映画観れるタダ券のようなものを手に入れた。

その系列の映画館でやってる現在上映中の映画から何を観ようか…とチョイスしてると、

この画像にヤられた。

尊いぐらいホノボノする。コレいいかも?

タイトルはなんだ?

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章』

なんつータイトルだ。『デュラララ』みたいな(←見たことないけど)意味不明なタイトル。

ファンとかアニオタとかこの作品を言う時、なんて言うんだよ? どう略すんだと思ったら、パブリシティ見ると

「デデデデ」だけ色が違う。略す時は「デデデデ」なのか?

予告編(1分30秒のやつ)を見ると、「その日、世界が終わる」と出たり、ほのぼのギャグアニメのようでいて 事故のニュースで死亡者の中に友達の名前があることを知る場面とかあったりする。「君こそ、どこから来たの?」から途切れ気味の親友の映像には儚さとSF感を感じる。

これ観たいな。

『前章』はもう終わってるみたいで、『後章』から観るって『スターウォーズ』をいきなり『帝国の逆襲』から観るみたいな、『魔法少女まどかマギカ』をいきなり『後編  永遠の物語』から観るような。

映画にはいきなりパート2から観てもあまり問題ない続編ってのがたくさんあるのだけど、モロに物語が繋がってて飛ばして観るわけにはいかない続編というのもある。本作は明らかに後者だ。

とはいっても前章は終わってるし、(その券が使える映画館では)後章ももう上映が終わるらしく。

ま、いいや!と観に行ったのだった。

予備知識ゼロ。原作はマンガ全12巻らしいが読んだことないどころかタイトルすら知らなかったし。

カウンターで券を使いたいのだが券売機で使えるのかと聞くと、あちらで承りますみたいな、有人でやり取り。「ご覧になる作品は?」 「デデデデで」と答えたらすんなり通じた。やはり通称「デデデデ」らしい。

 

(以下ネタバレあり)

 

いきなり宇宙人?何?「侵略者」と言われてるけど、自衛隊だっけ一部国民だったっけ? による“侵略者”の殺戮から始まる。最初に虐殺される侵略者側の女の子?がかわいらしいキャラデザで、頭に付けてるお守りがとってもかわいらしいんだけど、それ故あまりに悲惨、あまりに悲痛。さらに2体、3体…と虐殺されてく。鬼のような物語だ。

その一方で人間の主人公たち、キャラデザといい喋り方といい、こちらもかわいらしい。そんな彼女らの和やかな日常シーンも展開。

しかし実は地球滅亡の時は迫っている。

「ほのぼの」とか「平和な日常」と、「残酷」「残虐」とか「地球滅亡カウントダウン」が、並走して描かれるのがスゴイ。

まどマギはほのぼの感から凄まじい死のドラマに突入してくが、あっちはある出来事が起こってから以降はハードな展開が続くんで、観てるこちらも心の覚悟のギアが入るからこういうドラマなのだと観ていることが出来るが、『デデデデ』はどこからそうなるというのではなくずっとほのぼの日常とハードな惨さが平行して描かれ続けるので、ある意味悲惨さがより際立つ。

 

ある日、突然東京に訪れた非日常・異常事態。

観てて、なんだかかなり東日本大震災を想起した。

俺はかつて仙台に住んでたので あの震災の一応被災者で、「一応」っていうのはあの震災で酷かったのは津波と原発であり、でも俺はあの時 水場とも原発とも離れた所に居たから、死の危険にいきなり直面したわけではなかった。

とはいえライフラインは全部死んで、交通機関も止まって、会社もストップして、店も酷い状態&停電&道路も壊れてて商品の配送もままならないから買い物もほとんど出来ず、飲食物もだんだん尽きてきて、家にあったパスタ茹でてパスタソースなんて結構なモンはないからそのまま食べて、もう餓死しなければそれでいいというね。ライフラインは中心部から復旧していったので郊外は後回しだったから毎日往復15km歩いて中心部の公園の水飲み場に水汲みに行ってた。そんな生活が続いた。そんな俺でもまだ全然はるかにマシで、同じ県内の被害の酷い所では人がたくさん死んでいた。2万人くらい。

その2万人の中で学生や日勤の人は多かったろう。朝「いってきます」っていつものように出かけて、そのまま2度と帰宅しなかった人はとても多い。

…我々が「普通」とか「普段」とか「日常」とか言ったり思ったりしてる生活ってのは、いつ崩れてもおかしくない極めて脆い土台の上に実は成り立ってるかりそめのものなのだとあの時、強く、生々しく、思い知った。

それ以前からそういう意識はあったけど、頭で考えてるのと実際食らうのはステージが違う。

 

本作の劇中、みんなは異常事態になっても、いつもの生活を送ってもいる。この辺がまたね…

震災の時、同じ県内でも、今まさに生きるか死ぬかの際(きわ)に置かれてる人たちと、生活に支障はありつつも日常に回帰できてた人たちと、両方いた。並存してたんである。

『デデデデ』は東日本大震災とは一言も出てこないしまったくフィクションのSFな物語でありながら、世界の終わりってのがいつ来るかわからないし、来る時は容赦なく来るし、皆はそれを解決する術はないし、最後の瞬間の寸前まで結構普通に生活し続ける。そんな様が描かれている。

俺的にはヘンな話、馴染み深さすら感じた。あの地震も突然やって来た(正確には2日前ぐらいから予兆はあったんだけど。にしてもあんな大地震が来るとはやはり誰も想像してなかった)。そしてその後、際にいる被災者と、水場や原発近辺ではなかった被災者の差。日常と非日常のギャップというかカオス状況。それを経験してると、本作の劇中の状況というのは全然絵空事じゃないんである。

(ウクライナの人だって、ロシアに侵攻される前日まで戦争が始まるとは思っていなかった。予兆はあったけどみんな前日まで大丈夫でしょ?って思ってたそうじゃない? でも一夜明けたら戦争が始まってた。まさかそんなことがあるわけないと思ってても、来る時は来る。そして2年以上経った今現在も戦時下だ。)

 

この作品が持つ危機的状況と主人公たちの日常感のギャップは、日本人独特の死生観にもつながる。

日本人にはなんというか、日常感や無常観が昔からある。本作には日本人特有の民族性がよく出てるといえる。

これは『押井守のニッポン人って誰だ!?』(発行:東京ニュース通信社 発売:講談社)という本を読むとよーくわかる。

 

「日本人は基本的に、(中略) 妙に淡泊というか、運命論的というか」

 

「日本人は、(中略) 歴史的な意識もないし、未来のことなんて、実はさほど気にもしてない。(中略) いかに日本人が日常が好きなのかは、今回のコロナ騒動でも明らかになった。(中略) 自粛期間でも吉祥寺のメンチカツで有名なお店のまえには列ができていたけど」

(コロナ禍の時)「「何もやってないのに、たぶん上手くいく」と、みんなが思っていたんですよ、為政者も国民も。「ひと月、ふた月暮らせば、またまえの生活が戻ってくる。だからとりあえず今は我慢しとこうか」ってね」

「ペリーのときも他人事のようなところがあった。お弁当を持って黒船見物に行ってみたり、軍服姿で上陸して町を進軍している姿を物珍しく見物していたりね。危機感がまるでないんですよ」

「ほとんどの日本人は場当たり的で、いざというときに備えない」

「日本人のリアルってなんだとなるわけで、わたしはそのひとつの答えが「永遠の日常」なんじゃないかと思っているんだよね。昨日と同じように今日があり、今日と同じように明日が来る。(中略) 何事もないことが、日本人にとってのデフォルトなのではないか、ということだよね」

 

「出雲は「あらぶる神」「すさぶる神」 (中略) 対して大和朝廷は和やかな「和の国」だからね。(中略) 併存している」

「近代人の仮面をつけているけど、心根においては大和朝廷のころから変わっていないんじゃないの?」

 

「転生を信じているので、たとえ死んでも命は消滅しないと考えている。これが日本人のひとつの死生観です」

「『日本沈没』に「何もせんほうがええ」というセリフがあって、(中略) 最後の最後に日本人が拠って立つところの本音。じたばたもがくより、「何もせんほうがええ」。日本という国土が水面下に消えたら文化も何もかも消えてなくなるが、 (中略) このまま美しく死んでいこうというんです。(中略) 日本人が日本人でなくなるくらいだったら、国土と一緒に沈んだほうがいい。この考え方は前の戦争と同じ、一億玉砕ですよ。国体が変わるのなら、国ごと消滅してしまえと考える。これは非常に日本人的な価値観。日本人は追い詰められたら、そういう判断を下す民族ですから。(インタビュアー「匙を投げるとか、腹をくくるというのとは違うんですか?」)そういうのではなくて、有終の美を飾る、あるいは滅んでいくことをよしとするという考え方。(中略) どうせ今いるのは仮の世だから、この世の苦痛も悲しみも仮のもの。でも来世があるじゃないかというわけですよ。」

 

「もうひとつ、日本人にとって決定的なのは四季だよね。(中略) この世界というのは、人間がどうこうできるものじゃない。(中略) 季節が巡っていけばどうにかなる。人間にできることといえば、季節をやり過ごすように、すべてを受け入れるしかないんだという」

「季節が巡るように、常ならぬものはないけれど、結局、自然がそうであるように、収まるものは収まるところに収まる。」

「日本ほど豊かな自然に囲まれた国はそう多くはない。(中略) 自然はときに干ばつや冷害をもたらし、わたしたちがどんなに努力しても報われないということを知らしめてきた。でも、季節はそういうなかでも巡っていく…そういう世界の中でずっと生きてきたら、独特の死生観が生まれるのは必然なんじゃないの? つまり、「この世は仮の世界で、来世に期待するしかない」 (中略) 日本人は、人間がどうあがこうが、どうしようもないことがあるのを分かっている。人間は受け身の立場で、すべてを受け入れるしかないんだと、どこかで分かっている。(中略) やってもやらなくても同じなら「何もせんほうがええ」。こういう死生観を持った民族はおそらく日本人だけ」

 

…というね。俺的には震災の体験と この本読んでたことで、『デデデデ』の堪能度はかなりハネ上がった。深い味わいになった。ただの日常系+セカイ系作品じゃない。

(日本人というものに興味がある人は、この本はオススメ)

 

本作では糞政治家・糞上級国民も描かれてるが、2021年の東京オリンピックも思い出した。

そもそも地震の1~2年後、震災の対処すら済んでないのにオリンピック関連で何億だか使ってる話を聞いて暗澹たる気持ちになったものだ。東電はいい加減な会見やっててさ。

オリンピック中止しろって思ってたし、コロナ禍まで起きてさすがにもう中止にするだろうと思ってたら、強行しやがった。この国の上の方の連中はここまでトチ狂ってるのかと寒気がした。

今だってそうだよ。大阪の万博とか、マイナがどうとかNHKがどうとか、明らかに間違ってんのに強行され続けている。その強引さ、開き直りぶりは頭おかしい。

だから本作で描かれてる政府とか国の上の方の連中ってのもフィクションの作品の架空の悪役ではなく、リアルに感じる。まさにこういう連中が現実にいて、まさに現実の日本社会がこうだから。

本作は宇宙人?がどうこうとかいう話でありながら、現実問題が非常に取り入れられたエンタメ作品になっている。

 

ほのぼのし過ぎてて、いい味出しまくりのキャラたち。和むぅ^^

小山の眼鏡&ショートカットな外見も和むし、中川がなぜかヨダレ流してるのもほっこりする。

マコトもいいキャラしてるよなァ。パッと見の前歯がないのもほのぼのするが、男の娘ってのもいい(笑)。

あと海で世界線移動装置?シフター?見に行く時に案内する女2人組の小さい方がすさまじくヘン&ほっこりする(笑)。

中川の兄貴もインパクト絶大だよな、ものすごいデブなのに顔の各パーツはキリッとしている(笑)。

喋り方がほのぼのかわいいキャラも何人かいる。はにゃにゃふわ~~~ッ

キャラが見ててすごい和む。

なのに話は結構悲惨。ここでもギャップが活きてる。

出元(向かって左前に写ってるコ。このコもキャラデザがすごく和むんだよなぁ)が弟に電話して、帰ったらご飯作ってあげるからねみたいなこと言った次の瞬間に電話の向こうで弟が惨死する。中川の兄貴もお父さんも死んじゃうし。前章では栗原も亡くなっちゃったし。

辛いよなぁ…

でも震災でも事故でも人災でも、実は人生っていつ終わるかわからない。毎日会ってた人が突然この世からいなくなるってのは普通にあり得る。我々は普段あまり考えないようにして生きてるけどね…。

なんか原作の方が救いがないラストで、映画版はもうちょっとマシらしいね?

でも救いがないラストのままでもよかったと思うよ? だってそれが本当のリアルなんだから。実際問題我々はいつあっさり崩れてもおかしくない生活送ってんだから。

そういうのをエンタメで忘れたいってのはよーくわかるけど、かといってエンタメが現実逃避のみに堕してもいけない。

エンタメから学ぶ。エンタメで疑似体験する。エンタメ通していろいろ思う、考える。啓蒙ってやつだよ。

ましてや首都直下型地震だの南海トラフ地震だの富士山噴火だの、起こるか否かではなくいつ起こるか?という状況に我々は生きている。

世界の終わりには2つあって、1つは地球滅亡とか宇宙の終わりとかそういうのだが、もう1つは自分が死んだ時。この時も世界は終わる、自分にとって。

…生きているってことは死に向かっている現象とも言い換えられるわけで、天災であれ事故であれ人災であれ、誰にでも世界の終わりは来る。必ず。

そして“仕方がない”という日本人特有の諦観。

だからこそ、何気なかった日常の幸せと現実の惨さのギャップ。この作品で言うなら主人公たち周りの何気ないダラダラほのぼのした日常がかけがえのない煌めきを持つことになる。決して続かないものだから。

 

ところで個人的にはデジタルアニメには相変わらず抵抗がある。

本作の背景・風景も写実的。本当はこれは良くない。アニメの良さは絵であること、一から全部創り上げること → 現実が一切ないことなんだから、

アニメがデジタルで実写に近づくということはアニメの魅力を自ら葬っている。

ただ本作は、良く捉えればこのリアル感はこの物語に寄与している。まったく架空の世界ではなく、いい意味での現実感がある。

キャラはかなりマンガ的なのに背景がリアルなのは乖離がある。といってもキャラもリアルにしちゃったら、だったら実写でやれって話だし、そもそも生身の出演者じゃこのほのぼのキャラ感は絶対出ない。

俺的にはやっぱアニメはセルアニメであるべきだと思うんだけど、『デデデデ』はちょっと例外かもしれない。

ギャップがいいとはここまで何度か言ってきてるけど、この「ギャップ」はほのぼの日常と惨いドラマだけでなく、キャラと背景にも言えるのではないか?

本作観てて強く感じる切なさは、このギャップにかなり因っている。

この乖離は乖離と捉えるのではなく、むしろそこに意味がある、と捉えるべきかもしれない。

音は映画館なので迫力あり。

上映時間は120分と長い。長くなるのは物語をやろうとしてるから。原作は12巻もあるわけだし。だったらテレビアニメ(テレビの連続ドラマ)でやれってとこなんだけど、でも本作は暴力描写やスケール感や風景の良さなどからテレビドラマより映像と音を堪能する映画の方が適しているので、微妙なところ。テレビドラマを容易にハミ出す内容なので、そういう意味では映画の方が適してるとはいえる。

 

というワケで、結論としては、結構いい映画でしたよ。予備知識まったくナシで観た俺でも、ストーリーがあまりよくわからなくても(わりと複雑というか詰め込み過ぎですらある。パラレルワールドすら入って来るし)、感じるものがいろいろあって、映像・音も映画足り得てるレベルには達していて、観応えのある映画鑑賞だった。