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TITLE:
二通りの排斥と、苦さについて。
SUBTITLE:
~ Black Coffee. ~
Written by BlueCat
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::「それで思い出したのですがね。明治天皇崩御のときも、日本は相当に混乱したのです。シーメンス事件が起こったりして」
「日本史にはあまりくわしくないもので、シーメンス事件というものも聴いた覚えがあるだけなのですが、あれも汚職事件だったのでしょう」
「そう。明治天皇崩御の後に起こった、海軍の収賄事件でした。海軍の高官が軍需品買入れに際し、ドイツのシーメンス会社などから多額の収賄をしていたことが暴露され、第一次の山本権兵衛内閣の引責辞職につながった事件です」
「でもあれは、天皇崩御の二年あとの話ではありませんか」
「事件は二年後です。しかし、それまでの二年間は平穏どころか混迷の二年間だった。そしてシーメンス事件が頂点という感じで、その後も数年、日本は混迷に苦しむのです。なにしろ、内閣だけみても変わりようがおだやかではない。西園寺内閣は陸軍が大臣を送ってくれないので倒れ、それを継いだ桂内閣は大正政変と呼ばれる一種の市民運動によって崩壊し、山本権兵衛はシーメンス事件で辞職、大隈重信は苦労したにしても、結局は寺内内閣にバトンタッチという具合です」
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220227
争いが、起こっているという。
先日、1000km以上を一日で移動してきたが、地図で見れば極めて小さな日本の、そのごく一部 ── 高速道路上の1000kmから見える範囲などたかが知れていよう ── を観察した範囲にあっても、日本は広く、人が分け入っていない土地はまだまだ多い。
無論、山林を開拓するのは容易なことではない ── 実体験として、木の根をひとつ片付けるだけでも本当に苦労する ── から、平野部はそれだけでもひとつの財産だと言えるのだろう。
それでも国土や労働力を求め、他国を己の一部にしようとするのは、その方が楽だから、ということだったのかもしれない。
争いなら、昔からあった。
いや今だって、その大小を問わなければ、そのカタチを問わなければ、ありとあらゆるコミュニケーションのやわらかな唇はその内に鋭い牙を秘めていて、甘言の裏で暴虐が、聖人ヅラの仮面の陰に下卑た強欲が、糾弾の裏に怠惰がほくそ笑んでいたりするものだ。
それでも国家が、国家の名の下に他国に武力侵攻するともなれば穏やかではない。
ニュースでそれが飛び込んでは来るが、いかんせんこの地は遠い場所で、我々はおそらく無力だろう。
>>>
いちおう断りを入れておくとすれば、僕は戦争は好きではない。
しかし人が死ぬから好きではないのかといえばそうではない。
戦争で死のうが、略奪と恥辱に死のうが、家族に囲まれ老衰で死のうが、疫病で死のうが、孤独に餓死しようが、死は死だ。
その瞬間までの生そのものに良し悪しはあるにせよ、死というフラットラインの瞬間からは等しく、善悪さえもその彼岸の掌中に抱えられることになる。
たしかに他者の死は悲しいことだろう。
しかし生きることのほうがより悲しいと肌で感じている者にとってのそれはときに救済になる。
だから僕は誰かが死ぬからといって ── そしてそれによって仮に僕が悲しむとしても ── すべてのヒトが同じように悲しむべきとは思わないし、死そのものに優劣は ── 生にはそれがあるが、死には ── ないと信じている。
それに闘争が嫌いかといえばそうともいえない。
ただそれが常に正しい解決手段とはかぎらないだけだ。
一個体として考えても ── 血を流し、命を懸けて何かを守るべき状況というのは ── できれば避けたいものではあるけれど、生きる道として理解できない訳でもない。
それはおそらく我々オスに本来与えられた、悲しくも誇らしい役割のひとつだろう。
もっとも現在の先進国では、オスの持つ力も、流す血も、カネに変わってはしまったが。
オリンピックとやらが代理戦争だという人もいるように、経済を使って競い争うことをよしとする世界に僕らは暮らしているのでなかったか。
ゆえに大量の血が流れていないなどと、いったい誰に言えるものか。
その「血」が大量に流れなければ、国の繁栄も危ういのだ。
税金さえも「血税」などと美化して語る者がいる。
それが国家側ではなく、国民側にいるのだから苦笑してしまう。
よほど美しい血を潤沢に流している自負があるのかしらん。
ただ、男女同権とはいえ争いと死を扱うことについて、オスの方がメスよりも優れているようには思える。
なぜといって、メスは生を司るように作られているからだ。
だからなのか昨今の女性たちはその多く、争いが下手だ。
負けるのも下手なら勝つのはもっと下手だ。
結局のところ、オスというのは哀れに野垂れ死ぬほか生き方がないから、争って殺すことにも、争いに敗れて殺されることにも淡々といられるのかもしれない。
我々オスがメスに負けるのは、争いの下手なメスの多くは、致命的な傷を致命的な死にまで至らしめるからだ。肉体的なそれだけではなく、理知的なそれにおいても、である。
生を司るものだからこそ、そのあたりに加減はないらしい。
逃げ道を作らなければネズミだって猫を噛むのだが、そういう道理は関係ないのがこの世であるらしく、理知だけでなく理知の外も含めて我々は構成されているという現実 ── つまりは人間というもの ── を知らないか、その瞬間は忘れていられるのだろう。
一方で単性生殖の能力を持ってはいないのだから、なかなかにややこしいものだ。
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スケールを変えて戦争ともなれば、それは国際社会に舞台も変わる。
国家とは本来的に、理知性のもとに運営されるものだろう。
僕はそれを信じる。
人類が長い歴史の中で磨き続けることのできる刃があるとするならば、それは理知性だけではないのか。
だから僕は人間にのみ許された高度な理知性という機能を信じる。
なぜといって数百年前から比べれば、世界や国家は確実に文明的になり、多くの無力な人でも平和で安全に暮らせるようになった。
権力者が、他の人間をいいように道具として使い捨て、使い潰したりは ── まったく無くなったかどうかは別にして ── しなくなってきたし、それは今後、よりよいカタチを世界にもたらすだろうと信じられる。
世界や国家が理知性によって運営され、ゆっくりとであれ洗練されてゆく。
よって戦争というのも本来、理知性のもとに決断されるのだろう。
国家が、何らかの理由や事情により、国家の持てる力を動員して、他国に対して武力を行使するのだから、元首の蛮勇であってはたまらない。
今は昔の湾岸戦争でさえ、米国は相手国の民間人やその施設を誤爆したりもした。
いずれにも国家としての正義がある中で、そこに生きる国民とは結局のところプランクトンやクラゲのような浮遊生物にも等しい ── 大きな波がやって来れば流されるよりないし、居場所が干上がったところで逃げる術も場所もない。
ニュースなども含めて調べた範囲では、NATOにウクライナが加盟することを阻止するためと言われてはいるが、そんなことのために果たしてこんなことを起こすのだろうか、とは思う。
国際的な反発を招くことを予測できないはずもない。
またそれに見合うだけのリターンが果たして狙えるものとも思えない。
だから、もっともらしい説明を眺めながら「はたしてナニとナニを天秤に掛けた結果、こうなるのか」と疑問に思うのではある。
もちろん国を動かす元首の立場ともなれば、他国に死人を出してでも自らの国家を維持し繁栄させることは「正しい」ことだといえる。
国家が能動的に他国民に死者を出そうと、受動的に死者が出る様子をただ傍観していようと、他国民がそこで死ぬことに変わりはない。
下手に介入したとして、果たして死者が減るともかぎらないだろう。
その意味において、ウクライナに対し武力提供を決定した他国を手放しに賞賛する気にもならない。それは果たして誰にとっての「正しさ」なのだろうか。
もちろんアメリカは例によって国際社会におけるノブレス・オブリージュを実行するかもしれないが、かの国はそういうときに正しく「カラダを張る」からこそ国際社会においての位置を保っているといえる。
かつて世界の経済大国にのし上がったアジアの島国は、金ヅルに使われるうちに自滅した。
国際社会で多少でも「カラダを張って」いたら、多少はその立ち位置も変わっただろうし、国民の意識も変わったとは思う。無論、この国の歴史と国民に刻まれた歴史観はそれを許さないのだろうけれど。
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国家という立場においては、己の国家が優先される。おそらくこれだけ文明的になった世界にあっても、それは仕方ないものだと理解できる。
同様に、国家を維持し繁栄させるためであれば、国民を使い捨ての道具よろしく使う非情さもまた必要だろう。
これらは集団帰属性を本来的に持っていたはずの日本人にとって肌になじんだ感覚だったろうとは思うが、この50年のあいだに輸入され浸食した個人主義によって、団塊とは精神や目標ではなく、物理や経済的クラスタと同義になり、人は密集しながらも結合力を失い、分断してしまった。
国土はあっても日本という国家は崩壊した、あるいは少なくともしつつあるのだと僕は観察している(その国土さえ、他国民に売り渡しているのが現状だ)。
その意味において ── どのような事情で、どんなリスクとリターンの計算をした結果かは知らないが ── 自らの国家のために武力侵攻を選択するというのは ── 先に述べたとおり、今回の戦争そのものを「正しい選択」だとは思わないし言うつもりもないが ── 国家のありようとして「毅然として」はいると思う。
ああ。ロシアは厳然と「国家」が国家として存続しているのだと感じる。
もちろん元首がその存続のために、どんな理知性を働かせたのかはまったく理解できないのだが。
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僕ら日本人は、シンプルに戦争を嫌う。
もちろん、それは良い傾向だと観察される。
一国家の国民としても、理知的にも、戦争は、どこにも、いつまでもない方がいい。
一方で、国家においては、戦争が必要になることもあるだろう。
とくに外部の国家に理知性が足りず、侵攻されたとなればなおさらだ。
理知的なだけでは人間だって生きられないのだから。
僕は国家の元首ではない。どちらかといえば野生動物よりわずかに国民に近いほうの猫だ。
戦争が「正しい選択になる機会」は、ない方がよい。
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排斥には2種類ある。
パッケージされた理知性にとって、嫌いなものとは排斥すべきものである。
何のことはない、我々のカラダに含まれる細胞だって、そのひとつひとつにとって他の細胞は別の存在、相容れないものなのだ。
嫌いなものが存在しない状態を作る場合、目の前からその存在を排除するのが一般的だ。
しかしそれしか方法がないわけではない。
嫌いなものを徹底排除することについてネコノカミサマから一定以上の信頼を置かれている僕が言うので間違いない。
認識を改める方法というのをたいていの人は忘れている。
なぜといって、認識を改めるというのは記憶を書き換えることにも等しい。
一般に記憶力の良い、律儀で真面目で遊び(余裕)の少ない人間ほど、自分の認識を改めることがむつかしいように観察される。
武士に二言はないとはいうが、もはやどこにも武士などいない。
昨日言ったことを今日は覆して謝罪したりするなど、もはや旬や流行りやトレンドを通り越した常識になったのではないか。
僕はたまたま記憶力が致命的に悪く、不誠実で不真面目で遊びばかりのイキモノである。
昨日と今日で言っていることが同じだと、なんだか悪いことをしているような気持ちにさえなることがある。
進歩や成長というのは、変わることだからだ。
認識を改めれば「絶対殺す!」と息巻いていたゴキブリ相手だって、風の谷に在住の王女さまよろしく「ここはあなたの棲む場所じゃない。森へお帰り」という気持ちで(しかし物理的にはありとあらゆる防衛手段を尽くして)お見送りすることも出来るだろう(僕はなった)し、悲鳴を上げて逃げ惑っていた蜘蛛を相手に指に乗せ「おやおや、こんなところにいてはいけませんよ」なんて、おしゃべりすることもできるようになる(僕はなった)。
それは外から観察する上で、ある種の敗北にも見えるだろう。
しかし勝敗を決することでしか達し得ない排斥は、結局のところどこまでも続く闘争の道でもある。
認識そのものをして相手に迎合することは、たしかにある種の敗北ではある。
認識を改めることが出来ないもの同士が衝突すれば、勝負をするか、決裂するより他にないからだ。
それでも自身の価値観を譲ることが出来ないのだとすれば、それだけの価値があると自身の魂をして負うものであれば、なるほど命を懸けて、名を懸けて、誉を懸けて、徹底的に抗戦し、蹂躙し、陵辱し、塗り替えてやる必要もあるだろう。
そこで得られた勝利は甘美だ。そして甘やかな一夜ののちには復讐に怯える日々が始まる。
だから我々は、ゴキブリを殺せば殺すほど、それを恐れることになる。
1匹出たら100居るとはよく言ったもので、それは果たしてゴキブリにかぎったものではない。
あるいは自責に苛まれる日々が続くかもしれない。
その痛みは勝利したがゆえ誰に打ち明けることも出来ず、ために果てもなく苦しいものだ。
何かを、自身のいいように蹂躙するというのはそういうことだ。
せてめも痛みを感じない程度に、勝利者たる者こそは愚かである ── つまりは理知的ではない ── 必要もあるといえる。
かつての日本がそうなったように、敗者にもたらされる認識の改変は、ときに相互関係において融和の道を作ることもあるだろう。
もちろん今の我々のそれは自ら選んだものではなく、他者に与えられたそれ(憲法ではなく、国家や戦争に対する認識のこと)ではあろうし、現在の認識や様式、倫理が果たして適切であり、つまりは正しく国家を導くことの出来る価値観を醸成するかという点については疑念もあるが、少なくともかつての戦争国家としてのありようをそのままに突き進み、敗戦を認めなければ、今よりはるかに壊滅的に滅んでいただろう。腹の底にたぎる復讐心だけを募らせて。
憎しみは時に有用だ。
とくにその扱い方を心得てさえいれば、当千の力を発揮することさえ可能かもしれない。
そしてそれは毒だ。
己を蝕み、魂を汚し、行いの道を外すことさえあるかもしれない。
原子力にも似ている。
使わず済むに越したことはないが、それほどのエナジィを、出力を、必要とする場面は厳然と存在する。
>>>
誰だって、嫌いなものはあるし、許せないものもあるだろう。
嫌いなものを好きになることも、許せないものを心底許すのも、容易なことではない(だから容赦なく叩き潰してしまうのだ)。
徹底的に争うのもよいだろう。
人類は動物の頃からそうやって生きてきたのだ。
利口なフリをして曖昧模糊にヘラヘラととぼけた笑いを浮かべてことをやり過ごすより、それは少なくとも誇りあるありようだ。
しかし本当に嫌いなものを排斥したいのであれば。
嫌いだと思う価値観を変えてゆくのはどうだろう。
我々は、身近な存在にさえ未だに憎しみを抱えがちで、理知的な価値観の変容を相互に発生させるだけの自動化装置を無意識的に模索しているわけだけれど。
(文明や宗教の機能を考えれば、それは大規模に作用する自動化装置なので)
これは平和ボケだろうか。
しかし僕は「争うな」とは、やはり思わない。
殺さなければいけないものもあるし、殺した方がいいものもある。
今回の戦争が、そうであるようには思えないだけだ。
ただ、人が人を裁くことはむつかしい。
だから人が人を束ねることもまた、むつかしい。
法治国家と呼ばれるこの国においてすら、その法が、適切に機能しているか疑わしいと思える綻びを見ることもある。
それでも我々は、人間の、あるいは真実存在する、理知性を信じるしかない。
日々にさえ何かを殺しながら生きているのだから、何も殺さないなんて偽善を捨てて、殺しながらも涙を流し、自責の苦さを噛み締めながら地獄に落ちるような誇り高き勝者が、世を統べることを祈りながら。
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::歴史を眺めていると、混迷にも二つの種類があるような気がする。上昇につながる混迷と、下降の第一歩になってしまう混迷の二種である。
ただし、混迷と名づけるくらいだから、当事者たちにはなかなかこのちがいが見えてこない。はっきりとわかるようになるのは後世の人びとで、だからこそ、歴史の裁きにまつ、などということが言われるのであろう。
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[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「第4章 混迷(カオス)について」From「再び男たちへ」
(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
によりました。
なお、引用文タイトルのルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Life-Link-Mechanics-
[Module]
-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
[Object]
-Human-Koban-
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[Cat-Ego-Lies]
:いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:
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