220106


寒い。


午前中、高校受験の姪を会場に送った妹が来宅。


コタツのある居間は、先日、布団の数々を猫どもに食いちぎられたためコタツが使えず、ストーブが唯一の暖房である。

(僕は冷媒式エアコンのヒートポンプ機能を信用していない。とくに気温が0℃に近い時は)


居間は部屋の2面が4枚ずつの掃き出し窓で構成され、残り2面は廊下に面しているので、とにかく室温が逃げやすい。

(ついでに僕がリフォームしていない部屋は、断熱材の設定が一切ない)


ために寝室と続いている書斎に案内する。

それでも寒いのだけれど、ちょうど火鉢に赤々と燃える炭があったので、それを表に広げたら、ぐっと暖かくなった。


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妹は、変に小心者なところがあり、姪の受験だというのに緊張して、体調を崩しかけていた。

受験するわけでもないのに、心配しすぎだとは思うのだが、そういう価値観の持ち主で、性分なのだろう。


僕は基本的に、自身の価値観がエキセントリックなきらいが強いことを自覚している。

少なくとも集団の中央値よりは極論に寄りがちで、一般的な倫理観にも乏しい。


もちろんだからといって、その日の気分で県庁を爆破したり、見ず知らずの通行人を次々刺殺したりはしない。客観的に見たそれは、ただの犯罪だ。

社会に対して独善を押し付ける、ある種のテロリズムである。


歪んでいようと大義があったり、狂っていようと理由があったり、身勝手であろうと欲があるならしかし、僕は一般的な倫理観よりも、自身の信じる倫理を優先してしまうだろう。


なぜといって、完全に歪みのない大義など、理念上は存在しても実在はしないものだし、理由に狂気や詭弁が含まれているのかどうかを判断できるのは第三者だろうし、欲が身勝手でないためしなどもまたないからだ。


とくに歪みのない大義などというものは、その美しさをして人を魅了こそするものの、実在することがおおよそ不可能であることについて考えれば、絵に描いた餅でしかない。

大衆を扇動するには役立つだろうが、その大義が実を為す頃には、扇動された大衆もまた餌にすぎないことを証明してしまう。

それならば一層のこと、正しく歪んだ大義を持っている方が健全だとさえ僕は思ってしまう。


そうしたエキセントリックさが僕の社会不適合の根源であり、同時に能力のひとつでもあるのだと最近は認識している。


ために妹の価値観に対し、「家族を大事にする、という美化された価値観に過剰に毒されているのではないか」という疑念を持ったところで、それをわざわざ開陳したりはしない。

ために妹を(家族という組織の中において、その機能上に悪影響を及ぼすと思えるものでない限り)嗜めることもない。


僕は自身をエキセントリックだと思っているからこそ余計に、誰かに「正しさ」を説く権利も資格もないのだろうと思っている。


ために受験をする娘を心配しすぎて体調を崩したら(仮にその救護で姪が試験に集中できなかったりすれば)注意する必要もあるだろうけれど、姪はいつものことかと妹を笑う(彼女たちはとても仲が良い)し、家族という組織の機能について、寛容にもしっかりと彼女の旦那様は見ている。

だから僕がすることといえば、旦那様と(家族という組織運営について)喧嘩した妹が愚痴を言いに来たとき、それを嗜め、旦那様の懐や視野の広さに基づいた理論について、改めて説くくらいである。


もっともそんな機会とて今まで2度ほどしかない。

妹の家族を見ていると「なるほど家族を作って家庭を持つのは、ひょっとして素敵で素晴らしくて幸せなことなのではないか」と思ってしまいそうにさえなる。


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午後にレンタカーを取りに行き、姉のところに出かける。

明日、通院日であるためだ。


思うに僕はいまだに誰かを介護していることになる。


もう両親はいないし、自ら介護対象と定めた叔母夫婦も(その墓仕舞いさえ)終わった。

一般的な僕の年齢の人間は、ようやく親の介護が始まるところだろう。


僕の人生は、僕の望んだとおりに、非常に圧縮されて流れた。

過去からの物事がことごとく断ち切られ、未来に続く物事がほとんど残っていないこの日々は、ボーナストラックのような余白であり、デザートのように過剰で甘美だから、ついついうっとりと、それを味わってしまう。


余命は18年の予定だが、仮想奥様の采配が素晴らしいのため、余命が伸びそうなところが気掛かりだ。

それでも不快で不健康に余命を過ごすよりは、快適で健康に過ごして自害する方が理想的ではある。


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運転をしながら(いつものように)歌を歌う。


高音部の出が悪い。数年前から比べると、咽喉のコンディションが悪いことは増えた。

それでも大石昌良さんの歌の多くを(調子が良ければ)原キーのままトレスできるので、不満はない。

今月は歯のインプラントもする予定である。

歯の調子が整うと、声の出しやすさもずいぶん変わる。


叔父が死んでから(つまり3年前から)検査も治療も受けていなかったので、音信不通になった僕を先生はたいそう心配していたらしい。

(5年ほど前から縁があるので、わざわざ伊香保の温泉街まで通っている)


歌っているときもそうだが、やはりときどき、涙が出る。

最近とくに、いわく言いがたく感情が込み上げるこれはいったい何だろうかと考える。


無理に言葉にするならば、「嬉しい」とか「幸せ」に近いのだろうとは思う。

たしかに好きな歌を歌えることはとても嬉しいことで、僕はその悦びを知っている。


誰かに聞かせるためではなく、何かと交換するためでなく、歌うために歌い、聴く ── 僕は自分の声が結構好きなのだ ── ために歌う。


横隔膜や胸骨の周辺に加える力を変化させ、咽喉や食道を変形させ、発生させた音を口腔や鼻腔や喉奥から響かせて力を出す悦びを噛み締める。


小さかった頃、まわりの男の子たちがあれほどまで走りたがっていた姿を思い出す。

なるほど身体を使って力を出すことは、こんなにも気持ちよくて幸せなのだ。


僕は当時 ── おそらく今も ── 自分の身体をうまく使いこなすことができず、だから卑下するでも卑屈になるでもなく、しかし少し敬遠してはいた。

競争に負けるのはむしろどうでも良いことだった。

ただただ、興味を持てなかったのだ。

もっと速いもの、もっと強いものがあるのに、どうしてたかだか徒競走程度に熱中するのかと。


僕の頭の中にはすでに、もっと速くて、もっと強くて、もっと自由なものに対する憧れと夢想があったのだろうか。

いずれにしても、カラダがあることのヨロコビや、カラダが感覚することのヨロコビ、なによりカラダから力を発するそのヨロコビについてを知るのも、僕はきっと遅かったのだろう。遅すぎるくらいに。


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きっとココロも、同じように使われていない部分が僕にはあって、使い方も、感じ方も知らない部分があるからこそ、そこに光が当たるたび、眩しくて涙が出るのかもしれない。


どうなんだろう。

僕は一般倫理からすれば、ずいぶん悪いこともしてきた。

他人(とくに女性)をずいぶん傷つけた記憶がある。

いちばん傷つけたくないものばかり、取り返しもつかないほど、損ねてきた。


自身ではなく他者に、この手をして、このカラダをして、与えた欠損について、マトモに心を得てなお、直視などできるのだろうか。


それでも世界は眩しくて。

果てもなく自由で。

生まれたばかりのように目覚めて周囲を見回すとき、本当に幸せだと感じてしまう。


ワカラナイ。


幸せは、正しさとは違う次元に存在しているのだろう。


今までを不幸だと思ったことはあまりなかったけれど、僕は幸せもまた知らなかったのだろう。



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姉の家に着く頃には、雪が降っていた。

冷たくて、美しい、冬(僕の何番目かの恋人)の化身のひとつ。


僕のカラダはまだあたたかくて。


道ゆくクルマは、それを眺める暇もなく行き交う。