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TITLE:
ゲームプレイヤ領域における「人権」という単語の暴走について。
SUBTITLE:
~ Diavolo. ~
Written by BlueCat
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::女権拡張を目指すフェミニストたちは、われわれ女が男たちから性的対象と見られることに、ヒステリックなほどに反発する。
私には、あれがわからない。なぜあれほどもカッカとくるのか、それがわからない。
この種のアレルギー反応は、フェミニストにかぎらず、普通のおだやかな女たちまで多少なりともあるようで、これをも理解に苦しむのである。なぜ【ある】かというと、性交の直後に、こう男にきく女が多いではないか。
「ねえ、わたしのこと愛してる?」
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220218
【『人権』発言問題から、いきなりウマ娘について】
ゲーマーにとって、昨今の「人権」というのは、プレイヤそのものではなくプレイヤがヴァーチャルに演じているキャラクタの「人権」を意味している。
現実世界にしか生きていない諸君には意味が分からないだろう。
ヴァーチャル世界において、ことに昨今のヴァーチャル世界においては、他者との関わりの中で己の存在価値や存在意義を他者に示す上で、一定以上の存在を提示できなければ意味がないのだ。特にネットワークゲームやソーシャルゲームにおいては。
たとえば「ウマ娘」において、サポートカードの「キタサンブラック」が限界突破を完凸している(わかりやすく言えば、レベルが上限に達している)という条件を満たせなければ『人権がない』。
FPSを僕はプレイしないが、未だに相応の人気を持っているだろう「APEX Legends」において、必要最低限の立ち回りや、キャラクタと装備の相性、アイテム選びのセオリィを知り、かつ体現できなければ『人権』を満たさないだろう。
ここで述べている『人権』とはリアル世界の「人権」と同じように「その世界において、人が人らしく生きる権利」のことだ。
つまり「ウマ娘」において、完凸したサポートキタサンブラックを持たない人は「ウマ娘」におけるトレーナとして考えるとき「ウマ娘の世界において、トレーナらしく生きる権利」を持たない。
なぜならサポートカードのキタサンブラックは、主要3ステータスにあたるスピードを司り、「長距離」と「逃げ」に特化したスキルに偏る部分はあるものの、それは全体の半分に過ぎず、直線とコーナにおける速度アップとスタミナ回復の基礎スキルおよびその上位スキルを育成しているキャラクタに付与するから。
かくして「人権」とまで当該ゲームプレイヤに言わしめた完凸サポートキタサンブラックは、育成しているウマ娘のアドバンテージを底上げする。
逃げや長距離の適性がないため、そのスキルヒントが出たところで何らの意味を持たない育成ウマ娘も居るが、それでも完凸キタサンブラックは十分にその存在意義を発揮し、ウマ娘の能力を上昇させる。
その意味で「ウマ娘プリティダービー」というヴァーチャルワールドにおいて、完凸サポートキタサンブラックを持たない者(トレーナ)は、それを持つ者と比較して、圧倒的に存在意義がない、ということができる。
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【一文で解説するオレすごい】
※「ウマ娘」というゲームをプレイするとき、他のプレイヤにサポートカードを1枚貸し出すことが出来る(他プレイヤから1枚借りることが出来る)し、育成ウマ娘の特性やプレイヤの方針によって、他にも有用なサポートカードは多数存在するから、完凸キタサンブラックを持つ者『のみ』が『(トレーナとしての)人権』を持つわけではないが、極めて高い汎用性を持ち、他の多くのプレイヤにとっても(それを貸し出すことで)高い有用性を発揮しうるという点において、完凸キタサンブラックを持ってさえいれば(ヴァーチャルワールドにおける)トレーナとして最低限の『(ヴァーチャルな)人権』を獲得できる、という論理展開は、決して不思議なものではない。
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【「ウマ娘」の魅力とガチャゲーへのヘイト】
無論、僕自身はソーシャルゲームをあまり好まないし、ガチャゲーに至っては嫌悪してさえいる。
ネットワークゲーム ── 先の「APEX」のようなバトルロワイヤル形式のものもそれに含まれる ── にしても、基本的に、他者との価値観の整合性を意識するのが面倒だから、好んではプレイしない。
ゲームというのは趣味だから、好まなければプレイしない(よって僕は「APEX」をプレイしない)。
「ウマ娘」を(ときどき程度にでも)プレイするのは、ガチャ性は高いけれどソーシャル性が低いことと、レンダリングのような技術面やシナリオのようなコンテンツも含め「ウマ娘」というゲーム(あるいはそのヴァーチャルの表現)が魅力的だからである。
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【そもそも言語の振り幅が大きくなっている問題】
昨今の日本における日本語の乱れは、たしかにひどいものだとは思う。
「○○は人権」などという言葉に至っては、最初、僕には理解が及ばなかった。
たとえば「キタサンブラックは人権」と言われても、意味が分からないではないか。
意訳としては「完凸キタサンブラックを持つトレーナ(プレイヤ)は『ウマ娘』ワールドにおいて高い存在意義を他者に対してさえ発露するので、人権を持つ ── 存続するに値する高い価値を持つ ── に等しい」といったような感じか。
これは逆説的に「完凸キタサンブラックを持たないトレーナは『ウマ娘』ワールドにおいて、存在する価値もない」ということになる。
用例された「キタサンブラックは人権」という言葉は、それを持つ者にとっては必然に、持たない者にとっては自身の存在意義を否定する言葉として作用する。
バトルロワイヤル形式などのFPSであれば、主にプレイヤスキルがそれ(ヴァーチャル人権)を付与するのに対し、ガチャゲーの場合、文字通りのガチャ運とそれを底上げする札束によって人権(ヴァーチャル人権)の有無が左右される。
僕がガチャゲーを嫌うのは、プレイヤの能力によらず、運や投資した現金によってそのヴァーチャルワールドにおける人権問題が発生するようなシステムが、ヴァーチャルワールドという平穏を過剰にリアルに寄せてプレイヤをして苦悩させるからだ。
しかしながら多くのゲーマ ── ことにネットワークゲームやガチャゲーで「勝ち組」になることによって自己承認欲求や自身の存在意義を感じるゲーマ ── がそこに「ヴァーチャル人権」を感じることはシステム上やむを得ない側面もあり、ネットゲーム上でヴァーチャルな「人権」という言葉(ゲームスラング)が醸成された背景でもあるだろう。
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【ようやく本題らしい】
ようやく本題だ。
今回、問いたいのは「身長160cmを満たさない成人男子に人権がない」という発言があった場合、果たしてそれを一体誰が真に受けるのか、ということだ。
正直なところ、一定の身長を満たさなければ人権がないなんて、誰も思わないだろう。思っていないだろう。
対象が男性のみならず、女性の場合も胸の(カップ)サイズが一定を超えていない場合「人権」を満たさないという発言があったらしいが、これも同様だ。バストサイズで人権の有無が左右されるようなリアルワールドには、僕らは棲んでいない。
もちろん、だからこそ一定の理知的水準を満たしているはずの成人かつ公的な領域で活躍するプロゲーマがそのような発言をした場合に問題視されるのも理解できないわけではない。
発言者は、上述の通りプロゲーマらしい。
(僕はeスポーツに興味がないのでその選手の名前も知らない)
ゲーマならではのゲームスラングに基づいた言語感覚によって少々騒ぎになっている ── 実際に所属チームやスポンサーから契約解除をされている ── ようだけれど、それでは公人(ソーシャルパーソンとしてのすべての人)が、公的なシーン(一定以上の規模を持つソーシャルな ── つまりは公的な ── 場面)において、一切の失言が許されないのだろうか。
たとえば少々意地の悪い私は、ここで「公的な」という言葉を切り口に、政治家などを引き合いに出したくなってしまう。
彼ら彼女たちのスポンサーと言えば、一般論的には税金を拠出している国民なのだろうけれど、一方で、我々国民とやらはそのスポンサード契約について、選挙という手法でしか示すことが出来ない。
失言どころか、適切な国家運営すら危ぶまれる場面が多い昨今、彼らの多くがスポンサーとの契約維持や公的役割について普段から意識しているとは思えない。
さらにいえば官僚と呼ばれる仕組みを構成するエリートについても同様、スポンサーが誰であり、公的役割がいかなものであるかを意識しているとは思えない。
さながらそれはサラリーマンの多くが、何のために働くかを自己定義するうちに、自己抑制を失ったり、本来持っているべきアイデンティティを消失する様に似ている。
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【オトナがいないのか】
言葉というのは、意味を伝えるものだ。
その意味において、センシティブな単語を誤用すれば、それがセンセーショナルであるが故に炎上するというのは理解できる。
民間企業の尖兵であれば、公務員の比ではなく、あからさまに仕事を干される場面もあるだろう。
しかし我々はヴァーチャルではないリアルな「人権」の、本当の意味も知っているし、それが適用される範囲についてもおそらく正しく知っている。
たとえば言葉を知らない子供が「ゲームスラングにおけるヴァーチャル人権」のみをして、人権がどうこうと言っていたところで「やれやれ子供だなぁ」と呆れ笑って済ませることが出来るだろう。
今回はたまたまメディアに表出する機会の多い(あるいはそれによって収益を得ている)成人が、ゲームスラングを現実世界に適用することで槍玉に挙げられたわけだけれど、おそらくそうした手法(「○○は無価値だ」と公言すること)で誰かを攻撃することによって怒りや不安を発散すること自体、その人自身が何らかの被害者だった可能性も高いと僕は思う。
(もちろん過去に何らかの差別的被害者になっていたからといって、それにまつわる何らかを発端にして誰かを加害していい理由になるとは言わないが)
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【差別の責を問われる立場】
我々はいつも何かしらの被害者だ。
あなたが何の差別被害に遭っていたかについて、僕は知らない。
たとえば僕自身についてなら「人間なのに」と嗤われ「男のくせに」と言われ「成人(社会人)でしょう」と誹られてきた。
もちろん、それについて僕は恨むつもりはまったくない。もっと酷い目にもいくつか遭ったし、差別というのは結局のところ、関係性の中でのみ発生する事故のようなものだから、社会的なつながりを減らしてゆけば、僕が猫を自称しようが、美少女だと自身を定義しようが、子供の頃の仮想人格を再構築しようが、誰かに影響を与えない限りにおいて差別にすらならない。
先のプロゲーマについていえば「誰かに影響を与える立場」で、なおかつ「誰かに影響を与えるシーン」で、なおかつ「過度に感情的に差別的発言をした」ことが問題だとされているのだろうとは思う。
ために「社会的影響を与えることそのものをビジネス」としているが故に、ビジネスパートナーから、その責を問われ、悪影響を今後も与えることを危惧されて、ビジネスシーンから排除されるのは妥当だろう。
しかしプロゲームも見もせず、当該プロゲーマのプライベートな配信やSNSについて興味もなく、ニュースでたまたまその発言を知った僕にとっては「言葉を知らない子供が、また何かおかしなことを言って世間に怒られてしまった」というようにしか映らなかった。
「誰かに影響を与える立場」で「誰かに影響を与えるシーン」で「感情的に差別発言をする」「子供のような大人」なんて、しかし、いくらでもいるではないか。
僕自身が、その例に漏れないとは思わない。
たまたま僕は上記のいずれか(とくに「影響を与える立場」という項目)が当てはまらないから ── そのような(そうならない)立ち位置を選んで生きる決定をしたから ── 責を問われないだけだ。
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【外への憎しみは、内への怒りだ】
差別は言葉に宿るわけではない。
人の心に、価値観に宿るそれは怒りであり、理不尽な痛みの発露でもある。
差別を憎むのは結構なことだ。
しかし一方で、差別を憎むことによって、誰かという様々な要素(僕で言えば「成人」「男性」「無職」「40代」「種族違和を抱えている自称、猫」など)を憎むのだとしたら、それはとりもなおさず自身の差別観や価値観(あるいは記憶)の宿業でもある(僕自身、男性という概念に対する憎悪を消化している最中なので、理解に難くない)。
向き合うべきは、誰かの発露する差別ではなく、自身の抱える差別観だと思うのだが、それに向き合うのはやはり簡単ではないのだろう。
なぜといって他者の中のそれを非難する方が、自身の中のそれと対峙するよりはよほども楽だからだ。
他者のそれを糾弾するときと同様、その憎しみが強く深ければ相応に、人は己のアイデンティティまでをも抹殺せずには居られないからだ。
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【憎悪のループを断ち切るのは誰か】
記憶や価値観を複数持ったり、それを制御して「適切な自分」を作ることは容易ではない。
それはある種の自己欺瞞であり、その自己欺瞞が他者を欺く可能性がまったくないとも言い切れない。
(なぜといって、たとえば僕のブログの読者は僕を猫だと ── あるいは人間だと ── 信じているだろうし、そのいずれであっても僕が「重なっている」存在だとしたら、もう一方の意味において欺いていることには変わりない)
正義感の強い人ほど ── その「正義」が何に根ざした正義かは別にして ── 差別的になりがちだし、混沌という己(そこには当然、邪悪も含まれる)をまるまる抱えて正義を体現することは、言葉でいうほど簡単なことではない。
ファンタジーゲームのいくつかに、悪魔を自身の肉体に取り込み、その肉体ごと封印することで世界を救おうとする類いのモチーフがある。
悪魔が永劫に封印される試しはない。
ヴァーチャルな世界において、封印された悪魔は必ず復活を遂げる。
猫の場合がどうかは知らないが、少なくとも人間の場合、取り込んだはずの悪魔に支配されるのがお約束となっている。
はたして邪悪に正しく対峙できるのは、正しき神ではなくて、混沌ではないのかと、しばしば思う。
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::われわれ女が男から性的対象と見られて、なにがいけないのであろう。実際、ある程度の時間は、そうではないか。それにわれわれ女も、男を性的対象として見てはいないであろうか。意識するとしないとにかかわらず、絶対にそう見ているはずである。
とはいえ、男も女も、相手を性的対象として思うだけであったら、性的にもつづかないものなのだから、心配することはないのである。
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[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「男たちへ」(p.166)
(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
によりました。
なお、引用文中の傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
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[Engineer]
:工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-
[Module]
-Condencer-Generator-Reactor-Resistor-
[Object]
-Camouflage-Human-
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[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:月夜の井戸端会議:Webストリートを見おろして:
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