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TITLE:
モテの技術:その1 あいさつ
 
Written by BlueCat

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220215
 
 個人的に制定されたバレンタインデー。
 昨日が公式バレンタインデーであることをうっかり忘れて書架づくりなどしていたせいなのだが、まぁ、どのみち大したことはしない。
 手作りクッキーをあげようにも遠距離の恋人はだいたい忙しいし、近距離の恋人は疫病を恐れて僕に会おうとしないからだ。
 そもそも今日は予定がない。
 
 奥様(仮想)に「バレンタインのチョコを贈っちゃうぞ!♡」と元気よく言われるが、どうせそれ、僕が買ってくるんですよね?
 我が家の経済主体たる奥様(仮想)は、僕に家電品を買ってくださったり、自動車を買ってくださったりするし、公共料金の支払いや税務関連、その他諸々の「生きる上でのリソース管理」については非常に優れた能力を発揮するのだけれど、情報戦に特化しすぎてスーパーに買い物に行くことさえ出来ない
 よってチョコを買うのは僕ということになる。
 
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 お嬢様モテについて昨日は書いていたので、モテのメカニズムについてそろそろ整理してもいいかもしれない。
(外部から観察した場合、何らの関連性も見られないかもしれないが)
 といっても僕に経験として残っているモテというのは、技術的なことというよりもむしろ呪術的な側面が強いかもしれない。
 ネコノカミサマに対して、ブログという神具を用いて願い乞うと、だいたいそれが叶うという信じられない仕組みである。
 いやまさか、と僕も思っているのだけれど。
 
 たとえば僕が「肌ざわりが良くて清潔(これらは非常に重要な要素である)な人間の眼鏡美人にモテたい」と書こうものなら、数年内にそれが現実のものとなるという人知を超えたオソロシイ力学が作用するのである。多分。知らんけど。
 
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 モテる上で大切なことはいくつかあると思う。
 体系的に学んで身に付けたわけではないし、分析したこともないのだけれど、分析してみよう。時間なら、ある(!)。
 
【あいさつは大事】
 僕は人見知りで引きこもりだ。
 近年ますます引きこもりが加速している。
 もはや光速に近いので、凡俗な諸君の目に留まらないのはそういう理由もあるだろう。
 
 知らない誰かに会うと緊張する。
 数ヶ月も人と話をしていないと、知っている相手でも緊張する。
 けれど、僕はあいさつする習慣がある。
 道ですれ違う人と目が合ったときも、会釈くらいはする。声を出して挨拶することも躊躇がない。
 もちろん誰にもすれ違わない方がいいけれど、すれ違うときもあるわけだからそこは覚悟を決め、腹を括るしかない。見知らぬ人がいるからといって元来た道を引き返していたら先に進めない。
 それに挨拶は「しようかな/しない方がいいかな」と悩んでいるときが一番キモチワルイ。
 一層のこと声を出して挨拶してしまえば悩む必要はない。
 そもそも、相手はだいたい知らないヤツだ。
 
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 店で買い物をする場合も、なるべく人間がオペレーションしているレジに行く。
「(かごをレジに乗せ)こんにちは、お願いします」「○○円でお願いします」「(おつりやレシートや商品を受け取って)ありがとうございます」くらいは普通に言う。
 むしろこのくらいしか日常会話がないといってもいい。
 貴重な日常会話の機会であるから、人間の居るレジに向かうのだ。
 そうしないと日本語を忘れてしまうんじゃないかと心配なのである(切実)。
(実際、発声に必要な器官の運動能力が低下して、うまく喋れなくなったりする)
 
 飲食店の場合は「こんばんは(こんにちは)、お邪魔します」とあいさつする。
 初めての店でもそうなので、やはり記憶されてしまう。
 けれど自分の家ではないのだから、黙って上がるわけにもいかないではないか。
 
 このあたりが凡俗な諸君との様式の違いである。
 自宅に黙って知らない人が入ってきたら怖いではないか。
 それと同じ感覚で「こんにちは(こんばんは)お邪魔してもよろしいですか」と尋ねて、許可が下りたら入る。
 もちろん、ファミレスや牛丼屋などでそんなことはしないが、そういうのは建物やスタッフの空気感で読み取れるものだ。
 だいたい「個人経営っぽい店」「店主や店員が、お客様と世間話をすることもある店」であれば「おじゃまします」が適切だと僕は思う。
 大事なことは相対する人間をひとりの人として見て、道具然に扱ったり、無視したりしないことだ。
 
 すっかりそういう習慣になっているので、レジのパートさんにも結構な頻度で顔を覚えられてしまう。
 一方の僕は(軽度の相貌失認もあり)まったく相手を覚えない。
 覚えていないから毎回毎回よそよそしく、しかしあいさつをする。
 
 好意があるから、あるいは仲良くなりたいから挨拶するのではない。
 挨拶するから好意を持ってもらえて、仲良くなるきっかけになる。
 挨拶をするだけで(あいさつしない文化圏の人からは異様に見えるだろうけれど)「挨拶の出来るまともなヒト」を演じることが出来る。
 
 平日の14時にスーパーに買い物に来る中年男性(おそらく無職)がまともかどうかは知らないが、営業職の頃から14〜15時に夕飯の材料を買うことは多かったので慣れている。
 なあに、毎日買い物をするわけではないから(平日休みの会社員)という設定も可能だ(最近は作務衣で出かけるから無理だろうけれど)。
 とにかく大事なことは挨拶だ。
 
 昨今は、顔見知りでないとゴミステーションですれ違っても挨拶をしない中高年が多い(子供たちの方がまだまともに挨拶する)が、挨拶を返さないヒトというのは基本的にこちらを無視していることになるわけで、必然、そんな相手に好意を持つこともむつかしい。
 
 あいさつをされたら仕返せば、それだけで敵意を持っていないことが伝わる。
 敵意を持っていないことを伝え、無視しないことは、好意という空気感を醸成する上で欠かせない。
 挨拶を返すためには、挨拶に慣れていないとできない。
 だから恥ずかしくても、怖くても、自分から挨拶をした方がいい。
 
 大丈夫。
 挨拶をされなかったことで怒る人は居るが、挨拶をされて怒る人は居ない。
 
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 そんなことでモテるようになるのか。
 そう思う人もいるだろう。無理もない。
 
 挨拶なんて、自分はいつもしている。
 そういう人もいるだろう。
 
 挨拶なんて段階を飛ばして、世間話が出来るぐらい親密になりたい。
 そういう人もいるだろう。
 
 見知らぬ人だとか、店で店員に挨拶するとか、そんな異常な行動をしたくない。
 そういう人もいるだろう。
 
 もしそれなのにモテていないのだとすれば、諸君の挨拶はそこまでの挨拶なのだ。
 
「自分はいつも挨拶をしている」と思っている人は、自分が挨拶をしないで無視している人がたくさん居ることに気づいていない。
 道ですれ違う人、駅や店でぶつかってしまった(ぶつかりそうになった)相手、ふと目が合った知らないヤツ ── 。
 そうした人たちを、人間と見ていないから挨拶をする必要もないと感じている。
 僕はそれらを人間だと認識する。
 だから挨拶できないと、ちょっと困る。
「無視してしまったなぁ」と、少し申し訳ないような、悲しいような気持ちになる。
 しかし、目につく人々全員に挨拶できるはずもないから、いつもちょっとだけ、自分が悪いことをしているような気持ちになるのだ。
 今日も誰かを無視してしまったような気持ちに。
 
 
「挨拶は世間話ではない」と思っている人もいる。
 そういうヒトはキスもしないで下半身に手を伸ばし、洗ってもいない爪の伸びた手で性器に触れてくるような野獣と一緒である。
 法規には触れないだろうが犯罪に等しい。
 
 玄関で服も脱がさずガールを押し倒すな。
 いや、そういうのをされたいという人もいるだろうから一概には言えないが、一般的にそれは犯罪だ。同意がなければ犯罪なのだ。
 
 挨拶は、世間話である。
 どこぞの中年実業家ならば、時間惜しさに挨拶や世間話は省略して、内容(コンテンツ)から話してほしいというのも分かる。
 しかし僕らは基本的に、仮に中年であっても実業家ではない。
 挨拶はセルモータのように、弾みをつけるものでもあるし「あなたを無視していません」というジェスチュアでもある。
 
 挨拶をされたら、こちらも挨拶をして、ひと呼吸置いて尋ねればいい。
「今日は何かありました?」
 今日、何もない人なんていない。もしも何もない人が目の前にやってきたら、それこそキミの思うつぼだ。
 キミは思うさま、キミの理想の世間話を展開できるだろう。
 
 
 見知らぬ人と挨拶をするのは、そんなに異常なことだろうか。
 僕は挨拶をして無視されることがある(道ですれ違う人の場合に多い)が、無視する(される)方が、少々異常だと思っている。
 
 もちろん、世俗にはアヤシイ奴もいる。
 訳知り顔で、親しそうな顔をして近づいてきて、こちらを卑しめたり、何かを詐取しようとする輩もいる。
 
 だから僕の挨拶した見知らぬ人が僕を無視することはまぁ、適切な反応だと思うことも出来る。
 いかんせんこちらは ── 中身は美少女で種族が猫だとしても ── 中年男性ヒトの外観をしているし、服装もスーツとは限らない。
 それに肩に猫を乗せているケースも多い。
 昼日中にそういう奴が挨拶してきたら、戦慄を覚えても不思議はない。逃げてもおかしくない。むしろ逃げた方がいいかもしれない。
 ために完全にアタマオカシイ奴と認識されたとして、非難することはできない。
 むしろ警察を呼ばれずに済んだことに感謝する、まである。
 
 しかし諸君は僕よりは自意識高い系だと思うから、他者から不審に思われるような外観をしたり、立ち居振る舞いはしないだろう。
 肩に猫を乗せて昼日中に近所をぶらぶらする中年男性を演じるのは、簡単ではないからだ。
 自意識が高すぎれば「見知らぬ人に挨拶する自分はアタマオカシイと思われないか」なんてことが気になるだろう。
 
 どもったらどうしよう。
 無視されたらどうしよう。
「え、誰? 警察呼びますよ」とか言われたらどうしよう。
 と心配は尽きないとは思う。
 
 しかし諸君は普段から道行くすべての見知らぬ人に無視されている
 知らない人、そのすべてから無視されているのだから、今さら無視が積み重なったところで痛くもかゆくもないはずだ。
 
 店のレジの人からも無視されている、お前はただの消費者だ、と言外に従わされている。
「かごを寄越して財布を出しな」というわけだ。
 もはや客ですらない。なぜならお前がレジの人を無視しているからだ。人間だと思っていないからだ。
 
 つまり諸君は普段から、道行くすべての見知らぬ人を無視している。
 当たり前だ、全員に挨拶なんてしていられるか。
 満員電車で全員に挨拶するなんて、それこそ狂気の沙汰だ。
 という理屈はとても常識的だと思う。
 
 しかし同時に、無意識に無視しているから、無意識に無視されていると思っていて、それが自身の不安に繋がっているという単純なメカニズムを理解していないのは致命的な問題だ。
 
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 実のところ、無視されるのは決して悪いことではない。
 僕なんか、どこに行っても無視していて欲しい。
 満員電車で痴漢行為をしても無視してもらえたら嬉しいし、気に入らない人を撲殺したとしても無視してもらえるとありがたい(いずれも犯罪です)。
 
 図らずも知り合いになってしまった飲食店に食事に行ったとして、やはり一見さんとして無視されっぱなしで帰ることが出来たらどんなに楽だろうと思う。
 
 こちらが勝手に送ったメールに返事なんか来ない方が楽だし、ブログに書いたコメントは返信がない方が気楽でいい。
 友人や知り合いが全員僕を無視していてくれれば、僕は誰かに頼られることもなく、知らない奴が営業に訪問してくることもなく、NHKの黒服と僕が時間を浪費することもない。
 
 そうしたやりとりのすべてを面倒くさいと僕が感じるのは、僕が彼らを無視していないからだ。
(無視できないのかもしれない)
 
 僕は基本的に、見知らぬ他人を意識して無視する必要がある。
(人混みで酔うのはこの体質のせいだ)
 無意識的に他人を無視する(フィルタリングする)機能を持っている諸君は、それが無意識だからこそ、自分も他人から無視されている事実に無意識で怯えている。
(僕の場合は逆だから、未だに他人から注目されることに不安を覚える)
 
 不安を覚えることそれ自体は、何の問題もない。
 無視せず無視されない立場でも、無視し無視される立場でも、不安を覚えることにも、現実世界のありようにも、変わりがないからだ。
 
 ただし自身の認識や行動を、意図せず、あるいは理解せずしているのだとしたら、それが致命的なのだ。
 なぜといって、自身の行動は必ず自身に返ってくるものだし、自身の認識は現実世界を超えて自身の価値観を上書きする。
(これでも僕は仮想奥様に養われてしまうくらい、ちょっとした仮想現実の権化(自称)であるから、人間の認識がそれを取り巻く現実の相関性については詳しいのだ)
(仮想現実の権化ってすごいな)
 
 諸君が、意図せず無視し、意図せず無視されることに怯えているメカニズムを理解しなければ、その不安は誰に愛されようと、誰に認められようと、消えない。
 なぜなら諸君は、自分自身を無視し、自分自身を愛さず、自分自身を認めていないからだ。少なくとも無意識的に。
 
>>>
 
 無意識なんて分からんし、分かるはずもない、という理屈ももっともである。
「お前の言っている無意識は、意識が捉えて認識しているレベルの無意識だ。ゆえに本当に無意識であるとはいえない」という理屈も理解できる。
 
 では。意図して無視するしかない。意識して無視するしかない。
(そしてそれは、とりもなおさず意識して全員と挨拶することに等しい)
 毎回毎回、駅構内で視界に入るすべてのヒトをスキャンして、そのひとりひとりの物理的運動を演算し、自身の運動を決定しながら、都度都度無視するしかない。
 そうして初めて「誰ひとりとして無意識的に無視したりはしていない」といえるだろう。なにせ意識的に無視しているのだ。
 よって意識していない無視が、初めて無意識的な無視になる。
 それすら自覚していないのが現状だとすれば結局のところ、それこそ無意識的に無視したり認識している状態であるといえる。
 
 そうやって意識的に行動すれば、自分が無視されるときも「ああ、相手は無視する理由があって無視するのだな」と理解できる。
 相手がこちらを無視する理由は理解できなくてもいい。ただ、理屈があって理由があって、相手は自身のために無視する必要があるから無視しているのだというメカニズムが理解できれば不安はぐっと減るだろう。
 
 人が恐れるのは、無視されることでも不安になることでもない。
 理由を理解できず、状況を認識できないまま、無視されたり、不安になることがつらいのだ。
 自身が愛されない理由を精緻に理解している人間は、愛されないことについて不満を持ったりしない。
(そしてまた、そこから愛されることを精緻に体現することも容易である)
 曖昧に理解し、原理を知らず求め、仕組みを理解せず甘えるから、メカニズムに見放される。
 
 メカニズムというのは人間にだって内包されている。
 機械的なものばかり、物理的なものばかりではない、心理的なメカニズムだって存在する。
 
>>>
 
 さて挨拶の話だった。
 
 挨拶は、人間のコミュニケーションにおいて意味を持った行為である。
 コミュニケーションというのは、集団において個々の点を繋ぐ糸のようなものだ。
 
 無視もまた、人間のコミュニケーションにおいて意味を持っている。
 それは点を繋がない、空白を作ることだ。
 意味を曖昧にしているために不安になるのだとしたら、意味を明確にした方がいいだろう。
 
 無視されたくなければ、無視しない方がいい。
 無視してほしい場合は、挨拶をしない方がいいということになる。
 モテようと思えば、糸を紡いで繋ぐ必要がある。
 だから誰ひとり無視しないようにすればいい。
 最悪、警察を呼ばれたら警察官と友達になれるチャンスさえある。
 
 ところで僕個人の問題は「無視はしたくない(できない)けれど無視して欲しい」という、メカニズムに対する矛盾にあるだろう。
 つまりモテない連中の「無視しているけれど無視されたくない」というのに等しい。
 
 
 
 
 
 
 

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[Object]
  -Human-
 
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