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// TimeLine:20200416
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TITLE:
電話交換機の抽象世界。
SUBTITLE:
~ Switch bored switchboarder. ~
Written by BlueCat
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検索エンジンを DuckDuckGo に代えた。
日本語読みすると「駄々っ子」みたいで可愛い。
(現実世界のそれは、蹴り殺したくなるほどのイキモノと想像するが)
僕は「Rock’n'roll」を「ラケンロー」と書く。
実際に口で声音すると分かると思うが「ロックンロール」よりも「Rock'n'roll」なのが「ラケンロー」である。
声音の語感を面白がってしまう性格なのだろう。
ほら、キミも。
恥ずかしがらなくて大丈夫だよ。
実際に口を使って言ってごらん。
ラケンロー。
その反骨の響き。セピア色に薫るメリケン(american)の味わいに君のソウルは震える。
その振動、己の魂のヴァイブスに同調するがいい。
……ちょうテキトーなことを言っている、という君の直感は正しい。
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僕がガール(実際は男女問わず)にモテる理由のひとつに「いくらでも愚痴を聞き続ける」という能力があるように思う。
(実際に何度か指摘されている)
多くの男性たちはこれがニガテなようで、特に恋人などともなると見くびっている部分があるのか(恋愛関係において、潜在的にであれ相手をみくびることは必然であり避けられず、時には必要ですらあるのだけれど)、セックスしたいとき以外、ボーイズの多くはきちんと話を聞かないらしい。
(セックスしたくてどうしようもない時も、やはり話を聞かないらしいが)
あいつらは基本的に愚図なイヌだから仕方あるまい。
ところで青猫工場の基本的なリソース概念は、だいたい以下のようなものである。
○ 怒りは熱量に変換可能である。
○ 熱量は長期的な運動エナジィに変換可能である。
○ 屈辱や凹みや憎しみはバネの圧縮のような運動蓄積に変換可能である。
○ 恥ずかしさは運動のストッパーである。
○ 好奇心は運動の方向性を決める。
○ 意思の力で知的生命体は自身の運動をコントロールできる。
○ ゆえにすべての猫は、跳びたいと思った場所に跳ぶことができる。
○ 高尚な意志は、ただし下品な欲求の前に無力だ。
○ 高尚な意思を下品な欲求とセットで持ち合わせると光と闇が合わさって最強になる。
だから僕は、過去の文書で「ただ怒って怒りのエネルギーを発散するくらいなら、建設的なことに使う方がいい」とか、「凹んで酒を飲んで他人に愚痴っている人はエコじゃない」とか、「他人を使って秩序を守らせることに節度を持たない人間は野放図に無秩序の種を蒔く」とか、「今日と明日で言っていることが違っているくらいの人の方が正直だ」とか、好き勝手に書いてきた。
(もうそれらの文書は残っていないが)
当時のブログを読む人の一部は「猫氏は怒りさえ制御する(実際には感情の発生に盛大な遅延が発生するだけなのだが)」「猫氏は愚痴も言わない(実際言わない)」という僕の虚像を持っていたはずで、オフ会などで会った人から「ギャップが激しきに過ぎる」という指摘をいただくこともたびたびあったし、まさか誰かの愚痴を聞くことをある種の楽しみにしていたとは思うまい。
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僕は自分の話と同様、他人の話も抽象化してしまう。
普遍的な要素がどこにあり、人間の偏在的傾向のうち、その人がどういった位置にいるのかを観察する。
多くの人は「常識的で、社会的で、良心的で、社交的で、好きなものと嫌いなものがはっきりしていて(僕のそれはぼんやりしている)、嫌いなものと好きなものにバイパスがないから覆ることがなくて、他者との価値観の段差にバイパス(あるいはハシゴ)を掛けられなくて、その高低差によって自分の価値観を傷つけられた感覚を覚えたり、見下された感じや見下す錯覚を起こす」という自分を演じようとしている。
これらのメカニズムが自身の中で切り離されて外部化されていないために、そうした「演じようとしている」メカニズムを含めて自分だと思いこんでいる。
それも含めて人間の一般的な特徴であり、抽象化して、全体的な価値マップにおける個々人の位置をおおよそでも計ることは可能である。
だいたいは、上記の通りの「常識的な」メカニズムを持っていて、そのメカニズムは、相反する感情が自分の中に湧くことを許さず(自分はそんなことは考えてもいない)と、除外する。
実際のところ、アタマの中だけは本当の自由だから、どんな犯罪を犯しても許されるし、どんな自堕落も咎められることはない。
同様に、どんな立派なことをしてもいいし、どんな素敵な未来を予感して、充足した気分で現実に向かってもかまわない。
もし、善行を多くの人に認めてもらって褒め称えられたいというなら、それすら妄想しておけば満足できるのではないだろうか。(できないとすれば、すでに現実社会で他者に依存していることになる)
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多くの人は、愚痴の中で、自身の偏在的傾向、つまりはクセや独善(正義と悪/善と悪の絶対的な境界や領域を説明できるのであれば、独善と言うほどでもないかもしれないけれど)を語る。
そして現実世界で、均衡を失っている、自分の「正しさ」と、他者の「正しさ」の段差を語る。
その上で、段差を埋める努力についてではなく、段差がいかに自分を傷つけ、いかに被害を受けているかを語る。
とくに非難しているとか、バカにしているとか、そういうことはない。
僕は愚痴を聞くことを苦にせず行うし、ブログで愚痴を書くことも往々にしてある。
ただ愚痴という行為の概要というか、メソッドは、こういうものである、ということ。
多くの男性はここで、段差を埋める方法や、段差を明確に定義することに注力して、それらを説明して女性に嫌われることがある。
女性の多くは、男性が思っているほど馬鹿ではないから「そんなこと(常識的かつ前向きで建設的な対応や認識方法)など言われる前から分かっている」のである。
ただただ言語化していたい、という気持ちを多くの男性は知らないのかもしれない。
ひどい場合は「壁にでも話せ」「チラシの裏にでも書け」「裏庭に掘った穴に向かって愚痴れ」という人もいるだろう(僕はよく言う)。
彼女たちの多くは、伝えている行為そのものが重要で、内容はほとんど意味を持っていない。
コミュニケーションを取っていることと、その行為を行える関係性の確認に安心しているのである。
これは動物がストレスを抱えたときに、巣穴に籠もったり、穴を掘り続けるのに似ている。
(僕は引きこもりの人見知りのコミュ障(笑)なので、気持ちはよく分かる)
そういうときに必要なのは、ただただ誰かが聞いてくれて、その価値観を持っていることは正当で、間違ってなどおらず、それを誰かに語ることはたとえ肯定されなくても否定されない「場」があると安心してもらうことである。
これらのメカニズムを俯瞰しながら、僕はぼけーっと話を聞く。
ぼけーっとしているので、抽象的に話を聞く。
どうせなら、そんな具体的な話じゃなくて、もっと抽象的に話してくれたら抽象化の作業がラクなのになぁ、なんて思いながら。(いや、そこまでは思っていないが)
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僕は聞き上手ではないから、相づちや、同意、共感の表現、質問して先を促す、などの行為はあまり得意ではない。(意識すればできるが、そこまで気を遣ってコミュニケーションするのも作為的に過ぎないかと思って気が引ける)
それでも相手は愚痴を言い続けるし、ある程度の段階で(だいたい5回程度のループの中で)気が済み(安心して)、建設的な方向に気持ちが向かうようだ。
さまざまな感情によるエナジィ(熱量や運動量)は低下しているが、暴発しそうなそれは、制御がむつかしい。
エナジィの量が大きいと、制御が困難であることを、僕らは発電所の災害や住宅火災で知っているだろう。
だから暴発しない、制御しやすいレベルのエナジィで、彼ら彼女たちは日常の世界に帰ってゆく。
僕は怒りや屈辱を、暴発すれすれでも自己制御しながら運用する。
ときどき失敗して、ベッドの中でまあるくなって引きこもる。
他者の愚痴を聞いて、抽象化しているから、段差の多くは既知のものだし、ハシゴやバイパスのレパートリィも自分なりに豊富ではある。
きっとみんなそうだろう。そう思っている。
ただ、他者に話すのは少々気が引ける。
なにより、誰かに愚痴を言いたくなって勇気を振り絞って話しているとき、どういうわけか「その人の話」にスライドしてしまうことがある。ひどい場合はダメ出しをされる。
「聞いて欲しいのに」と思う。
すなわちそれが、愚痴を言いたい気持ちの源泉である。
自分の中の「正しさのビョーキ」が発作を起こして訴えている。
そこまでを脳内でシミュレートして、僕はベッドに向かう。
まあるくなって眠る。眠りが僕の心の骨を撫ぜる。
一日眠れば、一日死に近づくから、安心する。
僕には、話を聞いてくれる誰かを自分でエミュレートできるから、正直なところ他人など不要なのだ。
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そしてアクセス過多が続くと、サーバは疲弊する。
そもそも僕は彼ら彼女たちという群れのサーバではない。
末端(ターミナル)であって、結節点(ノード)ではないから、何を繋げることもない。
何かに繋がりたいわけでもない。
(彼ら彼女たちの一部は、僕をして、何かに繋がるのかもしれない。たとえば猫の神様とか)
僕はただじっとして、自分の興味を持った対象に飛びかかったり、興味を引く場所に跳び移りたいだけである。
他者が不要の世界というのは、自分が不要とされる世界のはずである。
(どうかそうであってくれ)
そこでじっとしていると、しかし多くの人は(おそらく昨今は活動量が低下しているから余計なのだろう)僕にアクセスしてくる。
彼ら彼女たちの中の僕は、ときどき彼ら彼女たちと同じように「誰かと繋がる」ことで完結するのだろう。
そう思われているフシがある。
このところ(僕からすると)たくさんの人の電話やメールがあって、目覚めてから30分後に、立て続けに5人から電話があり(そのいくつかは長電話であり)さすがに疲弊した。
弟子などはこの1週間ほど、同じ案件の愚痴を続けているので、さすがに叱った。
他人の責任である行為によって発生した自分の怒りを、他人の責任にするな、と。
怒りは自分の感情であり、その感情は自分が責任を持って制御するものである。
行為の責任が相手にあるならば、その責任は相手が負うのがふさわしいが、その行為に至った原因の責任はどこにあるのかを明確にする必要があるし、そのための努力を放棄してしまえば問題は解決できない。
怒りにまかせて自分の感情の責任さえ他人に押しつけてしまったら(あの人のせいで私は怒ることになったと言い切ってしまえば)、解決能力がないと見下している(能力の低い)相手に、問題のすべてを丸投げすることになる。
それで気分はいいかもしれないが、問題は致命的に解決不能になる。
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自分の感情を、他人のものにするな。
自分の感情を、他人の責にするな。
それは自分の人格や人生を、長期的に他人に明け渡すことと同義だ。
僕はそう思っている。
第三者が原因なだけで、今、自分が直面している現実は発生しない。
もしなんらかの事象が、他人だけが原因で自身の現実に発生しているならば、そもそも自分の属している現実を他人に明け渡していることになる。
(子どもなら仕方ないかもしれないが)
自分で現実を作るのだ。
自分の目の前の現実に荷担しろ。
自分の現実にもっと手を加えろ。
たどり着きたい場所をもっと明確にイメージして、そこに到達するための運動を計算しろ。
計算された運動を、精確に、緻密に、具現しろ。
そのとき、そこに他者は必要ない。
僕はそう思っているけれど、すべてを説明するのは本当に疲れるのでしなかった。
>>>
頼まれごとの仕事をするため、アパートに戻る。
最近、僕の仕事はノーギャラが増えた。
前回は飲食店のメニュー作成。
今回は同店のウェブサイト修正。
(ウェブサイトを1から作り直す話もあったのだが、よくよく確認するとさほどコストをかけているわけでもない様子なので、システムは現行のまま、オペレーションだけスタッフでしましょう、となったようだ)
ちなみに僕はそこの社員でもオーナーでも社長でもなく、ときどきバイトに行くだけである。
ただ、Kさん(僕の想い人のひとり、ちなみに男性)が社員で、僕のことをエンジニアだと思っていて、呼ばれるのである。
2日ほど仕事(ノーギャラ)をして、これからアパートから戸建てに戻る。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
もう「グーグルの小作農」はやめませんか?
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[Engineer]
-工場長-/-青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
[InterMethod]
-Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Kidding-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-
[Object]
-Friend-Human-Night-
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[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
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