わってるみたいで、『後章』から観るって『スターウォーズ』をいきなり『帝国の逆襲』から観るみたいな、『魔法少女まどかマギカ』をいきなり『後編  永遠の物語』から観るような。

映画にはいきなりパート2から観てもあまり問題ない続編ってのがたくさんあるのだけど、モロに物語が繋がってて飛ばして観るわけにはいかない続編というのもある。本作は明らかに後者だ。

とはいっても前章は終わってるし、(その券が使える映画館では)後章ももう上映が終わるらしく。

ま、いいや!と観に行ったのだった。

予備知識ゼロ。原作はマンガ全12巻らしいが読んだことないどころかタイトルすら知らなかったし。

カウンターで券を使いたいのだが券売機で使えるのかと聞くと、あちらで承りますみたいな、有人でやり取り。「ご覧になる作品は?」 「デデデデで」と答えたらすんなり通じた。やはり通称「デデデデ」らしい。

 

(以下ネタバレあり)

 

いきなり宇宙人?何?「侵略者」と言われてるけど、自衛隊だっけ一部国民だったっけ? による“侵略者”の殺戮から始まる。最初に虐殺される侵略者側の女の子?がかわいらしいキャラデザで、頭に付けてるお守りがとってもかわいらしいんだけど、それ故あまりに悲惨、あまりに悲痛。さらに2体、3体…と虐殺されてく。鬼のような物語だ。

その一方で人間の主人公たち、キャラデザといい喋り方といい、こちらもかわいらしい。そんな彼女らの和やかな日常シーンも展開。

しかし実は地球滅亡の時は迫っている。

「ほのぼの」とか「平和な日常」と、「残酷」「残虐」とか「地球滅亡カウントダウン」が、並走して描かれるのがスゴイ。

まどマギはほのぼの感から凄まじい死のドラマに突入してくが、あっちはある出来事が起こってから以降はハードな展開が続くんで、観てるこちらも心の覚悟のギアが入るからこういうドラマなのだと観ていることが出来るが、『デデデデ』はどこからそうなるというのではなくずっとほのぼの日常とハードな惨さが平行して描かれ続けるので、ある意味悲惨さがより際立つ。

 

ある日、突然東京に訪れた非日常・異常事態。

観てて、なんだかかなり東日本大震災を想起した。

俺はかつて仙台に住んでたので あの震災の一応被災者で、「一応」っていうのはあの震災で酷かったのは津波と原発であり、でも俺はあの時 水場とも原発とも離れた所に居たから、死の危険にいきなり直面したわけではなかった。

とはいえライフラインは全部死んで、交通機関も止まって、会社もストップして、店も酷い状態&停電&道路も壊れてて商品の配送もままならないから買い物もほとんど出来ず、飲食物もだんだん尽きてきて、家にあったパスタ茹でてパスタソースなんて結構なモンはないからそのまま食べて、もう餓死しなければそれでいいというね。ライフラインは中心部から復旧していったので郊外は後回しだったから毎日往復15km歩いて中心部の公園の水飲み場に水汲みに行ってた。そんな生活が続いた。そんな俺でもまだ全然はるかにマシで、同じ県内の被害の酷い所では人がたくさん死んでいた。2万人くらい。

その2万人の中で学生や日勤の人は多かったろう。朝「いってきます」っていつものように出かけて、そのまま2度と帰宅しなかった人はとても多い。

…我々が「普通」とか「普段」とか「日常」とか言ったり思ったりしてる生活ってのは、いつ崩れてもおかしくない極めて脆い土台の上に実は成り立ってるかりそめのものなのだとあの時、強く、生々しく、思い知った。

それ以前からそういう意識はあったけど、頭で考えてるのと実際食らうのはステージが違う。

 

本作の劇中、みんなは異常事態になっても、いつもの生活を送ってもいる。この辺がまたね…

震災の時、同じ県内でも、今まさに生きるか死ぬかの際(きわ)に置かれてる人たちと、生活に支障はありつつも日常に回帰できてた人たちと、両方いた。並存してたんである。

『デデデデ』は東日本大震災とは一言も出てこないしまったくフィクションのSFな物語でありながら、世界の終わりってのがいつ来るかわからないし、来る時は容赦なく来るし、皆はそれを解決する術はないし、最後の瞬間の寸前まで結構普通に生活し続ける。そんな様が描かれている。

俺的にはヘンな話、馴染み深さすら感じた。あの地震も突然やって来た(正確には2日前ぐらいから予兆はあったんだけど。にしてもあんな大地震が来るとはやはり誰も想像してなかった)。そしてその後、際にいる被災者と、水場や原発近辺ではなかった被災者の差。日常と非日常のギャップというかカオス状況。それを経験してると、本作の劇中の状況というのは全然絵空事じゃないんである。

(ウクライナの人だって、ロシアに侵攻される前日まで戦争が始まるとは思っていなかった。予兆はあったけどみんな前日まで大丈夫でしょ?って思ってたそうじゃない? でも一夜明けたら戦争が始まってた。まさかそんなことがあるわけないと思ってても、来る時は来る。そして2年以上経った今現在も戦時下だ。)

 

この作品が持つ危機的状況と主人公たちの日常感のギャップは、日本人独特の死生観にもつながる。

日本人にはなんというか、日常感や無常観が昔からある。本作には日本人特有の民族性がよく出てるといえる。

これは『押井守のニッポン人って誰だ!?』(発行:東京ニュース通信社 発売:講談社)という本を読むとよーくわかる。

 

「日本人は基本的に、(中略) 妙に淡泊というか、運命論的というか」

 

「日本人は、(中略) 歴史的な意識もないし、未来のことなんて、実はさほど気にもしてない。(中略) いかに日本人が日常が好きなのかは、今回のコロナ騒動でも明らかになった。(中略) 自粛期間でも吉祥寺のメンチカツで有名なお店のまえには列ができていたけど」

(コロナ禍の時)「「何もやってないのに、たぶん上手くいく」と、みんなが思っていたんですよ、為政者も国民も。「ひと月、ふた月暮らせば、またまえの生活が戻ってくる。だからとりあえず今は我慢しとこうか」ってね」

「ペリーのときも他人事のようなところがあった。お弁当を持って黒船見物に行ってみたり、軍服姿で上陸して町を進軍している姿を物珍しく見物していたりね。危機感がまるでないんですよ」

「ほとんどの日本人は場当たり的で、いざというときに備えない」

「日本人のリアルってなんだとなるわけで、わたしはそのひとつの答えが「永遠の日常」なんじゃないかと思っているんだよね。昨日と同じように今日があり、今日と同じように明日が来る。(中略) 何事もないことが、日本人にとってのデフォルトなのではないか、ということだよね」

 

「出雲は「あらぶる神」「すさぶる神」 (中略) 対して大和朝廷は和やかな「和の国」だからね。(中略) 併存している」

「近代人の仮面をつけているけど、心根においては大和朝廷のころから変わっていないんじゃないの?」

 

「転生を信じているので、たとえ死んでも命は消滅しないと考えている。これが日本人のひとつの死生観です」

「『日本沈没』に「何もせんほうがええ」というセリフがあって、(中略) 最後の最後に日本人が拠って立つところの本音。じたばたもがくより、「何もせんほうがええ」。日本という国土が水面下に消えたら文化も何もかも消えてなくなるが、 (中略) このまま美しく死んでいこうというんです。(中略) 日本人が日本人でなくなるくらいだったら、国土と一緒に沈んだほうがいい。この考え方は前の戦争と同じ、一億玉砕ですよ。国体が変わるのなら、国ごと消滅してしまえと考える。これは非常に日本人的な価値観。日本人は追い詰められたら、そういう判断を下す民族ですから。(インタビュアー「匙を投げるとか、腹をくくるというのとは違うんですか?」)そういうのではなくて、有終の美を飾る、あるいは滅んでいくことをよしとするという考え方。(中略) どうせ今いるのは仮の世だから、この世の苦痛も悲しみも仮のもの。でも来世があるじゃないかというわけですよ。」

 

「もうひとつ、日本人にとって決定的なのは四季だよね。(中略) この世界というのは、人間がどうこうできるものじゃない。(中略) 季節が巡っていけばどうにかなる。人間にできることといえば、季節をやり過ごすように、すべてを受け入れるしかないんだという」

「季節が巡るように、常ならぬものはないけれど、結局、自然がそうであるように、収まるものは収まるところに収まる。」

「日本ほど豊かな自然に囲まれた国はそう多くはない。(中略) 自然はときに干ばつや冷害をもたらし、わたしたちがどんなに努力しても報われないということを知らしめてきた。でも、季節はそういうなかでも巡っていく…そういう世界の中でずっと生きてきたら、独特の死生観が生まれるのは必然なんじゃないの? つまり、「この世は仮の世界で、来世に期待するしかない」 (中略) 日本人は、人間がどうあがこうが、どうしようもないことがあるのを分かっている。人間は受け身の立場で、すべてを受け入れるしかないんだと、どこかで分かっている。(中略) やってもやらなくても同じなら「何もせんほうがええ」。こういう死生観を持った民族はおそらく日本人だけ」

 

…というね。俺的には震災の体験と この本読んでたことで、『デデデデ』の堪能度はかなりハネ上がった。深い味わいになった。ただの日常系+セカイ系作品じゃない。

(日本人というものに興味がある人は、この本はオススメ)

 

本作では糞政治家・糞上級国民も描かれてるが、2021年の東京オリンピックも思い出した。

そもそも地震の1~2年後、震災の対処すら済んでないのにオリンピック関連で何億だか使ってる話を聞いて暗澹たる気持ちになったものだ。東電はいい加減な会見やっててさ。

オリンピック中止しろって思ってたし、コロナ禍まで起きてさすがにもう中止にするだろうと思ってたら、強行しやがった。この国の上の方の連中はここまでトチ狂ってるのかと寒気がした。

今だってそうだよ。大阪の万博とか、マイナがどうとかNHKがどうとか、明らかに間違ってんのに強行され続けている。その強引さ、開き直りぶりは頭おかしい。

だから本作で描かれてる政府とか国の上の方の連中ってのもフィクションの作品の架空の悪役ではなく、リアルに感じる。まさにこういう連中が現実にいて、まさに現実の日本社会がこうだから。

本作は宇宙人?がどうこうとかいう話でありながら、現実問題が非常に取り入れられたエンタメ作品になっている。

 

ほのぼのし過ぎてて、いい味出しまくりのキャラたち。和むぅ^^

小山の眼鏡&ショートカットな外見も和むし、中川がなぜかヨダレ流してるのもほっこりする。

マコトもいいキャラしてるよなァ。パッと見の前歯がないのもほのぼのするが、男の娘ってのもいい(笑)。

あと海で世界線移動装置?シフター?見に行く時に案内する女2人組の小さい方がすさまじくヘン&ほっこりする(笑)。

中川の兄貴もインパクト絶大だよな、ものすごいデブなのに顔の各パーツはキリッとしている(笑)。

喋り方がほのぼのかわいいキャラも何人かいる。はにゃにゃふわ~~~ッ

キャラが見ててすごい和む。

なのに話は結構悲惨。ここでもギャップが活きてる。

出元(向かって左前に写ってるコ。このコもキャラデザがすごく和むんだよなぁ)が弟に電話して、帰ったらご飯作ってあげるからねみたいなこと言った次の瞬間に電話の向こうで弟が惨死する。中川の兄貴もお父さんも死んじゃうし。前章では栗原も亡くなっちゃったし。

辛いよなぁ…

でも震災でも事故でも人災でも、実は人生っていつ終わるかわからない。毎日会ってた人が突然この世からいなくなるってのは普通にあり得る。我々は普段あまり考えないようにして生きてるけどね…。

なんか原作の方が救いがないラストで、映画版はもうちょっとマシらしいね?

でも救いがないラストのままでもよかったと思うよ? だってそれが本当のリアルなんだから。実際問題我々はいつあっさり崩れてもおかしくない生活送ってんだから。

そういうのをエンタメで忘れたいってのはよーくわかるけど、かといってエンタメが現実逃避のみに堕してもいけない。

エンタメから学ぶ。エンタメで疑似体験する。エンタメ通していろいろ思う、考える。啓蒙ってやつだよ。

ましてや首都直下型地震だの南海トラフ地震だの富士山噴火だの、起こるか否かではなくいつ起こるか?という状況に我々は生きている。

世界の終わりには2つあって、1つは地球滅亡とか宇宙の終わりとかそういうのだが、もう1つは自分が死んだ時。この時も世界は終わる、自分にとって。

…生きているってことは死に向かっている現象とも言い換えられるわけで、天災であれ事故であれ人災であれ、誰にでも世界の終わりは来る。必ず。

そして“仕方がない”という日本人特有の諦観。

だからこそ、何気なかった日常の幸せと現実の惨さのギャップ。この作品で言うなら主人公たち周りの何気ないダラダラほのぼのした日常がかけがえのない煌めきを持つことになる。決して続かないものだから。

 

ところで個人的にはデジタルアニメには相変わらず抵抗がある。

本作の背景・風景も写実的。本当はこれは良くない。アニメの良さは絵であること、一から全部創り上げること → 現実が一切ないことなんだから、

アニメがデジタルで実写に近づくということはアニメの魅力を自ら葬っている。

ただ本作は、良く捉えればこのリアル感はこの物語に寄与している。まったく架空の世界ではなく、いい意味での現実感がある。

キャラはかなりマンガ的なのに背景がリアルなのは乖離がある。といってもキャラもリアルにしちゃったら、だったら実写でやれって話だし、そもそも生身の出演者じゃこのほのぼのキャラ感は絶対出ない。

俺的にはやっぱアニメはセルアニメであるべきだと思うんだけど、『デデデデ』はちょっと例外かもしれない。

ギャップがいいとはここまで何度か言ってきてるけど、この「ギャップ」はほのぼの日常と惨いドラマだけでなく、キャラと背景にも言えるのではないか?

本作観てて強く感じる切なさは、このギャップにかなり因っている。

この乖離は乖離と捉えるのではなく、むしろそこに意味がある、と捉えるべきかもしれない。

音は映画館なので迫力あり。

上映時間は120分と長い。長くなるのは物語をやろうとしてるから。原作は12巻もあるわけだし。だったらテレビアニメ(テレビの連続ドラマ)でやれってとこなんだけど、でも本作は暴力描写やスケール感や風景の良さなどからテレビドラマより映像と音を堪能する映画の方が適しているので、微妙なところ。テレビドラマを容易にハミ出す内容なので、そういう意味では映画の方が適してるとはいえる。

 

というワケで、結論としては、結構いい映画でしたよ。予備知識まったくナシで観た俺でも、ストーリーがあまりよくわからなくても(わりと複雑というか詰め込み過ぎですらある。パラレルワールドすら入って来るし)、感じるものがいろいろあって、映像・音も映画足り得てるレベルには達していて、観応えのある映画鑑賞だった。

『『マッドマックス:フュリオサ』4DXヤバい(爆笑)』から続き。

というワケで、『フュリオサ』4DX上映をもっかい観に行こうと思ったんだけど、なんかULTRA 4DXっていうもっとスゴイのがあるらしいことを知った。

「「ULTRA 4DX」シアターは、体感型アトラクションシアター「4DX」と、3面マルチプロジェクション上映システム「ScreenX」が融合した体感型シアターです。 革新的なスペシャルエフェクトと、視野270度の3面マルチプロジェクション上映システムによって、今までにないダイナミックな映画体験をご提供します。」

「ScreenXは従来の正面スクリーンに加え、左右の壁面にも映画のシーンが映し出される世界初のマルチプロジェクション映画上映システムです。 目の前の視界いっぱいに270度まで広がる3面ワイドスクリーンはまるで映画に包み込まれるような感覚を与え、深い没入感を味わうことができます。」

(グランドシネマサンシャイン池袋公式サイトより)

つまりScreenX4DXが合体したのがULTRA 4DX なのだ。

しかも超絶アトラクションである『フュリオサ』仕様の4DXとScreenXがドッキングなんである。

ULTRA 4DX は全国でたった4館のみらしい。都内ではグランドシネマサンシャイン池袋と、あと町田にある映画館だけ。町田なんて遠過ぎて行ってられません。というワケでグランドシネマサンシャイン池袋へゴーッ!

(ちなみにグランドシネマサンシャイン池袋は通常料金¥2000で、それにプラスしてULTRA 4DX料金¥1600なので合計¥3600。高ェ!

なので俺は水曜サービスデー¥1300 + ULTRA 4DX¥1600=¥2900で観てきた。ちなみにここでの『フュリオサ』ULTRA 4DX上映は俺が観た翌日で終了。)

 

俺はScreenXで観たことがない。

『フュリオサ』仕様の4DXの凄さは前回話したが、ScreenXは観る前から凄いことが事前に想像できる。

というのは、そもそも映画鑑賞というものはテレビドラマを見ることとはまったく異質で、プラネタリウムを鑑賞しに行くことに近い。

テレビは小さい画面とスカスカ音質だから、必然的にテレビドラマというものは脚本と出演者で進める他ない。

一方、映画はデカいスクリーンと迫力の音響で観るものだから、映像と音像を堪能するもの。視界いっぱいに広がる映像を鑑賞することで、その場にいるかのような錯覚が得られ、そこに効きのいい音響も加わって、体感し疑似体験するもの。

だから映画は高い金払ってわざわざ観に行くものなのだ。

テレビドラマと映画を混同してて、映画を観た感想でストーリーがどうとかプロットがどうとかヌカすバカが多いけど、テレビドラマの見方で映画を見てんじゃねェよって話で。

むしろ映画にとってストーリーはジャマであり不必要なんである。映画が展開してる時は物語は停止し、物語が展開してる時は映画は停止を余儀なくされる、ってやつ。

ドラマはあってもいいけどストーリーは要らない。「ストーリー」と「ドラマ」は違う。「ストーリー」と「映画」は齟齬を起こすが、「ドラマ」は「映画」を阻害しない。

『テネット』をIMAXで観た時の体験は素晴らしかった(ちなみにコレもグランドシネマサンシャイン池袋であり、日本で2館しかない最大のIMAXで観たのだった。)

映画観に行ったと思ったら現地だった、ってやつよ(笑)。

映画鑑賞は映像が視界いっぱいに広がるように観る必要がある。俺が映画をできるだけ一番前のセンターの席で観るようにしてるのはその為。

人間の視界は左右120度ぐらいらしく、だから視界120度で映像が広がっていると人間の脳は強い疑似体験ができる。VRなんかなくても、十二分に体感はできるんである。

それでだ、ScreenXは正面のみならず左右にも映像が映され、その範囲は270度を誇ると。

しかもここに身体を蹂躙される『フュリオサ』仕様の4DXがプラスされるんである。

前回観た時ですら最早映画鑑賞というよりイベントという様相を呈していたわけだが、それを上回る鑑賞環境がULTRA 4DXと期待できる。

 

久しぶりのグランドシネマサンシャイン池袋。

ロビーが、なんか障害物増えて見晴らし悪くなったなー。前は抜けてたのに。

 

席を取る時、悩んだ。

いつもは一番前の席とか取るんだけど(スクリーンの大きさや高さにもよるから一概には言えない。スクリーンが小さめなら間違いなく一番前。スクリーンが巨大過ぎるならもう少し下がった方が良かったりもする。あとスクリーンが高いと一番前だと見上げる形になってしんどかったりするし)

今回は通常とはケースが違う。270度映像なのだ。

従業員に左右の映像ってどの辺まで映ってるのか聞くと、左右の壁全部映ってますと。だから一番前の席だと堪能できないみたいな。

なので後ろから2列目のセンターにした。こんな後ろに座るのは相当久方ぶり。

で、観てみて。

…なんか俺が思ってたのとかなり違った。

まずね、270度=横にはすごく長いのだが、正面は高さがさほどない。

だから(特に後ろの方の席から観てると)視界に対して上下が空き過ぎで、否が応でも天井と客席が視界に入ってしまうので、まったく没入できない。天井と客席という“現実”が常に視界に在るという。

 

あとこれも致命的、俺てっきり270度映像って湾曲してるスクリーンなのかと思い込んでたんだけど、実際には左右いっぱいの長さの正面スクリーンに加えて左右の壁に映し出されるので正面スクリーンの左右の端と左右の壁の境目は湾曲ではなく90度の角になってる。黒い太いラインすら入ってて、映像がガッツリ直角に折れ曲がる。ワイド感を感じるより先に場内の物理的な四角形の作りがどうにも意識されてしまう。

 

左右の壁に映される方の映像が解像度低いのはまぁ別にいい。人間がものを見てる時、あくまで対象物や正面に目の焦点は合っていて視覚の端はぼんやり見えてんだから、むしろ現実に沿ってるとすらいえる。

 

ただ、270度映像を頭からケツまでずーっとやってるのは何か不都合があるのか手間かかり過ぎるのか予算的な都合なのかなんなのか知らないが、正面スクリーンには一貫してずっと映像が映ってるんだけど、左右の壁には映ってる時と映ってない時がある。俺最初てっきり映写トラブルかと思ったもの。

この左右に映らなくなった時も観てる気分としては非常に現実に戻る。

 

だからこれでULTRA 4DX料金として通常料金にプラス¥1600というのは高いと思った。「ScreenX」があまりよろしくなかったんだよね…。

 

あと、まぁ文句ばっかでなんなんですがね、

今回の4DXは前回シアタス調布で観た時ほどキテなかった気が… 気のせいなのかな? 劇場によって違ったりなんかしないよな? 自分が『フュリオサ』仕様4DXにちょっと慣れちゃったのか?

前回マジで振り回されてたからな(笑)。今回も中盤あたりのウォータンクが急襲されるシークエンスは相当キテたけどね、それ以外はそんなエラいことにはならなくて。

(あとさぁ… 通路挟んで隣りの席の野郎が上映中に腕時計見てるのかスマホで時間見てるのか時々なんか点けやがる。光る度に視界の端に見えて、それも鑑賞を著しく阻害した。それが目の端に見える度に現実に引き戻される。

上映前に注意事項流れるよな、前の座席を蹴るなとか光るもの点けるなとか。言われても守れない奴って頭 相当足りな過ぎ。

アイツ絶対ストーリーで見てたんだよ。だから退屈だったんだろう。『フュリオサ』は映像・音像とドラマで展開するんで、ストーリーというものはあまりない。

そういう作品を堪能出来ない奴は映画鑑賞にまったく向かない奴なんで、オマエはもう2度と映画見にくんな。一生家でテレビドラマ見てろ。)

 

ULTRA 4DXに話戻して、まぁフォローするわけじゃないけど、不満はありつつも、観てる最中こんなことも思ったんだよね、

70~80年代の俺だったら、凄ぇ!って大興奮したろうなって。

歳食ってる人間だけが持ち得る能力なんだけど、比較という概念だったり、脳内タイムトリップだったり。

現在の俺的には期待外れだったScreenX だけど、70~80年代にコレを鑑賞したならスゴイと思ったろうね。横にまで映るなんて ない時代だからさ。

それでさらに4DXでぐわんぐわん揺れてさ、昔だったら3万払っても体験したいと思ったかもしれない(苦笑)。

70~80年代の現実と今の現実を同じ俎上で考えると、俺は今 未来を生きてるんだなァとかしみじみ思ったりなんかもしなくもない。

 

確実な事は、臨場感というのは2Dか3Dか4DかVRか、なんてのは関係がない。2Dでも臨場感に溢れてる作品がある。

『ブレードランナー』の時に言った事だよ。まぁ『テネット』の時の話もだけど、やっぱデカいスクリーンで視界いっぱいに映像が広がるように観ること(3面でなく1面で構わない)、あとテレビドラマの撮り方ではなく映画的な映像、これが映画足り得てる映画の絶対条件。

これを踏まえていてこそ疑似体験が可能になるし、2Dでも映画は全然堪能出来る。

(そして、だから映画はあくまで映画であって、テレビドラマや配信作品やVシネとはまったく別物なんだっていう。

そこがちゃんとわかってれば、端から配信前提で作られた作品をアカデミー賞で扱うか否かなんて議論になったりなんかしない。答えはわかりきってる。そんなもん映画なわけないだろが。)

 

 

前回言及し忘れてた。

ディメンタスが他所の縄張りを乗っ取ろうとするのだが、カチコミかけて返り討ちに遭う相手が前作(物語上は『フュリオサ』の後になるが)『フューリーロード』の敵になるイモータン・ジョーなんだけど、

イモータン・ジョーは『フューリーロード』の時は“異様な奴”でしかないんだけど、今回かなりカッコいいんだよね。ディメンタスでは到底及ばないだろうなという貫禄すらある。『フューリーロード』の時は全然カッコよくなかったのに。

そんなイモータン・ジョーと ろくでなしディメンタスの対立は悪vs悪の面白さがある。

 

前回プロダクションデザインが物足りないとか言ったけど、もういっこだけイイのあったね。ディメンタスが最後に乗ってたバイク、フロント部分が女の上半身裸のマネキン(笑)。

 

最初の連れ去られたフュリオサを母親が追撃する場面で、やられた敵の1人が砂にめり込んで足だけ出てるじゃん、アレもナイスだったなそういえば。『犬神家の一族』の湖の足だけ突き出てる死体みたいで(笑)。

あぁいうやり過ぎ演出はエキセントリックなマッドマックスに合ってる。

 

やっぱ瞳にはデジタル加工入ってるだろう? それも主要登場人物全員。

これを目力が凄いとか瞳がキレイな役者さんだなとか思っちゃダメよ? それカン違い。デジタル加工だからアレ。

 

あと字数もあれ以上増えてもしゃあないんで前回まったく触れなかったけど、トム・バーク演じるジャックが結構いいっちゃいいんだよね。

過去シリーズ作のマックスに相当するようなキャラ。マックスじゃないんだけど。

そりゃあメル・ギブソンの本家マックスには遠く及ばないし、衣装がダサくてまったくカッコよくないんで『フューリーロード』のトム・ハーディ演じるリメイクなマックスにすら及ばない。ルックスも最初見た時、太り気味のパッとしないアンちゃんだなーと(苦笑)。

でもフュリオサとの接し合いはなかなか悪くない感じで。『フューリーロード』のマックスとフュリオサの接し合いに近いパターン。

観てるうちにカッコよく見えてくるキャラ。

(でもやっぱ旧マッドマックスシリーズのメル・ギブソンの凄みのある漢のカッコよさにシビれた世代としては、そこんとこ新シリーズは全然ダメんなっちゃったよなぁ…と。

なんかジョージ・ミラー、ウーマンリブみたいな感じになっちゃって、そういうのは、やっても全然いいけど他所でやってくんねェかなっていう。)

このジャックってキャラ、なんで出したんだろうね? 『フューリーロード』のマックスと立ち位置ほとんど同じじゃない? だから物語の構成というかキャラの配置というか『フューリーロード』と似たものに感じる。

やはりカッコいい男がいなけりゃ『マッドマックス』じゃないというのはミラーも重々承知なのかね? でもマックスはフュリオサ革命編(←『フューリーロード』)で登場させたから、その前日譚ではまだ出せない。でも男は要る。それでジャックってキャラ?

旧シリーズは男のヒーローもので、新シリーズでやりたいのは女のヒーローもの?

ただ、新シリーズ3作目『マッドマックス:ザ・ウェイストランド(原題)』はマックスが主人公の物語になるって話なんだよな。

1作目がマックスとフュリオサのバランスがイーブン、2作目はフュリオサの話、で3作目がマックスの話なら、3作通して男と女がバランスイーブンになる。そういう狙いなのかな?

3作目のマックスが素晴らしければ結果まぁ許せるということになるかもしれない。

しかし『フュリオサ』は(日本はそうでもない?)興行的に不振なようで(『フュリオサ』に限らずハリウッドの新作は軒並み不振らしいけど)、『ウェイストランド』は製作頓挫する可能性も無きにしも非ずらしい。

『フュリオサ』で終わったら新シリーズはマッドマックスシリーズとしては失敗でしょう。

ここまできたら2作目の興行成績がどうであろうが3作目もやらなきゃダメだよ。それがミラーの責任だと思うよ。

 

…でもまたデジタル映画になるのか。もう“デジタル映画”って時点でマッドマックスとしては失格なんだけどね。

それに予算かかり過ぎなんだよ。『フュリオサ』の製作費1億6800万ドル? 金かけ過ぎだろ! 小国なら国家予算に匹敵すんじゃない? ちょっとした戦争出来るぐらいの額だろ。

『ウェイストランド』は原点に立ち返ってだね、デジタル一切ナシで作れば3~4千万ドルぐらいで作れない? ポストプロダクション(撮影後の作業。デジタル作業もココ)にいくらかかってんだよ? デジタル作業なかったら予算も手間も相当浮かないか?

でも新シリーズ1・2作目がデジタル映画で、今さら3作目で旧シリーズのような生の臨場感と迫力に満ちた非デジタル映画で完成させたら、今の若い観客は違和感バリバリ&納得いかないだろうな。

だから最初からデジタルには手を出すべきではなかった。『ベイブ』(子豚が主役のミラー監督作)とかはともかく、マッドマックスはランボー(コレとかコレ)とかジャッキー・チェンなどと同様デジタルの対極にある存在だったんだから。

『フューリーロード』の時、ミラーは“デジタル映像技術が進んで、自分が表現したいものが出来る環境が整った”みたいなことを言っていた。でも、にしてもデジタル使い過ぎだろ。最早こんなのデジタルアニメと変わんないじゃん。実写映画の迫力と凄みと魅力が旧マッドマックスシリーズには溢れてた。マッドマックスの存在意義ですらあったのに。

 

 

…と、なんかテンション下がり気味な感想になっちゃったけど、

まぁ天気も良くてね、久しぶりの池袋だったし、アトラクションとしてはまぁまぁ楽しめたし、お出かけとしては良かったけどね。