多くの人が泣いたという『おしん』の幼女時代も、私には少しも泣けなかった。それはきっと、私が苦学力行とか苦節十年とかが、あまり好きではないからだろうと思う。それどころか、そういう人は偉いとは感心はするけれど、成功後のそういう人たちの言葉や行ないの端はしに、なにかしらゆがんだり貧乏くさかったりするところを見出すことがあって、そのたびに、できるならば人間、陽の当たる道を進むにこしたことなし、と思ったりするのだ。なにひとつ苦労のない人生を、良しとするわけではない。ただ、人間には、運に恵まれる人と恵まれない人がいる、と思うだけである。── 「男たちへ」(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
220419
2箇所目のオペ。
今回は上顎左奥手前(5か6番)、両サイドに歯のある、間。
眼窩の下から上顎部にかけて、人間の頭骨は軽量化のため、中空部が多いらしい。
これが他の骨のように高密度に詰まっていると、頸椎を捻挫、あるいはたいてい骨折するとか。
猫の身体と比べても、人間は顎の比率は大きく、頭も大きい上、全て頸椎に垂直方向に乗っているのだから、無理もないか。
中空の骨にインプラント基部を突き刺しても、曲がったり、折れたりしてしまう。
ために中空の部分を人工骨で完全に埋め、密度の高くなったそこに基部を埋めて定着させる、という過程がインプラントにおける最も重要な部分らしい。
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インプラントというと、歯の模造品を、ただ歯列の1箇所に埋め込むだけだと思っていたのだけれど、実際はまったく違っていた。
<ちょっとここから血なまぐさいことを書くので、何も想像しないで読むと良いでしょう。それか読まずにYahoo!ニュースを見に行け>
まず、患部付近の歯茎を切り開いて骨を露出。
今回は横方向(顔の正面方向)から穴を開け、骨膜スレスレまで削ったあと、中空部に人工骨(隣の歯がダメになった時のために、隣の分も入れる)と人工膜を埋め込み、縫合する。
この人工骨と膜が非常に高価らしい。
今回は骨が2本分なので、確かに高かった。
(前回のおよそ倍。ちなみに前回は50万円ほど)
人工歯代も含んで支払っているので、最初の施術以降、装着まで追加の費用負担はない。
とはいえ、安くはないな。うん。安くない。
(医者によっては基部と人工歯で別請求のところもあるらしい。また、自身で麻酔をできない医者は麻酔科医を呼ぶことになるので、その分も加算される)
上顎は神経と血管の走っている穴(骨に穴が開いている)も近くにあり、患部に近いため、かなり難度の高いものであるらしい。
骨の厚みは数ミリに対して、膜の厚みは鶏卵の薄皮くらい。
(個人差あり)
僕の場合、骨は6ミリで結構分厚く、にもかかわらず膜は卵のそれより薄かったらしい。
膜を少し傷つけてしまったらしく、人工膜で以前より厚めにカバーしてくれたようだ(きちんと報告してくれて、写真も見せてくれた)。
相変わらず麻酔が上手なのだろう、施術はとくに痛みもない(あったら大変だけれど)。
施術中も何度かリアルタイムでレントゲンを撮って、確認しながら作業を進める。
(およそ3時間の間、撮影の移動以外、だいたいオペ台でうとうとしているだけだったが)
今回の施術はここまで。
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前回のインプラント土台にもまだ人工歯を装着していないのは、こうした「骨を作る作業」と「骨が出来上がるのを待つ期間」があるからだ。
1月下旬から3ヶ月経って、ようやく人工歯を装着しようかどうしようか、ということのようだ(今回はオペがあるので見送り)。
上顎部は、骨が出来上がって安定したら、今度は歯の生えている方向から穴を開け、インプラント基部を埋め、人工骨と膜で固定し、再び骨が安定してからの装着になるものと思う。
ざっと考えて秋から冬になりそうだ。
ちなみに下顎部は、上顎よりしっかりとしているので、1度の施術で基部の埋め込みまでできたし、時間も半分以下だったように思う。
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施術後、やたらとお腹が空いて眠くなり、身体が重いのは前回と同じ。
人工的に骨折させて、骨の再生をさせるようなものだから、それは疲れるのだろう。
今回は抗生物質の働きを(約2割)妨げるため、腫れ止めの薬を使用していない。
翌日から少し腫れ、施術含め3日目の今日ははっきりと腫れている。
抗生物質のほか、痛み止めと坐薬があるので、痛みに応じて使うが、さほどでもない。
咳や血痰(あるいは鼻血)に混じって、人工骨の顆粒が出てくる。
(上顎洞と鼻腔は繋がっているのだ)
多めに入っているなぁ、という感じだが、2日目には安定、ほぼ排出されなくなった。
とにかく、歯磨き、お風呂(シャワー)、運動、不摂生、飲酒、喫煙、喫茶(カフェイン)、辛いもの、刺激物を避けて、安静にすることが求められている。
なるほど、無理もない。
今のところ、うがいも優しく、優しく、だ。
しかしやっぱり、入浴制限が一番つらいかなぁ。
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幸い、こういうときに僕の体は、一切の嗜好品を求めない。
会社員の頃も、勤務時間中(休憩も含むので、出勤から帰宅まで)に喫煙することはなかった。
依存度合いが低いからなおさら、人からは(やめればいい)と言われるのだが、依存性の少ない嗜好品だからこそ、続ける価値があるのだ。
依存性の高さは、おそらく身体の相性や形成された価値観と習慣によるのだろうけれど、依存の高い人間というのは、価値観が一貫しないだけでなく一部が崩壊している。
その1箇所から、なし崩しに異常行動に走ったりするから、依存症とその価値観は嫌なのだ。
一人だけそういう恋人(人間)が過去にいたが、本当に、思い出したくもない(すでにだいたい忘れてしまった、都合の良い私の記憶よ)。
ひとまずは1週間、食べて眠ることにする。
と、その矢先、粥を作ったら玄米が終わってしまった。
あとで買い物には出かけよう。
今回の文書でだいたい明らかになったと思うが「暗闇エトランジェ」というカテゴリィは、僕の身体と心のメカニズムについて書いている。
220415
病院の待ち時間。
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社会から一定の距離を置くようになって、3年。
ようやく落ち着いた気がする。
孤独は自由だが、自由は個人のマイペースを増長する。そもそも個人の自由というのはマイペースを飼うための広い牧草地のようなものだ。
10代になる以前に一度、独善的な「こうあるべき論」ベースの価値観を眠らせたので、マイペース度合いが増長する土壌を整える方向が運命づけられたのは事実だろう。
会社員を辞めたときも、最初こそ「きちんと就労して、給与所得者という立場に復帰しよう」と思っていた。その方が常識的で、良識的で、社会的に正しいありようだろう、と。
なにもかも宙ぶらりんのまま、様々な不測の事態を放り投げられて(引き継ぎなく、放り投げた人が死んだので)、1年はひたすら受動的に、周囲の気配を窺った。
お金の動きも、人間関係も、ルーチンとして扱うべき作業も、まだ分からなかった。
そのうえ葬儀や相続といった、そうそう何度もする機会のないことをすることになった。
特に埋葬関連は、父上が散骨であったため、まったく経験がなかったので判断に困ることも多かった。
とはいえ葬儀も延べ4回ほど喪主(あるいはそれに近しい位置)で経験したし、埋葬も墓仕舞い直前まで経験した。
おそらくこのまま僕が死んで、お寺との関係をフェイドアウトさせても、さほどの摩擦は起きないだろう。
下品な話かもしれないが、その摩擦を軽減するために僕は経済を使った。
僕の自由は孤独に大きく依存しており、他者との摩擦を極力ゼロにすることで達成したその孤独は、経済を燃料、もしくは潤滑剤として稼働している。
お金で孤独の寂しさを埋める人もいるだろうが、お金で孤独を買うこともできるということだ。
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毎日、自由に時間を使えるというのは究極的な贅沢で、そんなことはおよそ実現不可能だと思っていた。
もちろん今でも、こうして姉上の通院や入院で月に2〜3日を費やすし、それ以外の事務的所用とその調整で数日を要することもあるけれど、人間関係による心理的制約もほとんど無くなった今は、身体のストレスを減らすようにしているだけで快適だ。
なので自堕落を過剰に自責しなくてもいいかな、と思うことにした。僕が自堕落であることで、誰かに迷惑を掛けているなら問題だが、僕は親のスネをかじっているわけではないし、経済的に(仮想奥様を除いて)誰かにタカっているわけではないのだから。
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僕の時間ケチは30代には始まっていた。
さらにいえば7歳の頃にはすでに通学の時間がもったいないと感じていたので、退屈なことに時間を費やすことについて、相当に耐性がなかったのだろうとは思う。
といって、たとえば授業中に騒いだりすることはなく(そもそも友達がほとんどいなかったので)、たいてい静かにしていた(寝ていることもあったが)。
僕に限らず誰だって、好きなものは好きだし、嫌いなものは我慢ならないものだろう。
そして理性によって、好きな気持ちを抑制したり、嫌いな気持ちを我慢したりするのは大人として基本的なマナーとなる場面も多いと思う。
そうやってブレーキを掛けるものの、だからといって本心を忘れないのが人間ではないだろうか。
僕はけっこうな頻度で、本心を忘れてしまう。
もちろんそれが過剰で長期にわたると、最終的に原因不明の体調不良に陥るけれど、それさえうまく制御できる仕組みをかんがえながら作っていた。
たとえば埋葬(墓仕舞い)が終わるまでは、叔母を憎んでいることに決めていたようだが、今となってはその憎しみも、理由も、思い出せなくなるほどどうでもいい。
埋葬が終われば僕の叔母に関する全てのタスクが終了し、定期法要も(現在の環境にかこつければなおさら)しないで済ませられる。
叔母を偲ぶ気持がないわけではないが、それこそ気持ちの問題だから、親族と集まる必要を感じない。
思った時に思い出して、庭の花でも手向ければ十分だ。
僕はそういう、コンビニエントな人間関係を指標にしている。
もっと互いに都合の良い距離や速度やスタイルがあるものと思っている。
たまたま僕の理想とするそれが、他の人からすると見慣れないもので、未経験なだけだろう。
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人間の社会は経済が個人の自我と癒着し、自我が肥大し、無秩序に増殖し、悪性新生物(いわゆる癌)のように、組織全体の機能を損なわせることがある。
問題は経済と癒着しているがために、その肥大化も、それが原因で起こる機能損失も問題視されないことだろう。
たとえば様々なハラスメント行為(セクハラ、パワハラなどなど)は、力関係と自己顕示欲などが過剰に作用した結果だろう。
それでも組織(たとえば社会全体)が正常に成長するために必要な作用であれば、必要な犠牲ともいえるが、実際に日本の社会は衰退し、目指す方向を見失っているように観察される。
あるいは汚職や横領のような利益を個に不正に流入させる行為も、個に与えられた権限の不正使用を防止する機能が組織に欠損したことによって起こる機能不全と考えれば、個の自我の肥大は、往々にして組織としての機能を不全にすると考えて然るべきだろう。
しかし僕のような考えなしの夢想家は、何を言ったところで他人からは絵空事だと笑われてきたし、今後はますます誰に取り合ってもらうこともないだろう。
(僕は人間との関わりを減らし続けているし、社会との相互影響力を減らし続けているので)
人間の社会は、組織化のために価値観を個々人に複製し、発展のために変容させてきた。
そのDNAとも言うべき指針が、各個体から徐々に消えてしまうようになった。
個々人が「これが正しい」と考える正義も倫理も、もはやかつてのような全体という規範が個々に等しく与えた青写真ではないし、個々の発信する正義とは、結局のところ個々のエゴや欲を正当化して投影したスクリーンのようにさえ見える。
絶対的に意味を変えない、実存するモノはその多くが経済と紐付いているので、人間は自身の感情と自他の欲と実存のモノによる圧力の中でカタチを変えるしかないのだろう。
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子供の頃の僕は、とても正義感や倫理観が強かったのだが、上述のとおりそれが自身のエゴだと考え、ある時期からわざわざ道を少し外すように心掛けた。
刑法に触れるような犯罪はさすがにしなかったが、仕事をサボったり、恋人を複数作るくらいのことは平気でしていた。
どうだったろう。
想定通りに僕は僕自身を歪めて、思った通りの筋道を歩んだはずだ。
正しいだけでは見えなかった景色を ── それが桃源郷のように美しいこともあれば、阿鼻叫喚の地獄絵巻だったこともある ── 僕は歩くことができたように思う。
もちろんもっと美しい場所もあれば、もっと目を覆うような世界もあるだろう。
しかしそれらはいずれも、自分が望めば、望んだ通りに見ることができて、歩むことができることを僕は知った。
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青臭い話をするならば、僕は未だに反骨精神を心のどこかに燻らせていて、何かの拍子に適切に憎しみの焔を燃やすだろうと想像する。
その毒をすでに失っているなら、その健全さを抱えて人知れず静かに朽ちるだろうが、いずれも悪くない結末だ。
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のんびりぼんやり、と僕は自身を言い、そうあるように心掛ける必要があった。
正しさで自分を押し潰さないように、あそびという余裕を作っておく必要もあった。
今までも相当に自由だったのに、本格的に自由に染まってゆく。
自由になればなるほど自分以外の誰をも、自身のエゴで縛るようなことをしたくないと感じる。
他人から押し付けられる欲の、ときにおどろおどろしい姿を見ることはあったし、自身の持つ欲だってきっと、ときにおどろおどろしかったはずだ。
いや。
僕は僕自身に対する欲をも、そのうち捨ててしまうだろう。僕自身を僕が縛るなど、ナンセンスなこと。
その血生臭さを、僕は味わい尽くしたはずだ。
舌を焼く熱さも、手脚の腐るような冷たさも。
実に、かくあれかし、なんてもう思わなくなってきているのだ。
今いる場所以上の自由を、僕は知らない。
これ以上の自由をうまく想像できない。
これは限界だろうか。
それとも見えないだけだろうか。
こんばんは。
最近の楽しみの一つは、スパム退治です。
どうでもいい「いいね」を付けたり、ろくに読みもしないくせにフォローしてきて自分のサイトに誘導し、アタマワルソーなリンクを貼り付けて宣伝してるあいつらです。
だいたいまともに読んだりしません。時間がもったいない。
あいつらを許すな。
いいねの場合、いちいち覚えていないので、ときどき見に行ってしまう。
見に行って(またこいつか!)と思う。
時間がもったいない。
なので、多少時間がかかっても報告して削除する。
これに尽きる。
ここのブログシステムにはあれこれ思うことがありますが、基本的には黙っています。
ただweb版と、スマートフォンアプリ版で、いくつか仕様が共通していない点については辟易している。
今回取り上げるスパムの報告についても同様。
端的に、web版のブログサービスにアクセスされている皆様におかれましては、スパム退治はしない方がいい。
なぜって、スパムそのものよりもスパム報告の方がイライラするから。
だいたい当社比で20倍イライラする。
スパムブログに辿り着く→(またこいつか)
を1キッ!(キッ! は、イラッとして睨む気持ちの単位です)とした場合、
webでスパム報告をしようとする→報告リンクをやっと見つける→入力項目が多い→入力項目の意味が分からない→IDやアドレスを手入力させられる→(やってられるかバーロー!ふざけんじゃねえ!)
この流れはだいたい57キッ!に相当し、ヘソでお湯が沸きます。熱湯です。
みなさんも(こんなやつ消えた方がいい)というブログを見つけたらスパム報告しましょう(スパムを消すんだぞ。青猫工場は、スパムブログじゃないから報告するんじゃないぞ?)。
ただしスマートフォンアプリ版で。
ヘソでお湯を沸かしたい場合を除いて、スマートフォンアプリ版がおすすめ。
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スパムブログのユーザを確認しようとすると、ブログ一覧画面になります。
この右上の「…」ボタンを押すと「報告する」というメニューがある。
「センセー! 田中くんが今日も早弁してます!」とか、そういう委員長タイプになったつもりで、報告しましょう。ちなみに委員長タイプ、めんどくさいよね、あいつら。
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いくつか入力項目はあるものの、IDやアドレスは自動入力されますから、それ以外を入力する。
アプリ版のユーザインタフェイスは相当ひどいけれど、自動入力するだけのサービス精神はあるようなので、そこは評価したい。
スパムブログなので、サービスはブログ。
報告種類はスパム。
ところで年齢詐称でID報告できるんですか?!
ちょっとキビシくないですか?
永遠の17歳で〜す♡ っていつも言ってる俺の青春を返せ。返せよ!
そのあと、スパム種類まで指定させられます。
面倒ですね。
スパムはスパムです。
種類なんて余計なお世話です。
自分で考えてよ、って思いませんか?
これは「その他スパム」でよい。
さらに「具体的な内容」なんて意味不明な項目があります。
僕は面倒なので、スクリーンショットのとおり「サイトを確認ください。」と書いています。
消す側だって、確認もせず消すわけはなかろうし、確認せず消されても困る。
それより年齢詐称くらい許してやれよ(笑)
これじゃ「だいたい50歳です」って逆サバ読んでる俺が浮かばれないよ。
アラフィフ〜♤ とか アラフィフ男子〜♡ とか言っておけばいいのか?
やめてくれよアタマワルソーな日本語使うの嫌なんだよ。
それでもって。
一番下に、報告ボタンがあるような気がするので、それを押せば報告終了。
運営が「こんな奴はブログを使わなくてよい」と判断すると、あら不思議、消えてしまう。
だいたい数日で。
消えなかったら、そのブログはそれなりの意義があるのだから、許してやろう。
自殺について青猫工場でも書くけれど、自殺をほのめかしてるんじゃないからな、報告するなよ?
19年ぐらい先の自死を予測して計画しているだけだからな。
あれはライフプランであって、衝動的な自殺ではない。だから警察にも連絡しないでほしい。されてもお互い困る。とくに俺と警察が困る。少しはお前も困れ。
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スパムブログにフォローされて、そのブログを確認して1キッ! が発生しても、この程度の作業であれば、慣れてしまうと0.3キッ! くらいで済むようになる。
合計1.3キッ! なので、カロリィ消費が少ない。
ダイエットしたい場合は、web版で報告するといい。
動的サゼッションで広告やらおすすめブログやらが出てきたいちばーん下に、文字リンクで報告できる。
ただ、ヘソでお湯が沸くから気をつけろ!
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追伸。
今朝、アヲが帰ってきました。
めっちゃ叱ってやった。
それから一緒にお風呂に入った。
孫の子を見たいヒトの気持ちも分かるので、イケてるボス的なオスネコがいたらカポーにしてあげたい。










