というワケで。

 

『ロード オブ ウォー』はずーっと前に中古DVD入手したんだけど、1回観ただけで処分してしまった。面白いかつまんないかっつったら間違いなく面白いんだけど、なんかその時の俺の気分じゃなかったというか。

のちに“アレまた観たいな…”って思うことが度々あって、改めて中古で入手しようとしてたんだけど金額がどうも…とずっとスルーしてた。やっと安物に遭遇したんで再入手。

(配信で見る気はサラサラない(←スマホやPCで見るのは「観る」とは言わない)。映画は自宅で観るならそれなりのデカさのモニターでないと駄目。いやPCをテレビに繋ぐことも出来るのだけど、好きな作品は所持してないと駄目ね。ネットで見聞きするとか読むっていうのは物理的に手元には無い。そういうものは消費物として流れてく傾向が強い。ちゃんと物理的に所持してると、作品というものに対するこだわりや思い入れが全然違うんである。)

で改めて観たら、やっぱ面白い。しかも今回はタイミングが良かった。観たい気持ちがしばらく前から高まってたのと、本作は不穏なドラマなのでこの日の俺のイラついた気分にも合ってた。

前回言った「映画って観る機会とかタイミングって結構重要」ってやつだよ。タイミングが合わないと観る機を逸したり、「面白い」と思ったのに「なんかその時の俺の気分じゃなかった」で「処分してしまった」となったりする。

 

(ネタバレあり)

典型的低所得者層だった男・ユーリが武器商人に転職し、いい稼ぎになっていき、憧れてたモデルの女も手に入れ子供もでき、金持ちになるが、インターポールの捜査の手が伸びてくる。最終的には近しい人たちが全て身の回りからいなくなり、そして遂に逮捕されるが――

 

本作をストーリーで額面通りに観ててまず思うのは、武器密売を単純に一元的な悪として描いていないのが興味深いというところ。

ユーリは誰彼構わず売る。誰とでもビジネスするし、同時に誰にも肩入れしない。思想性もなければ偏見もない。

捜査官は“戦争犠牲者の9割が銃で殺されている。真の大量破壊兵器は核兵器ではなく銃器”と言う。

今まさに引き渡す武器が直後に目の前の一般人への虐殺に使われると察した弟とユーリの対立、自分が供給しなくても他の誰かがやるから変わりない、問題の根本はもっと別のところにある、

一番デカい武器密売組織はアメリカ合衆国――

そして映画の最後に出るテロップ「最大の武器供給者は米・英・露・仏・中である。この5カ国は国連安保理の常任理事国でもある」

よくまぁハリウッド映画で、製作費60億円という規模の作品で、この脚本はなかなか挑戦的。ちょっと感心する。

本作はいろんな要素・いろんな人間・いろんな考え方が絡まり、せめぎ合っている。

単純な勧善懲悪じゃない。

(そんな中で、だからこそというか、妻の言葉(“私の秀でてるところは結局容姿だけ。失敗な人生。でも人間失格だけは嫌”)が沁みる。)

 

しかし他方、別の見方もある。

今回観てて、『スカーフェイス』のトニー・モンタナと似て非なるというか、トニーの反面教師みたいな…とか思った。

移民で貧民のトニーは麻薬取引でのし上がっていく。

同じく移民で貧民のユーリは武器密売で成り上がっていく。

しかしトニーは非常に暴力的な男で狂気がそこかしこで暴発!やる事といい演じるアル・パチーノの爆演といい、凄みがある。なんならあまりにやり過ぎで笑っちゃうぐらい。 そこがトニーの、そして『スカーフェイス』という映画のたまんねェ魅力なのだが、

ユーリは大人しいというか節度のある男であり、演じるはニコラス・ケイジで、ケイジは狂ってる時も多々あれど(笑) 本作では抑えた演技で、そのソフトさがいい味出してもいる。

好きな女の落とし方もトニーは愚直なぐらいストレートだが、ユーリはあの手この手で虚構の自分をデッチ上げて手が込んでる。

頭はどちらも切れるが、トニーは予断を許さないスリリングさがあるのに対し、ユーリは常にどこか飄々としてるところが良い。なんかこう危機をヌルッと切り抜けてく感じで、これが観てて妙に心地良くて(笑)、こういうとこは初観の時も面白い!と思った点だった。

自分が扱ってる商品や麻薬に対する向き合い方は真反対。

麻薬密売のトニーは自身も麻薬に溺れていき、元々凶暴な男なのにさらに冷静さを欠いて、自滅へまっしぐら。(←迫力ある成り上がりぶりと壮絶な転落っぷりがトニーの見どころ)

しかし武器密売のユーリは自分では銃を撃たないし人を殺すこともない。徹底的にビジネスマンであり、自分が扱う商品に呑まれない。ある取引相手が現金でなくコカインを支払いに充てて寄越した時からユーリの弟は麻薬に溺れてくが、ユーリは麻薬にも溺れない。

ユーリは職業的には悪なのだが、どこかしら自分の中の一線があって、それを超えることはない。だからトニーと違いユーリは生き延びる。ラストで万事休すかと思いきや、冷静かつ穏やかに危機をクリアする。これはトニーには決して出来ない。(逆にユーリは自分を急襲してきた暗殺部隊を独りきりM203グレネードランチャー付M16で迎え撃って戦場のようなバトルを繰り広げることは不可能だけど)

そしてユーリ自身も言ってたが、商才がある。まるでジョン・ランボーが結局類稀なる殺人マシンの自分を受け入れたように? 結局ユーリは家庭を諦め、仕事の才能で生きてく仕事人間となる。人には向き不向きや適材適所ってもんがあって、自分が最も活きる仕事・生き方が一番良いのだ。

しかしユーリの仕事は武器密売である。向き不向きっつったって仕事は選べよってなもんだが、ユーリは一旦武器密売から手を引いてまともな分野で取引する期間があった。でも舞い戻った要因の大きな1つは、真っ当な商売でも才覚は発揮できたが、あまり金にならなかったことだった。

…ちょっと待て。

ユーリの生きがい足り得たのは、実は商才よりもエキサイトメントだったのではないか?

商才でいったら、別に真っ当なビジネスでもよかったはずなんである。

 

思い出してみよう。ユーリは貧乏人だった。そこから脱け出すために武器商人に転職したわけだが、ユーリに限らず貧乏から脱け出したい人の動機として考えられるのはおそらく3つある。

パターン1:金持ちになりたい

パターン2:狭い世界から脱け出したい

パターン3:劣等感に対する反発

トニーはパターン1と3で、ユーリはパターン2のみだったのではないか?

パターン3、トニーはコレある。トニーが常に孕んでるイラだちはこれにかなり起因してるのではないかと思われる。でもユーリにはないね。ユーリを見ててコンプレックスというのはほとんど感じない。ユーリは基本的に穏やかという感じ。

で1と2だが、

金がないと食べれる物もやれることも、付き合う人種も生き方も限られる。生きてる世界が限られるというかな。でも金があれば選択肢は途端に広がる。

トニーはいざ金持ちになったらそこから先がなかった。何の為に金稼いでるのか? 稼いだ金で何がしたいのか? …特に無いんである。金持ちになること自体が目的だったから。本来金は目的と手段でいえば手段に過ぎないのに。だからトニーは虚無感に陥る。(→ コカイン浸けになる)

しかしユーリは家族経営で細々とやってるレストランで働く日々=ルーチンワークな日々から脱け出したかった、だから危ない仕事に転職したのだろう。一寸先はわからないエキサイトメント。

冒頭の殺人・銃撃の目撃という一線を超えた現実を見たシーンでユーリの意識に風穴が空く。ユーリ「それは性の初体験に似ている」 新しい世界・新たなる生き方へ踏み出す。

命がけのエキサイトメントを欲する。でも死ぬのは嫌。ギリギリ縁がいい。

ユーリ「人の本質だ」 暴力的な世界を忌避するのではなく、むしろそこにエキサイトメントを見出して自ら身を投じてゆく。

エキサイトメントと大金両方得られる仕事。金は動機として2番目だが金大事。貧乏は嫌だし金は多いほど選択肢が広がるし、それになんつっても危険な仕事ならそれなりの見返りはあってしかるべき。

ギリギリのエキサイトメントな世界にいながら自分自身は戦わない(命を賭けない)――なら傭兵とか殺し屋でなく、武器の供給者だ。

トニーは常にピリピリしてたけど、なぜユーリはどこかしら飄々としてるのか?

楽しんでるからじゃないのか?

貧乏から脱したいという動機だけでやってたらこんな優男だもの、メンタル的に圧し潰されてる。でもユーリはそうならない。

ユーリ(尻尾と進化の話から)「どんな強者でも、本能には勝てない」

人間という生き物。好奇心がある。退屈に耐えられない。可能であることならば実現せずにいられないetc.

ユーリの場合、エキサイトメントだ。コレに抗えない。ルーチンワークや真っ当な仕事にはもう戻れない。

そして第一目的がエキサイトメントだからこそユーリはトニーと違って生き延びる。楽しんでるから心に余裕がある。窮地に陥っても閃きがある。精神的に追い詰められてたら機転は利かない。

それは延いてはユーリの矛盾してるのに破綻してないスタンスにも出てると思う。「戦争がなくなればいいと思っている」と沁みる口調と表情で語るし自分の手で人を殺すのは本当に嫌がる一方、バンバン武器を売りさばいてもいる。

捜査官の言うことも理解している、でもやめない。

なぜか?

充実してるから。平たくいえば楽しいから(苦笑)。

需要があるから供給が成り立ちビジネスとして成立する。武器を必要とする人間はピンキリだが国家間の戦争や民族間の紛争などは一個人の次元ではないし、もっと一般的な銃犯罪も(日本のような一般人が基本的に銃器と関わることなどない国なら件数はほぼないに等しいぐらい低いが米国はそうはいかず)どうにか出来るとしたら政府であって、これまた一個人の次元ではない。

だからユーリは割り切ってビジネスとして専念できるのだろうし、矛盾を抱え込まないのだろう。そっちは俺がどうこう出来る問題じゃない → 俺の問題じゃない。

でも弟は根が真面目すぎた。なので葛藤を抱え込んで麻薬に逃げてしまったり、虐殺される一般人を助けようとして犠牲になった(しかもその死はまったく無駄だった。やはり個人でどうこうできる問題ではないんである)

ユーリは弟の死に対して悲しみながらも切り替えは早い。最後に両親も妻も自分から離れていったことを知っても凹みはするがやはり切り替えが早い。直後に捜査官に対して最大の逆転をカマしてみせるし。

思い返せばユーリが大金を必要としたのは好きな女の前で虚構の自分を演出し続ける為だった。一時真っ当な商取引に転じたが、それでは巨額の収入にならず虚構を維持出来ないので武器密売にまた戻ったわけだが、最後に妻が去っても、ユーリは悲しみこそすれ 去る者追わずといった風情だった。

結局ユーリは女を第一に据えてなかったことになる。エキサイトメントが第一であることの証左。

ユーリにとって最も大事なのは人生のエキサイトメント。面白き  こともなき世を  面白く――。

自分が生きてくうえで核になってるのは他人ではなく自分自身。これは正しい。誰かの為に生きてる人生なら実のところ誰の人生なんだ? そうではなく自分に忠実に。

それは自己中とか己の欲望に忠実ということとはハッキリ異なる。精神衛生上の問題というか。自分が心地良いとか楽しい生き方が一番健康的に決まってるではないか。

だから近しい人たちが皆いなくなってしまったのは悲しいは悲しいのだけど、それが致命的でないのは、ユーリがユーリにとって一番大事なものをなくしてないから。

だからこれからもユーリは生き続けるし、やっていける。

(男の映画のようでありながら、実は女性観客にも示唆がある。人生を男で決めちゃダメだよ。自分の人生なんだから、男でなく自分自身を最優先にすべき。)

 

扱ってる素材や物語からするとどうしても社会派なテーマを感じたり、そっち方面から語るべき映画と思い込みがちになるが、本作が面白いのって、単純に面白いからだと思う。

物騒で不謹慎なアドベンチャーというかユーリのイカサマ博打的な人生模様というか? いっそのこと実はコメディ映画なのではないか?

実際本作は笑えるとこがちょくちょくある。一例…機関銃を発射してる時にアレなんつーんだ? コッキングレバー? ボルト(遊底)? 前後し続ける箇所あるじゃん、カチャンカチャンカチャンみたいな、あれの音がチン!チン!チン!とレジスターな音にすり替わる(弾丸が金に換算される的な=「弾丸(タマ)の数だけ札束(カネ)が舞う」)とこなんか不謹慎過ぎて笑う。

ユーリが捜査官に初めてガサ入れ食らった時に突発対応する場面は、鮮やかでスリリングかつ姑息な臨機応変ぶりが面白過ぎる。慌てて船名を書き換える時点でなんか可笑しいのだが、オランダ船舶を装おうとするがオランダの国旗がないってなって、フランスの国旗を縦にすればいい!ってのがウケる(笑)。

こんな調子で捜査の手をかいくぐり続けるユーリだが、

白眉なのは武器の空輸中に捜査官が差し向けたジェット機から強制着陸指示される場面。今ガサ入れされたら確実にアウト。ユーリの命運尽きるか――

ここでの切り抜け方は機転が効きすぎててブラボー感マックス(笑)。(同時にあのメリットとデメリットの天秤のかけ方と思い切った判断ぶりはリアル人生でも参考にしたいぐらいだ。)

面倒で危険な相手とも取引するが、それもまた まぁまぁ上手く切り抜けてゆく。“中古になっちまった”のくだりは機転を利かせたのか本気で言ってるのかよくわからないぐらいだ。

最後の切り抜けぶりはお笑いにはなってないが、ここも取りようによっては口八丁手八丁とも言え、

本作はトータル的に言うとコメディとシリアスを綱渡りし続ける。それはユーリの人生がデタラメとリアルを綱渡る様にも重なる。

ちょっと形を変えた『ビバリーヒルズコップ』アクセル・フォーリーっぽくもある。

なんだっけ、敵の所に潜入したいんだけど個人行動してるアクセルには組織的バックアップがないので、裏口からこっそり侵入するかというとアクセルは真正面から行って、水をパパパッと顔につけて即興で冷や汗を演出すると受付で“届け物がある、ヤバい物だ”とかすったもんだの末に「ご自身で持ってってください!」って言われて堂々と正面から入っていけるみたいな(これパート2だったっけ? パート1は性病ネタだっけ?・笑)、結局上手い具合に持ってく手腕は一種の才能であり、ユーリにもコレがあるといえる。

昔、なんでも屋をおっ始めた男の話の記事を読んだことあるのだが、コイツがデタラメもいいとこで、とにかくなんでも引き受ける。自分がさっぱり知識ない分野でも。

当然どうするんだとなるが、一晩で調べて付け焼刃の知識で臨んだりする。なんとかなるもんですよ、とかって。呆れるやら感心するやら、よくやるよな…と思いながら読んだが、

そういえばユーリも初めての取引の直前にウージーの説明書を読んでいた。わかってないんである(苦笑)。

本作も見ようによっては別の生き方はある、人生出たとこ勝負でもなんとかなるさというフロンティアスピリッツ&肩の力の抜けっぷりが心地良いドラマでもあり、人によっては座右の書ならぬ人生のフェイバリットムービーになるかも!?

 

本作がコメディ映画だったとして、内実は2層になっている。

脚本書いててただのコメディで飽き足らず、ヤバいネタ(武器密売)を盛り込んでブラックコメディまでイッちゃってみたが、さらにネタがネタなんでそこに関わる社会問題も盛り込んでみたのではないか? 武器密売問題は後付けと考えてみるのである。

となると“ユーリのお笑いアドベンチャー人生”と“シリアスな武器密売問題”がダブル進行してることになる。物語が単純に1層でなく複層になっている作品といえるのではないか?(=エンタメとテーマ性ともに備えた高度な脚本)

これは脚本家目指してる人にとってはいい参考になる作品かもよ?

…まぁ実際はネタがネタなんで観客が(また脚本家が書いてて)息詰まらないようユーモアも盛り込んでみた、が実際なんだろうけど。

テレビドラマは1本筋だけど、映画はいろんな見方・解釈が出来るのも面白いところ。

 

映画はテレビドラマではないのだから映像が本領。

その点ではどうかというと、こちらもなかなか悪くないのだ。

第三世界に結構売りさばくのでアフリカ諸国がかなり登場し、撮影もそういう所などで敢行しているので生々しさというか臨場感がある。

また重火器や戦車なども本当に武器商人から借りたり、ダミーを作るより本物買った方が安上りだったからと、登場するのは本物だらけ。(メイキングを見るとなかなかスゴイ話で感心するというか笑ってしまうというか)

映画は体感し疑似体験するものなので、本作はそこをちゃんとクリアしていて映画として成立してる。物語として単に面白いではなく、それを臨場感を伴って体感させられるかどうかが映画。

観客は本作を観ることでユーリの人生を、紛争地帯を、我々には縁のない武器商人という特殊な職業を疑似体験できる。

映画というものの醍醐味だよ。テレビドラマとの決定的な違い。

 

本作の唯一の欠点は捜査官役のキャスティング。イーサン・ホークなんだけど、若造って感じなんだよ。ユーリのキャラもユルめなんで、これで映画が全体的に(悪い意味で)軽くなった感はある。

これが捜査官がそうだなぁ… 例えば『ザ・ロック』のウィリアム・フォーサイスみたいな凄みと年輪のある男だったなら、厚みや対比がグッと出てキャラ対決的にも映画のテイスト的にも重みが出て、ズッシリ重心の効いた作品になってたろうに。そこが唯一悔やまれる点かな。

うーん…

この捜査官が真っ直ぐな正義漢なんで若い感じの男にしたのかな? であるならたしかに中年以上の男はそぐわないといえる。ある程度の年齢以上になると白黒二元論ではなく現実にはグレーゾーンがあることをわかってるから、この捜査官のキャラやセリフと相容れなくなってくる。

それともあれか、やっぱ本作はコメディなのか? 重みのある男なんかキャスティングしたらシリアスになっちまうだろうが!みたいな?

 

 

もう1枚の『2010年』は、あの『2001年宇宙の旅』の続編。

でも再生したら駄目パターンきたよ! 薄型テレビでDVDを再生した時、画面上下だけでなく左右にも黒い部分が出来て、要は映像が縮小再生されるソフトがたまにある。これに当たってしまった。

これを事前に判断する方法がいまだに分からない。

2010年代以降に発売されたDVDでは起こらない気がする。

じゃあ古いソフトが地雷なのかというと微妙で… 90年代に出たDVDでもそうならないものはならないし。

少なくとも言えるのは、ブラウン管のテレビではこの現象は存在しなかった。

経験則からジャケット裏側のデータ記載部分に「LB」(レターボックス)表示のある奴は怪しい確率高いと判断しかけた時期もあったのだが、そうとも限らないようだし。(まさに今回『2010年』はLB表記がないのに駄目だったのに、『ロード オブ ウォー』はLB表記があるのに大丈夫だったし)

縮小再生だと一気に観る気が失せるんである。映画はデカい映像を視界いっぱいに観ることで体感・疑似体験出来るものなんで、映像が小さいと話にならない。テレビドラマや配信ものやVシネはお話を見るものであって体感して観るものではないんで小さい画面で見たって構やしないのだが、映画を観るにはせめて最低限これだけはって環境ってもんがあって、縮小再生はそれをブチ壊す。

特に宇宙空間が舞台のSF映画は だからこそ映画向きであり、デカい画面で観なければ堪能出来ない。

というワケで今回は『2010年』については感想もへったくれもないな。