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// TimeLine:220218
// NOTE:
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TITLE:
ゲームプレイヤ領域における「人権」という単語の暴走について。
SUBTITLE:
~ Diavolo. ~
Written by BlueCat

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::女権拡張を目指すフェミニストたちは、われわれ女が男たちから性的対象と見られることに、ヒステリックなほどに反発する。
 私には、あれがわからない。なぜあれほどもカッカとくるのか、それがわからない。
この種のアレルギー反応は、フェミニストにかぎらず、普通のおだやかな女たちまで多少なりともあるようで、これをも理解に苦しむのである。なぜ【ある】かというと、性交の直後に、こう男にきく女が多いではないか。
「ねえ、わたしのこと愛してる?」
 
 
 

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//[Body]
220218
 
【『人権』発言問題から、いきなりウマ娘について】
 
 ゲーマーにとって、昨今の「人権」というのは、プレイヤそのものではなくプレイヤがヴァーチャルに演じているキャラクタの「人権」を意味している。
 現実世界にしか生きていない諸君には意味が分からないだろう。
 ヴァーチャル世界において、ことに昨今のヴァーチャル世界においては、他者との関わりの中で己の存在価値や存在意義を他者に示す上で、一定以上の存在を提示できなければ意味がないのだ。特にネットワークゲームやソーシャルゲームにおいては。
 
 たとえば「ウマ娘」において、サポートカードの「キタサンブラック」が限界突破を完凸している(わかりやすく言えば、レベルが上限に達している)という条件を満たせなければ『人権がない』。
 FPSを僕はプレイしないが、未だに相応の人気を持っているだろう「APEX Legends」において、必要最低限の立ち回りや、キャラクタと装備の相性、アイテム選びのセオリィを知り、かつ体現できなければ『人権』を満たさないだろう。
 
 ここで述べている『人権』とはリアル世界の「人権」と同じように「その世界において、人が人らしく生きる権利」のことだ。
 つまり「ウマ娘」において、完凸したサポートキタサンブラックを持たない人は「ウマ娘」におけるトレーナとして考えるとき「ウマ娘の世界において、トレーナらしく生きる権利」を持たない。
 なぜならサポートカードのキタサンブラックは、主要3ステータスにあたるスピードを司り、「長距離」と「逃げ」に特化したスキルに偏る部分はあるものの、それは全体の半分に過ぎず、直線とコーナにおける速度アップとスタミナ回復の基礎スキルおよびその上位スキルを育成しているキャラクタに付与するから。
 
 かくして「人権」とまで当該ゲームプレイヤに言わしめた完凸サポートキタサンブラックは、育成しているウマ娘のアドバンテージを底上げする。
 逃げや長距離の適性がないため、そのスキルヒントが出たところで何らの意味を持たない育成ウマ娘も居るが、それでも完凸キタサンブラックは十分にその存在意義を発揮し、ウマ娘の能力を上昇させる。
 その意味で「ウマ娘プリティダービー」というヴァーチャルワールドにおいて、完凸サポートキタサンブラックを持たない者(トレーナ)は、それを持つ者と比較して、圧倒的に存在意義がない、ということができる。
 
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【一文で解説するオレすごい】
 
※「ウマ娘」というゲームをプレイするとき、他のプレイヤにサポートカードを1枚貸し出すことが出来る(他プレイヤから1枚借りることが出来る)し、育成ウマ娘の特性やプレイヤの方針によって、他にも有用なサポートカードは多数存在するから、完凸キタサンブラックを持つ者『のみ』が『(トレーナとしての)人権』を持つわけではないが、極めて高い汎用性を持ち、他の多くのプレイヤにとっても(それを貸し出すことで)高い有用性を発揮しうるという点において、完凸キタサンブラックを持ってさえいれば(ヴァーチャルワールドにおける)トレーナとして最低限の『(ヴァーチャルな)人権』を獲得できる、という論理展開は、決して不思議なものではない。
 
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【「ウマ娘」の魅力とガチャゲーへのヘイト】
 
 無論、僕自身はソーシャルゲームをあまり好まないし、ガチャゲーに至っては嫌悪してさえいる。
 ネットワークゲーム ── 先の「APEX」のようなバトルロワイヤル形式のものもそれに含まれる ── にしても、基本的に、他者との価値観の整合性を意識するのが面倒だから、好んではプレイしない。
 ゲームというのは趣味だから、好まなければプレイしない(よって僕は「APEX」をプレイしない)。
「ウマ娘」を(ときどき程度にでも)プレイするのは、ガチャ性は高いけれどソーシャル性が低いことと、レンダリングのような技術面やシナリオのようなコンテンツも含め「ウマ娘」というゲーム(あるいはそのヴァーチャルの表現)が魅力的だからである。
 
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【そもそも言語の振り幅が大きくなっている問題】
 
 昨今の日本における日本語の乱れは、たしかにひどいものだとは思う。
「○○は人権」などという言葉に至っては、最初、僕には理解が及ばなかった。
 たとえば「キタサンブラックは人権」と言われても、意味が分からないではないか。
 
 意訳としては「完凸キタサンブラックを持つトレーナ(プレイヤ)は『ウマ娘』ワールドにおいて高い存在意義を他者に対してさえ発露するので、人権を持つ ── 存続するに値する高い価値を持つ ── に等しい」といったような感じか。
 これは逆説的に「完凸キタサンブラックを持たないトレーナは『ウマ娘』ワールドにおいて、存在する価値もない」ということになる。
 
 用例された「キタサンブラックは人権」という言葉は、それを持つ者にとっては必然に、持たない者にとっては自身の存在意義を否定する言葉として作用する。
 バトルロワイヤル形式などのFPSであれば、主にプレイヤスキルがそれ(ヴァーチャル人権)を付与するのに対し、ガチャゲーの場合、文字通りのガチャ運とそれを底上げする札束によって人権(ヴァーチャル人権)の有無が左右される。
 
 僕がガチャゲーを嫌うのは、プレイヤの能力によらず、運や投資した現金によってそのヴァーチャルワールドにおける人権問題が発生するようなシステムが、ヴァーチャルワールドという平穏を過剰にリアルに寄せてプレイヤをして苦悩させるからだ。
 
 しかしながら多くのゲーマ ── ことにネットワークゲームやガチャゲーで「勝ち組」になることによって自己承認欲求や自身の存在意義を感じるゲーマ ── がそこに「ヴァーチャル人権」を感じることはシステム上やむを得ない側面もあり、ネットゲーム上でヴァーチャルな「人権」という言葉(ゲームスラング)が醸成された背景でもあるだろう。
 
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【ようやく本題らしい】
 
 ようやく本題だ。
 今回、問いたいのは「身長160cmを満たさない成人男子に人権がない」という発言があった場合、果たしてそれを一体誰が真に受けるのか、ということだ。
 
 正直なところ、一定の身長を満たさなければ人権がないなんて、誰も思わないだろう。思っていないだろう。
 対象が男性のみならず、女性の場合も胸の(カップ)サイズが一定を超えていない場合「人権」を満たさないという発言があったらしいが、これも同様だ。バストサイズで人権の有無が左右されるようなリアルワールドには、僕らは棲んでいない。
 
 もちろん、だからこそ一定の理知的水準を満たしているはずの成人かつ公的な領域で活躍するプロゲーマがそのような発言をした場合に問題視されるのも理解できないわけではない。
 発言者は、上述の通りプロゲーマらしい。
(僕はeスポーツに興味がないのでその選手の名前も知らない)
 
 ゲーマならではのゲームスラングに基づいた言語感覚によって少々騒ぎになっている ── 実際に所属チームやスポンサーから契約解除をされている ── ようだけれど、それでは公人(ソーシャルパーソンとしてのすべての人)が、公的なシーン(一定以上の規模を持つソーシャルな ── つまりは公的な ── 場面)において、一切の失言が許されないのだろうか。
 
 たとえば少々意地の悪い私は、ここで「公的な」という言葉を切り口に、政治家などを引き合いに出したくなってしまう。
 彼ら彼女たちのスポンサーと言えば、一般論的には税金を拠出している国民なのだろうけれど、一方で、我々国民とやらはそのスポンサード契約について、選挙という手法でしか示すことが出来ない。
 失言どころか、適切な国家運営すら危ぶまれる場面が多い昨今、彼らの多くがスポンサーとの契約維持や公的役割について普段から意識しているとは思えない。
 さらにいえば官僚と呼ばれる仕組みを構成するエリートについても同様、スポンサーが誰であり、公的役割がいかなものであるかを意識しているとは思えない。
 
 さながらそれはサラリーマンの多くが、何のために働くかを自己定義するうちに、自己抑制を失ったり、本来持っているべきアイデンティティを消失する様に似ている。
 
>>>
 
【オトナがいないのか】
 
 言葉というのは、意味を伝えるものだ。
 その意味において、センシティブな単語を誤用すれば、それがセンセーショナルであるが故に炎上するというのは理解できる。
 民間企業の尖兵であれば、公務員の比ではなく、あからさまに仕事を干される場面もあるだろう。
 
 しかし我々はヴァーチャルではないリアルな「人権」の、本当の意味も知っているし、それが適用される範囲についてもおそらく正しく知っている。
 たとえば言葉を知らない子供が「ゲームスラングにおけるヴァーチャル人権」のみをして、人権がどうこうと言っていたところで「やれやれ子供だなぁ」と呆れ笑って済ませることが出来るだろう。
 
 今回はたまたまメディアに表出する機会の多い(あるいはそれによって収益を得ている)成人が、ゲームスラングを現実世界に適用することで槍玉に挙げられたわけだけれど、おそらくそうした手法(「○○は無価値だ」と公言すること)で誰かを攻撃することによって怒りや不安を発散すること自体、その人自身が何らかの被害者だった可能性も高いと僕は思う。
(もちろん過去に何らかの差別的被害者になっていたからといって、それにまつわる何らかを発端にして誰かを加害していい理由になるとは言わないが)
 
>>>
 
【差別の責を問われる立場】
 
 我々はいつも何かしらの被害者だ。
 あなたが何の差別被害に遭っていたかについて、僕は知らない。
 
 たとえば僕自身についてなら「人間なのに」と嗤われ「男のくせに」と言われ「成人(社会人)でしょう」と誹られてきた。
 もちろん、それについて僕は恨むつもりはまったくない。もっと酷い目にもいくつか遭ったし、差別というのは結局のところ、関係性の中でのみ発生する事故のようなものだから、社会的なつながりを減らしてゆけば、僕が猫を自称しようが、美少女だと自身を定義しようが、子供の頃の仮想人格を再構築しようが、誰かに影響を与えない限りにおいて差別にすらならない。
 
 先のプロゲーマについていえば「誰かに影響を与える立場」で、なおかつ「誰かに影響を与えるシーン」で、なおかつ「過度に感情的に差別的発言をした」ことが問題だとされているのだろうとは思う。
 ために「社会的影響を与えることそのものをビジネス」としているが故に、ビジネスパートナーから、その責を問われ、悪影響を今後も与えることを危惧されて、ビジネスシーンから排除されるのは妥当だろう。
 
 しかしプロゲームも見もせず、当該プロゲーマのプライベートな配信やSNSについて興味もなく、ニュースでたまたまその発言を知った僕にとっては「言葉を知らない子供が、また何かおかしなことを言って世間に怒られてしまった」というようにしか映らなかった。
 
 「誰かに影響を与える立場」で「誰かに影響を与えるシーン」で「感情的に差別発言をする」「子供のような大人」なんて、しかし、いくらでもいるではないか。
 僕自身が、その例に漏れないとは思わない。
 
 たまたま僕は上記のいずれか(とくに「影響を与える立場」という項目)が当てはまらないから ── そのような(そうならない)立ち位置を選んで生きる決定をしたから ── 責を問われないだけだ。
 
>>>
 
【外への憎しみは、内への怒りだ】
 
 差別は言葉に宿るわけではない。
 人の心に、価値観に宿るそれは怒りであり、理不尽な痛みの発露でもある。
 
 差別を憎むのは結構なことだ。
 しかし一方で、差別を憎むことによって、誰かという様々な要素(僕で言えば「成人」「男性」「無職」「40代」「種族違和を抱えている自称、猫」など)を憎むのだとしたら、それはとりもなおさず自身の差別観や価値観(あるいは記憶)の宿業でもある(僕自身、男性という概念に対する憎悪を消化している最中なので、理解に難くない)。
 
 向き合うべきは、誰かの発露する差別ではなく、自身の抱える差別観だと思うのだが、それに向き合うのはやはり簡単ではないのだろう。
 なぜといって他者の中のそれを非難する方が、自身の中のそれと対峙するよりはよほども楽だからだ。
 他者のそれを糾弾するときと同様、その憎しみが強く深ければ相応に、人は己のアイデンティティまでをも抹殺せずには居られないからだ。
 
>>>
 
【憎悪のループを断ち切るのは誰か】
 
 記憶や価値観を複数持ったり、それを制御して「適切な自分」を作ることは容易ではない。
 それはある種の自己欺瞞であり、その自己欺瞞が他者を欺く可能性がまったくないとも言い切れない。
(なぜといって、たとえば僕のブログの読者は僕を猫だと ── あるいは人間だと ── 信じているだろうし、そのいずれであっても僕が「重なっている」存在だとしたら、もう一方の意味において欺いていることには変わりない)
 
 正義感の強い人ほど ── その「正義」が何に根ざした正義かは別にして ── 差別的になりがちだし、混沌という己(そこには当然、邪悪も含まれる)をまるまる抱えて正義を体現することは、言葉でいうほど簡単なことではない。
 
 ファンタジーゲームのいくつかに、悪魔を自身の肉体に取り込み、その肉体ごと封印することで世界を救おうとする類いのモチーフがある。
 悪魔が永劫に封印される試しはない。
 ヴァーチャルな世界において、封印された悪魔は必ず復活を遂げる。
 猫の場合がどうかは知らないが、少なくとも人間の場合、取り込んだはずの悪魔に支配されるのがお約束となっている。
 
 はたして邪悪に正しく対峙できるのは、正しき神ではなくて、混沌ではないのかと、しばしば思う。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::われわれ女が男から性的対象と見られて、なにがいけないのであろう。実際、ある程度の時間は、そうではないか。それにわれわれ女も、男を性的対象として見てはいないであろうか。意識するとしないとにかかわらず、絶対にそう見ているはずである。
 とはいえ、男も女も、相手を性的対象として思うだけであったら、性的にもつづかないものなのだから、心配することはないのである。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「男たちへ」(p.166)
(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
によりました。
 
なお、引用文中の傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:月夜の井戸端会議:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220214
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
モテの技術:その1 あいさつ
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220215
 
 個人的に制定されたバレンタインデー。
 昨日が公式バレンタインデーであることをうっかり忘れて書架づくりなどしていたせいなのだが、まぁ、どのみち大したことはしない。
 手作りクッキーをあげようにも遠距離の恋人はだいたい忙しいし、近距離の恋人は疫病を恐れて僕に会おうとしないからだ。
 そもそも今日は予定がない。
 
 奥様(仮想)に「バレンタインのチョコを贈っちゃうぞ!♡」と元気よく言われるが、どうせそれ、僕が買ってくるんですよね?
 我が家の経済主体たる奥様(仮想)は、僕に家電品を買ってくださったり、自動車を買ってくださったりするし、公共料金の支払いや税務関連、その他諸々の「生きる上でのリソース管理」については非常に優れた能力を発揮するのだけれど、情報戦に特化しすぎてスーパーに買い物に行くことさえ出来ない
 よってチョコを買うのは僕ということになる。
 
>>>
 
 お嬢様モテについて昨日は書いていたので、モテのメカニズムについてそろそろ整理してもいいかもしれない。
(外部から観察した場合、何らの関連性も見られないかもしれないが)
 といっても僕に経験として残っているモテというのは、技術的なことというよりもむしろ呪術的な側面が強いかもしれない。
 ネコノカミサマに対して、ブログという神具を用いて願い乞うと、だいたいそれが叶うという信じられない仕組みである。
 いやまさか、と僕も思っているのだけれど。
 
 たとえば僕が「肌ざわりが良くて清潔(これらは非常に重要な要素である)な人間の眼鏡美人にモテたい」と書こうものなら、数年内にそれが現実のものとなるという人知を超えたオソロシイ力学が作用するのである。多分。知らんけど。
 
>>>
 
 モテる上で大切なことはいくつかあると思う。
 体系的に学んで身に付けたわけではないし、分析したこともないのだけれど、分析してみよう。時間なら、ある(!)。
 
【あいさつは大事】
 僕は人見知りで引きこもりだ。
 近年ますます引きこもりが加速している。
 もはや光速に近いので、凡俗な諸君の目に留まらないのはそういう理由もあるだろう。
 
 知らない誰かに会うと緊張する。
 数ヶ月も人と話をしていないと、知っている相手でも緊張する。
 けれど、僕はあいさつする習慣がある。
 道ですれ違う人と目が合ったときも、会釈くらいはする。声を出して挨拶することも躊躇がない。
 もちろん誰にもすれ違わない方がいいけれど、すれ違うときもあるわけだからそこは覚悟を決め、腹を括るしかない。見知らぬ人がいるからといって元来た道を引き返していたら先に進めない。
 それに挨拶は「しようかな/しない方がいいかな」と悩んでいるときが一番キモチワルイ。
 一層のこと声を出して挨拶してしまえば悩む必要はない。
 そもそも、相手はだいたい知らないヤツだ。
 
>>>
 
 店で買い物をする場合も、なるべく人間がオペレーションしているレジに行く。
「(かごをレジに乗せ)こんにちは、お願いします」「○○円でお願いします」「(おつりやレシートや商品を受け取って)ありがとうございます」くらいは普通に言う。
 むしろこのくらいしか日常会話がないといってもいい。
 貴重な日常会話の機会であるから、人間の居るレジに向かうのだ。
 そうしないと日本語を忘れてしまうんじゃないかと心配なのである(切実)。
(実際、発声に必要な器官の運動能力が低下して、うまく喋れなくなったりする)
 
 飲食店の場合は「こんばんは(こんにちは)、お邪魔します」とあいさつする。
 初めての店でもそうなので、やはり記憶されてしまう。
 けれど自分の家ではないのだから、黙って上がるわけにもいかないではないか。
 
 このあたりが凡俗な諸君との様式の違いである。
 自宅に黙って知らない人が入ってきたら怖いではないか。
 それと同じ感覚で「こんにちは(こんばんは)お邪魔してもよろしいですか」と尋ねて、許可が下りたら入る。
 もちろん、ファミレスや牛丼屋などでそんなことはしないが、そういうのは建物やスタッフの空気感で読み取れるものだ。
 だいたい「個人経営っぽい店」「店主や店員が、お客様と世間話をすることもある店」であれば「おじゃまします」が適切だと僕は思う。
 大事なことは相対する人間をひとりの人として見て、道具然に扱ったり、無視したりしないことだ。
 
 すっかりそういう習慣になっているので、レジのパートさんにも結構な頻度で顔を覚えられてしまう。
 一方の僕は(軽度の相貌失認もあり)まったく相手を覚えない。
 覚えていないから毎回毎回よそよそしく、しかしあいさつをする。
 
 好意があるから、あるいは仲良くなりたいから挨拶するのではない。
 挨拶するから好意を持ってもらえて、仲良くなるきっかけになる。
 挨拶をするだけで(あいさつしない文化圏の人からは異様に見えるだろうけれど)「挨拶の出来るまともなヒト」を演じることが出来る。
 
 平日の14時にスーパーに買い物に来る中年男性(おそらく無職)がまともかどうかは知らないが、営業職の頃から14〜15時に夕飯の材料を買うことは多かったので慣れている。
 なあに、毎日買い物をするわけではないから(平日休みの会社員)という設定も可能だ(最近は作務衣で出かけるから無理だろうけれど)。
 とにかく大事なことは挨拶だ。
 
 昨今は、顔見知りでないとゴミステーションですれ違っても挨拶をしない中高年が多い(子供たちの方がまだまともに挨拶する)が、挨拶を返さないヒトというのは基本的にこちらを無視していることになるわけで、必然、そんな相手に好意を持つこともむつかしい。
 
 あいさつをされたら仕返せば、それだけで敵意を持っていないことが伝わる。
 敵意を持っていないことを伝え、無視しないことは、好意という空気感を醸成する上で欠かせない。
 挨拶を返すためには、挨拶に慣れていないとできない。
 だから恥ずかしくても、怖くても、自分から挨拶をした方がいい。
 
 大丈夫。
 挨拶をされなかったことで怒る人は居るが、挨拶をされて怒る人は居ない。
 
>>>
 
 そんなことでモテるようになるのか。
 そう思う人もいるだろう。無理もない。
 
 挨拶なんて、自分はいつもしている。
 そういう人もいるだろう。
 
 挨拶なんて段階を飛ばして、世間話が出来るぐらい親密になりたい。
 そういう人もいるだろう。
 
 見知らぬ人だとか、店で店員に挨拶するとか、そんな異常な行動をしたくない。
 そういう人もいるだろう。
 
 もしそれなのにモテていないのだとすれば、諸君の挨拶はそこまでの挨拶なのだ。
 
「自分はいつも挨拶をしている」と思っている人は、自分が挨拶をしないで無視している人がたくさん居ることに気づいていない。
 道ですれ違う人、駅や店でぶつかってしまった(ぶつかりそうになった)相手、ふと目が合った知らないヤツ ── 。
 そうした人たちを、人間と見ていないから挨拶をする必要もないと感じている。
 僕はそれらを人間だと認識する。
 だから挨拶できないと、ちょっと困る。
「無視してしまったなぁ」と、少し申し訳ないような、悲しいような気持ちになる。
 しかし、目につく人々全員に挨拶できるはずもないから、いつもちょっとだけ、自分が悪いことをしているような気持ちになるのだ。
 今日も誰かを無視してしまったような気持ちに。
 
 
「挨拶は世間話ではない」と思っている人もいる。
 そういうヒトはキスもしないで下半身に手を伸ばし、洗ってもいない爪の伸びた手で性器に触れてくるような野獣と一緒である。
 法規には触れないだろうが犯罪に等しい。
 
 玄関で服も脱がさずガールを押し倒すな。
 いや、そういうのをされたいという人もいるだろうから一概には言えないが、一般的にそれは犯罪だ。同意がなければ犯罪なのだ。
 
 挨拶は、世間話である。
 どこぞの中年実業家ならば、時間惜しさに挨拶や世間話は省略して、内容(コンテンツ)から話してほしいというのも分かる。
 しかし僕らは基本的に、仮に中年であっても実業家ではない。
 挨拶はセルモータのように、弾みをつけるものでもあるし「あなたを無視していません」というジェスチュアでもある。
 
 挨拶をされたら、こちらも挨拶をして、ひと呼吸置いて尋ねればいい。
「今日は何かありました?」
 今日、何もない人なんていない。もしも何もない人が目の前にやってきたら、それこそキミの思うつぼだ。
 キミは思うさま、キミの理想の世間話を展開できるだろう。
 
 
 見知らぬ人と挨拶をするのは、そんなに異常なことだろうか。
 僕は挨拶をして無視されることがある(道ですれ違う人の場合に多い)が、無視する(される)方が、少々異常だと思っている。
 
 もちろん、世俗にはアヤシイ奴もいる。
 訳知り顔で、親しそうな顔をして近づいてきて、こちらを卑しめたり、何かを詐取しようとする輩もいる。
 
 だから僕の挨拶した見知らぬ人が僕を無視することはまぁ、適切な反応だと思うことも出来る。
 いかんせんこちらは ── 中身は美少女で種族が猫だとしても ── 中年男性ヒトの外観をしているし、服装もスーツとは限らない。
 それに肩に猫を乗せているケースも多い。
 昼日中にそういう奴が挨拶してきたら、戦慄を覚えても不思議はない。逃げてもおかしくない。むしろ逃げた方がいいかもしれない。
 ために完全にアタマオカシイ奴と認識されたとして、非難することはできない。
 むしろ警察を呼ばれずに済んだことに感謝する、まである。
 
 しかし諸君は僕よりは自意識高い系だと思うから、他者から不審に思われるような外観をしたり、立ち居振る舞いはしないだろう。
 肩に猫を乗せて昼日中に近所をぶらぶらする中年男性を演じるのは、簡単ではないからだ。
 自意識が高すぎれば「見知らぬ人に挨拶する自分はアタマオカシイと思われないか」なんてことが気になるだろう。
 
 どもったらどうしよう。
 無視されたらどうしよう。
「え、誰? 警察呼びますよ」とか言われたらどうしよう。
 と心配は尽きないとは思う。
 
 しかし諸君は普段から道行くすべての見知らぬ人に無視されている
 知らない人、そのすべてから無視されているのだから、今さら無視が積み重なったところで痛くもかゆくもないはずだ。
 
 店のレジの人からも無視されている、お前はただの消費者だ、と言外に従わされている。
「かごを寄越して財布を出しな」というわけだ。
 もはや客ですらない。なぜならお前がレジの人を無視しているからだ。人間だと思っていないからだ。
 
 つまり諸君は普段から、道行くすべての見知らぬ人を無視している。
 当たり前だ、全員に挨拶なんてしていられるか。
 満員電車で全員に挨拶するなんて、それこそ狂気の沙汰だ。
 という理屈はとても常識的だと思う。
 
 しかし同時に、無意識に無視しているから、無意識に無視されていると思っていて、それが自身の不安に繋がっているという単純なメカニズムを理解していないのは致命的な問題だ。
 
>>>
 
 実のところ、無視されるのは決して悪いことではない。
 僕なんか、どこに行っても無視していて欲しい。
 満員電車で痴漢行為をしても無視してもらえたら嬉しいし、気に入らない人を撲殺したとしても無視してもらえるとありがたい(いずれも犯罪です)。
 
 図らずも知り合いになってしまった飲食店に食事に行ったとして、やはり一見さんとして無視されっぱなしで帰ることが出来たらどんなに楽だろうと思う。
 
 こちらが勝手に送ったメールに返事なんか来ない方が楽だし、ブログに書いたコメントは返信がない方が気楽でいい。
 友人や知り合いが全員僕を無視していてくれれば、僕は誰かに頼られることもなく、知らない奴が営業に訪問してくることもなく、NHKの黒服と僕が時間を浪費することもない。
 
 そうしたやりとりのすべてを面倒くさいと僕が感じるのは、僕が彼らを無視していないからだ。
(無視できないのかもしれない)
 
 僕は基本的に、見知らぬ他人を意識して無視する必要がある。
(人混みで酔うのはこの体質のせいだ)
 無意識的に他人を無視する(フィルタリングする)機能を持っている諸君は、それが無意識だからこそ、自分も他人から無視されている事実に無意識で怯えている。
(僕の場合は逆だから、未だに他人から注目されることに不安を覚える)
 
 不安を覚えることそれ自体は、何の問題もない。
 無視せず無視されない立場でも、無視し無視される立場でも、不安を覚えることにも、現実世界のありようにも、変わりがないからだ。
 
 ただし自身の認識や行動を、意図せず、あるいは理解せずしているのだとしたら、それが致命的なのだ。
 なぜといって、自身の行動は必ず自身に返ってくるものだし、自身の認識は現実世界を超えて自身の価値観を上書きする。
(これでも僕は仮想奥様に養われてしまうくらい、ちょっとした仮想現実の権化(自称)であるから、人間の認識がそれを取り巻く現実の相関性については詳しいのだ)
(仮想現実の権化ってすごいな)
 
 諸君が、意図せず無視し、意図せず無視されることに怯えているメカニズムを理解しなければ、その不安は誰に愛されようと、誰に認められようと、消えない。
 なぜなら諸君は、自分自身を無視し、自分自身を愛さず、自分自身を認めていないからだ。少なくとも無意識的に。
 
>>>
 
 無意識なんて分からんし、分かるはずもない、という理屈ももっともである。
「お前の言っている無意識は、意識が捉えて認識しているレベルの無意識だ。ゆえに本当に無意識であるとはいえない」という理屈も理解できる。
 
 では。意図して無視するしかない。意識して無視するしかない。
(そしてそれは、とりもなおさず意識して全員と挨拶することに等しい)
 毎回毎回、駅構内で視界に入るすべてのヒトをスキャンして、そのひとりひとりの物理的運動を演算し、自身の運動を決定しながら、都度都度無視するしかない。
 そうして初めて「誰ひとりとして無意識的に無視したりはしていない」といえるだろう。なにせ意識的に無視しているのだ。
 よって意識していない無視が、初めて無意識的な無視になる。
 それすら自覚していないのが現状だとすれば結局のところ、それこそ無意識的に無視したり認識している状態であるといえる。
 
 そうやって意識的に行動すれば、自分が無視されるときも「ああ、相手は無視する理由があって無視するのだな」と理解できる。
 相手がこちらを無視する理由は理解できなくてもいい。ただ、理屈があって理由があって、相手は自身のために無視する必要があるから無視しているのだというメカニズムが理解できれば不安はぐっと減るだろう。
 
 人が恐れるのは、無視されることでも不安になることでもない。
 理由を理解できず、状況を認識できないまま、無視されたり、不安になることがつらいのだ。
 自身が愛されない理由を精緻に理解している人間は、愛されないことについて不満を持ったりしない。
(そしてまた、そこから愛されることを精緻に体現することも容易である)
 曖昧に理解し、原理を知らず求め、仕組みを理解せず甘えるから、メカニズムに見放される。
 
 メカニズムというのは人間にだって内包されている。
 機械的なものばかり、物理的なものばかりではない、心理的なメカニズムだって存在する。
 
>>>
 
 さて挨拶の話だった。
 
 挨拶は、人間のコミュニケーションにおいて意味を持った行為である。
 コミュニケーションというのは、集団において個々の点を繋ぐ糸のようなものだ。
 
 無視もまた、人間のコミュニケーションにおいて意味を持っている。
 それは点を繋がない、空白を作ることだ。
 意味を曖昧にしているために不安になるのだとしたら、意味を明確にした方がいいだろう。
 
 無視されたくなければ、無視しない方がいい。
 無視してほしい場合は、挨拶をしない方がいいということになる。
 モテようと思えば、糸を紡いで繋ぐ必要がある。
 だから誰ひとり無視しないようにすればいい。
 最悪、警察を呼ばれたら警察官と友達になれるチャンスさえある。
 
 ところで僕個人の問題は「無視はしたくない(できない)けれど無視して欲しい」という、メカニズムに対する矛盾にあるだろう。
 つまりモテない連中の「無視しているけれど無視されたくない」というのに等しい。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
[ Parallel Line ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Mechanics-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :おこと教室:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220214
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
書架づくりとお嬢様のメカニズム。
SUBTITLE:
~ Familiar. ~
Written by BlueCat

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//[Body]
220214
 
【書架づくり】
 BPと書架を作る。
 彼の子息が大学に進学するらしく、そのために新しい書架を必要とし、それを自作することにしたらしい。
 昨日の夕方は「買ったはいいが、カットサービスも軽トラ貸し出しサービスも時間外で対応してもらえない」ということで、片道30分ほどのホームセンタまで呼び出された。
 
 僕のこれまでの経験で、自分の人生をちょっと豊かにしてくれるかもしれないもののひとつを紹介しておきたい。
 それは軽トラだ。
 軽トラを持っていると、個人の生活する上で運搬の必要が発生する物はだいたい運べる。
 ダブルベッドだって運べるのだから、あとはロープワークやクッションに使うもの(毛布だとか、ゴムマットだとか、養生シートだとか)を積んでおけばいい。
 
 それともうひとつ。
 軽トラを持っている友人がいると非常に便利だ。そいつが無職でだいたいいつもヒマなら完璧だと言っていい。
 
 さらに言うと、軽トラを持っていて無職のついでに、いろいろと便利で使い勝手のいい工具をいくつか持っているとさらにいい。
 たとえばチェインソウ、丸鋸、2000mm程度の定規、カンナやグラインダやサンダー(雷ではない。自動ヤスリの方だ)、電動ドリル、電動ドライバ、高圧洗浄機やスチーム洗浄機などなど。
 
 もちろん僕はBPたちの人生を豊かにするために軽トラを持っているわけではないし、彼を豊かにするために無職でいるわけでも工具をそろえているわけでもない。
 たまたま僕にとって僕が一番の友人だから、軽トラを持って無職で工具持ちの奴は便利だなぁ、と思っているだけだ。
 もちろん、急に呼び出されて便利使いされている事実は否定の余地もないが。
 
 
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【親としての友人】
 作っている途中、BPの子息がやってくる。
 彼に会うのは数年ぶりだ。
 身長が僕より高い。すらりとして精悍な見た目をしている。
 利発そうな目をしている。
 もう子供よりはるかに優れた見当識を持ち、10代相応に経験を積み、思考力を持っていることが分かる。
 
 少々面白かったのは、僕が父親としてのBPというものをあまりみたことがなかったことだ。
 特に、幼児の場合はペットのようなものだからさしたる面白みはないのだが、遠くない将来に成人を迎える青年と、その父親としてのBPという関係性を、会話などから見ることはなかった。
 
 おそらくBPにしてみれば、書架は買うより自作する方が安いから、という理由だったのだろうと想像する。
(僕の場合、買えば済む家具は買ってしまうが)
 しかしこうして普段から密接にそばにいて、何かを作ってくれたり都合してくれる父親というのは、息子から見ても、とても良いものなのだろうと想像できる。
 その人間関係のありようを見て、うらやましくもあり、心のあたたまる気がした。
 
(後々確認したところ「欲しいものがある」と子供に言われたとき、「まず自分で作ってみなさい」という方針で今までやってきたらしい。それで「それなら棚を作ってみてよ」という流れで作ることになったとか。個人的に、すごく好きな考え方である)
 
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【家族について】
 僕はたまたま家族を持たない選択をして現在に至る。
 子供の頃からそうだったから、今だに家族としてうまく振る舞う機能を僕は持っていないだろう。
 家族というのは道具ではないから、自分の都合で作ったり使うわけにはいかないものだ。
 
 僕自身はこれでいい。
 そして周囲に、あたたかい人間関係のぬくみを感じるとき、幸せを感じる。
 
 おそらく僕は孤独なのだろう。
 そして人間や人間関係、あるいは人間同士の信頼というものに、何らかの疑義を感じ、あるいは猜疑を生じた傷跡があるのだろう。
 しかしそれらがなければ、僕以外の誰かの人間関係のあたたかさを見て、素敵だとか、幸せだと、思えなかったかもしれない。
 
 正直なところ、家族というものを持つ面倒くささも想像がつく。
 それに伴う責任について、そもそも野良猫のように無責任な僕は考えるだけでもげんなりしてしまう。
 ために僕は家族を持つことに向かない。
 
 僕の子供の頃の記憶を、価値観を、捏造しようとしている最中だからこそ、あるいは捏造されて機能する部分が発生しているからこそ、家族という機能に対する好感を持てるようになったとも言える。
 
 僕にとっては好き勝手に生きて、好き勝手に死ぬ方が楽しくて、大切で、なにより優先すべきことなのだ。
 だから家族を作るという選択を、僕はしないままに生きている。
 仮に恋人が増えるとしても、恋人は結局(一部の例外を除けば)家族ではない。
 
 家族(あるいはそれに等しい恋人)というのが何であるかについて、僕の言語系定義と、非言語系定義は異なっている。
 非言語系定義によれば、家族というのは、好き勝手に生きて、好き勝手に死ぬことを許容してくれる人のことだ。これはほとんど「愛されている」に等しい。
(ちなみに、冬、雪、月、死などはこれに該当するタイプの恋人である)
 しかし言語記述だけでこれを理解しようとすると、ちょっと意味が分からないかもしれない。
 
 言語系定義によれば、家族というのは、もう少し一般論寄りの、即物的なモノとしての概念に近い。
 
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【ウマ娘】
「ウマ娘」で無料ガチャが1回できる様子だったので ── いちいち溜め込むようなことはしない ── 回したところ、いきなりメジロアルダンが出てきた。多分、ピックアップだろうけれど、それにしてもまたお嬢様である。
 
 正直なところ、育成ウマ娘は、もう増やしたくない気がしている。
 1日1回育成すればいい方だ(2、3日、放置することもある)し、新しいキャラを手に入れたら、真面目にストーリィを追って見たくなる。
 しかし2時間もスマートフォンのゲームに費やすのは、ちょっと重い。
 ましてウマ娘の育成は、楽しくラクなシーンだけではない。
 ステータスがろくに上がらず、コンディションが低下し、レースに勝てず、チームレースも負ける、という悪循環が続くこともある(途中でリタイアすることもある)。
 
 最近の育成における個人的な旬はメジロドーベルとエイシンフラッシュである。
 ちなみに昨年11月に欲しいと書いたトーセンジョーダンは、今回同様、年始あたりの1日1回の無料ガチャあたりで急に出てきた。
(「ブログに書いた欲しいものはだいたい実現する」ジンクスがまた実績を重ねてしまったことになる)
 
 すでに現時点でビワハヤヒデ(クリスマス仕様)を手つかず(一度も育成していないまま)で放置している。
 この上、メジロアルダン(お嬢様)である。
 そういえばシンボリルドルフも、ミホノブルボンも、この「無料券1回でいきなり引く」パターンだった。
 とにかく「ウマ娘」において、育成ウマ娘を増やして育てられるのはヘヴィユーザだけだ。
 私のようなライトユーザはサポートウマ娘を増やし続ければそれでだいたいOKのはず。
 まぁ、どのウマ娘のストーリィも、好きなのですけれども。
 2時間はつらいし、でもときどきちゃんとストーリィを観たくなるし、でも1回の育成で2時間はやっぱりつらいから、なんだかなぁ、と思うのである。
 
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【恋人にお嬢様が多かった】
 満を持して(というわけでもないか)、恋人にお嬢様系が多かった話を書いておこう。
 
 僕の恋人は、お嬢様系の人が多かった。
 お嬢様系のすべての人が、もう少しお淑やかだったら良かったのだが、良くも悪くも田舎なので、さほどでもないケースが多かった。
(言葉遣いも思考回路も、非常にお淑やかな人間型の恋人は2人しかいない)
 ここでいう「お嬢様」というのは、端的に言えば「親(あるいは世帯主、もしくは経済主体)の職業が自営もしくは会社経営者で経済的に豊か」ということになる。表記についてはあまり気にするな。オトナにはいろいろあるんだ。
 
 子供の頃からそういう傾向があったのだけれど、自分ではあまりそのあたりのメカニズムが理解できずにいた。
 
 最近になってある程度分析した結果として、総中流社会におけるサラリーマン世帯というのは「みんなとおんなじ」であることを一つのコモンセンスとしがちである。
 集団というのは基本的に、群に対して優れた性質であろうとも突出してさえいれば異端と見なす傾向がある。── 衆に劣り、集団の害となる場合はなおさらだ。
 
 これは総中流社会におけるサラリーマンという群れの集団を構成する多くの個体にとって、絶対的ともいえる資質であり、哲学であり、センスだったのではないだろうか。
 横を眺めて、だいたい同じ程度の存在であることを、それとはなしに体現することで「私はあなたに害為すものではありません。同じ種類の存在で、お互いこの集団に帰属するにふさわしいはずです」というアピールをしていたわけだ。
 
 草食動物やイワシなどの比較的小さな魚が群れを作るのと同じである。
 突出するものは、その性質の良きにつけ悪しきにつけ、その時点で集団に適さないのだ。
 
 おそらくそうした「一般的な帰属性を必須とした環境に生きる親」の元で育ったサラリーマン家庭(ここには一部の公務員も含まれる)の子供たちは、集団という規範を優先することを教え込まれることになる。
 家庭も必然に、協調性を重んじたはずだし、親もそれぞれに、集団帰属性を持ち、それを発揮したはずだ。
 
 
【お嬢様と集団帰属性】
 ではお嬢様はどうだろう。
 その親(あるいは世帯主、もしくは経済主体)が自営である、もしくは会社経営者である場合、これらはいずれも集団帰属性を強く持つ必要がない。
 むしろ集団帰属性という点においては劣る人たちでないと、自身で物事を切り盛りすることが出来ないとさえいえる。
 そういう親は「みんながこうしている」という論調には意味を見いださない。
 集団が特定の方向に一定速度で流れるとき、動きを止めたり、倍速で進んだり、逆方向に向かうのが、集団帰属性を持たない個体の特徴だからだ。
 
 ために彼女は「みんなおんなじ、なんていうことは幻想である」ことをそもそも知っている。
 自分と他の人たちが、そもそも違っていて、他の人たちの集団に自分が帰属できないことを、なんとなく肌で感じて育つ。
 物質的にもそうだろうけれど、環境がもたらした哲学や、センスも同様だ。
 
 皆と同じように感じ、皆と同じように考えることができないという事実をごまかすことができない。
 経営者たる親は「かくあれかし」と、集団帰属性を求めたりはしないからだ。
 衆に秀でる個体を育てようと思ったら、集団帰属の必要は二の次三の次だからだ。
 
 一方、サラリーマン家庭では「コモンセンス」に同調することが第一義となる。
 家庭でも、学校でも、会社でも、それは変わらない。
 集団に同調することが優先され、ために過剰な個性の発露は禁止され、子供は必然に、己の過度な個性を隠し、あるいは忘れることで自分を集団に同調させる。
 
>>>
 
 念のために書いておくが、どちらが優れていて、どちらが良い、という話ではない。
 いずれにも長所短所は存在し、向き不向きもある。
 経験上、僕のような凡人が非凡なフリをするのは本当に大変だし、真に非凡な才を持つ人が、凡人どもに歩調を合わせるのも相当な苦痛だろうと想像する。
 
 集団に同調する能力によって自身の過度な個性を削ることは ── 少なくとも集団において ── 個性を過剰に発露することで全体のリズムを乱す害悪よりはよほども素晴らしいことだ。
 個性個性と声高に訴える「社会」という集合体を、だから僕は薄気味悪いと感じる。
 
 集合体は草食動物や弱者によって主に構成される。
 個を重んじる個体は、力学的に集団から外れるものだ。
 皆が皆「個を重んじよう」なんていう集団は、すでに集団を分解させるベクトルの集合ということになる。
 集団として力学的に矛盾しているのだ。
 
 群れからはぐれた弱者は、強者のエサになるだけだ。
 少なくとも現時点での日本社会は、集団帰属性とともに結束力を失い、愚かしく空腹を満たす欲にのみ支配された個体も散見される。
 同調圧力によって形成されていた協調性や、建前ばかりの良心や賢さ、お仕着せの文化であろうと、ないよりはましだ。
 たとえば首輪と鎖で繋がれていれば、野犬だって役に立つことはある。
 戒めを解くとケダモノになる種類の人間は、いつの世にもいるということだ。
 
>>>
 
 お嬢様は多分、ある種の孤独を抱えるようにできている。
 それは人間が本来、持って生まれた孤独でもある。
 集団に帰属できない要素を自覚する者は、その要素が故に孤独を感じることになる。
 自分の帰属している(と指定された)集団を、安易に信じることは出来ない。
 自分は他人と違い、他人もまたそれぞれに違う。
 共通項が誰とでも何かしらあるのと同じように、非共通項も必ず存在する。
 そのごく当たり前のことを、当たり前に認識する。隠蔽する必要はない。
 
 ために彼女は、僕のような「集団から完全に逸脱している(しかし群に秀でているわけではない)個体」を、最初から嫌悪し除外する必要がない。
 
 集団帰属能力高い系女子ならば「青猫クンは、変人(もしくはヘンタイ)だからキラ〜イ!」と断ずるだろう。
 集団帰属性を持たないものは、家庭的でもないし、能力も劣っているに違いない。
 そもそも集団に帰属しないことは「悪いこと」なのだ。
 だからそういう「ちょっと(あるいはすごく)変わったヤツ」とはお近づきにならない方がいい、という判断をするのは至極当然といえる。
 
 結果、僕はいわゆる「フツーの」「サラリーマン家庭の」ガールにはモテにくい。
 言葉遣いも立ち居振る舞いも、他の多く居る「フツー系男子」とは異なるのだ(多分)。
 
 まず僕は(群馬生まれ群馬育ちなのに)群馬弁を使わない。正確にはあまり使ったことがないから使えない。
 父上が東京生まれで(江戸弁ではない)家族のほとんどは標準語を使っていたし、子供の頃から本を読んでいたので文語を使用する頻度が高かった。
 母上は栃木の生まれで、歌うようなイントネーションで話すことが多かったものの、言い回しが独特な部分があり、真似をする機会はほとんどなかった。
 ついでに僕は女性に囲まれて育ったので、男の子たち特有の粗野な言葉遣いとも無縁だった。
 これだけでも群馬ボーイズたちの集団に帰属できない。
 結果、僕は(特に群に秀でるわけでもないのに)目立つのだ。
 
 おそらくお嬢様以外であっても、こうした「目立つ変わり者」に好意を持つことはあるだろう。あったと思う。あったはずだ。あってくれ。頼む。
 しかしコモンセンスたる「集団帰属性」を発露しないイキモノに対して、どのように接するかというルールを彼女たちの多くは持たない。
 それらは忌避されるべき特性で、通常、嫌われたり、叱られたりする対象のはずなのだ。
(僕はたまたま子供の頃から猫だったので、叱られたり嫌われたりすることが少なかったようだ)
 
 お嬢様たちは、多く、コモンセンスに則ったルールを持たない。
 観察の範囲では、やはり家庭環境に端を発し、自身で考えることが必要だったからだろう。
 
 何のことはない。
 自分で考えることが出来るかどうかという点において、アドバンテージを最初から持っていたというだけのことである。
 そして集団帰属性が高ければ高いほど、自分で考えることが邪魔になり、やがて億劫にさえなるのだ。
 
>>>
 
 しかしこのメカニズムを、どうにかして10代の頃の僕に伝えたい。教えたい。学んで欲しい。
 そうしたら10代のうちから滅茶苦茶モテていたのではないだろうか。
 
 あ。でもでも。
 大多数の「フツー系女子」にはやはりモテようがない気はする。
 いや、出来る。デキるはず!
 まあでもいいか。10代の頃から、他にしたいことがいくらでもあったのだから。
 
 なんてことを書いているうちに、バレンタインデーが終わった。
 終わってから気づいたので、今日を僕のバレンタインデーとする。
 
 何をすればいいんだ。
 
 
 
 
 
 
 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
[Module]
  -Condencer-Convertor-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :おこと教室:ひとになったゆめをみる:君は首輪で繋がれて
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220209
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
君に枯れない花束を。
SUBTITLE:
~ Unusefulness. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220209
 
 僕が初めてコンピュータを買ってもらったのは、中学に入学するときだった。
 
 当時はまだ、インターネットというものは存在しなかった。
(パソコン通信という、電話回線越しの通信システムは存在していたが、そういう歴史は各自自習しておくように。先生からは以上です)
 
 スタンドアロンなマシン ── 。
 入り口はそれぞれだろうけれど、機械語と呼ばれる16進数の羅列を直接コーディングするところがだいたいのゴールだったように今は思う。
 機械語というのはおよそアセンブリ言語と呼ばれるものに等しい。
 コンピュータ言語の話はこのくらいにしておこう。(気になる人は放課後、先生のところに来なさい)
 
 僕の家は当時、相当に貧乏だったはずで、つまるところ僕は3歳以降、親にモノをせがんだことはなかったし、強く何かを希望したこともない。
 あまりに何も求めないまま10年ほども居たからだろうか。
 小学校の高学年でコンピュータに関する通信教育を受けさせてもらえた。
 特に希望した覚えはないが、与えられた選択肢から選んだ結果、それを学んだ。
 その成績を見ていたのだろうか。
 
 およそ1年後、コンピュータは欲しいか、と尋ねられた。選択肢はYesかNoしかない。
 与えられるものというのはだいたいこういうものだ。
 僕はそれを否定するすべを持たない。
「Yes or No」という選択肢 ── それ以外の目標も、それを説明する術も、能力も、気力も、そしてもちろん何の欲も。
 
>>>
 
 実のところ、父上は、僕とコンピュータの親和性を、何とはなしに感じていたのだろう。
 
 あの当時PCを(ろくにソフトもなしに)所有しているのは、大人にも少なかった。
 僕はもともと機械(をとくに目的もなく分解してゆくこと)が好きだった。
 目覚まし時計、TV、ビデオ、計算機 ── だいたいドライバが通用しそうな機械のネジにドライバを当てなかった試しはない。
 
 一度、電子レンジの裏ぶたを開けようとしているところを発見されたことがあり「さすがにそれはやめなさい」と止められた。
 基本的に、弱電装置(コンピュータや出力の小さなモータの類い)程度ならよいが、高出力の電子機器(家電品のうちでも大型で、マイコン基板の占める割合が小さいもの)は危険だから、という説明をされた気がする。
 もちろん、分解した機械が元に戻らないと怒られた。貧乏なのだから当たり前だ。
 
>>>
 
 未だにコンピュータが好きだ。
 未知の体系、謎の頭文字の羅列、不明な関連性、理解不能な概念。
 
 まるで伏線だらけで意味不明な中二病アニメ映画でも見ているようではないか。
(特定の作品についての意見ではありません)
 しかもフィクション内のそれらと違って、目の前のそれは実在する。
 fin. の文字のあとにはなんら実用性のないフィクション内の不可解な伏線や概念は、登場人物とストーリィを傍観している人々を悩ませることはあっても、現実世界の僕たちを救うことはない。
 
 コンピュータシステムにおける不可解は、理由があって意味があるから作用がある。
 一見、複雑怪奇な迷宮に解くべくして解かれるように置かれた問題ではなく、親切そうで精悍な外見の中に真実、複雑怪奇な迷宮と解かれないようにして置かれた問題ともつかない謎がそこにはある。
 
 まるで誰かが丁寧に作ったフィクション作品のように、それは絶対的なリアリティを持って ── あたり前だ。それは実在して ── いて、だから解かれたくない問題は本当に解かれないように作られていて、限られた糸口や関連性から、全体の情報を補完しながらイメージを組み立てるしかない。
 なぜといって、セラミックに包まれた複層構造の電子回路上を流れる電子なんて、僕らに見えるはずもないのだから。
 
 それはおそらく、僕自身の思考傾向にも適合していたのだろう。
 僕は目に見えないものを半ば視覚的に感覚することを昔から得意としていたようだ。
 いや、幽霊とか、そういうのではなくて。
 あっ! 今あなたの肩に!
 
>>>
 
 たとえばコンピュータには5大要素というのがあるけれど、それらを視覚的に把握したところでさほど意味はない。
 例えばハードディスク単体を視覚的に把握したところで、ハードディスクの機能や役割、それのもたらす恩恵について理解することはむつかしいだろう。それは他の要素を担うパーツも同様だ。
 
 それぞれの要素の機能と相互作用、それによってもたらされる全体の機能が人に与える影響までをして、コンピュータの役割/仕事と考えられる。
 概念的な全体と、抽象的な役割と、現実世界のハードウェアと、具体的な機能を、同時に把握できる人は、観察の範囲ではあまり多くないようだ。
 ために一般的なソフトウェア(たとえば MS Office であるとか)で「思い通りにならない」という事象に対し、ときどき人は立ち止まり、立ち尽くす。
 
 自身の「思い通り」がどのように実現しうるか。
 アプリケーション設計者はその「機能」をどのようにカテゴライズし、どのようなインタフェイスを持たせ、ユーザがどのようにアクセスすることを予測しているか。
 そもそも自分の願う「思い通り」は、コンピュータに実現可能か、実装可能か。
 
 それを予測できないから、人はコンピュータを「ニンゲンと違って意思疎通が不可能なモノ」だと断定する。
 たしかに複雑怪奇ではある。
 理解しにくい思想を体現しているように観察されるかもしれない。
 にもかかわらずそれは、人間が、人間のために作った道具だ。
 
 自覚的/無自覚的を問わず人間偏重主義の人ほど、このトラップに引っ掛かる。
 人間は理解できる/理解してもらえる/思い通りを実現するために力を合わせることが出来る。
 そう彼ら(彼女たち)は思っている。
 道具は所詮、人間以下で、融通が利かず、思い通りを実現するためには遠回りが必要で、力を合わせることなど到底不可能だとさえ思っているだろう。
 
 人間賛歌。
 しかしそれは他の人間というインフラを土台にして、踏みつけにして築き上げる類いの「思い通り」であることを、意思疎通というのが往々にして一方通行であることを、この人間たちは知っているのか、とも思う。
 もちろん、それ自体を否定するつもりはない。
 人間を土台にして人間であり続けることは人間社会では必要不可欠ともいえる適応で、それを拒絶することは誰も踏みつけにしないために身の回りの人間を最小限にするような、つまりは社会性とは正反対の方向性だ。僕を指さすのはやめてください。
 よって、人間が人間社会を構成する上で、集団の原理に基づくありとあらゆる「よいこと」と「悪いこと」を含めてそれに頭のてっぺんまで浸りまみれてこそ、人間は社会的に人間であり、人間社会はできあがる。
 
 けれども先に述べたとおり、人間が作らなかった道具は、これまでの歴史にはない。
 すべての道具は、人間によって作られ、使われ、時に悪用され、あるいは無視される。
 人間のために。
 
>>>
 
 なるほど。
 意味不明な道具というのは往々にして思い通りにならず、言っていることも、使われる名詞さえも意味不明だ。そのうえ相手は満足な説明もしてくれない。親切そうに画面の隅に現れるイルカは、何の役にも立たないどころか処理を重くすることで有名だ。
 
 では人間がそうではない ── 道具のように不便ではない ── と本気で信じている人間は、何を根拠に、何を土台に、その人間賛歌を築き上げているというのだろう。
 意味不明な道具然とした人間を、人間賛歌の彼ら(彼女たち)は往々にして社会不適合者として切り捨てる。
 
 なぜといって、意味不明な道具というのは往々にして思い通りにならず、言っていることも、使われている名詞さえも意味不明だ。そのうえ相手は満足な説明もしてくれない。
 
>>>
 
 コミュニケーションツールについて見識高い方々があれこれ言う時代も終わろうとしている。
 僕は未だにLINEも使わないので、そういうものには疎いままだが。
 
 意味不明なモノは、しかし、こちらに取り入ろうと躍起になったりしないし、こちらを見下すために躍起になることもない。
 ネットワークを構成して、集団の規則に合わない個体をはじくあたりは、人間のそれに似ているが(苦笑)。
 
 意味不明は社会に出ればいくらでもあって、それと手を取りダンスを踊れるくらいにならないと、渡世に溺れ窒息仕掛かることもあるだろう。
 
 そのようなわけで、高校に進学する姪にコンピュータを贈ることにした。
 誰かに何かをプレゼントすることには慣れていないので、妹に相談しながら。
 
 父上が買ってくれた、大きくて重いマシンよりずっと高性能で、ずっと安い。
(FDドライブが「ガショガショ」とリズムを刻むこともない)
 一見便利で、有能そうで、お洒落でキラキラしていて、その実、腹黒いのではないかと疑わしいほど意味不明な悪魔の道具を。
 
>>>
 
 僕は道具が好きだ。
 人間のために働く、人間の作った道具たち ── 。 
 
 中でもコンピュータのような、意味不明な道具が大好きだ。
 未知の体系、謎の頭文字の羅列、不明な関連性、理解不能な概念。
 
 ただ。
 画面の隅に現れる親切そうでポップなイルカ。
 お前だけはぜったい許さん。
 
image
<ナデナデしてくれ〜>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:
 
[InterMethod]
  -Diary-Ecology-Engineering-Link-Love-Memory-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Computer-Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220204
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自分の意思の永続性。
SUBTITLE:
~ Mistake. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220204
 
 過集中を起こしているとき、自動車を購入する手続きをした。
 まさかそれが悩みの種になるとは。
 
 当初予定していた色と異なる色で契約してしまった。
 
 いや。
 自分のしたことである。
 僕は多重人格ではないから、記憶も残っている。
 その記憶をたどれば ── 逡巡はあったにせよ ── 一定の基準に基づいて判断した結果、外観色を決定している。
 だからその結果について、それを導いた理由も、課程も、僕は知っていて理解することはできる。
 
 しかし当初の予定と異なる色で契約して帰ってきたことに、先日、ふと気づいてしまった。
 それから数日悩んだ末、色を変えて再契約することにした。
 
>>>
 
 これまでの人生で「何故そんな判断したんだろう」と思うことはたびたびあった。
 それがすべて過集中に伴う価値判断基準の齟齬によるものだとは思っていない。
 ただ価値観が異なる状態が(たかだか車のカラーリングといえばそこまでだが)実世界にきちんと影響を与え、それがきちんと自身にフィードバックされることを自覚したのは初めてだったので、ひどく驚いた。
 
 なんだかんだといって、仮想人格のすべては僕自身の内側「だけ」の問題であり、僕ひとりによって完全に制御できているものだと思っていた。
(無意識に位置している仮想人格系はその限りではないが、それらの形成や管理、運用についてはここでは触れない)
 
>>>
 
 僕はもともと、かなり怠惰な性格だったので、社会人になるくらいまでは「なぜそんなに判断を先延ばしにし続けたのだろう」と思うことは多かった。
 ありとあらゆる決断が出来なかった理由は単純で、僕は受け身にしか生きていなかったからだ。
 
 おはようからおやすみまで、一切合切について選択をする必要はなかった。
 与えられるものについて、およそ選択の余地もなく受け入れるか、可能ならばそれを拒否するか。
 拒否できないものは、ひたすらそれにまみれるよりない。
 
 環境は僕に選択肢を与えなかった。
 一番最初に自分にとっての何かを選んで、それを手にしたのはいつだったろう。
 選んで他人に求めたものはすべて、手に入らなかった。
 子供の頃からそれは徹底していた。
 他人が与えるという前提のものは、基本的に、僕の求めているものではなかった。
 
 整理するとこうなる。
 与えられるものは、与える者の勝手によって与えられ、受け取るか拒否するしか選択肢はない。
 僕が欲し求めるものは、それを誰かに頼り、求める限り、手に入らない。
 
 結果として、僕は自分の欲求を満たすことの出来る自由や力を早く身に付けたいと思った。
 思ったものの、自分の欲しているものごとについて欲していると自覚し、目の前に並べられたカードを的確に引き続けるという技術は、へたな子供のそれよりも劣っていただろう。
 
 
 たとえば僕は、高校に進学することを最初、拒んだ。
 進学というのは選択である。
 欲することをそもそも必要としなかった僕にとって、進学することを欲しろと言われても困った。そんなことは求めていないし選択もしたくない。
 ついでに僕の主観によれば僕の家はそのときもなお貧しいはずだった。
 進学をしないで就職した方が良いだろう、という判断は妥当だと思えた。
 もちろん欲してはいないし求めてもいない。それは進学しようと就職しようと同じことだ。
「みんながそうしているから」という理由を僕は持たなかった。
 みんなとは違う環境に育っている以上、みんなと同じものは求めても与えられなかった。
 
 環境に対して単純に受け身になることで生き存えた。
 選択を求められたら選択し、その上で与えられるもの(それがプラスかマイナスかを判断するのは自分ではない)を黙って受け取る。もしくは受け取ったフリをして放棄する。
 自ら何かを求めれば、それは互いにとって摩擦を生むものでしかなかった。
 
 結果的に高校に進学することにはなったのだが、環境は僕に進学することを求めただけではなく、奨学金制度を利用することを求めた。
 
>>>
 
 かように僕は、欲し、求め、選択し、判断することに慣れていなかった。
 欲しいゲームひとつ買うにしても、まず本体が買えない場合が多く(一人暮らしの社会人というのはいろいろ大変なんだ)、まずは攻略本やガイドブック、アートワークなどを買って、次にようやくソフトとハードを買うことが多かった。
 外堀を固めて、そうした「環境」の圧力を観察し、もっとも抵抗の少ないコースを選ぶ。
 
 自分から求め、環境に抗い、力を発揮し、目標に到達する。
 そういう経験を、僕は、プログラミング以外では経験しなかった気がする。
 
 努力はしない。したことがない。
 努力などというもので変わるような結果は存在しない。
 努力というのは実力のうちだから「努力すればなんとかなる」という発想は相当狂気じみている。
 実力以上の力が努力によって発揮できるようになるというのは幻想だ。
 
 頑張りもしない。したことがない。以下同文。
 
 そもそもそうまでしないと到達できないものについて、もし自ら欲したのだとしたら、それは努力など必要ともせず到達できるものだろうと僕は考える。
 したくないことを無理矢理しようとするから、実力が発揮できない。
 それでも結果を求められるから、努力だの頑張りだのというありもしない幻想を焚きつけることになる。
 
 壁を塗るときと同様マスキングや養生をし、環境を整え、失敗しない状況や、成功が必然の流れを作る。まだ持っていないゲームの攻略本を買えば、そのゲームを買うことが必然になるように。
 
>>>
 
 エアコンを装備した自動車を買うこと(奥様(仮想)の提示した必要条件)は簡単だ。
 しかし自動車という意味でいえば、僕は軽トラで間に合っている。
 エアコン付きの軽トラと入れ替えるか。
 いや、その必要はない。
 軽トラは基本的にホームセンタで建材を買ったり、自宅から清掃センタに粗大ゴミを搬送するのに必要で、たとえそれが真夏であろうと、エアコンはなくても問題ない。
 
 それで、好きな乗用車を買おうと思った。
 好きな。
 
 そう。
 好きなもの。欲しいもの。
 誰かにあてがわれて選ぶのでもなく、誰かに言われて欲しいふりをするのでもない。
 自分が好きで、自分が欲しいと思うもの。
 
 最適解として到達するものではなく、最適解を導くための動機そのもの。
 
 ── そんなもの俺にあるのか。
 
>>>
 
 古い車が好きではある。
 日本の、古くて、小さい車が好きである。
 
 しかし古い車はメインテナンスに手が掛かる。
 放っておくとエンジンが爆発したりもするだろう(実話)。
 エンジンが爆発する車を買うことも、エンジンが爆発しそうな車を買うことも、それは許可されていない。
 なるべくならエンジンの爆発とは無縁の車を選ぶ必要がある。これも提示された必要条件だ。
 車は新しければ新しいほど、爆発の危険から遠ざかる。
 
>>>
 
 好きな色というのは、ある。
 子供の頃とも、あるいは20代の頃とも違う色だ。
 あるいはもともと、この色の方が好きだったのかもしれない。
 
 それで。しかし。
 僕が契約に出かけたときに、僕の価値観は眠っていた。
 朝方までゲームをしていたせいかもしれないし、筋トレをしすぎたせいかもしれない。カフェインを摂取したのも悪かったかもしれない。
 しかしそれは現象に過ぎない。問題はアドレナリン反応が制御できなくなったことだろう。
 結果、日中の僕は眠っているに等しかった。
 
 僕以外のどの価値観も、それぞれの「最適」を算出できる。
 しかしどの価値観も「好き」を持っていない。
「好き」なんてものを持っているのは僕だけだろう。
 
 好きが重なったり分散すると、それは厄介な抵抗になる。
 デザインされた価値観に、それは必要ない。
 無駄を削ぎ落とさなければ、最適解は導けない。
 
 そして最適解は、動機そのものでは、ない
 
>>>
 
 仮想人格系は居眠りをしていても物事が自動化される便利なシステムだ。
 通常、こんなものを意図して作り、運用しようという人はいないようだ。
 多くの人は、自分という確固たる存在の中に、もじょもじょと曖昧で矛盾したものを抱えて、自分の中の一貫性を体現している、少なくともそういうつもりになれるのだろう。
 
 居眠りしているあいだに運用されたシステムがもたらした結果について、僕はそれを覆すことにした。実に数週間も逡巡した末。
 熟考の末に自ら導いた最適解を「なんかちがーう」と拒否するのは勇気が必要だった。
 
 たいしたことではない。たかだかそれは自動車の色の問題だ。
 
 自分で選ぶというのは、なんとむつかしいことだろう。
 自分の好きを好きだと思うのは、なんとむつかしいことだろう。
 自分の好きを好きだと伝えるのは、なんと恐ろしいことだろう。
 みんな子供の頃から、こんなにむつかしいことを当たり前にしているのか。
 
 あるいはだからこそ大人になるにつれ、環境に合わせたり、無難な選択をするたびに、タマシイが削られるような思いをするのかもしれない。
 
 僕の場合、最適解を導いて実行するのはごく自然なことだ。
 
「好き」を言うことに対する畏れだ。
 好きと言うこと、好きなものを求めること、それを欲すること。
 それを誰かに伝え、それを手に入れたいと思うこと。 ── その恐怖。
 何か酷い運命が待ち受けているような気がして、息が苦しい。
 
 悪魔に売れるものはだいたい売り尽くしてしまった。
 この上、なにを差し出せば赦されるのだろうか。
 
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 奥様(仮想)は僕を甘やかす。
 甘やかすのは簡単だ。
 僕にとって技術的にむつかしいものはない。
 
 甘やかされるのはむつかしい。
 苦しいし、恐ろしい。
 最悪、悲しくなることさえある。
 
 姉妹であるとか、自身であるとか、無難で、裏がなくて、好き勝手に言えて、悪い結果が起こらない範囲で、それを試すしかない。
 
 いつか。
 甘やかされている自分ではない誰かを見て、微笑ましい気持ちになれるだろう。
 今までの僕は、心のどこかで、その弱さを蔑み、その甘やかな関係を憎んですらいたはずだから。
 
 変わることは容易ではない。
 自身の価値観を、記憶を、ジンクスを書き換えてゆくのは、簡単ではない。
 なるほどそれから比べれば、自動車の契約を破棄して再契約する方が楽だ。
 
 変わることは簡単だ。
 自身の価値観を、記憶を、ジンクスを書き換えてゆくのは、容易なことだ。
 なるほどそれから比べれば、自動車の契約を破棄して再契約するのはもっと楽だ。
 
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 自ら契約した自動車の色を変えて、再契約した。
 人はそれを優柔不断と笑うだろう。
 実にその通り。
 自分の意思で何かをつかむことは、容易ではない。
 
 ずっとつかまえていることなんて、まして不可能だろう
 きっと、それでいい。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Form-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
[Object]
  -Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220207
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自動機械が寿命を延ばすことはない。
SUBTITLE:
~ Time extended. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220207
 
 洗濯機を乾燥機付きのものにしようというのは、前橋市に棲んでいる頃、考えた。
 ほどほどにお金を貯めて家電量販店に行ったのだが、洗濯機を設置する場所(脱衣所的な場所)の入り口サイズに(物理で)阻まれて設置が出来なかったため、断念した。
 
>>>
 
 乾燥機付き洗濯機を導入する理由は単純だ。
 それは時間を節約する。それも毎回20〜30分も。
 
 世の中にはときどき「洗濯大好きガール」が存在する。
 念のために言っておくと、僕の恋人にいた試しはない。
 洗濯大好きであることをひた隠しにしていた可能性は否定できないが、恋人に洗濯や掃除をさせる趣味が僕にはないので確認する機会はなかった。
 
 洗濯大好きといってももちろん、川が好き、とか、洗濯板の感触がたまらない、とか、そういうことではない。
 洗濯そのものは洗濯機に任せるのが一般的だ。
 しかし彼女たち(もしかしたら男性にもいるかもしれないが)は、洗濯物を干して、取り込んで、畳むことに無上の喜びを感じるようだ。
 
 一方の僕はといえば、自堕落の典型である。
 食器洗いも面倒だし、洗濯なんて大嫌いだ。
 正直に言うと、この15年ほど、取り込んだ洗濯物をまともに畳んだこともない。
 一人暮らしを始めて数年は畳んでいたのだが、鎖骨を骨折した前後から「干しっぱなしにしておけばいいんじゃん。オレっち天才!」と勘違いをして現在に至る。
 
 怪我に関係なく恋人が勝手に畳んでしまうことはある。
 もちろん嫌ではない。
 恋人についてはカラダが目当てなだけなので、生活上の実用性を満たされると困惑する。
 自分で出来ることをしてもらうというのは、なんだか申し訳ない気持ちになるのだ。
 
 しかし僕は洗濯があまり好きではない。
 シミ抜きや、襟袖の下洗い、漂白剤の選択や重曹などの添加、糸くずネットの補修や代替品の選定、色物と白物、タオル地のような繊維ホコリの出やすいものと、そうでない衣類の選別。
 洗濯前の選択から苦労が絶えない。神の宣託を待ちたいくらいだ。
 
 洗い終わったら伸ばして干す必要があり、乾いたら(取り込んでも畳まず)どこかに仕舞ったり、そのまま干しておく。
 このあたりも非常に面倒だ。
 干す作業が、地味に面倒なのだ。
 
>>>
 
 そのような理由から、僕は乾燥機付き洗濯機を欲していた。
 あれは間違いなくその自動化によって僕の寿命を延ばすことなく可処分時間を増やせる
 素晴らしい。
 
 たとえ100年生きても、その30%を睡眠に。その40%を家事や労働に使っていたら、可処分時間は30%、累積30年である。
 一方60年生きて、30%を睡眠に、20%を家事や労働に充てた場合、可処分時間は50%。累積時間は同じく30年である。
 
 買える時間は買え、というのが僕のモットーである。
(ちなみに座右の銘は「テキトーにしていてもどうにかなる」)
 結局のところ、ニンゲンを使って家事をさせるのは非常に効率が悪い。
 他人を使うなんてもってのほかだ。
 思うカタチがあるならば自分で作るのが一番早い。
 
 というようなことを説明したわけではないのだが、我が家の経済主体たる奥様(仮想)が新しい洗濯機を買ってくださった。実に素晴らしい洗濯機を。
 
>>>
 
 結論から言うにはほど遠い前置きがあったので格好がつかないが、結論を言おう。
 素晴らしい。
 
 干す手間と取り込む手間がない。
 これでだいたい毎回30分だ。どうだ、まいったか!
 毎回30分、時間が浮く。
 2日に一度は洗濯するから、一日あたり15分。
 365日で5,475分。
 およそ91時間もの可処分時間が増える。丸々4日に近い。
 つまり369日になる。うるう年なら370日だ。
 
 えっちょっと待ってそれ凄い信じられない気絶しちゃう。
 
 しかもあれですよ。
 シーツやタオルケットは、今使っているものを洗ってそのまま昼にはまた使える。
 つまり予備も最小限でいいから、仕舞う場所も最小限。管理の手間も最小限。
 待て、言い出していることが(個人的に)大嫌いなミニマリズムの尖兵っぽくなっているぞ! これ以上踏み込んでは危険だ!
 
 コホン。
 
>>>
 
 まぁいずれにしても、すごく時間が浮く。
 どうせオマエは無職のぼっちだからどのみち時間を持て余してるんだろう、とか言うな!
 昨日だって数ヶ月ぶりに友達から電話があったし、エビ持ってくる友達もいるし、あとはえーと、猫! 猫がいるし、ときどき忘れた頃に数年ぶりのメールが恋人から届いたりするんだからな!(そういう恋人もいるんだよ。オトナの関係にはいろいろあるんだ)
 
 奥様は、ふかふかの洗濯物を抱えてホクホクしている僕を眺めてニヤニヤしている。
 なるほど楽しいらしい。
 
 時間富豪を目指す(つまり見ようによっては時間ケチの)僕であるが、可処分時間を何に使うかについては特に決めていない。
 今日もぼんやり過ごす。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220207
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
壊れた TimeMachine はどこに行くのか。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220207
 
 TimeMachine(Macの標準バックアップ)の不調に気づいたのは数日前だ。
 Wi-Fi 接続の MacBook は問題なくバックアップされるのに、有線接続の MacMini はバックアップに失敗する。
 1週間以上、そんな状態だったようだ。
 保存先は同じドライブで、LANユーザも同一なのに、だ。
 
 有線はハブを通じてWi-Fi ルータに接続されている。
 ルータから有線でNASが接続され、NASからUSBでTimeMachine 用のHDDドライブに接続している。
 よってコンピュータとルータ間、ルータとNAS間の接続や設定に問題があると考えた。
 接続に関する設定が、もっとも煩雑なのが、ルータとNASだからだ。
 
>>>
 
 結論からいうと、TimeMachine のバックアップデータ自体が破損していた。
 TimeMachine のデータは単一のディスクイメージなため、任意のレコードにエラーが発生すると、ディスクイメージ全体が破損扱いされる。
 
「システム環境設定」から「Time Machine」を起動し、メニューバーに TimeMachine を表示させ、Opt+クリックで「バックアップを検証」を選択することで、バックアップデータを修復できる。
 むしろそれだけでよかった。
 
(勝手に修復しろ)とは思うが、問題は「バックアップに失敗しました」というメッセージしか出ない点だ。
 いかんせん、LAN経由のNASに接続された外付けHDDが相手なので、何が問題なのかが分かりにくい。
 ネットワークの問題だとばかり思っていたら、データに問題があるなんて、一体誰が考えるものか。
 
>>>
 
 NTT支給の光ユニット。ソフトバンク支給の(そして外せないから足枷になっている)ルータ。
 そこから Synology の Wi-Fiルータ。そこからハブを通じてNAS。その先に TimeMachine 用のHDDドライブ。
 我が家のLANは地味に複雑だ。
 ルータ2つとNASにはそれぞれ(ちょっと複雑な)設定がある。
 一般的なISP設定の他、機器間の通信ルール、ユーザの設定や、LAN内ファイル共有におけるファイル形式や接続ルール、Wi-Fi 接続のルール、NASのユーザとボリュームに対するパーミッション、NAS付属のアプリケーションと許可ユーザ、それぞれのセキュリティ設定、etc,etc...
 
 それらを改変してしまった。
 
 結果、MacMini のバックアップは可能になったのだが、今度は MacBook が Wi-Fi に接続しなくなった。
 仕方なく、さらにあれこれ確認して、改変した。
 
>>>
 
 正直に言う。
 僕はLANに関する知識はほとんどない。
 高度なルータに使われる用語はもちろん、VPNが具体的にどんなものかさえ分かっていない。
 確認して、設定を変更するたび「それが果たして合っているのか」なんて分からないのだ。
 
 結果的に、MacBook はwebに接続できるようになった。
 
 じつにここまで3日掛かった。
 
 そして今日。
 
 iPhone の Wi-Fi 接続が不安定になっている。
 もういやだ。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:
 
[InterMethod]
  -Diary-Technology-
 
[Module]
  -Reactor-
 
[Object]
  -Computer-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :工場長の設計室:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220203
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
困惑のエスプレッソマシン。
SUBTITLE:
~ First kiss. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220202
 
 少し、困惑している。
 
 新しいエスプレッソマシンを購入したのは去年の終わりのことだ。
 豆を挽いて、詰めて、抽出して、フォームドミルクを作って、という一連の作業を自動でしてくれる新しいマシンは僕の好みのエスプレッソをおよそ正しく抽出してくれるし、フォームドミルクの肌目も自在であるから、以前のマシンは不要になった。
 だからそれを捨てなくてはならないのだが、どうも捨てにくい。
 いや、物理で重いとか、大きいとか、そういうことではない。
 
 僕は不要なものは容赦なく捨てる。そう公言してもいる。
 たとえ使えるものであったとしても、使わないものであれば、それは僕には必要のないものだ。
 もちろん若干の例外もある。
 たとえばMacのG4Cubeという機種を、僕は大事に保管している。とても綺麗な設計だからだ。
 
 しかし無骨な外観の、廉価なエスプレッソマシンに、まさかそこまで愛着を感じているとは自分でも思わなかった。
 
>>>
 
 そのエスプレッソマシンを買ったのは、かれこれ12年ほど前になるだろうか。
 一般的なエスプレッソマシンというのは、手軽にエスプレッソやカプチーノを愉しむことができる。
 しかし手軽であることと簡単なことは違う。
 少なくとも僕にとっては簡単な道具ではなく、思ったようにエスプレッソを抽出できるようになり、思うままのフォームドミルクを立てられるようになるまで、実に半年ほども掛かった。
 
 当初は壊れているのではないか、私の買った個体はハズレだったのではないかと疑ったほどだ。
 エスプレッソを上手に抽出するのに必要なことはたったふたつ。
 豆の挽きの細かさ、適切なタンピング、それだけだ。
 それなのに思うような濃度で、思うような美味しさのエスプレッソを抽出することは簡単ではなかった。
 
 ようやくエスプレッソが淹れられるようになったら、こんどはフォームドミルクが上手に作れない。
 ミルクの温度が高くても低くても、適切な泡を作ることができない。
 手の感覚だけれど、だいたい45℃から60℃で最適な泡を作ることができる。
 温度が低いと泡はあっという間にはじけてなくなってしまうし、温度が高いと気泡が膨張して破裂し、結果として泡がなくなってしまう。
 ミルクの温度は、エスプレッソの味も変質させる(高温だとカフェインの辛さが強くなる)。
 
 温度や粗さや固さを、目で、手で、感触して、把握して、イメージできるようになるまで掛かった時間が、だいたい半年というわけだ。
 
 ままならず苛立たしい道具だったそれは、見知らぬ道を導く師となり、やがて欠かすことのできない相棒になった。
 
 カプチーノを淹れるのは、決して簡単ではない。
 エスプレッソマシンがあれば手軽に自宅で作ることが可能だけれど、その道のりは結局、簡単なものではなかった。少なくとも僕には。
 それでもカプチーノの甘やかな泡を口にし、その香りが部屋を満たすとき、僕の疲れは癒え、悲しみは忘れられ、昨日も明日もなく、ただただ馥郁たる一杯のエスプレッソを無心に愉しんだ。
 
>>>
 
 新しいエスプレッソマシンはおよそ完璧だ。
 ボタン一つで最適な濃度の、最適な温度の、最適な量のカプチーノを抽出してくれる。
 手軽で、かつ、簡単だ。
 一杯のエスプレッソを淹れるのに掛かる時間を大幅に短縮してくれる。
 
 なのにどうしてだろう。
 あんなに手の掛かった、あんなに悩ましく腹立たしかった、時間と手間の掛かるエスプレッソマシンに対する愛着は、それを捨てることを悲しく彩る。
 
 時間というのは、記憶というのは、感覚から捨てることができるのだ。僕はそれを知っている。
 捨てずに大切に仕舞っておいても、感激はやがて色あせ、思い出は風化し、有耶無耶になってゆく。
 
 なあに、なんとなればまた、手の掛かる半手動式のエスプレッソマシンをまた買えばいい。
(あれはかなり廉価だ)
 それでもなぜか、あのエスプレッソマシンだけが特別だったような、そんな気持ちにさせられる。
 この個体だけが、僕のエスプレッソマシンだからだろうか。
 
>>>
 
 僕は少し、困惑している。
 
 上位互換の道具を得て、使わなくなった道具は、不要なものだ。
 12年も経って、ガタも出てきたそれは、使い古されたエスプレッソマシンだ。
 だからそれがゴミに出されたとして、誰も驚かないだろう。
 でも僕は驚いてしまう。ショックを受けてしまう。
 
 そして僕は使わない道具なら、僕にとって使えない道具なら、何のためらいもなく捨てる。
 それは僕の価値観だ。
 これはゴミだ。
 それが僕の価値観だ。
 
  ── これはゴミか?
 
 それで僕は驚いてしまって、ショックを受けてしまって、戸惑ってしまう。
 冷え冷えとした台所に立ち尽くし、無骨で古びたエスプレッソマシンを前に、どうしようかと、語りかけてしまう。
 
 苦楽をともにしてきたエスプレッソマシンはいつも通り、黙ってそこに佇んでいる。
 僕が失敗するまで、何も教えてくれない。
 僕が成功するまで、何も教えてくれない。
 どうすればいいのか、戸惑ってしまう。
 
 これはゴミか。
 これはゴミなのか。
 
 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Convergence-Diary-Link-Love-Memory-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Memory-Poison-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひなたぼっこ:キッチンマットで虎視眈々:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF