220415
病院の待ち時間。
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社会から一定の距離を置くようになって、3年。
ようやく落ち着いた気がする。
孤独は自由だが、自由は個人のマイペースを増長する。そもそも個人の自由というのはマイペースを飼うための広い牧草地のようなものだ。
10代になる以前に一度、独善的な「こうあるべき論」ベースの価値観を眠らせたので、マイペース度合いが増長する土壌を整える方向が運命づけられたのは事実だろう。
会社員を辞めたときも、最初こそ「きちんと就労して、給与所得者という立場に復帰しよう」と思っていた。その方が常識的で、良識的で、社会的に正しいありようだろう、と。
なにもかも宙ぶらりんのまま、様々な不測の事態を放り投げられて(引き継ぎなく、放り投げた人が死んだので)、1年はひたすら受動的に、周囲の気配を窺った。
お金の動きも、人間関係も、ルーチンとして扱うべき作業も、まだ分からなかった。
そのうえ葬儀や相続といった、そうそう何度もする機会のないことをすることになった。
特に埋葬関連は、父上が散骨であったため、まったく経験がなかったので判断に困ることも多かった。
とはいえ葬儀も延べ4回ほど喪主(あるいはそれに近しい位置)で経験したし、埋葬も墓仕舞い直前まで経験した。
おそらくこのまま僕が死んで、お寺との関係をフェイドアウトさせても、さほどの摩擦は起きないだろう。
下品な話かもしれないが、その摩擦を軽減するために僕は経済を使った。
僕の自由は孤独に大きく依存しており、他者との摩擦を極力ゼロにすることで達成したその孤独は、経済を燃料、もしくは潤滑剤として稼働している。
お金で孤独の寂しさを埋める人もいるだろうが、お金で孤独を買うこともできるということだ。
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毎日、自由に時間を使えるというのは究極的な贅沢で、そんなことはおよそ実現不可能だと思っていた。
もちろん今でも、こうして姉上の通院や入院で月に2〜3日を費やすし、それ以外の事務的所用とその調整で数日を要することもあるけれど、人間関係による心理的制約もほとんど無くなった今は、身体のストレスを減らすようにしているだけで快適だ。
なので自堕落を過剰に自責しなくてもいいかな、と思うことにした。僕が自堕落であることで、誰かに迷惑を掛けているなら問題だが、僕は親のスネをかじっているわけではないし、経済的に(仮想奥様を除いて)誰かにタカっているわけではないのだから。
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僕の時間ケチは30代には始まっていた。
さらにいえば7歳の頃にはすでに通学の時間がもったいないと感じていたので、退屈なことに時間を費やすことについて、相当に耐性がなかったのだろうとは思う。
といって、たとえば授業中に騒いだりすることはなく(そもそも友達がほとんどいなかったので)、たいてい静かにしていた(寝ていることもあったが)。
僕に限らず誰だって、好きなものは好きだし、嫌いなものは我慢ならないものだろう。
そして理性によって、好きな気持ちを抑制したり、嫌いな気持ちを我慢したりするのは大人として基本的なマナーとなる場面も多いと思う。
そうやってブレーキを掛けるものの、だからといって本心を忘れないのが人間ではないだろうか。
僕はけっこうな頻度で、本心を忘れてしまう。
もちろんそれが過剰で長期にわたると、最終的に原因不明の体調不良に陥るけれど、それさえうまく制御できる仕組みをかんがえながら作っていた。
たとえば埋葬(墓仕舞い)が終わるまでは、叔母を憎んでいることに決めていたようだが、今となってはその憎しみも、理由も、思い出せなくなるほどどうでもいい。
埋葬が終われば僕の叔母に関する全てのタスクが終了し、定期法要も(現在の環境にかこつければなおさら)しないで済ませられる。
叔母を偲ぶ気持がないわけではないが、それこそ気持ちの問題だから、親族と集まる必要を感じない。
思った時に思い出して、庭の花でも手向ければ十分だ。
僕はそういう、コンビニエントな人間関係を指標にしている。
もっと互いに都合の良い距離や速度やスタイルがあるものと思っている。
たまたま僕の理想とするそれが、他の人からすると見慣れないもので、未経験なだけだろう。
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人間の社会は経済が個人の自我と癒着し、自我が肥大し、無秩序に増殖し、悪性新生物(いわゆる癌)のように、組織全体の機能を損なわせることがある。
問題は経済と癒着しているがために、その肥大化も、それが原因で起こる機能損失も問題視されないことだろう。
たとえば様々なハラスメント行為(セクハラ、パワハラなどなど)は、力関係と自己顕示欲などが過剰に作用した結果だろう。
それでも組織(たとえば社会全体)が正常に成長するために必要な作用であれば、必要な犠牲ともいえるが、実際に日本の社会は衰退し、目指す方向を見失っているように観察される。
あるいは汚職や横領のような利益を個に不正に流入させる行為も、個に与えられた権限の不正使用を防止する機能が組織に欠損したことによって起こる機能不全と考えれば、個の自我の肥大は、往々にして組織としての機能を不全にすると考えて然るべきだろう。
しかし僕のような考えなしの夢想家は、何を言ったところで他人からは絵空事だと笑われてきたし、今後はますます誰に取り合ってもらうこともないだろう。
(僕は人間との関わりを減らし続けているし、社会との相互影響力を減らし続けているので)
人間の社会は、組織化のために価値観を個々人に複製し、発展のために変容させてきた。
そのDNAとも言うべき指針が、各個体から徐々に消えてしまうようになった。
個々人が「これが正しい」と考える正義も倫理も、もはやかつてのような全体という規範が個々に等しく与えた青写真ではないし、個々の発信する正義とは、結局のところ個々のエゴや欲を正当化して投影したスクリーンのようにさえ見える。
絶対的に意味を変えない、実存するモノはその多くが経済と紐付いているので、人間は自身の感情と自他の欲と実存のモノによる圧力の中でカタチを変えるしかないのだろう。
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子供の頃の僕は、とても正義感や倫理観が強かったのだが、上述のとおりそれが自身のエゴだと考え、ある時期からわざわざ道を少し外すように心掛けた。
刑法に触れるような犯罪はさすがにしなかったが、仕事をサボったり、恋人を複数作るくらいのことは平気でしていた。
どうだったろう。
想定通りに僕は僕自身を歪めて、思った通りの筋道を歩んだはずだ。
正しいだけでは見えなかった景色を ── それが桃源郷のように美しいこともあれば、阿鼻叫喚の地獄絵巻だったこともある ── 僕は歩くことができたように思う。
もちろんもっと美しい場所もあれば、もっと目を覆うような世界もあるだろう。
しかしそれらはいずれも、自分が望めば、望んだ通りに見ることができて、歩むことができることを僕は知った。
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青臭い話をするならば、僕は未だに反骨精神を心のどこかに燻らせていて、何かの拍子に適切に憎しみの焔を燃やすだろうと想像する。
その毒をすでに失っているなら、その健全さを抱えて人知れず静かに朽ちるだろうが、いずれも悪くない結末だ。
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のんびりぼんやり、と僕は自身を言い、そうあるように心掛ける必要があった。
正しさで自分を押し潰さないように、あそびという余裕を作っておく必要もあった。
今までも相当に自由だったのに、本格的に自由に染まってゆく。
自由になればなるほど自分以外の誰をも、自身のエゴで縛るようなことをしたくないと感じる。
他人から押し付けられる欲の、ときにおどろおどろしい姿を見ることはあったし、自身の持つ欲だってきっと、ときにおどろおどろしかったはずだ。
いや。
僕は僕自身に対する欲をも、そのうち捨ててしまうだろう。僕自身を僕が縛るなど、ナンセンスなこと。
その血生臭さを、僕は味わい尽くしたはずだ。
舌を焼く熱さも、手脚の腐るような冷たさも。
実に、かくあれかし、なんてもう思わなくなってきているのだ。
今いる場所以上の自由を、僕は知らない。
これ以上の自由をうまく想像できない。
これは限界だろうか。
それとも見えないだけだろうか。


