ヴァーチャルキャラクタに対する好意は、仮にそれが愛情と呼ぶにふさわしいレベルの強さや深さを持つとしても、あるいはだからこそ、どこまでも一方通行の片思いであることを僕らゲーマーは知っていなければならない。
一方通行であるということは、相手の気持ちどころか、相手との距離感における節度さえをも相手に確認する術を持たず、すなわちそれらを確認する距離まで近づくことすら許されないのである。
たとえ「NieR:Automata」で、我々がいかに主人公の2Bのスカートの中身を何度となく覗き込もうとしたとしても、彼女(アンドロイドなので正確な意味での性別を持つわけではないが、女性型であるため代名詞は「彼女」が相当するだろう)が我々の存在はもちろん、親愛の情を理解するはずはない。
我々は空気であり、だからこそのゆえにスカートの中身を覗き込むという行為が法に抵触しないわけである(正確には、ヴァーチャルキャラクタに人格権が存在しないから、なのだろうけれど)。
恋愛 ── こと「相手と両思いになること」ではなく「両思いになってからお付き合いすること」 ── がメインコンテンツであった「ラブプラス」シリーズにおいてさえ、我々の好意は、結局のところ(いわゆる「次元の壁」により)一方通行であって ── それを超えるだけのフォースのパワーが炸裂しない限り ── 彼女(ヴァーチャルキャラクタなので正確な意味での性別を持たない単なるデータ群)たちは演算結果にのみ従って我々への好意的な言動を出力する。
もちろん僕はゲーマーであると同時に、ゲームクリエイタでもありプログラマでもある(すべて自称である。経済と交換していないからプロではないし、現役でもない)から、
「クリエイタ:(次元の壁):ヴァーチャルワールド:(次元の壁):プレイヤ」という構図について、相応に理解はしているつもりである。
その上でなお、我々はヴァーチャルワールドを、ヴァーチャルキャラクタを愛していればこそ、その次元の壁を理解して、ときにその垣根を払い、ときにその敷居を尊重し、きわめて親愛なる存在としてお金や時間や体力や気力を費やしもすれば、モデルやテクスチャやモーションや会話や字幕の不整合にも(最悪、長期に渡って修正を待たされるバグにも)目をつむり、融和の道を探るわけである。
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ところで「ウマ娘 プリティーダービー」というゲームがあって、僕はもともと全てのギャンブルに興味がないので、必然「競馬馬の擬人化? また擬人化なの? そのうえウマなの? いやぁ、ぼかぁちょっと……」といった感じで敬遠していた。はっきりいって興味がなかった。
(こうした初期反応は「けものフレンズ」のときもそうだった。人気を不思議に思って1期1話を見たときは ── 悪い意味で ── 絶句したものだ。今は好きだけれど)
たまたまあるとき、ゲーム実況動画を見る機会があって、それで少々興味を持った。
競馬が好きな人のブログでも、プレイしてみたという記述があり、興味が膨らんだ。
そして少しプレイして、驚いた。
キャラクタのモデリングからレンダリングに至るまで、その表現が凄まじくて。
全方位からのモデルの完成度はもちろん、テクスチャも、ボーン設定も、モーションも、ハイライトとシャドウの調整も、果てはステージのスポットライトやフォグの表現に至るまで、驚くほど手抜きを感じさせない、それどころかどうやったらこんなに破綻のないブラッシュアップができるのかと驚嘆した。
キャラクタを表現することについて、まったく想像を超える出来映えがそこにあった。
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【glossary】
モデリング :キャラクタの3D造形をすること。出来上がったものがモデルである。
レンダリング:モデルや環境をカメラに投影するための演算処理のこと。
テクスチャ :モデルの表面に張り付けられる絵のこと。これがないとペーパクラフトや粘土細工のようである。
ボーン設定 :関節の位置と動きを設定すること。
モーション :関節を基準にした動きのこと。服や髪にも関節を持たせて動かす。これもモーションである。
フォグ :レンダリングの表現のひとつ。霧のかかったような光の拡散や収束を表現する。
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いわゆる「リセマラ」行為をしてサイレンススズカさんとライスシャワーさんを手に入れた。
(物静かで大人しいキャラクタが好みなのでもある)
スズカさんの実馬のストーリィは競馬を知らない僕でもなんとなく記憶にあった。
当時の深夜のニュースでその(当日の)死が大々的に取り上げられた記憶もあるため、少々調べたりもした。
スズカさんが好きすぎて、一部の文書に濃厚に影響を及ぼしたこともある。
(僕の「天才肌」は程度が知れているが)
スズカさんだけではなくそれぞれのキャラについて、モデルや映像演出もさることながら、ストーリィもそれぞれの馬の史実からうまく抽象して落とし込んである。
もちろん、まともにストーリィを読むと、1プレイで2時間くらい使ってしまう。
(ストーリィを省略しても1プレイ30分くらいを僕は使ってしまう。)
だからなかなかきちんと読みながらプレイする機会は少ないが、それでもときどき(2ヶ月に1回くらい)、本を読み返すような気持ちで、いずれかのウマ娘との3年間を過ごすのではある。
しかし残念なことに、どんなに感動的なシナリオが書かれていて、どんなに魅力的にキャラクタが描かれていても、結局はガチャゲーである。僕がもっとも忌み嫌い、ゲームというジャンルの最底辺だと考え、その文化を貶めるものと憎んですらいるガチャゲーなのである。
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ここまであまり書いたことがなかったが、いわゆる「ガチャゲー」とは、どんなに複雑で魅力的なシステムを持っているとしても、最終的にくじ引きによって手に入れるキャラクタでプレイ体験のほとんどが決定づけられてしまうタイプのゲームである。
冒頭の引用はまさにそんなガチャゲーにおけるプレイヤの、つまりは我々ゲーマーの率直な感想であり、ゲームを、そこに登場するキャラクタを愛すればこそ生まれる苦悩の叫びでもある。
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かつて業務用のゲーム機(ゲームセンタに置かれるもの)に、じゃんけんゲームがあった。
コインを入れて、じゃんけんをする、ただそれだけのゲームだ。
原理は非常に単純だ。
(ただし、以下のようなプログラムで動いていたとは限らない。僕が再現するならこうするというだけの話である)
0〜2の乱数xを発生させ、プレイヤに0〜2のyを入力させる。
0を「グー」
1を「チョキ」
2を「パー」と定義したとき、
x=yなら「あいこ」と判定する。
mod(2−x+y,3)の返り値が
0のときはプレイヤの負け。
1のときはプレイヤの勝ち。
と判定する(詳細は後述)。
「あいこ」のときは、そのまま最初に戻る。
プレイヤが「勝ち」のときは勝ちの処理(コンピュータが負けた処理)をして最初に戻る。
プレイヤが「負け」のときはゲームオーバーの処理をして終了する。
(申し訳ないが僕は昔からフローチャートを書かずに直接コーディングするので、ここでもフローチャートを載せない)
それぞれの処理にあたって、映像(LEDの雑な電光表示だったか)と音声を出力すれば出来上がりだ。
Z80チップを使うことさえもったいないくらいの、簡単な基板でできるだろう。
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【解説】
上記のmod関数はBasicおよびExcelに使われるもので、
mod(値1,値2)とあるとき、値1を値2で割った「余り」を返り値(出力)とする。
x=yのときは「あいこ」でやり直しになる。
x(コンピュータ)が0(グー)でy(プレイヤ)が1(チョキ)のとき、
2−y+x=2−0+1となるので、答えは3、これを3で割った余りは0、ということになる。
他の組み合わせも表にするとこうなる。
x(コンピュータ) | y(プレイヤ) | 2−x+y | mod(2−x+y,3) |
0(グー) | 1(チョキ) | =3 |
=0 |
1(チョキ) | 2(パー) | =3 | =0 |
2(パー) | 0(グー) | =0 | =0 |
x(コンピュータ) | y(プレイヤ) | 2−x+y | mod(2−x+y,3) |
0(グー) | 2(パー) | =4 |
=1 |
1(チョキ) | 0(グー) | =1 | =1 |
2(パー) | 1(チョキ) | =1 | =1 |
ちなみに即興で思いついた処理方法なので、もっと分かりやすい数式や関数を用いて、簡便に処理できる方法もあるかもしれない。
プログラミングの世界に正解なんてないのだ。
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ゲームのほとんどにおいて、乱数は非常に重要な要素だ。
それは運の要素を複雑な演算式やリソース管理の中に含むことで、予測可能な領域にゆらぎを含ませ、人間がどれほど経験を重ね、高度な予測ができるようになったところで「必ずそうなるとは限らない」という可能性を成立させる。
ギャンブルに魅了される人間や、スポ根マンガに魅了される人間の似通った部分は、この「0ではない可能性に賭けて勝利を収めることができる」という展開に、全身全霊を震わせるほど興奮するからだろう。
僕は前述の通りプログラマでありゲームデザイナであり逃避が得意な逃げ腰天才肌なので、まったく興奮しない。
1%の勝率は、0%にほぼ等しいと考える人間である。
かつて「大戦略Ⅱ(システムソフトのストラテジック・ウォーシミュレーションゲーム)」をPC8801でプレイしていた。
ゲーム内で補給車は5%の確率で相手戦車(スコーピオンだったか)を撃破しうるのだけれど、それがどんなにひどい確率で、戦闘なのかを知っている。
2%か1%で重戦車(M1のような)だったか戦闘機(F14など)を撃破しうるのだけれど、もう、惨憺たる有様である。何度繰り返そうともそれは変わらない。
僕もゲームをデザインするとき、乱数の要素を必ず入れるようにしている。
それは「0ではない可能性に賭けて勝利を収める」ことの喜びを、あるいは「ほぼ確実だった計画が綻び、それをリカバする」ことのスリルを、味わうためだ。
現実世界でそれをするのは馬鹿げている。
まして確率がゲームデザインの中核を為すようなゲームなど、どんなに優れたシステムや美麗なグラフィックや豪華声優陣を配していようとも、プログラムの入門編の延長線上にしかないようなゴミプログラムだとさえ思うのだ。
確率を体験することがゲーム体験の中核を為しているだけならまだしも、その確率を思うさま体験するためには相当額の現金(それも紙幣だ)を積み重ねなければならないなんて、それが現実の逃避先であり、ひとときの心のオアシスであるはずのゲームがするべきことだろうか。してよいことなのだろうか。
ために僕は、ガチャとその出力結果が主体に成り下がっている基本無料のゲームを忌み嫌う。
ゲームとその文化、引いてはゲームプレイヤを貶めるものとして嫌悪しているし、それに夢中になる(貶められた)プレイヤをただのギャンブル中毒と同じダメ人間だと断ずる。
札束で他者を蹂躙することについてIRLだけでは満足できないのだとしたら、それはそれでビョーキではないか。
(もっとも上記「ウマ娘」について、PvP(対人プレイ)の要素はさほど多くないと感じているが)
0.X %の確率をお金で買わないと面白い体験ができないゲームは、ゲームではない。ゲームなどではない。賭博だ。
たしかに賭博もゲームだろうけれど、ガチャゲーの価格設定は、ヴァーチャルな世界とキャラクタ(つまりはそのデータによる体験)を買うには、少々高すぎる気がする。
あるいはそれ(ガチャゲー)以外のゲーム(およびそのデータによる体験)にこれまで我々が払っていた対価は、そこまで、そんなにも安いものだったのかとさえ思う。
もっとも、我々消費者の一部(あるいは多く、なのかもしれない)は、あまりに中古売買でソフトを手に入れることに慣れすぎたのだろう。
僕でさえ、遊ぶ金ほしさに遊ぶ金を惜しんで、中古ソフトを買ったことがある。
ゲームとその文化を愛するものとして恥ずべきことだと思うので、今はしていないが、僕はどちらかというと貧乏な人間なのだ。
そして、ガチャゲーによる現在の洗礼は「中古ソフトを手に入れることでメーカに何の利益ももたらさずコンテンツを食い潰した不届き者たち」に対する、メーカーの復讐なのかもしれない。
ああ。ならば。それならば。
我々は生贄(現金)を捧げて、怒りが収まるのを待つしかないのだろうか。
しかし、生贄を捧げれば捧げるほどに、神というのは力を増してしまうのではないのか。
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フィクションやヴァーチャルやゲームは、確かに楽しいものだと思う。
しかしその楽しさは、現実において現実離れした美味しい部分をフィーチャーできるからだ。
リンコ(小早川凛子:「ラブプラス」の妹系暴力カノジョ)やライス(ライスシャワー:「ウマ娘」の怯え妹系キャラ)は、現実世界の我々の妹になることもないし、ましてカノジョになったりはしない。それは確率的にも、次元の壁的にもありえないのだ。
だからこそ、我々はヴァーチャルをヴァーチャルとして、現実から逃避することを楽しみながら愛でるのではないか。
「ウマ娘」の場合であれば、トレーナの立場で、それぞれのウマ娘との競技生活を歩むことが(乱数要素がかなり多いけれど)楽しめる、それが良さであり、楽しみなのではある。
そして(非常に渋い確率の)ガチャの排出についてはおよそ目をつむれば(とりあえず一度のプレイで育成できるのは育成ウマ娘ひとりだけなのだから)お気に入りの育成ウマ娘が一人か二人か三人くらいいれば、それでプレイできるのだろうとは思う。
もちろんこのゲームでは(育成ウマ娘は最低一人いればいいというシステムもあって)サポートウマ娘はとにかく必要であり、先の引用にあったシロクマ氏も、サポートカードで(最低限必要なのではないか)とまことしやかに言われているカードが揃わず(自分は愛されていない)と折れてしまったように観察される。
くじけないで、とは思わない。
そもそもヴァーチャルなキャラクタたちは、僕らIRLの住人を愛さない。
愛している演技をしたとしても、それはプログラムの出力に過ぎない。
僕らはこの片思いをときに時間で、ときに札束で、表現することで自分を慰めるのかもしれない。
僕自身は、すでにこのゲームに飽きていて、たまにプレイするけれど毎日はプレイしないしイベントもスルーすることがある。
なぜって、育成するかレースするか(悪習たるガチャを回すか)それしかコンテンツはないのだから。
もちろんキャラは魅力的だ。
そのデータの表現力はスマートフォンのガチャゲーの割に圧倒的といってもいい。
そう。ガチャゲーだからという理由で、僕は見くびっていて、だからその映像表現に驚いたのではある。
しかしレースと育成とガチャのゲームでしかない。
シナリオも優れているが、しかしガチャゲーである。
モデルは優れているし、表現や演出も素晴らしいが、プレイ体験の幅は狭く、ゲーム体験はもっと狭い。
キャラを愛でることがモチベーションなのに、そのキャラ(の排出率)が渋くて、そのシステムの渋さがときどき憎くなる。
いかにモデルが、シナリオが、システムが、グラフィックが、音楽が、アテレコが、演出が優れていようとも、いやだからこそ、それがガチャゲーであるかぎりゲームとしてはクソゲーだと言わなくてはならない。
我々は、そのコンテンツを、愛しながら憎まなくてはならない。
いや、その憎しみは大事なものだ。
我々は確かにゲーム業界を搾取した。あるいは今もしているかもしれない。
しかし一部のゲームメーカが我々に対する復讐として、愛情の名の下にプレイヤを搾取していいわけでもないだろう。
このあたりはバランスなのでむつかしい問題だ。しかしガチャゲーというのは、もっと直截的に問題だ。
我々に融和の道はないのか。
「クリエイタ:(次元の壁):ヴァーチャルワールド:(次元の壁):プレイヤ」というレイヤを為す世界にあって、力関係は左から右へと一方通行である。
逆方向がありえないから我々はヴァーチャルキャラクタを愛せない。仮に愛していてもそれが通じない。
しかし実のところ「クリエイタ:プレイヤ」は同じ次元に存在しているのである。
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いつか。
ゲームが再び、キャラクタがふたたび、プレイヤと手を繋いでともに歩んでくれる日常が戻るようにと願ってならない。
何度でも繰り返すが、ガチャゲーは悪習である。
それはプレイヤをヴァーチャルで惹きつけつつ捕食する類いの、共存共栄からは遠い存在なのだから。
そして中古ゲーム売買もまた悪習である。
目先のお金に目がくらんで、メーカにお金を払うことを怠った購買者たちが居たために、今のゲーマーはお金による復讐を受けているのだから。
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ついでだからどうでもいい余談を書いておこう。
先日「トーセンジョーダン」という(いわゆるギャルっぽい性格付けの)育成キャラがリリースされたとき(キャラクタのモデルデータ量が豪華なので)欲しくなり、ガチャを20回ほど回した。(ちなみに僕は無課金である)
トーセンジョーダンは出なかった。
そして先頃、メジロドーベルという(お嬢様系正統派美少女の)育成キャラがリリースされたとき(僕は軽い相貌失認のわりに正統派美女/美少女キャラだけは比較的正しく認識できるようで)欲しくなり、ガチャを20回ほど回した。
(初めて少し課金した)
もう育成キャラは当分要らない。そう結論した。
メジロドーベルを(も)愛でるのだ今から私は。
そんなわけで課金プレイヤとなった一瞬の後、たまにサポートキャラを引いて、週に数回遊ぶだけの無課金プレイヤに戻った。
コンテンツは優秀なのに、そんなに熱烈に愛せるゲームでもないのだ。少なくとも僕には。
それにしてもスズカさんのときもそうなのだが、僕はどういうわけか、お嬢様系にはモテるような気がするのだ。(すごい妄想力)
やっぱりギャルはダメなのか。俺の魅力が通じないのか。
IRLでも恋人はお嬢様系が多かった、という話についてはまた別の機会に。
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