220108

 

 予定のない日。心地よい目覚め。

 恐る恐る時間を確認する ── ときどき昼頃だったりするので ── と、まだ0930より少し前である。

 

 記憶では土曜日。

 たしか月曜まで連休のはずなので、外出を避けることを決定する。

 

 室内気温は13℃。

 以前なら、室温がこの程度でもベッドの中が寒くて目覚めていたが、10℃以下でも今は平気である。むしろ少し暑い。

 

 いつものとおり、隣で寝ているアヲを起こして口のニオイを嗅がせ(アヲはよく嗅ぎに来るので、面白いから日課にしている)、自分の身体のあちこちを撫ぜてから着替える。

 足指の股が切れていたのだが、塞がったようだ。

 薬を塗ってマッサージしたので、素早く回復したのだろう。

 

 軽く予定を確認するが、次の予定は火曜であり、それまで何の予定もない。まあいつも通りか。

 

 ヒータのスイッチを入れ、ストーブを点け、火鉢の灰の奥から赤々とした炭を掘り返して、炭を足す。

 五徳に掛かっていた鉄瓶に水を満たして、火鉢に戻す。

 

 まったくもって昨晩は、火鉢を点けるまで(ヒータとストーブだけでは)寒くて仕方なかった。

 コタツのないこの部屋では、やはり火鉢だな、と思う(奥様(仮想)が物言いたげにこちらを一瞬睨んだが、見なかったことにしよう)。

 

 本を読んだり、軽く筋トレして過ごす。

 

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 僕は極端なルッキズムに毒されてはいないがしかし、極端なルッキズムと同様、極端なアンチルッキズムも毛嫌いしている。

 

 詰まるところ極端なルッキズムとは阿呆(失礼)の象徴のようなものだ。

 外観ばかりで中身のないモノなんて、工業製品にも多々あるもの(冷蔵庫のことを言っているのではない)だけれど、にも関わらずそれ(外観)に引きずられて商品を選んでしまうことはよくあることだ。

 

 かくいう僕もApple社が、とぅるん、とまぁるいiMacをリリースしたとき、欲しくなって買った。

 実に5年ぶりくらいにコンピュータに触れたのであった。

 

 しかし上記の(極めていい加減で、断片的で、何の説明もしていない)例からも分かるように外観が良いことやそれを褒め称えることは、決して悪いことではない。

 問題は、中身がなくても外観が良ければ素晴らしいとする価値観であり、その価値観が高じて外観の優れないものを極めて劣悪だと評価する軸を持つことであり、そしてなにより外観に優れないものを劣悪だと評価する軸に毒されて劣等感を感じる己の自己顕示欲である。

 

 アンチとは、アンチならざる本体がなければ成り立たない概念だとよく言われる。

 ならばアンチルッキズムとはすなわち、それを唱える人間こそがひょっとして、相当に、過度のルッキズムに汚染された結果の自己否定感が生み出した概念のように思えるのだ。

 

 なので僕はどちらかと言えばアンチ=アンチルッキズムである。

 平たい言葉で言うと「どっちも阿呆らしくてやってらんねぇ」ということ。

 

 優れた性能を持つ工業製品に美しい外観が備わっていればより愛されるように、頭脳明晰沈着冷静筋骨隆々なだけでなく、眉目秀麗であればなお素晴らしい、というのは必然だろう。

 どうしてわざわざ「外観は機能と認めない」なんてヘンなレギュレーションを押し付けてくるのか。

 あれか、オマエが不利になるからか、という結論に至るのは必然だろう。

 

 すなわち過度のルッキズムが「外観に優れた人を称賛し、優れない人を蔑む」ようにまた、過度のアンチルッキズムとは「外観に優れない人を称賛し、優れた人を蔑む」に過ぎない。

 どちらも馬鹿馬鹿しいとは思わないだろうか。

 

 そしてあえてどちらがまともに近いかと考えれば(過度である以上、狂気に違いはないが)ただのルッキズムのほうがまだ「まし」ということになる。

 

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 もちろん僕は美人が好きである。

 僕が軽度の相貌失認であろうとそれは変わらない。

 機能に優劣を感じるように、外観にも当然に優劣を感じる。

 だからといって外観は機能の一部でしかないし、機能もまた外観に現れるという事実を否定することも不可能であり、これらは不可分のものだと認識している。

 

 劣っているのは悪いことだ、とする価値観こそが問題の根源であることを理解しているのかと訝しく思うのだ。

 

 勝負をすれば勝ちがあって負けがある。

 比較をすれば優れたものと劣ったものが区分される。

 それが高じているから「〇〇なら絶対」「〇〇なら神」といった逸脱をすることになる。

(絶対も神も、相当に相対性とは対局にあるので)

 

 なぜ劣っていることが悪いと感じるのか。

 なぜ劣っていることで悪い評価を受けていると思うのか。

 すなわち自分が劣っていることを悪だと決めつけているからではないのか、ということ。

 

 適材適所という言葉もある。

 群に劣って最下位だとしたら、それが却って取り柄になることもある。中間であれば、上には上、下には下があるということになる。

 

 たとえば卑近な例だけれど、あまり外観に優れない女性が恋人だったことがある。

 しかし衆に優れて言葉遣いが綺麗で、立居振る舞いが静謐で、そのうえ眼鏡を掛けていて肌触りも良かったので、僕はその人のことをたいそう好きだった。

 10年ほど付き合ったその人は僕に一度として料理を作ってくれたことがなかったが、それがもう最高に良かった。

 なぜといって料理を作らない女性は、絶対に口に合わない料理を作って食べさせたりはしないからだ。

 

 どうもヘタなガールどもは、いわゆる「女子力」アッピルのために手料理などというものを振る舞ってくれたりするのだが、だいたいおまーらよりオレの方が家事歴長いんだカンナ、ナメンナヨナ! という結果が多い(不適切な表現についてこの場を借りてお詫び申し上げます)。

 仮に年上ガールだとしても、煮る焼く炒める蒸す揚げるを9歳には覚えてしまった(覚えただけで失敗しなかったわけではない)以上、経験値というもののスタートラインが違うのだよキミぃ、という気持ちにもなる。

 

 念のために断っておくが、だからといって、ガールの作った料理を一度として「マズイ」なんて言ったことはないし、さらにいえば(満腹になった場合や、体内に取り込むことが一定以上危険と見なされる場合を除いて)ひと口として残したこともない。

 口に合えば褒めることについてやぶさかではないし、口に合わなかったとしてそれが料理の腕が悪いからだなんて思ったこともない。

 口に合う/合わないとは文字どおり、食べるこちらの問題で、相性の問題だからである。

 

 ルッキズムの問題とは、つまりこの冗長にして不器用な喩え話のように、受け手とその評価と評価にまつわる表現方法と自己顕示欲の決着のさせ方の問題であり、表現する側(料理を作る側や、見目麗しかったり麗しくなかったりする側)の持つそれらの問題が占める割合など、たいしたものではないのだ。

 

 

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 僕が筋トレする理由のひとつは「ハラが出ているおっさんは、自己管理ができていない感じがしてなんかイヤだな」という、あからさまなルッキズムに起因している。

 風呂に入って足首を洗うときに「うっ!」てなるから、という理由ばかりではない。

 

 ゆえに僕は、自身のルックスになんの自信もない。

(そもそも足首を洗うときに「うっ!」となることがあるのだから)

 もっとかっけ〜感じのおっさんはたくさんいるし、そもそも若いボーイたちの方が肌も綺麗だし、しゅっとしている。

 さらにもともとの性格も相まって、誰とも競争なんてしたくない。

 

 なので外出しても、なるべく人目を引かないように、だらしなくないように、不快感を与えないように、スーツで出かけたり、立居振る舞いや言葉遣いに気をつけているのだけれど、どうやらこれが逆効果で目立つ原因になっていると最近(奥様(仮想)の指摘により)気がついた(遅い)。

 

 だからといって、今さらガサツで粗野な感じで群馬弁も使って行動するのもむつかしい。

 

 群れの中にあって、どうして自分が浮くのかまったく理解のないまま社会から離れてしまったので、来世で社会人になることがあったら活かしたい。

 今生についてはもう諦めた。

 

 無人島に生きる最後のクジャクよろしく、他のイキモノから遠巻きにされながら生き、そして死ぬ。