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// TimeLine:2021-04-23
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TITLE:
失われた欠如と、欠如を持つ者とのプロトコルについて。
SUBTITLE:
~ eldritch contradiction. ~
Written by BlueCat
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//[Body]
愚にも付かないことを考えるなら夜がいい。夜中がいい。
日中は、やはり、人々の生活が、風に乗って漂っている。
人の気配。
人類の妙。
陽の光。
前に進む意思であるとか、未来に向かう希望であるとか。
そういうもの。気配が。
たとえばゴミ収集車の姿に、たとえば道行く園児に、働く人々の息遣いに、規則正しく働く信号機に、感じられる。
夜中は違う。
人の気配がなくなり、機械は息を止め、信号機さえまどろみにさまよう。
動物たち、星々、月、季節の風、未明の空気、闇の気配が、耳から目から忍び込んでくる。
人間の意思も人類の希望も、明るい未来も自由な発想も、経済の発展も人々のつながりも、まぁとりあえずは眠っている。
建設的である必要もなければ、前向きである必要もない。
未来に向かう必要はないし、停滞していても問題はない。
明るく楽しく元気よくレッツゴー! みたいなノリでなくていい。(もちろん、そういうノリであってもいい)
誰かがいてもいいし、いなくてもいい。
活動していても、いなくてもいい。それが夜だ。まるで死との境界のように。
もともと僕は前向きな人間ではない。どちらかといえば停滞するタイプのイキモノで、同じところをぐるぐるしているのが好きだ。
新しい場所、ヒト、モノ、発展や進歩というものに興味がないわけではない。
その一方で、記憶に縛られ、過去に惑い、現在から一歩も踏み出せない、という状況も嫌いではない。
なぜならそれは、愛と呼ばれるものの、ひとつの発露だからだろう。
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時々考える。
僕は、誰かのためのコンテンツを、もう作れないのではないかという恐怖、あるいは不安を持っている。
僕は、誰かと何か(物理的なものではなく、シンパシーとしての何か)を共有することができないのではないかという恐怖、あるいは不安。
いやいやそんなはずはないと、僕の中の大部分は思っている。それは考えすぎであり、自意識過剰であり、被害妄想であり、ペシミスティックなヒロイズムの産物ではないかと。
しかし一部の僕は考える。
僕は世俗からあまりにもかけ離れてしまっていて、インタフェイスだけは整合させているから、たとえば買い物のときなどに礼儀正しく振る舞ったりすることはできる。
表面上、紳士的に振る舞ったり、人間らしく対応したりはできる。
では心の奥底の部分、多くの人が当たり前に持っているはずの、思いやりであるとか、いたわりの気持ちであるとか、ちょっとした弱さやずるさであるとか、悲しみや寂しさであるとか、何かについて一番でありたいと願う気持ちであるとか、そういうものは、どれだけ僕の中に残っているのだろうか。誰かとの摩擦の中で生まれるべく熱は、僕の中に残っているのだろうか。
僕は独りでいることに快適を見いだしている。
遠い昔には強い寂しさを感じる器官もあったはずだが、何かの手術の際に切除してしまったのか。今は耐えがたい痛みというより心地よい疼き程度にしかそれを感じない。
おそらく生物の本能として、不安や恐怖や飢餓 ── それは食欲ということではなく、自分に何かが足りないと感じる気持ちのことだ ── を埋めたいという気持ちが、寂しさに繋がるような気はする。だから子供はたいてい寂しがりで、精神的に自立するにつれ、そうした飢えは満たされてゆく。
もちろん十全に満たされるということなんてこの世にはないと思う。
卑近なたとえをいえば、僕には背中を撫ぜる眼鏡ガールが欠如している。
しかし僕は、その「欠如している」という事実の存在について、飢えていない。飢餓することなく、ぼんやりと眺めて「まぁ、そう言われればそうかな」程度の認識しかしない。
たとえばそれは、古い傷にも似ている。
僕は右肩に傷がある。それは当時とても痛んだ。
骨が折れたため、半年ほどに渡って僕は右腕を使うことができなかったにもかかわらず、僕は一人暮らしをしていて、すべてを自分ですることが当たり前だった。
いくつか(あるいはいくつも)の不便や不快や無力感や絶望はあったかもしれないが、僕はそれを(やはり一人で)乗り越えた。
なぜといって、僕のカラダのことだからだ。
痛みも、不便も、それは僕のカラダに起因して、僕のカラダに帰結する。
歯磨きが不便でも、フライパンを振るのがむつかしくても、横向きに眠るのが困難でも(僕はもともと、横向きに寝ることが多かったのだが、右を下にして眠れるようになったのは15年以上も経ってからだ)。
痛みは肉体的なものだけには留まらず、当時の僕はそのことに少なからず驚いたものだ。
今はもう、ほとんど痛みは感じない。
傷痕をなぞると、ぴりぴりと、ちょっとだけ他の皮膚とは違う感覚が生まれる。
それはかつて痛みだった。
だからたとえば眼鏡ガールがそれをおっかなびっくり撫ぜたとして、そっと舌を這わせたとして、「この傷、今も痛い? 大丈夫?」と尋ねたとして、そのぴりぴりとした刺激を感じながら「んにゃ別に」と答えることになる。
傷であるからそれは癒えるのだ。癒えたのだ。
僕は不便を埋めてしまった。
僕の痛みは癒えてしまった。
僕の飢えは満たされてしまった。
僕の不快は解消されてしまった。
そのために、僕は自分の能力を発揮した。
自分しかいない環境だったから。
自分しかいない環境を未来にも想定していたから。
僕はそれらの欠如を埋めるための技術をひとり模索し、仮定し、演算し、構築した。
自分でも驚くくらい、僕は自分の不満を解消してしまった。
欠如していると感じたもののほとんどを埋めて、不満はなくなってしまった。
欠乏感を失ってしまったといえばいいのだろうか。
僕自身についていえば、まったく不満がない。それどころか快適である。
しかし何というか、その傷を撫ぜながら思うのではある。
かつてこれは触れられないほどの痛みだったはずだ。
触れることを恐れるほどの激痛だったはずだ。
今、痛みはない。
それは良いことなのだろう、とぼんやり考える。
痛みがあったとき、この傷がなければ、とどれほど思っただろう。だから。
では痛みも苦しみもない今、思うのではある。
飢えも不安もない今、思うのではある。
これはこれで、ある種の欠如なのだと。
恐ろしいことである。
こんな感覚を持っている人は、もしかしてどこにもいないのではないだろうか。
そして他の誰かの不安や恐怖や飢餓について、あるいは安心や快適や満足について、僕は今もシンパシーを発揮できるのだろうかと。
もし痛みを感じない人間になってしまっていたとしたら。
僕はその利便の中で、他者との相互理解ができないまま過ごすことになる。
「痛み? そんなものは時間が経てば必ず癒える。自分ひとりで、それは癒やすことができる。甘えても傷の治りが早まるわけではない」
なんて分かりきったことを、平気で言ってしまうかもしれない。
そうなると他者に意義を感じられるようなコンテンツは、もう2度と作れないことになる。
違うだろうか。想像力で、あるいは記憶力で、あるいは理知性で、それは埋め合わせられるのだろうか。
僕はそこでモチベーションを維持できるだろうか。
あるいは何も作らない方が、お互いのためではないのだろうか。
なるべく誰とも接触しないように棲み分けしたほうが、最終的に互いの、そして全体の益に繋がるのではないだろうか。
それは若干の不安と恐怖の種ではある。
けれどもそれは何の芽も出さない。
何も生み出さないことの方が、むしろ自然なのではないかと思って、すこし呆然とする。
何も生み出さないことの方が、むしろ自然なのではないかと思っていて、すこし呆然とする。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Cat-Ego-Lies]
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